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加藤弘一
  1. 文芸誌ってなに?
  2. 書評ページに新しい本を
  3. 文庫の絶版
  4. ビブリオグラフィーに内容紹介は必要か?
  5. 石川淳の文章はくだけているか?
  6. 文芸誌は売れていないのか?
  7. 文芸誌は売れなければいけないのか?
  8. 石川淳ベスト5
  9. 読者の反響は必要か?
  10. 読者の反響はありがたい

文芸誌ってなに?

>Date: Sat, 17 Feb 1996 20:59:08 JST
>From: TAKAHASHI Masayoshi <maki@lis4.huie.hokudai.ac.jp>
>
>北大の高橋です。お返事ありがとうございました。
>
>ふと、文学に関係している方とまともに話したことがなかったことに気づきま
>した。実は、以前から疑問に思っていたことがあるので、この機会に質問させ
>て下さい。

>よく、「文芸誌」には対談、鼎談などが載っていますよね? あれって、みん
>な読んで理解できるのですか? 私には、何をテーマにして話しているのかも
>判らないことがたびたびあります。その「閉鎖」空間にいる人達は判っている
>のでしょうか?

 判ることは判っているんです。なにしろ、対談・鼎談は、業界内部では一番読まれ、話題になる率も高い頁ですから。事情に通じている人間が読むと、暗黙のあてこすりや、足の引っ張りあいがあって、そういうのが好きな人にはたまらなく面白いみたいです。

 ただ、ぼく自身は、ほとんど読みまっせん。内容的に読む値打ちのある対談なんてめったにないし、業界のつきあいをしていないので、暗黙の葛藤というのが十分読みとれないので。まして、業界事情を御存知ない、一般の読者の方には、面白くなくて当然でしょう。

>「文芸誌」って、一体何をしたいのでしょう??

 業界にちょっと距離を置いているぼくから見ると、あれはメセナの一種ですね(笑)。

 欧米の場合、文学者を援助する財団がたくさんあって、ある程度実績をつんで、これこれこういう本を書きたいんだと申請すると、補助金が出るんだそうです。だから、堅い本の前書には、「本書は○○財団の補助金を受けて執筆した」なんていう謝辞がよく載っていますよね。

 昔は、王様や貴族がそういうパトロネージをやっていました。本を書いて、その頭に「△△公爵にささぐ」なんていう献辞をつけると、その△△公爵が年金をくれたり、出版費用を出してくれたりして、文学者を援助してくれたんです。

 旧社会主義国では、国家が文学のパトロンをやっていて、作家同盟という組織にはいると、生活と発表の機会が保証されたそうです。(社会主義国の言論統制は検閲ばかりが有名ですが、作家同盟による搦手からの言論統制の影響も無視できないと思います)。

 こういうことを文学業界の人に言うと、嫌な顔をされるんですが(笑)、文学に限らず、芸術というものはもともと生産的ではなく、無駄から生まれるもので、パトロンが必要です。

 日本の場合、そういうパトロンの役割をはたしているのが大手出版社で、文学者との橋渡し役が文芸誌だろうと思います。これでいかがでしょうか。(Feb18)

書評ページに新しい本を

>いつも楽しく読ませて頂いております。
>どうにもならないことですが、長い文章は画面一杯
>に文字が並んで読みにくくなってしまうのが残念です。
>書評欄で取り上げられている本が古いというのも如何ともしがたい
>ことなのでしょう。
>画像など入れずに(音声や動画などもってのほか)どんど! ん文字を
>増やし続けて下さい。
>
>中野善夫

 画面の件は解決が難しいですね。HTML3ではいろいろな書式が加わったようなので、もしいい解決法がありましたら教えてください。

 書評ページの本が古い件も難しい問題です。特に地方にお住まいの方にとっては、手にはいらない本ばかりがならんでいるかもしれません(ぼくはややこしい本ばかり読んでいる人と受けとられているらしく、文庫になるような本の書評はあまり回ってこないのです)。たとえほら貝のような一週間に百人程度の読者しかいないメディアでも、雑誌に書評として発表した原稿をすぐ公開するのは、出版界の慣行からいって困難です。

