マンガ家の北川みゆき氏と小学館は、2002年4月に刊行した本の対談部分が無断で2ちゃんねるに転載された件で、2ちゃんねるの管理者を提訴していたが、東京高裁控訴審は地裁の判断をくつがえし、著作権者から抗議があったにもかかわらず、書きこみを放置していたのは掲示板管理者の責任として、2ちゃんねる側に120万円の賠償を命じた(MSN、知財情報局)。北川氏側は300万円を要求していたという。アクセス数を3000と見積もり、本の定価をかけて、300万円にしたというところだろうか。
北川氏のマンガは読んだことがないので、Amazonで調べたところ、『不機嫌な愛撫』、『ちょこっとHな恋物語』、『だれにも、秘密がある。』といった題名がならんでいた。訴訟の対象となった本は、刊行時期からいって、『罪に濡れたふたり 10』らしい(裁判に勝ったのだから当然といえるが、それにしても、1本120万円の対談とは)。
この手の著作権侵害はよく見かけるが、本当に裁判を起こし、控訴審まで粘ったら、勝ってしまったわけだ。この判決が今後におよぼす影響は大きい。
ネット上の著作権侵害は、システムの一環としておこなわれるものもある。
最近、セキュリティ問題で著名な高木浩光氏のblogの一部が、別のサイトで無断で複製公開されるという事件があった(「公益性のない無断複製自動公衆送信」)。当該サイトは「キャッシュ」と称して、他人のコンテンツを多数、無断で複製公開していたが、高木氏は問題の機能は「キャッシュ」ではなく、「ミラーコピー」だと指摘し、「ミラーコピー」という名称に改めるならば、自分のコンテンツを削除しなくてもよいという和解案を、当該サイト管理者に申しいれたという。管理者はそれには答えず、無断複製していたすべてのコンテンツを削除したそうである(「とりあえず「キャッシュ」じゃなく「ミラーコピー」と称してくれないか」)。
「キャッシュ」と「ミラーコピー」の違いについては、高木氏の「cacheでないものをcacheと呼ぶことの弊害」がわかりやすいが、Googleが「ミラーコピー」閲覧機能を「キャッシュ」という触れこみで公開して以来、「ミラーコピー」まで「キャッシュ」に含めることが一般的になりつつある。
Google側は、「キャッシュ」機能は「該当のページのサーバがダウンした場合
」でも閲覧できるようにするためのものだと称しているが、Googleいうところの「キャッシュ」が重宝されるのは、削除されたページが閲覧できるからだということは、公然の秘密である。
削除したページをオーナーの意に反して公開しつづけることは著作権法でいう「公表権」に抵触する。訴訟に対する予防線だろうか、Google側では「キャッシュ」表示を抑止するメタタグを用意している。「キャッシュ」がWebサーバーの一時的なダウン対策だけを目的とするものだったら、こういう選択肢は不要なはずである。ちなみに、大部分のニュースサイトの記事には、「キャッシュ」表示抑止のメタタグが埋めこんである。
NHK特集の「13億人の欲望をつかめ〜中国コンビニ戦争〜」を見た。外国資本に小売業が解放された上海で、国営コンビニチェーンと外資系コンビニチェーンが食うか食われるかの戦いをくりひろげるというドキュメンタリーで、なまじのドラマよりも、よほどおもしろかった。
上海には現在、4000店のコンビニ(便利店)があり、そのうちの1000店を占める好コの沈建華副総経理が一方の主人公である(好コの「コ」は一本横棒の多い本来の字体。中国では簡化された字以外は康煕字典体のまま)。沈副総経理は以前は大学で経営学を教えていたそうだが、大学の先生というより、鬼コーチという感じである。
攻めるのは日本資本のローソン(罗森)とファミリーマート(全家)。日本で培った徹底した市場調査と店員教育、内装、陳列法で攻勢をかけるのだが、一日1万元の売上のあった好コの団地前店は、一軒おいた隣にファミリーマートが出店するや、売上が1/10に激減している。
好コは店がやぼったいし、店員が国営紡績工場の元女工のオバサンなので、応対も荒っぽい。意外だったのは、一軒おいた隣にファミリーマートが出店し、売上が1/10に減ったことを、沈副総経理が視察に訪れるまでの3週間、好コの本部が把握していなかったことだ。日本のコンビニはISDN回線で売上をリアルタイムで把握しているが、そういうシステムははいっていないらしい。
