演劇ファイル  Jan - 2003

2002年12月までの舞台へ
加藤弘一
*[01* 題 名<] 桜の園
*[03* 場 所<] コクーン
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] チェーホフ
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 2003-01-16
*[09* 出 演<]麻実れい
*[10*    <]香川照之
*[11*    <]京野ことみ
*[12*    <]牧瀬里穂
*[13*    <]菅野菜保之
*[14*    <]毬谷友子
 「桜の園」は没落貴族の物語として演出するのが普通だし、新劇だとそれに若い世代がプロレタリアート革命に向かうという解釈がつく。今回の舞台は端正な室内劇として緻密に演出する一方、貴族社会にも資本主義社会にもなじめない野生の女たちの物語として造形している。
 この解釈は女優のキャスティングに出ている。
 麻実れいのラネーフスカヤは時に伝法な姉御の顔がのぞく。無理に頽廃味を出そうとしてだらしなくなったラネーフスカヤがいたが、麻実のラネーフスカヤは毅然としていながら、脂粉の匂いを濃厚に漂わせている。理想論を振りまわすピーシチクを完膚無きまでに叩きのめしてから、一転してすがりつくところなど、海のうねりを思わせる。こんなに生命力にあふれたラネーフスカヤははじめてだ。
 地味な女優が演じることの多いワーリャを、アーニャでもおかしくない牧瀬にやらせたのは成功している。アーニャとの距離の近さが、ワーリャの「養女」という中途半端な身分を浮彫りにしている。彼女にとってプロポーズされることがいかに重要だったかがよくわかる。
 ワーリャかと思った毬谷友子はシャルロッタだった。シャルロッタは端役にしては目立ちすぎるという収まりの悪い役だが、毬谷をシャルロッタにすえたことで、彼女の生いたちからくる放浪者というか、荒野の臭いがはいってきて、舞台とロシアの原野が地つづきになった。二幕冒頭の台詞が乞食の登場を予告していたというのも、毬谷シャルロッタの発見である。
 女優陣が冒険していることから較べると、男優は受けにまわり、みんな安全圏内におさまっている。ロパーヒンの香川も香川である必要はないだろう。
*[01* 題 名<] 恐怖時代
*[02* 劇 団<] 東宝
*[03* 場 所<] 日生劇場
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[04*    <] 井上尊晶
*[05* 戯 曲<] 谷崎潤一郎
*[06  上演日<] 2003-02-14
*[09* 出 演<]浅丘ルリ子
*[10*    <]MAKOTO
*[11*    <]夏木マリ
*[12*    <]木場勝己
*[13*    <]三船美佳
*[14*    <]西岡徳馬
 1985年に蜷川幸雄演出で上演された舞台の再演だが、今回は井上尊晶が演出を担当し、蜷川の名前は「オリジナル演出」としてクレジットされている。初演はつまらなかったのだが、『演出術』で10年つづいたスランプのはじまりの作品として言及されているので見てみた。
 美術はほぼ初演を踏襲していると思う。白百合で囲まれた舞台、ハーフミラーで作った大名屋敷、アールデコ調の模様を描いたパネル……と、そのままだ。白百合で埋めつくされる二幕一場で、中央の百合の山はどうだったか、記憶にない。下手の袖にオルガン、木琴、チェロ、ドラムのバンドがはいるのも、どうだったか。
 初演は血みどろの重苦しい場面の連続に、客席がしらっとしていたのを憶えている。今回は要所要所で笑いが起こって、かなり受けていた。お銀の腹心の梅野(夏木)と、臆病者の茶坊主、珍斎(木場)のやりとりが絶妙なのだ。悪徳医師、玄沢の大門伍郎もいい。