 ただ、書評の長さでは無理ですが、立花隆氏が週刊文春に五週間に一度のせている読書日記(最近『ぼくはどんな本をよんできたか』としてまとめられました)みたいな、新刊書の寸評をやるのもおもしろいかなと思っています。「読書日記」ページの新設もいいですね。(Mar05)

追記:「サロン」に「読書日記」を新設しました(現在は「本」の「読書ファイル」)。(Mar07 1996)

文庫の絶版

>> 新潮文庫って、重要な作品を簡単に絶版にしてるんですよね。

>> 福永武彦にせよ、志賀直哉にせよ、売れ線の作品以外はどんどん絶版になって
>> いるように思います。
>
>ということで、新潮社に不信感を抱かれているようです。そのあたりについて、加藤
>さんはどのように思われますか?

 BOXMAN'S Homepageの清水慎悟さんからいただいたメールで、BOXMANの「ご意見板」というゲストブックのやりとりが発端になっていますが、ちょっと誤解があるようです。安部公房の場合、27冊の文庫が出ていますが、新潮文庫は22冊が入手可能です(その後、短編集『石の眼』と戯曲集『緑色のストッキング・未必の故意』が絶版になっていることが、清水さんの御指摘で判明)。安部の文庫本で現在手に入りにくいのは、中公文庫の『内なる辺境』と『反劇的人間』くらいでしょう(目録に残っているので、絶版ではなく品切れですが)。

 ただ、話を安部公房以外に広げれば、新潮文庫に限らず、文庫を簡単に絶版にする状況は確かにあって、岩波文庫でさえどんどん絶版にしています。それ以上に問題なのは、文庫にさえならずに消えていく傑作がすくなからずあることです。

 これはある程度読者の側にも責任があって、どんなに重要な本でも、現実に売れなければ、絶版になったり文庫にならなかったりするのもやむをえないでしょう。

 というのは、書店の展示スペースは有限である以上、各出版社に割りあてられた棚の長さも有限なのです。月に20冊新刊を出すとしたら、その数だけ絶版を出さなければならならざるをえません。赤字を出した本は即、絶版ですし、黒字であっても、下位を低迷している本は絶版になります。もし、売れない本を残したために、自社文庫の全体の売り上げが下がったら、ライバル文庫にスペースを侵食されてしまいます(棚の奪いあいはすさまじいそうです)。文庫は出版社のドル箱だけに、毎月、選挙をやっているような世界なもので、売れない本を絶版にするなとはいえません。問題は絶版にする是非ではなく、出版社側がどうフォローしているかです。


 絶版対策には今のところ、3つの方策がとられています。


1. 少部数だけ再刊する

 岩波書店は絶版にした文庫を毎年20点ほど再刊するという企画をつづけています。最初は古書店価格の高いものとか、研究者の要望の高いものでしたが、最近は読者のリクエストをかなり参考にしているようです。角川文庫や新潮文庫も絶版本の再刊をおこなっています。見かけたらすぐに買わなければなりませんが、古本屋を探したり、国会図書館にいく手間を考えれば安いものです。

2. 高い定価をつけたシリーズを作る

 講談社は少部数でも採算がとれるように、高い定価をつけた文芸文庫をつくりました。ずっと赤字だったものの、一昨年あたりからようやくとんとんになったそうです。このシリーズのおかげで、絶版の文庫がよみがえったり、文庫になる見こみのなかった本が入手できるようになりました。

 薄い文庫本が千円以上するのは釈然としないかもしれませんが、これには書店の棚を確保しやすくするという意味もあるようです。文芸文庫に入るような作品はたまにしか売れないので、効率が悪く、書店側からすればお荷物だそうです。同じ1センチの厚さでも、月に1回売れる本と、2ヶ月に1回売れる本では、展示スペースあたりの収益が倍違います。2ヶ月に1回しか売れない本でも、定価が倍になれば、多少はおきやすくなるでしょう。文芸文庫に棚を提供しているところは、良心的な書店だと思います。

 とはいえ、読者からすれば、高いのは困ったものですよね。ただ、一般図書館では20年以上たった小説はどんどん捨てており、文芸文庫でなければ読めない作品がたくさんあるのが現実です。

3. CD-ROM化する

 新潮社は『新潮文庫の百冊』というCD-ROMをつくりましたが、これも一つの絶版対策でしょう(モニターで読めるかどうかはともかくとして)。OCRで作ったので、どうにか採算がとれたそうです。ただ、OCRが未対応のために旧字体の本は除外しなければならなかったということですし、ディジタル化を認めない作家(の遺族)の方もいたというような話もちらほら聞こえてきています。

 今、文芸関係の本は本当に売れなくて、上に上げた3つの方策も決して利益の上がる事業ではありません。体力のある出版社にしかできないということは知っておいていいでしょう。(Jul22)

ビブリオグラフィーに内容紹介は必要か?