好コ側では団地の前にあるという立地を考えて、家族向けの米と卵のパックの安売りで巻き返しをはかるが、視察に来たファミリーマート側は歯牙にもかけない。事前の調査で、団地の7割は事務所として使われていることをつかんでいるので、米と卵なんか売れないというのだ。これでは大人と子供というか、勝負にならない。
ただ、日本側もすべてうまくいっているわけではない。日本での主力商品の弁当を売ろうとするのだが、中国には粽のような携行食はあっても、一つの箱の中にご飯とおかずをつめた「弁当」という概念ははないので、わざわざ「便当」という造語を作り、普及させようとしているのだそうである。しかし、一時の物珍しさで売れても、定番の商品としては定着していない。
弁当の概念がないというのは意外だったので、翻訳サイトで「弁当」を中国語に訳してみたところ、「装在盒中的简 单饭菜」という長い訳語が吐きだされた。これを日本語に訳しもどすと「箱の中に簡単な飯とおかずを積み込む」となる。やはり、中国語には「弁当」という概念はないらしい。
番組の最後では、学校前のコンビニで、子供たちがおにぎりや海苔巻きをほおばっている姿を映しだしていた。共働きのために、朝御飯をコンビニですませている子供が増えているのである。おにぎりも、海苔巻きも、弁当同様、中国にはなかった料理である。この子供たちが大人になる頃には、弁当も中国社会に定着しているのだろう。
ついにというか、いよいよというか、日本でもフィッシング詐欺が起きた。14日夜、UFJダイレクトの利用者に、UFJ銀行の名を語ったHTMLメールが大量に送りつけられ、UFJ銀行の贋サイトに誘導しようとしたのだ(ITmedia、MSN)。UFJ銀行ではただちに注意を呼びかけるページを掲出した。
贋メールにはUFJ銀行のロゴが貼りつけてあるが、贋サイトの方はアドレスバーの偽装がおこなわれておらず、URLの意味がわかっている人なら、すぐに見破ることができるだろう。
今回は手口が幼稚だったからよかったものの、アドレスバーの偽装がおこなわれていたら、ルート証明書を確認しなければならなくなる。
ここで問題になるのが、かねてから高木浩光氏が警鐘を鳴らしている、お役所の「オレオレ証明書」問題である。
自治体や政府機関のすくなからぬサイトは、正式のルート証明書をとっていなかったり、証明書の期限が切れてしまっているために、Windowsで個人認証しようとすると、警告が出てしまうが、役所側は警告を無視することを推奨しているのだ。あろうことか、最高裁の「裁判所オンライン申立てシステム」まで、こんなことを書いているのだ。
Q12: 申立書の入力画面が表示される前に証明書に関するセキュリティ警告ダイアログが表示されます。どうすれば良いのでしょうか?
A12: メッセージの内容を確認し,「はい」又は「常に」を押してください。
お役所側の認識がどのようなものかは、高木氏と高知県担当者や、広島市担当者、佐賀県担当者との、抱腹絶倒のやりとりを読めば、よくわかる。
オレオレ証明書は、たまたま担当者に知識がなかったからですむわけではなく、日本の公的個人認証制度の錯誤という構造的な問題がからんでいて、相当に根が深い(詳しくは高木氏の日記の2月26日の項を参照)。フィッシング詐欺が本格的に広まったら、このあたりの事情も表に出てくるだろう。
北朝鮮の公開処刑を隠し撮りした映像が日本テレビ系列の「ニュースプラス1」と「きょうの出来事」で放映された。海外のマスコミは大々的に伝えたようだが、日本では日本テレビが映像を独占しているせいか、他のマスコミのあつかいはあきれるほど小さい(たとえば、ZAKZAK)。しかし、これは歴史的なニュースである。
映像を直接、入手したのは高世仁氏が代表をつとめるジン・ネットで、経緯と内容は「北朝鮮公開処刑映像の公開にあたって」に詳しい。
ビデオテープに映っていたのは、3月1日に会寧の豆満江にかかる鉄橋近くの河川敷と、3月2日に遊仙洞の駅前広場でおこなわれた公開裁判と処刑の模様で、音声部分の翻訳がジン・ネットのサイトで公開されている(3月1日と3月2日)。
