演劇ファイル Jan - 2004
加藤弘一
*[01* 題 名<] タイタス・アンドロニカス
*[02* 製 作<] さいたま芸術劇場
*[03* 場 所<] さいたま芸術劇場
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 松岡和子
*[06 上演日<] 2004-01-29
*[09* 出 演<]吉田鋼太郎
*[10* <]麻実れい
*[11* <]岡本健一
*[12* <]萩原流行
開演前、衣装をつけた役者がロビーをうろうろしている。これだけならよくある演出だが、舞台でつける鎧や持ち道具がロビーのそこここに置かれているのははじめて見た。楽屋ではなく、ロビーで着がえるのだろう。
舞台は白い壁で三方をふさがれ、白ずくめ。衣装も生なりの白。
白い壁には方眼紙模様が投影されている。正面の壁の上には五つの窓が切られている。芝居がはじまると、方眼紙模様は窓の模様に変わる。
流血の多い芝居だが、血の流れる場面はすべて赤い糸の房で表現される。
一幕目は単調。タイタスに次から次へと不幸が降りかかってくるが、個々の悲劇がみな同じに見えてしまう。シェイクスピアの脚本にも問題があるのだろうが、吉田は口跡がいいだけに歌に聞こえてしまい、台詞としてのリアリティが薄い。
二幕目はよかった。狂気を装うタイタスはリア王のようであり、悪意の権化のエアロンはイアーゴのようである。若書きとはいえ、やはりシェイクスピアの芝居だった。
麻実れいのタモラはぱっとしない。タモラという役は見せ場がすくないが、麻実れいならもっと存在感を発揮できたはずだ。岡本健一のエアランは底なしの暗さを垣間見せる名演。岡本のイアーゴが見たい。ルーシアスの廣田高志はもうけ役。いい声だ。
エンディングは映画版も苦労していたが、蜷川版は子役の絶叫で締めた。あざといが、こうでもしないと終わった気がしないのも事実だ。
*[01* 題 名<] 狂風記
*[02* 製 作<] ワンダー・プロ
*[03* 場 所<] アートスフィア
*[04* 演 出<] 塩見哲
*[05* 戯 曲<] 塩見哲
*[05* 原 作<] 石川淳
*[06 上演日<] 2004-01-22
*[09* 出 演<]市原悦子
*[10* <]水下きよし
*[11* <]若林淳
*[12* <]加納幸和
*[13* <]久保酎吉
*[14* <]李丹
*[15* <]小林香織
劇場をサーカス小屋にすると宣伝していたが、前三列の座席をとりはらって舞台を広げ、中央に3m四方ほどのエプロンを設ける。舞台奥の左右に90席の客席。豆電球の電飾を八方に張り、二階席、三階席からTV局の広告の布を下げる。広告は市原の主演するTV番組。灰色と青色の単色の布に字が書いてあるだけ。そもそも、なぜサーカス小屋なのだろう(原作はサーカスとはまったく関係がない)。
しかし、はじまってみると、なかなかおもしろい。
新劇、ネオ歌舞伎、舞踏という技術の違う役者(加納流にいうと「学校が違う」)を集めているが、手持ちの技術に頼らずに、チャレンジしているので、この種の試みにありがちな水に油の失敗をかろうじてまぬがれている。既成の台詞術では手に負えない石川淳の文章をそのまま台詞に使ったので、個々の役者が自分の技術を乗り越えようと格闘せざるをえなくなったのだろう。
マゴの水下きよしは途中から一人の場面ばかりになり、モノローグに近い朗唱になるが、この朗唱がいい。一本調子で生硬だが、生硬さが一種の格調を生みだしており、石川淳の文章を読みこんできた人間としては驚きがあった。