> 先日、そちらから私のページへのリンクについている紹介文(リストは労作だが、
> 内容の紹介がないのが残念、というもの)を読ませていただいて、今までは
> リストは提示するから、あとは読みたい人が探して読んでみてくれればいいと
> 思っていたのですが、考えをかえて、できうる限り内容も紹介してゆくことに
> しました。

 「 データベースとしての村上春樹」(現在、活動休止中)の笠そよ子さんからいただいたメールです。笠さんのページには村上春樹に関する膨大なビブリオグラフィーがあり、日々、成長をつづけています。これだけのものは活字メディアにもまだないと思います。ただ、残念なことに本や論文のタイトルだけで、説明がないんですね。

 村上春樹の場合は、著者自身の本の題名が長いせいか、研究書も題名の長いものが多いですが、夏目漱石なんかだと、『夏目漱石』とか『夏目漱石論』というそっけない題名の研究書が100冊以上出ていて、あたりのつけようがないということもあります。

 また、読みたい人は探すといっても、大学をはなれちゃうと本や雑誌を探すのは大変なんですよ。日本の一般図書館は雑誌は 3年で、小説類は20年で捨ててしまいますし、国会図書館なんか行ったら一日仕事になって、やっと出てきた資料を見たら、関係ない本だったなんてことがよくある。古書店も同じで、目当ての本を探してもらえるようになるには、相当月謝を払わなければなりませんし、頼んだ本を見つけてもらったら、必要がなくなっても買わなければなりません。地方の人はもっと大変で、大学の先生なんかでも、よく本探しに東京に出てきますよね。

 だから、資料をもっている人や簡単に資料にアクセスできる立場の人が、内容紹介のついたビブリオグラフィーを作って公開してくれたら、いろいろ便利だと思うんですよ。インターネットの文学方面の利用というと、現在は創作や読書感想文の発表の場という面ばかりに目が向いていますが、本当のメリットはビブリオグラフィーなど基本的な知識をシェアすることじゃないか。笠さんのビブリオグラフィーに内容紹介がつくようになったら、すばらしいと思います。

> 商用ネットのデータベースサービスなんかは、もっとこういうのに
> 力をいれてもいいと思うのですけれどね。(苦労の割に実入りが少ない
> のだろうか?とは思いますが)

 商用データベースははじめから無理です。それに、もし、すぐれたビブリオグラフィーが公開されたとしても、個人が日常的に使える金額じゃありません(苦笑)。

 だいたい、文学のデータベースなんて、つくれる人がいないでしょう。関係ありそうな本や記事、論文のタイトルを機械的にならべるぐらいはできるでしょうが、内容を紹介するには、まず内容を理解できなければなりません。理解した上で、どの程度の水準のものか評価できる必要がある。こうなると、サラリーマンの仕事ではなく、研究者の仕事です。

> こういう動きは、出版界の中で少しもないものなのですか?
> それとも出版界がすべきことではないのだろうか?
> 誰がすべきなんだろう?

 「ユリイカ」の作家特集には、専門の研究者によるビブリオグラフィーがつくようになりましたね。ただ、参考文献の方はまだタイトルの羅列で終わっています。あれでも大変な手間のはずで、経済的には最初から引き合うはずがなく、好きだからできるという部分がかなりありそうです。

 子どもに読書感想文を書かせる日本の悪しき国語教育の影響が出ているのかもしれませんが、薄気味の悪い読書感想文を公開する暇があったら、後世に残る基礎情報を公開してほしいと思います。ほら貝では長期計画で文学のインフラづくりをめざしています。(Sep08)

石川淳の文章はくだけているか?