 井上演出はおそらく、オリジナルよりも軽快な線をねらっているのだと思うが、観客側の変化もあるかもしれない。日生だからオバサンばかりだが、悪魔主義時代の谷崎の人を食った台詞に、ケラケラ笑っている人が多かった。17年前の観客は今よりも真面目だったのではないか。
 二幕では伊織之介のMAKOTOがオカマ的色気をふりまいて、客席をわかせた。初演の三田村邦彦はここまで下品になれなかった。笑いに重点をおいた分、浅丘の意気地は重みが軽くなったかもしれない。
*[01* 題 名<] ペリクリーズ
*[02* 劇 団<] ホリプロ
*[03* 場 所<] さいたま芸術劇場
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 松岡和子
*[06  上演日<] 2003-02-27
*[09* 出 演<]内野聖陽
*[10*    <]田中裕子
*[11*    <]市村正親
*[12*    <]白石加代子
 感動した。シェイクスピア上演史に残る舞台だ、間違いなく。
 三方を壁に囲まれた舞台のそこここに蛇口が突っ立ち、開演時間が近づくと水が出てきて、蛇口の下に置かれたバケツに落ちる。壁には弾丸が貫通したのか、多くの穴が開き、光線がまちまちの方向から射しこんでくる。客席から難民の一団がよろよろとあがってくる。戦場を逃れてきたらしく、みんなどこかしらに傷を負っており、手足のない者もいる。
 琵琶を背負った盲目の座長(市村)を妻(白石)が手を引いて舞台に導く。座長のかき鳴らす琵琶の野太い音に妻がささらで合の手をいれると、難民たちが説経節仕立ての「ペリクリーズ」を演じはじめる。座長夫婦はガワーの台詞を受けもって狂言回しをつとめるだけでなく、ペリクリーズが訪れる国々の支配者を早変りで演じる。
 戦争難民の劇中劇にするという趣向は早稲田小劇場的だが、早稻小では不幸な人々が不幸な芝居を演じるのに対し、蜷川は不幸な人々に幸福な芝居を演じさせた。「ペリクリーズ」はロマンス劇の中でも特に御伽噺的で、上演しにくい戯曲だが、不幸な人々の見る幸福の夢という額縁がつくことで、現代の芝居になった。
 アンティオキア王女の婿選びの場面ではまだ調子が出ていなかったが、ターサスの場から俄然よくなる。飢饉で多くの餓死者の出たターサスでは、中国南部の風俗だろうか、黒衣が竹竿をたてて白い幟をたらし、喪に服していることを示す。
 ターサスを出た後、ペリクリーズの船は嵐に遭う。波幕を盛大に揺らし、その上をペリクリーズが滑っていくというコミカルな趣向もある。
 ペリクリーズはペンタポリス近くの海岸に漂着し、地元の漁師に助けられるが、この漁師たち、「夏の夜の夢」のボトム軍団ではないか。
 ペリクリーズはペンタポリス王の御前試合に勝ち進み、みごと王女セイーザの心を射止める。御伽噺的にとんとん拍子に進みすぎて難しい部分である上に、舞踏会でペリクリーズとセイーザが踊るという、ただでさえ退屈しかねない場面まである。ところが、これが奇跡的にうまくいっているのだ。蜷川は「テンペスト」の妖精の場面と同じように雅楽を使い、青海舞のような舞をセイーザの田中裕子に舞わせる。
 彼女が踊ると、神が降りてくる。あの宇宙が一点に凝縮したような時間は、神が降りてきたとしかいえない。
 ペリクリーズとセイーザは結婚するが、そこに母国タイアからペリクリーズを探してやってきた貴族の一団に請われ、身重のセイーザをともなって帰国することになる。
 ところが、またしても嵐に遭い、沈没の危機の中、セイーザは娘を出産して死んでしまう。ペリクリーズは彼女の遺体を箱に丁重におさめ、断腸の思いで水葬し、なんとかターサスにたどりつく。生まれたばかりの赤ん坊に航海は無理なので、ターサス王にマリーナと名づけた娘を託し、タイアへの帰途につく。
 ここで一幕が終わり、二幕ではさらに波瀾万丈の物語が展開する。ストーリーが複雑で、いきおいガワーの説明が長くなり、演出を難しくしているが、蜷川は人形浄瑠璃仕立てにしたり、趣向を凝らしているが、台詞そのものは変えていない。