市原悦子はヒメにしては年を食いすぎているし、太めだし、どう考えてもミスキャストだと思っていたが、意外によかった。明瞭なソプラノのタンカはかっこよく、気品すら感じさせ、母性的な包容力がばらけがちの舞台にぎりぎりのところで統一感をあたえていた。ただし、これは市原悦子の創造物としてのヒメであって、石川淳の描いたヒメとはまったくの別物。
サチコをたどたどしい発音の中国娘(李丹)にした結果、裾野の周縁性がはっきりした。これは原作の方向性に合致した改変だと思う。30年前には不法滞在はまだ問題になっていなかったが、今、石川淳が生きていたら、中国人就学生をリグナイトのメンバーにしただろう。
柳安樹を久保酎吉にしたのは決定的にまずい。格好良く見せようとして、肩に力がはいっている。これは演技力の問題ではなく、ガラの問題だ。久保はしがないチンピラをやらせたらピカイチだけれども、安樹は世をすねてはいるが、大財閥の御曹司であって、ガラが悪くてはまずいのだ。
新川眉子を愛人の桃屋義一よりも背の高い女形(花組の加納幸和)にしたり、鶴巻大吉、小吉、森山石城をグロテスクに誇張したりしたあたりは違和感をおぼえる。
サーカス小屋の趣向をもちこんだあたりもそうだが、アングラ芝居的なというか、土着的なおどろおどろしさ石川淳とは異質だ。確かに『狂風記』にはおどろおどろしいアイテムがたくさん出てくるが、安部公房いうところの「脱臭装置」が働いて、怨念ドロドロの世界には決してならない。
「脱臭装置」とは、作品に即していうと、歴史を鳥瞰する視点だと思う。
ところが、主に長さのためだろうが、この舞台では原作で大きな比重を占めていた忍齒皇子や幕末の長野主膳のエピソードをすべてカットしていて、歴史を鳥瞰する視点が皆無になってしまっている。結局、生臭いおどろおどろしさだけが残った。
表の日本史に裏の日本史をぶつけ、現実を根柢からひっくり返した原作の衝撃力は、サーカス風のショーに矮小化された。ただ、矮小化された分、こぢんまりとまとまっていることも事実で、料金分は楽しめる作品となっている。
*[01* 題 名<] KASANE
*[02* 劇 団<] THE・ガジラ
*[03* 場 所<] 本多劇場
*[04* 演 出<] 鐘下辰男
*[05* 戯 曲<] 鐘下辰男
*[06 上演日<] 2004-02-12
*[09* 出 演<]久世星佳
*[10* <]若松武史
*[11* <]千葉哲也
*[12* <]大内厚雄
*[13* <]大鷹明良
*[14* <]冷泉公裕
*[15* <]真那古敬二
*[16* <]塩野谷正幸
外国帰りの女流演出家、桐山月子(久世)が累伝説を上演するために、水海道市の土蔵に役者を集め、三日間の合宿をするという設定。アクの強い、脂ぎった役者をそろえていて、ただでさえ鬱陶しいのに、紅一点の久世がむくつけき役者たちに追いこまれていき、いよいよ重苦しくなる。問題は緊張がカタルシスに到らないこと。
真っ黒な舞台に直径6〜7mはある円形の台。中央に野良着が積まれ、縁にはランタンが七つ置かれている。客電がついているうちに、プロデューサーの朝倉(塩野谷)があらわれ、ランタンに一つ一つ灯をともしていく。全部灯ったところで、役者たちが出てくる。
地元の歓迎会に閉口していた役者たちは、これからディスカッションするといわれて不満たらたら。そもそも鶴屋南北の累を現代化するということで出演交渉を受けたのに、途中から新解釈のオリジナルの脚本に変わり、外国じこみの集団創作というので焦だっている。