> それは、石川淳氏の「壁」の序文がかなりくだけた感じに思えたということです。
>最後に1951年5月と書かれており、いまから45年前のものということが分かる。それ
>にしては非常にくだけた感じで、昔だったらもっと堅い文が主流のような気がします
>。あくまで私にそんな印象があるだけで、実際はこのような文は普通だったのでしょ
>うか。それとも、意識的にそのように石川氏が書いたものだったりして。
> それから、「こいつ」という言葉がこの序文によく出てきて、それが一層くだけた
>印象を私に持たせています。
>
> 「だから、なんだ?」というようなくだらないメールですいませんでした。

 「文庫の絶版」のメールをくださった清水慎悟さんが、安部公房MLに投稿されたメールです。「E-mailから」というページを作って以来、どういうわけかほとんどメールが来なくなってしまったので、お願いして、こちらにひっぱってきました。

 清水さんの指摘はいいところをついています。石川淳は高尚な文章の中に俗な言葉をわざとまぜてるんですよ。1951年当時は、こういう書き方はほとんど行われていませんでした。いつごろ行われていたかというと、江戸時代なんですね。

 現代の句なので、あれなんですが、数日前の「折々の歌」に栗林千津氏のこういう句が引いてありました。

秋冷の幽谷めきし耳の穴

この句のおもしろいところは、「秋冷」とか「幽谷めきし」といった格調高い言葉のあとに、「耳の穴」というくだけた言葉がつづくところです。滑稽であると同時に、高雅な文学の世界をいっぺんに身近なところに引きよせる。こういうのを俳諧味とか軽みというのだろうと思います。

 俳諧は江戸時代にうまれたジャンルですが、江戸文学にはおおかれすくなかれ俳諧味があります。江戸時代の日本人は、戦争をやらなくなったので暇になり、学問や芸術を楽しんでいました。『源氏物語』や『伊勢物語』、『新古今和歌集』、『唐詩選』なんかもベストセラーになっていたそうです。

 『源氏物語』も『伊勢物語』も『新古今和歌集』も、文学としてはひじょうに立派なものですが、江戸の暮らしとはかけはなれた王朝貴族の話です。『唐詩選』にいたっては、海の向こうの超エリートつくった詩集ですね。だから、どうしてもギャップがある。そのギャップを飛び越えるために、難しくいうと神話的手法ということになりますが、高尚な世界を身近に引き寄せる技が発達しました。俳諧はそのひとつで、歌舞伎なんかにも見立てややつしなんていう技があります。

 今の日本におきかえると、坂本龍一みたいなものでしょうか。坂本龍一は西洋古典音楽の正統的な勉強をきちんとやった後、自分の音楽をもとめてロックを選んだわけですが、江戸の文学者はみんな坂本龍一的なところをもっているんです。古典の世界のすごさに圧倒されながら、しかし自分は自分だと主張する。石川淳はそういう精神の継承者です。もちろん、江戸文学が好きだったということもあるでしょうが、俳諧味という趣味や軽みという理想の背景には反骨精神あることも押さえておいた方がいいでしょう。

 それから、文体の問題はすこしも「くだらなく」はないですよ。批評というのは、本当は思想を論じるものではなく、文体を論じるものなんです。日本でも、構造主義ブーム以来、文体を論じるべきだということをいろいろな人が主張していますが、どういうわけか、文体を論じるべきだという思想の紹介に終始していて、実際に文体を論じている人はあまりいません。文体を論じるより、思想を論じた方が受けるということも大きいのかもしれませんが、思想を論じたければ哲学をやればいいのであって、小説や詩を哲学の材料にしてもしょうがないんですがね。(Oct14)

文芸誌は売れていないのか?

>「海燕」が休刊だそうですが、文芸誌ってあきれるほど売れないものなんですか。
>
>「文学界」かなにかの新人賞発表の選者である佐伯一穂さんが
>「この雑誌の実売部数と新人賞応募者の数が同じだ」
>と編集者に聞かされ驚いた、ということを書いてましたが、
>作家志望は多くても文芸誌はやっぱり売れない、
>ということなのでしょうか。変な話のような気もするんですが。