 二幕の見せ場はミティリーニの売春宿だが、ここは女郎屋の設定で、強欲な女将はもちろん白石加代子。はまりすぎていて、出てきただけで笑ってしまう。成長したマリーナは田中裕子。老人の役の多かった市村は、ここでは颯爽とした青年太守。
 最後のダイアナ神殿での一族再開の場面は感動的。ばらばらの方向から射していた光線に代わって、点から降りそそぐ光が舞台をまばゆく照らし、世界に調和が訪れたことを明示する。
 だが、本当の感動はこの次にきた。幸福そのものと見えた舞台は一転して廃墟に変わり、役者たちは疲れはてた難民にもどる。額縁がこんなに見事に決った舞台は他に見たことがない。「ペリクリーズ」は祈りの演劇になった。

 開演前に市村正親、白石加代子、松岡和子司会のトークショーがあった。準備があるということで、わずか30分だったが、まとない機会である。

 市村は琵琶を特訓し、自分で弾いているのに、エレキ琵琶で音が別のところから聞こえるために、録音と勘違いされると嘆いていた。イアーゴと「ベニスの商人」(当然、シャイロック?)をやりたいともいっていた。

二人でシェイクスピアの愛の名場面集をやりたいと語り、白石が「もちろんジュリエットも」とつけくわえると爆笑が起こった。本当に実現したら素晴らしいのだが。

 開演まで1時間半間が空いてしまった。こんなに何もないところに放りだされて困ったなと思ったが、ロビーではちょうどシェイクスピア村の写真展をやっていて、じっくり見ることができた。

 カナダにシェイクスピアの故郷と同じストラトフォード・アポン・エイボンと名づけられた村があって、村おこしのためにシェイクスピア演劇祭をはじめたところ、名物になり、年間十万人からの観光客を集めるようになったのだそうだ。稽古期間が三ヶ月あるとか、常設の工房で小道具や衣装を作るとか(衣装は何回も仮縫をするという)、信じられないくらい恵まれた環境である。

*[01* 題 名<] ドン・ジュアン
*[02* 劇 団<] 文学座
*[03* 場 所<] 世田谷パブリック・シアター
*[04* 演 出<] 西川信廣
*[05* 戯 曲<] モリエール
*[05* 翻 訳<] 鈴木力衛
*[06  上演日<] 2003-03-19
*[09* 出 演<]渡辺徹
*[10*    <]清水明彦
*[11*    <]奥山美代子
*[12*    <]林田一高
*[13*    <]古川悦史
*[14*    <]山谷典子
 奥がすぼまってハの字になるように舞台両側に石造りの壁が建っている。床と下手側の壁にH型鋼材が斜めにつきささる。壁には亀裂が走っている。調和した世界の破綻を暗示したいのだろうか。
 出演者みんなは楽しそうにやっているが、さっぱりおもしろくない。調和した世界が和気あいあいとしたままで、少しも揺るがないのだ。
 ドン・ジュアン(渡辺)がいくら罰当りなことを言っても、今日日の日本では毒にも薬にもならないので、怒ってやってくる人間をいかに口先三寸で言いくるめるかが見せ場になる。ところが、そこが駄目なのだ。
 ドーヌ・エルヴィーラにしても、高利貸のディマンシュ(関川、ユダヤ人の帽子を頭に乗せている)も、父親にしても、本気で怒っているようには見えない。ドン・ジュアンの渡辺の方ははなから飲んでかかっているし、スガナレルの清水も小手先で困っているだけ。出来レースだ。
 渡辺がダイエットの成果か、ずいぶん痩せて、精悍になったのは結構だが、トランクの中からエクササイズの道具を出して、運動してみせる楽屋落ちはおもしろくもなんともない。
*[01* 題 名<] マッチ売りの少女
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 新国立劇場小劇場
*[04* 演 出<] 坂手洋二