そこへ月子と劇作家の加納(大鷹)があらわれる。月子は地元の教育委員会の出している累伝説を配り、南北版との違いを指摘して、真相はどうだったのだろうと問いかける。役者たちは最初は戸惑って喋らないが、月子がフェミニズム的解釈や民俗学的解釈をぶつけると、次々と解釈を披露しはじめ、しまいには危ない解釈が飛びだし、プロデューサーが逆切れする。
累は嫉妬深い醜女だったのか、ムラ共同体の犠牲者だったのか、架空の存在だったのか、勝手な解釈が飛びかう中、月子は昏倒し、妊娠していたことがわかり、皆は我にかえる。
月子と役者の対立が、累とムラ共同体の対立に二重写しになるのかと思ったが、必ずしもその方向には進まず、密室で怒鳴りあう生理的圧迫感が空転してしまった。緊張が解放しきれず、後味が悪い。
演劇の肉体性がよく強調されるが、こういう煮え切らない芝居を見ると、言葉あっての肉体だと痛感する。
*[01* 題 名<] 空想 万年サーカス団
*[02* 劇 団<] 松竹
*[03* 場 所<] 新橋演舞場
*[04* 演 出<] 串田和美
*[05* 戯 曲<] 阪本潤治
*[06 上演日<] 2004-02-20
*[09* 出 演<]中村勘九郎
*[10* <]藤山直美
*[11* <]柄本明
*[12* <]小島慶四郎
*[13* <]笹野高史
評判の勘九郎、藤山直美、柄本明のトリオをやっと見ることができた。新橋演舞場なので、演劇性は期待しなかったが、案の上の舞台で、それでもおもしろかったのだから、たいしたものである。
幕のあいた舞台は浅草の空地という見立てで、曲馬団の小屋を設営していて、開演時間になると、ちょうどテントが組みあがり、屋根を引っ張りあげたところで客電が消え、電飾が灯り、芝居がはじまる。テント正面がさっと開き、楽隊の載った満艦飾の移動舞台が出てきて、ジャズを演奏しながら上手に移動していく。
曲馬団時代は猛獣もいて、人気があったが、またたく間に30年たってしまい、万年大サーカスと改称したものの、実力のある芸人は引き抜かれ、ロートルだけになり、残ったのはノロマばかりと客から馬鹿にされるようになる。そこに警察に追われた安吉と、実の父親から疎まれ、30年間古井戸の中に監禁されていた村子が転がりこんでくる。二人は団長の息子の作之助と同室になる。作之助は子供の頃、空中ブランコから落ちて知恵遅れになったが、今はピエロで人気を博している。安吉はなぜか猿の道化がうまく(実は曲馬団から逃げだしたという過去がある)、村子は言葉は満足に喋れないが、猫を可愛がっていたので、虎と仲よしになり、猛獣使いになる。
一幕は万年サーカス団が浅草を追いだされるまで、二幕はどさ回りをはじめるが、村子の故郷で興行を打ってしまい、村子は実の父親と対面する。父親の権之上は県会議員で地方ボスだが、息子を犯して生まれたのが村子だったという因縁があり、サーカス団は追いだされる。三幕で浅草にもどるが、戦争がはじまり、男たちは戦地に慰問にいかされる。ラストは戦後の再会。
台本はゆるいというか、支離滅裂というか、杜撰もいいところだが、個人芸が売物の狂言なので、これくらいスカスカでちょうどいいのかもしれない。
勘九郎と藤山直美のボケ(どちらも藤山寛美に酷似)に、柄本一人が突っこむという松竹新喜劇ばりの場面がつづくが、新橋演舞場というオバサン専用劇場にもかかわらず、最後はオンシアター自由劇場のノリになる。勘九郎、藤山直美、柄本明というクセの強い三人を最後にはおさえこんでしまうのだから、串田和美はまだまだ健在である。
*[01* 題 名<] エリザベート
*[02* 劇 団<] 東宝
*[03* 場 所<] 帝劇
*[04* 演 出<] 小池修一郎