 村山英樹さんが一周年アンケートに書いてくださった質問です。

 文芸誌は売れていません。一応、どこの雑誌も公称三万部をうたっていますが、それは採算のとれるぎりぎりのラインが三万部だからであって、実際は一桁少ない数字といわれています(赤字前提の定期刊行物を出しているなんて、銀行の手前、公に認めるわけにはいかないのです)。部数的には同人誌と変わらないかもしれません。一号出すごとに一千万円からの赤字が出るといわれていて、そのおかげで、レベル的には一定水準を維持していると考えたいですが……

 なぜ売れないのかは、文芸誌業界の人間はだれもわからなくて、こっちが聞きたいくらいです(苦笑)。

 いろいろな説がありますが、ほら貝を一年つづけてみて、若者の文学ばなれに原因をもとめるのは間違いだと思うようになりました。文芸誌を読む人は激減しているものの、文学をもとめる人はそれほど減ってはいないのではないか……というのが、現時点での感想です。読者のもとめる文学と、文芸誌の文学とが大きくずれてしまったのだろうと思います。

 以前は、新人発掘のためとか、雑誌で集めた大家の原稿を単行本や文庫にして、トータルで採算をとるという説明がありましたが、両村上を最後にビジネスとしてうま味のある新人は出ていませんし、大家の本自体、売れなくなっていて、説得力がなくなっています。作品がどうのこうのではなく、小説が社会全体にインパクトをあたえるなんていうことがおこりにくい時代になっているのでしょう。

 大赤字なのに、なぜつづいているのかというと、文芸誌は会社のの看板というコンセンサスが、出版社の上層部に残っているからでしょう。採算を度外視した文化事業という面もあるかもしれません。

 昔から、大儲けした新顔の出版社は、文芸誌を創刊したり、辞書をつくったりしましたが、これは儲けるためではなく(辞書で利益が出るのは、一部の老舗だけです)、社会的認知度をあげたり、文壇や学会に人脈をつくって、長期的にシンパを増やすという意味がありました。先日、文芸誌を休刊にした会社も、国語辞典を出していますが、一冊辞典をつくると、何十人という若い学者が経済的にうるおうんですね。ただ、リクルートが旧来の文芸誌ではなく、「ダ・ビンチ」という読者参加の雑誌をつくって、それなりに健闘しているところを見ると、もうそういう時代ではないのかもしれません。

 現在、月刊の文芸誌が四誌、季刊が一誌ありますが、多分、十年後には半数が休刊になり、半数が季刊で残って、月刊は一誌もなくなるとぼくは見ています。

 作家志望が増えているのに、文芸誌が売れないというのは、懸賞と勘違いしている人が多いというだけの話で、読者のもとめる文学がなにかとは別の問題でしょう。作品を売りこむわけだから、マーケット・リサーチぐらいしてもいいと思うんですが。

文芸誌は売れなければいけないのか?

>FROM 中沢けい
> こんばんわ。つい覗いてしまいます。あんまり文芸誌が売れないという
>話題には参加したくないなとおもいながらも、覗いてしまいます。

>そういう議論というかその種の話題というのは不毛なんですね。

>江戸時代のベストセラーという話がありましたが,絶対数がちがうの
>ですよ。今とは。なにしろ文字の読める人が貴重な時代なのですから。

>でも文字が読める人が増えたからといって、内容を理解し批評すること
>ができる人がふえるわけではないのです。その辺のところは昭和30年代に
>大衆化社会の到来という議論がされていましたが,あまり、妙案はないまま
>にここまで進んできてしまっています。

> 文芸誌が売れないという以前に出版は流通改革が遅れていたのです。

>出版物が少なくて貴重な時代と大量出版の時代では同じ流通体系では
>さばくのが無理なのです。インターネットを含むマルチメディアはその改革に
>いやでも手がつけられる事はまちがいないでしょうね。いくら、大量出版の
>時代とは言え、少部数でしかありえないものもありますから、そのバランス
>をどうするのかという事を考えなくてはなりません。

> 今の本の流通は一年で100万部売れる本と100年で一万部売れる本を
>同じように扱っているのですから、それは無理があります。文化に影響を
>与える本は、おそらく一年で100万部、売れた本より100年で一万部売れた
>本のほうが大きいでしょう。こういう単純な利潤計算のできない問題をどう処理
>したらいいのかを考えていかなければならないのです。私はそう思っています。