北朝鮮情報は信憑性が問題になる。北朝鮮の国連大使は捏造と決めつけていたが、映像には数千人の群衆が映っている。あれだけ大人数を動員して捏造したら、まず発覚すると見ていいが、ジン・ネットは、鉄橋の形状が一致したことと、3月1日に処刑された被告の名前が、アジアプレスの石丸次郎氏が別ルートでつかんでいた名前と一致したことで、本物と判断したという。
処刑の映像は、公開処刑を見たことのある脱北者と、『北朝鮮 絶望収容所』の著者で、政治犯収容所の警備員だった経歴をもつ安明哲氏の証言をまじえて、放映された。
公開裁判は屋根の前後にスピーカーを載せた宣伝カーのようなライトバンの脇でおこなわれた。喋るのは司会者と裁判長だけだが、司会者の方が仕切っているように聞こえた。脱北者の話によると、被告は事前に大きな石を口の中に押しこまれ、歯をへし折られ、何も喋れない状態で公開裁判の場に引きだされる。一応、弁護人も同席しているが、弁護人も司会者や裁判長と同じく保衛部員なので、弁護することはないという。映像でも、判決の一方的な言いわたしだけで、すぐに処刑となった。
処刑は地面に立てた白っぽい角材に、被告を縛りつけて執行された。射撃は「撃て! 撃て! 撃て!」と3回おこなわれた。被告は途中で地面に倒れ落ちたが、倒れた後も弾丸が撃ちこまれた。脱北者によると、被告は頭と胸と腹の三ヶ所を、帯で柱に縛りつけられるが、兵士は帯に向かって撃てと命じられるので、帯が切れて死体が倒れ落ちる。最初に狙われるのは頭だが、それは被告の頭の中には「悪い思想」がいっぱい詰まっているからだそうだ。
群衆は強制的に動員されるといわれているが、中には娯楽として楽しんでいる人もいるらしく、自転車の荷台の上に乗ったり、すこしでも前で見ようともみあう様子も見られ、撮影者は最前列の位置を確保するのに苦労していた。子供たちは無邪気なもので、ワーワー歓声を上げ、死体を間近に見にいく者もいた。
処刑された3人の罪名は「誘拐」となっているが、実際は脱北の手助けをする脱北ブローカーだった(詳しくはジン・ネット)。脱北ブローカーを、わざわざ国境の町で公開処刑するのは見せしめのためである。中国の制止を無視しても公開処刑をおこなわなければならないほど、金正日政権は追いつめられているのだ。
その意味で、14日にZAKZAKに掲載された「体制崩壊の証? 緩む北兵士、異変」という中朝国境ルポをあわせて読むと、実に興味深い。
観光客に物乞いする兵士の話は、以前、東京新聞が伝えたことがあるが、「観光スポット」としてすっかり定着してしまったようである。北朝鮮の紙幣が、土産品として、札束単位でたたき売られているというのも、哀れをもよおす。
15日には、平壌の大型養鶏場で鳥インフルエンザが発生したと報じられた。感染した数千羽の鶏は土中に埋められたが、何者かが掘り返して鶏肉を市場に流しているという噂もあるという。もし、鳥インフルエンザが流行したら、いよいよ崩壊カウントダウンである。
「早稲田文学」が、6月から無償配布のフリーペーパーになるそうだ(東京新聞)。
数年前だったか、対談を動画で収録したCD-ROMを付録につけたことがあったそうだが(未見)、今回も、闇雲に目新しいものに飛びついただけではないかという気がしないではない。コミックやスポーツにまで話題を広げるというが、本当にフリーペーパーとして成功させるつもりなら、文芸誌であることをやめなければならないだろう。それとも、中途半端なところでお茶をにごすのだろうか。
雑誌の価値は、どんな作品を世に出したかで決まる。「三田文學」の方は、江藤淳の処女作『夏目漱石』を掲載したことで、第二次大戦後も存在感を示しているが、「早稲田文学」の方はどうか。
「早稲田文学」の戦後の実績を強いてあげるなら、1970年代に、英文科の先生方が共同で訳した『フィネガン徹夜祭』を連載したぐらいか。後に個人で全訳を刊行した柳瀬尚紀氏もこの共同訳に参加していたわけで、これが唯一、戦後文学史に残る実績だったといえるかもしれない。
つげ義春の漫画を原作としているが、かなり自由なアレンジで、主人公は漫画家ではなく、駆け出しの映画監督の岸田(山本浩司)と脚本家の坪井(長塚圭史)の二人組になっている。