*[05* 戯 曲<] クンツェ,ミヒャエル
*[05* 翻 訳<] 小池修一郎
*[06 上演日<] 2004-03-25
*[09* 出 演<]一路真輝
*[10* <]山口祐一郎
*[11* <]高嶋政宏
*[12* <]鈴木綜馬
*[13* <]パク・トンハ
*[14* <]村井国夫
エリザベート皇妃暗殺を、彼女の精神的自殺として描いている。「レ・ミゼラブル」で御堀端に赤旗をひるがえさせた東宝が、またしても帝劇に不敬ミュージカルをかけたわけだ。
双頭の鷲を刺繍した紗幕が降り、舞台がうっすら見える。開演が近づくと、舞台の照明が完全に消えて、紗幕の向こうは見えなくなる。客電が落ち、紗幕の向こうで男が絞首刑になり、もがいている。男は亡者たちに引きずり下ろされ、紗幕が開く。
時代は現代に変わり、絞首刑になっていたのはエリザベートを暗殺したルイジ・ルキーニ(高嶋)だとわかる。現代の亡者たちがルイジの亡霊に、なぜ皇妃を殺したのかと問うと、ルイジは不敵に笑い、皇妃に頼まれたのだと嘯く。
そこでトート閣下(山口)が登場し、死を讃美する歌を朗々と歌うと、棺桶がせり出してきて、中からエリザベートがあらわれる。
ここでエリザベートの娘時代に飛ぶ。エリザベートは父親(村井)に可愛がられて育ったお転婆だ。16才の時、姉に皇帝(鈴木)との結婚話がもちあがるが、皇帝が選んだのはエリザベートの方だった。帝室にはいったエリザベートは姑のゾフィー皇太后(初風諄)と衝突しながら、夫を助け、ハプスブルク帝国の立て直しに一役買う。美しい皇妃に国民は歓呼の声をあげるが、夫は売春宿で梅毒にかかり、エリザベートにうつしてしまう。夫に裏切られた彼女は宮殿を出て、ヨーロッパ中を旅する生活にはいる。
短いエピソードがつづくが、ルイジが狂言回しになって低質のスキャンダルを暴き、節目節目で死神のトートが登場して場を引き締める。
理想の家族は虚構で、ルドルフ皇太子(パク)は寂しく成人し、死神トートに魅入られている。彼は革命派に加担して廃嫡されてしまう。エリザベートは彼が幽閉された宮殿を訪ねるが、すぐに立ち去ってしまう。母から捨てられたルドルフはピストル自殺を遂げる。喪服で嘆き悲しむエリザベート。
この頃にはハプスブルク帝国の屋台骨はゆらぎ、民族間の軋轢が生まれ、ナチスにつながるようなナショナリズムが台頭してきている。ハプスブルク家も不幸続きで、一族に自殺と発狂が相次ぐ。
トートの誘いに身をゆだねたエリザベートに、ルイジが吸い寄せられるように近づいていき、ナイフで胸を刺す。死んだエリザベートは純白のドレスに変わり、トートと死の賛歌を高らかに歌いあげる。
正面の壁はLEDの大画面になっていて、紋章や人物のシルエットなどが映しだされるが、解像度が低いので、いささか安っぽい。
視覚的にはチープだが、歌はすばらしい。不協和音を多用した不安定な旋律が、死に傾斜していくデカダンな心情を伝えている。エリザベートの一路は生きようとする意志を感じさせる凜とした歌いぶりだが、精神病院を慰問して、贋エリザベートと対決する場面で歌うアリア以降は絶望の淵を歩んでいるような危うさがあり、だからこそ、死後のトートとの二重唱には解放感がみなぎる。トートの山口の甘美な声は聞き物。自殺するルドルフとトートの二重唱もいい。
大向こう受けのするメロディではないが、客席はミーハー的に盛りあがっていた。終演後、皇帝役の鈴木綜馬の握手会をやるとアナウンスしていたが、あの歌唱力と握手会が結びつくとは、日本のミュージカルの土壌は豊になっているのだろう。
*[01* 題 名<] かもめ
*[02* 劇 団<] t.p.t.