>マラルメの詩集なんて最初は200部ですが、その詩がフランス語に与えた影響
>ははかりしれないものがあります。そういうものがなくなっては困るわけです。

 小説家の中沢けいさんからいただいたメールです。

 流通の問題は、まったくご指摘の通りだと思います。出版とはちょっとずれますが、ミニシアターで活性化した映画の場合が、参考になるかもしれません。

 映画はあいかわらず不振といわれていますが、ぼくが学生だった頃から較べると、ずいぶん事情がよくなっています。当時は映画が最低の時期で、観客動員のみこめない芸術系の新作は、ベルイマンやウッディ・アレンのクラスであっても輸入されるかどうかわからず、雑誌の紹介や外国で見てきた人の話を聞くだけで、ため息をつくしかなかったのです。

 ところが、岩波ホールとシネマスクェア東急があたったおかげで、ミニシアターが次々と誕生し、高踏的な映画や、何とか交流協会の上映会でなければ見ることのできなかった第三世界の映画が、どんどん公開されるようになりました。映画人口はあいかわらず減り続けて、昨年も減少記録を更新したそうですが、眼の肥えた観客を育てた功績はとても大きいと思います。

 もっとも、ミニシアターの恩恵に浴せるのは東京だけというのも事実です。地方でマイナー系の映画をたまに公開しても、まったく客がはいらないというんですね。映画館が明確なカラーを打ちだして、ポリシーにそった映画を継続的に上映しつづけないと、観客を育てるところまではいかないようです。

 本の世界にも、ミニシアターにあたるものが必要なんじゃないかと思います。

石川淳ベスト5

>こんにちは。櫻井です。
>本棚を整理していたら、石川淳の「至福千年」(撰集の)を
>発見して、15年ぶり?に読み始めました。
>以前に読んだときと印象が全く違います。
>奇抜な筋立ても、さることながらなんて美しい日本語なんでしょう。
>こんな文章を書ける作家、今いますか?
>すぐには浮かびません。
>
>これに関して、石川淳の専門家としての意見をうかがいたいのですが、
>加藤さんが考える石川淳のベスト5を教えてくれませんか。
>まあ、全集を全部読めばよいといえばよいのですが、
>会社員をしている私の時間はすくないものですから。
>ちなみに私は「修羅」「紫苑物語」「八幡縁起」「至福千年」が好みです。

 「至福千年」は石川淳の江戸留学の成果というべき長編で、清新な息吹をたたえた文章は何度読んでも身体がしゃんとしますね。岩波文庫にはいっているので、比較的入手しやすいのもありがたいです。

 「至福千年」は伝奇的傾向が強いですが、「修羅」、「紫苑物語」、「八幡縁起」の三篇は伝奇小説そのものといっていいくらい幻想味の勝った作品で、中期を代表する傑作だと思います。選集の第五巻に固まってはいっていて、お買い得ですから、未読の人は、もし書店で見つけたら、なにがあっても買いましょう。

 ベスト5は、その日によって違うんですが(笑)、今日の気分であげると、「紫苑物語」、「狂風記」、「天門」、「金鶏」、「落花」です。

 「狂風記」は集英社文庫でまだ生きていて、注文すれば入手できるはずです。「天門」は完結した最後の長編で、八十代後半の作ですが、みずみずしい恋愛小説です。「金鶏」は十ページ足らずの小品ですが、暗唱したいくらいみごとな散文です。選集だと第四巻にはいっていたと思います。最後の「落花」は選集未収録の中編ですが、スラップスティック映画を思わせるドタバタ劇で、蓮実重彦も絶賛しています。

読者の反響は必要か?

>私はSFが中心の読者ですが、「ほら貝」ページにあるような文学・演劇方面の話題も、
>(多少文学コンプレックスがあるからかもしれませんが)興味深く読んでいます。
>最近では「文芸誌は売れなければいけないのか?」「文字コード問題を考える」に
>考えさせられました。
>前者についていえば、純粋な読者としては、「へえ売れてないの」という野次馬的興味と
>「売れなすぎてつぶれてしまって、読めなくなると困るな」という快楽主義の板挟みが
>あります。
>かといって、自分で声をあげたものかとなると「もっとうまく言える人がいるのでは」
>「他にも同じことを言ってる人がいるんじゃないか」「わざわざ時間をさいて発言するのも」と
>ためらってしまいます。結局、サイレント・マジョリティならぬサイレント・リーダーの
>ままです。
>作家などの方々が「反応してほしい」と書かれるのをよく見かけますので、そういう人に
>とって、こういう読者は嫌かもしれないなと思いますが…
>(ここまで書いてきて、パソコン通信やインターネットのネットニュースで言われる ROM の
>問題と同じだなと気づきました。結局目新しいこと書いていませんね)