*[05* 戯 曲<] 別役実
*[06  上演日<] 2003-04-10
*[09* 出 演<]寺島しのぶ
*[10*    <]富司純子
*[11*    <]猪熊常和
*[12*    <]手塚とおる
*[13*    <]早船聡
 藤純子もとい富司純子&寺島しのぶの母娘共演。
 正方形の舞台は客席の中央に角度をつけておかれている。舞台は黒で、灰色の同心円が何重にも描かれており、円の中心部と周縁部がそれぞれ別に回るようになっている。装置は椅子とテーブルだけ。
 本来の舞台の場所には昭和30年代の板塀に囲まれたしもたやが再現されている。客席の左右の壁にも家並が作りつけになっていて、すりガラスの窓に電球がともっている。開演前、夜回りの男(早船)が二回、拍子木を打ち鳴らしながら、火の用心を呼びかけて歩く。
 いい感じではじまるが、出来はお粗末である。初老の夫婦の団欒がとってつけたようで、そこにマッチ売りの女が闖入してきても、緊張が生まれない。富司純子は圧倒的な存在感はあるが、器用な役者ではないので、夫役がうまく受けなければならないが、それができていない。
 夫は名古屋章とアナウンスされていたが、急病のため、夜回り役だった猪熊に変ったという。見るからに貫禄負けしていて、富司純子の相手は無理だ。名古屋章だったら、まったく違う舞台になっていただろう。
 寺島しのぶは半径一メートルの範囲では上手くやっているが、名古屋に代って舞台全体を引っぱっていく力はない。寺島しのぶは好きな役者なのだが、母親とならぶと華は受け継がなかったなと思わざるをえない。娘より華のある母親というのも因業なものである。
*[01* 題 名<] 兄おとうと
*[02* 劇 団<] こまつ座
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 鵜山仁
*[05* 戯 曲<] 井上ひさし
*[06  上演日<] 2003-05-22
*[09* 出 演<]辻萬長
*[10*    <]大鷹明良
*[11*    <]神野三鈴
*[12*    <]剣幸
*[13*    <]宮地雅子
*[14*    <]小嶋尚樹
 大正デモクラシーの象徴、吉野作造(辻)を、商工省官僚で大臣にまでなった弟信次との対比で劇作にしている。実弟が国家権力の側で出世していたとは不勉強にも知らなかったが、妻同士も姉妹だったというから、これはおあつらえ向きである。
 二人で一緒の部屋に寝たのは数えるほどだったそうで、吉野の生涯の節目となる日に場面を設定して、音楽劇にしたてている。夫婦四人に、宮地・小嶋のコンビがいろいろな役でからみ、かきまわすという趣向。吉野作造は今ではほとんど忘れられているから、どうしても伝記的説明が多くなる。
 弟は日本人的というか、冷徹な国家権力の体現者になりきれず、兄にあたたかい感情をもちつづけるので、ボードビル・ショーにはなっても、ドラマにはなりようがない。
 演劇を見たという充実感には程遠いが、アンサンブルの楽しさで最後までおもしろく見せてくれた。
*[01* 題 名<] サド侯爵夫人
*[03* 場 所<] 新国立劇場
*[04* 演 出<] 鐘下辰男
*[05* 戯 曲<] 三島由紀夫
*[06  上演日<] 2003-05-28
*[09* 出 演<]高橋礼恵
*[10*    <]倉野章子
*[11*    <]平淑恵
*[12*    <]新井純
*[13*    <]片岡京子
*[14*    <]中川安奈
 凸型に張りだした舞台を客席が三方から囲む。舞台には文机と椅子が一脚あるだけ。文机には上手側に羽ペン、下手側に灯った蠟燭がおかれている。
 例によって客電がついているうちに、黒い衣装のサン・フォン伯爵夫人(平)が、つづいてシミアーヌ男爵夫人(新井)があらわれる。無言をつづけ、緊張が高まる。