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] 熊林弘高
*[05* 戯 曲<] チェーホフ
*[05* 翻 訳<] 木内宏昌
*[06 上演日<] 2004-04-08
*[09* 出 演<]藤沢大悟
*[10* <]佐藤オリエ
*[11* <]郡山冬果
*[12* <]安原義人
*[13* <]中嶋しゅう
*[14* <]花王おさむ
*[15* <]花山佳子
*[16* <]中川安奈
*[17* <]深貝大輔
*[18* <]木村健三
ほぼ正方形の劇場を対角線で区切り、一方を舞台、一方を客席にしている。どちらも黒を基調にしていて、舞台側の壁には黒い花柄が浮きでている。
舞台の右辺(上手側)は真ん中で別室につながっており、ハーフミラーの壁で仕切られている。別室にはアップライトピアノが置かれ、床に原稿が散乱している。
舞台の左辺(下手側)の壁には、小さな額にはいったアルカージナ(佐藤オリエ)の舞台写真がならんでいる。
舞台正面の対角線に接して、一段低い正方形の区画が切りとられていて、湖畔の舞台という見立てである。湖畔の舞台の上には赤い幕がゆったりと張られている。
はじまりはひそやかだ。薄暗い照明の中、トレープレフ(藤沢)が出てきて、湖畔の舞台の設営を指示する。マーシャ(中川)とメドベジェンコ(深貝)が早くも下手側の席について小声で話をしている、と今なら整理できるが、最初の30分は誰が誰だかわからず、「かもめ」ってこんな話だったかなと当惑した。
チェーホフを群像劇として上演するのはこの20年ほどの傾向だが、この舞台は徹底していて、ニーナ(郡山)とトリゴーリン(木村)を脇役のようにあつかい、脇役のはずの執事一家(シャムラーエフの花王、ポリーナの花山、マーシャ、メドヴェジェンコ)に主役に近い重みがあたえられているのである。特に郡山のニーナは冴えない田舎娘で、中川の華のあるマーシャに圧倒されている。
一幕はやや苦しかったが、二幕になると流れがつかめて、俄然おもしろくなる。若いニーナに心を移したトリゴーリンを、アルカージナの佐藤が熟女の色香と手練手管で引きもどす場面は見もの。
冴えないニーナだったが、夜の庭でトレープレフと再会する場面で大化けする。純朴な田舎娘はプロの女優になっていて、女の性を剥きだしにして狂乱する。これぞt.p.t.だ。
これまでのニーナは自己実現に失敗した可哀想な女だったが、郡山のニーナはどさ回りとはいえ、「本職の女優」になった女であり、一応の自己実現をとげているのだ。一方、華やかだったマーシャは子供が産まれて一生田舎で埋もれることが運命づけられ、つまらない亭主に当たり散らすしかない。
ニーナが自立した女として輝いているからこそ、トレープレフの絶望にリアリティが生まれた。彼の自殺がはじめて納得できた。
*[01* 題 名<] 太鼓たたいて笛ふいて
*[02* 劇 団<] こまつ座
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザンシアター
*[04* 演 出<] 栗山民也
*[05* 戯 曲<] 井上ひさし
*[06 上演日<] 2004-04-15
*[09* 出 演<]大竹しのぶ
*[10* <]梅沢昌代
*[11* <]神野三鈴
*[12* <]木場勝己
*[13* <]松本きょうじ
*[14* <]阿南健治
井上得意の評伝劇で、『頭痛肩こり樋口一葉』に次ぐ傑作に仕上がっている。
林芙美子というと、よくも悪くも森光子のイメージがしみついているが、大竹しのぶを起用して、まったく別の林芙美子を作りあげた。
森光子の林芙美子は田舎から出てきた、けなげな文学少女だが、大竹の林芙美子はがむしゃらに働く職業婦人で、川本三郎の『林芙美子の昭和』の林芙美子像に近い。多分、井上は川本の本に触発されたのだろう。
ミュージカル仕立なので、舞台の真ん前にアップライトピアノをすえている。
鳥の子紙風の模様のはいった紗幕。林芙美子(大竹)や母キク(梅沢)、こま子(神野)のシルエットが紗幕の上に躍る。
紗幕があがると、正面に原稿用紙の升目が描かれた背景幕。三重に額縁が作ってあるが、そのすべてが黴びた原稿用紙を模している。ひどく圧迫感があり、物を書くことが労働なのだということを視覚的に示している。