 野村真人さんからいただいたメールです。

 他の方はわかりませんが、ぼく自身としては、どんな形でも反響はあった方がいいと考えています。特に、今は WWWという格安の発表手段がありますから、読者の皆さんにもっと発言してほしいと思う。「もっとうまく言える人がいるのでは」とか「他にも同じことを言ってる人がいるんじゃないか」とかいう理由で、発言を躊躇されるのだとしたら、残念なことです。

 ただ、発言といっても、「ぼくの本棚」とかいって、もっている本の題名をずらずら書きならべただけのものは困ります。サーチエンジンに引っかかるゴミになって、はた迷惑なだけです。書く以上は、題名と作者名だけでなく、なにかしら自分の意見を書いてほしいのです。たとえ誤解であっても、そういう風に誤解する読者がいるというのは、書き手にとって重要な情報だからです。

 ROMと同じじゃないかという指摘ですが、ちょっと違うのではないかと思います。パソコン通信の場合、各ボードには「類は友を呼ぶ」で、同じような傾向をもったメンバーが集まってきているので、どうしても議論が煮つまってしまう傾向があります(ニュースグループも、程度の差こそあれ、似たようなものです)。そのようなクローズドな場で同じ話をむしかえすと、「またか」と反発を受けるのは当然の話です。

 しかし、WWWの場合、読者の流動性がひじょうに高く、しかもサーチエンジンで常にかきまわされていますから、「またか」と思った人は、反発する暇もなく、さっさと別のページにジャンプしていくでしょう。

 パソコン通信と WWWは、同じネットワーク文化といっても、似て非なる性格のものです。WWWはよくも悪くも拡散していきますから、しつこいくらい同じ話をくりかえした方がいいんじゃないかとすら思います。

読者の反響はありがたい

> いつも、Eメールからを楽しく読ませて頂いています。反響はあるのは
>もちろん、作者にとってうれしいことです。けれども、黙っている読者の事も
>案外に気にしています。何か言って欲しいというのではなくて、黙って
>読んでいてくれる読者というは、何というかとてもありがたいものです。だから
>黙っていてというわけではありません。
> ま、ごたごたとやたらに自分個人の意見を押し付けてくる編集者が大勢いた
>時代に仕事を始めましたから、見守ってくれる読者のありがたさを余計に感じる
>のかもしれません。ちかごろは内気な人が増えて、あまりものを言ってもらえなくなった
>ので、少し感じかたが違ってきています。やはり、いろいろなご意見を伺えるのは
>おもしろいものです。

 中沢けいさんからいただいたメールです。ありがとうございます。

 編集部気付で感想を送られた方は、作家のもとに本当に届いているのかと心配されているかもしれませんが、ほとんどの場合、転送しているようですし、「こんな手紙が来た」というような話を時々聞きますから、受けとった作家の方も、返事を出す・出さないはともかくとして、大体読んでいると思います。

 ただ、まともでない手紙も多少あるみたいです。ぼくのところに来た中では、「あなたの本は読んだことはないが、同姓同名のよしみで文通してくれ」というのがありました。悪意はなかったみたいですが、返事は出しませんでした。

 これまでは読者からの手紙が、生の声を知る数少ない手段だったわけですが、インターネットの普及で、ファン・ページや読書感想文ページ、メーリングリストを通しても知ることができるようになりました。今のところ、自分で WWWページをもっていたり、メーリングリストに参加している読者は、SFやファンタジー方面に著しく偏っていますが、数年もすれば、文芸誌の読者のつくるページや、純文学関係のメーリングリストも増えるでしょう。

 そういう形で読者間に情報が共有されていったら、流通の問題にも影響をおよぼすようになるでしょうし、作家と読者のコミュニケーションも変わってくると思います。

Copyright 1996 Kato Koiti
This page was created on Feb18 1996.
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