 サン・フォンの平が鞭を鳴らして芝居がはじまる。伝法な口調で、悪女らしさを出そうとしているが、一本調子(「阿蘭陀影繪」の芸者の口調そのまま)。シミアーヌの新井は影が薄い。
 これは駄目かなと思ったが、倉野のモントルイユ夫人が登場すると、一気に芝居らしくなる。倉野は圧倒的にうまく、ほとんど一人で舞台を引っぱっていく。ルネの高橋も食われっぱなし。
 ヤクザな夫につくす馬鹿娘を、しっかり者の母親が叱りつける家族劇としてはうまくいっているのだが、家族劇の枠から出られない。悪い意味での鐘下パターンで、パターンをはみだす部分が死んでいる。ルネの形而上的な台詞にリアリティがなく、ただそらぞらしく読みあげているだけ。
 これでは三幕は駄目だなと諦めていたが、不思議なことに、三幕は倉野が一歩引き、ルネの「一面の星空」という絢爛たる台詞が立ちあがってくる。受け一方だった高橋がりりしく前に出てきて、ようやく主役らしくなる。一幕・二幕はなんだったんだ。
 台本は若干加筆がある? ノエルの饗宴を母親の密偵がのぞく場面と、シャルロット(中川)が元の主人のサン・フォンのために喪服を着ていることを咎められる場面は不自然にもたつき、加筆くさい。
 なまじ中川をシャルロットにしたために、台本をいじらなければならなくなったのか。中川のサン・フォンで見たかった。
*[01* 題 名<] パートタイマー・秋子
*[02* 劇 団<] 青年座
*[03* 場 所<] 紀伊国屋
*[04* 演 出<] 黒岩亮
*[05* 戯 曲<] 永井愛
*[06  上演日<] 2003-06-05
*[09* 出 演<]高畑淳子
*[10*    <]山本龍二
*[11*    <]横堀悦夫
*[12*    <]藤夏子
*[13*    <]津田真澄
*[14*    <]森塚敏
 成城に持ち家のある元バブル夫人、秋子(高畑)が夫の失業で、下町のスーパー、フレッシュ金田にパートに出る。秋子が事務室で挨拶の練習をさせられているところに、古株の従業員が次々と顔をだすが、見るからに場違いな秋子を誰も歓迎していない。
 フレッシュ金田は大手の進出で窮地に追いこまれている。新任の店長、恩田(横堀)は店を改革しようとするが、レジ係を中心にする守旧派従業員が抵抗している。彼らは商品の着服を仲間内で黙認しあっていて、既得権を守りたいのだ。
 恩田の側には恩田に思いを寄せる惣菜係と、リストラされた住宅会社の元部長で、品出しとしてはいった貫井(山本)がついている。貫井は企画を売りこんで、正社員になろうとしている。秋子は採用してくれた店長側に立つが、夫と似た境遇の貫井にシンパシーを感じている。
 店長は貫井の提案した「店長お目もじ赤っ恥セール」で勝負に出るが、古株従業員は一丸となって抵抗し、店の中は一触即発の危機をむかえる。
 一見、正義派と抵抗勢力の対立のようだが、永井のことだから、そんなに単純な割りきり方はしない。
 正義派と見えた店長は精肉係に古くなった肉のラベルの貼替を強要し、彼が耐えきれなくなって辞めると、店から着服した大トロの切身と、特別手当を餌に、秋子に精肉係を押しつける。
 家庭の中で純粋培養されてきた秋子は、普通の神経をもった店員が次々とやめていく中、頑強に生き残る。肉のラベルの貼替をなんとも思わなくなり、商品の着服まで平気になってしまい、試食タイムのパフォーマンスでは店一番の人気者になる。
 「店長お目もじ赤っ恥セール」が成功した結果、店の中の勢力図は逆転する。守旧派の中心だった春日(津田)は意地を張りつづけるが、孤立していき、最後は店長に協力せざるをえなくなる。
 よくできた芝居で、最初から最後まで笑い通しだったが、後味はよくない。
Copyright 2003 Kato Koiti
This page was created on Mar30 2003.
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