茶の間で待っている三木(木場)は編集者風だが、一捻りしてあって、流行歌の歌詞を書かせようとしているレコード会社のプロデューサーという設定だ。
三木の相手をしている母親のキクは行商人あがりだけにそつがなく、したたか。そのキクを師匠と慕って、尾道からキの四郎(松本)と時雄(阿南)が訪ねてくる。二人ともキクに仕こまれた行商の弟子だ。
がらっぱちの林芙美子を筆頭に、俗っぽい人物がそろったが、精神性を代表する人物として、島崎こま子を配している。『新生』に描かれた島崎藤村の姪である。
実際にはこま子が10歳年長で、駆け出し時代の1937年にこま子に取材し、インタビュー記事を書いた程度の接点しかないが、慈善事業に献身したあげく、栄養失調になったこま子を引きとって、面倒を見るという筋立になっている。
三木はNHKに引きぬかれ、時流に乗って内閣情報局でとんとん拍子に出世し、戦後はNHKに舞いもどるというように、器用にマスメディアの世界を遊泳する。木場勝己の軽いノリが絶妙。
内閣情報局の三木にそそのかされて、林芙美子は従軍作家となり、戦意高揚の片棒をかつぐが、疎開してからは戦争の現実を目のあたりにし、筆を折り、周囲にこの戦争は負けるともらすようになる。
四郎は行商先の大連で高給につられて外地憲兵になる。内地にもどってからは警視庁特高課の刑事に移り、敗戦を口にするようになった林芙美子を監視する立場になるが、戦後は新宿署で風紀係。このしたたかさこそ、林芙美子を愛した庶民だ。
時雄は行商先の遠野で農家に婿入りするが、戦死していたはずの前夫がもどってきて離縁され、東京に流れてくる。
寡黙を通してきた四郎が、妻に追いだされたのではなく、妻に嫌気がさして、新しい夫ともに蓄電してきたのだという話を芙美子に売りこむが、この場面は圧巻。
俗物のミーハー作家だった林芙美子が、戦争責任を自覚して本物の作家になったというストーリーだが、文学的には俗物時代の方がすぐれているような気がする。
*[01* 題 名<] 毒薬と老嬢
*[02* 劇 団<] NLT
*[03* 場 所<] 博品館
*[04* 演 出<] デール,グレッグ
*[05* 戯 曲<] ケッセルリング,ジョゼフ
*[05* 翻 訳<] 黒田絵美子
*[06 上演日<] 2004-05-28
*[09* 出 演<]淡島千景
*[10* <]淡路恵子
*[11* <]渋谷哲平
*[12* <]泉関奈津子
*[13* <]平松慎吾
*[14* <]倉石功
ひさびさの博品館劇場だが、満員で補助席の出る盛況。
「毒薬と老嬢」は名作コメディで、フランク・キャプラによって
映画化されてもいる。日本ではNLTの当たり狂言で、北林谷栄・賀原夏子という二大お婆さん女優が共演した初演を見ている。当時の感想には「マチネなので、客席はオバさん族で満員。二人の一挙一動にカワイイ、カワイイの連発。帰りには「あんなお婆ちゃんになりたい」の声しきり」と書いていたが、今回はそこまで盛りあがらなかった。
主演は淡島千景と淡路恵子の元宝塚コンビ。この配役は一昨年からとのこと。淡島は賀原夏子がやった世話好きな姉役だが、品のよさが自然で、かなりいい。妹役の淡路恵子はクールすぎて、芝居に十分からめないでいる。妹役は台詞がすくないので、プラスαが必要なのだろう。
台本がいいのでそこそこおもしろいが、舞台がだれている。古びた豪邸そのままのすすけた印象で、すきま風が吹いていた。
*[01* 題 名<] 時の物置
*[02* 製 作<] 世田谷パブリック
*[03* 場 所<] 世田谷パブリック
*[04* 演 出<] 江守徹
*[05* 戯 曲<] 永井愛
*[06 上演日<] 2004-06-10
*[09* 出 演<]有馬稲子
*[10* <]辰巳琢郎
*[11* <]雛形あきこ
*[12* <]江守徹
*[13* <]河合美智子
*[14* <]根岸季衣
1994年の初演、1998年の再演時には読売演劇大賞を受賞した作品で、前から気になっていたが、世田谷パブリックシアターの「レパートリー」にくわえられたのを機に見ることができたが、「レパートリー」ということなので、再々演もありそうだ。
この芝居は、学生運動、同人誌、純文学、新劇、歌声運動といった、かつては価値ありと見なされていた過去の遺物に光を当て、高度成長期直前の風俗を描いている。
舞台には新庄家の二階建の家が建てられていて、下手側は掘り炬燵を切った和室で、壁際に納戸からもってきたガラクタが積みあげてある。上手側は板の間で、会談をはさんで奥に台所が見える。板の間は納戸と玄関につづいている。
和室では長男秀星の大学の友人が集まり、彼を自治会の委員長に立候補させる計画を練っていて、60年安保の興奮さめやらぬ1961年だということがわかる。この部屋では一家の主人光洋(辰巳)の同人誌の合評会が開かれているし、ご隠居の延(有馬)が近所の主婦を集めて、自分は士族の娘で師範学校で優等だったと自慢話を披露してもいる。下の娘の日美は、新劇のために離婚した母親がTV女優になっていると思いこんでいる。
今となっては悪い冗談としか言いようのない臭い台詞が飛びかい、客席からくすくす笑いがもれる。この和室は本当に「時の物置」なのである。
秀星は首尾よく委員長に当選するが、セクトの反撃にあい、大学にいけなくなる(若い人は信じられないだろうが、こういうことは実際にあったのだ)。光洋の同人誌は仲違いを繰り返して同人がいなくなり、「新潮」、「群像」、「文學界」のような「商業誌」(若い人は信じられないだろうが、純文学同人誌からみれば「商業誌」なのだ)に作品を応募するが、別れた恋人の萩さん(根岸)の作品の方が行き違いから、採用されてしまう。
元気なのは光洋の妹の詩子夫婦だけだ。詩子は歌声運動で工場のストを応援にいくが、工場主と意気投合して結婚し、今では実家を援助している。脂ぎった工場主の江守が妙に小心なところを見せて爆笑の連続。
詩子夫婦はあからさまに援助してインテリのプライドを傷つけないように、いらなくなった電気製品をもらってほしいとか、従業員の寮を庭に建てさせてくれとか、気を使っている。延は痩せ我慢して断っていたが、納戸に下宿するツル子の部屋にテレビがはいり、近所のおかみさんが見に集まってくると、なし崩し的に電化生活に染まっていく。
ツル子の雛形あきこはなかなかいい。福祉事務所の口利きで、新庄家に無料で下宿させてもらっているが、すぐに納戸に引っこんでしまい、身の上を話そうとしない。光洋の原稿応募騒動で字が読めないことが知れると、その晩のうちに姿を消す。どうも売春防止法で居場所を失った赤線の女だったらしい。
暗いイメージをあたえたらぶちこわしという難しい役だが、雛形はたたずんでいるだけで華があり、浮き具合が絶妙で、彼女に当てて書いたのかと思ったほどだ(再再演だから、そんなことはないのだが)。
*[01* 題 名<] 風流線
*[02* 劇 団<] 円
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 山本健翔
*[05* 戯 曲<] 齊藤雅文
*[06 上演日<] 2004-07-16
*[09* 出 演<]橋爪功
*[10* <]朴璐美
*[11* <]木下浩之
*[12* <]藤貴子
*[13* <]高橋理恵子
*[14* <]本多新也
尾崎紅葉が亡くなる前後に連載していた泉鏡花の長編を劇化したそうだが、「なんだ、こりゃ」というのが第一印象。
円柱マットを積みあげた抽象的な舞台の上から、同じ円柱マットが上からぼとん、ぼとんと落ちてくる。藤村操がモデルとおぼしい自殺を図った大学生村岡(本多)が出てきて、意味不明の台詞を絶叫し、その愛人のお龍という女(朴)がまた絶叫するというオープニング。
暗転すると、金沢の有力者の巨山(橋爪)がやっているお救い小屋という慈善事業の紹介になる。この巨山、腰が低く、いかにも好人物のようだが、とんでもない食わせ者で、脂ぎった好色漢だったことがしだいに明らかになっていく。えぐい役だけに、橋爪はすごく乗っている。
次に登場するのが留学帰りの鉄道技師水上(木下)の率いる風流組。狼藉のしほうだい、女を見れば片っ端から犯していくという乱暴者を集めた土方集団で、おだやかな山谷を蹂躙して鉄道を敷設していく。ここで鏡花らしい趣向が出てくる。オープニングの村岡とお龍が空中から降臨し、風流組の守り本尊となるのだ。
権力と結託した狡猾な巨山と、近代化を暴力的に推進する水上=風流組の戦いがはじまるのだが、『狂風記』と妙に似ている。『水滸伝』という共通のお手本があるにしても、村岡=お龍はマゴ=ヒメではないのか。石川淳は『風流線』をパクったのか。
最後は橋爪が金色の褌一つになって大奮闘するが、これも『狂風記』だ。『風流線』を読まなくては。
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