二人は親しいわけではないが、共通の友人の船井に温泉旅行に誘われ、国英という駅におりたったもの。ところが、肝心の船井は来ておらず、ろくに知らない同士で、雪の山陰を旅する羽目になる。ぎくしゃくした、微妙な距離感がくすくす笑いをうむが、裏日本の冬の空模様そのままのどんよりした気分になってくる。
初日、なにもすることがなくて釣りに出ると、インド人(サニー・フランシス)から山女を押し売りされてしまう。お金もろくにないくせに、お金でことをおさめようとする岸田の見栄というか、小心さが痛々しい。宿に帰って刺身にしてくれと山女をさしだすと、出てきた主人は山女を押し売りしたインド人だったというオチ。やはり、つげワールドだ。
二日目、日本海の荒波をながめている二人。岸田は砂まみれの水着のブラジャーを浜でひろってくるが、そのブラジャーの持ち主の娘(尾野真千子)が、水着の下だけであがってくる。娘は敦子といい、原宿から来たが、財布も服もとられたというので、二人は服を買ってやり、いっしょに旅をすることになる。女の連れができたので、かなりましな旅館に泊まる。
三日目、バスを待っていると、帰りの旅費すらないはずの敦子が別の行き先のバスに飛び乗って、姿を消す。二人は喫茶店で行き先を相談するが、所持金がすくないことがわかる。東京に帰ろうかと話していると、地元の男(山本一太代議士そっくり)が親切の押し売りをしてきて、自分の家に泊まれと言いだし、強引に連れていってしまう。
ところが、家族の多い家で、二人はいたたまれなくなり、近所の安い民宿を紹介してもらう。ここが表題の「リアリズムの宿」で、不条理な味わいに顔が引きつってくる。
ドラマ性を徹底して排除した作りで、『無能の人』よりも、つげ義春らしいかもしれない。
森崎東監督の最後の作品。大阪高検公安部長の内部告発事件を早速とりこみ、知的障害児のサム(浜上竜也)が濡れ衣を着せられそうになるのを、潜水夫のチチ(原田芳雄)、在日朝鮮人のハハ(倍賞美津子)、養護学校の先生の直子 (肘井美佳)ら、周囲のがんばりではねかえすという話に仕立ててある。
舞鶴の風景がゆったりして心地よく、最初の30分間は快調だが、国家的陰謀のからんだドタバタ喜劇が錯綜してくると、低予算映画の馬脚があらわれてくる。話がこみいればいるほど、印象が単調になっていき、いかにもちゃちである。大風呂敷を広げないで、90分くらいでまとめていれば、傑作になったろうに、もったいないことだ。
まったく評判にならなかった作品なので、ダイアン・レイン主演だけが売りの観光映画だろうと思っていたが、意外によかった。
原作は、アメリカの女流作家がトスカーナの片田舎に住みついた体験をつづったエッセイで、ピーター・メイルの『南仏プロヴァンスの12か月』のイタリア版のような本らしいが、映画は離婚して絶望におちいった中年女性が人生をとりもどすまでを描く再生物語で、「休日」という題名はそぐわない。
映画に出てくるのは善人ばかりで(唯一の悪人である元夫は姿を見せない)、作り物には違いないが、異国の習慣に戸惑うダイアン・レインの反応がいちいち新鮮で、心情の変化がこまやかに描かれている。ぬけ殻のようだったヒロインは、ラストでは女家長に成長し、多くの客を招いて、豊饒の祭典のような結婚式を主宰する。ダイアン・レインは豊饒の女神の役が似合う。
ニコラス・ケイジの初監督作品である。これもまったく評判にならなかった作品だが、青春映画の佳作だった。ニコラス・ケイジだけに、かなりベタな演出だが、やや時代離れしたこの映画にはあっている。主演のジェームズ・フランコは「スパイダーマン」に大富豪の御曹司役で出てきた、印象の薄い役者だったが、この作品では水際だっている。世慣れているようで、不器用な生き方しかできない主人公を熱演していて、「ジェームズ・ディーンの再来」という言葉が浮かんだ。
物語は軍隊を除隊したソニーが、故郷ニューオーリンズで母親、ジュエル(ブレンダ・ブレッシン)の営む娼館に帰るところからはじまる。
ソニーは12歳の時から、有閑マダム相手に男娼をやらされていて、ニューオーリンズでは「伝説の男」になっていた。軍にはいったのは、そんな生活から足を洗うためだった。ソニーは軍隊で知りあった友人のつてで、テキサス・シティの本屋に勤めるつもりだったが、老後の生活が不安なジュエルは、彼にまた男娼をやらせようとする。
ソニーはテキサスで友人と再会するが、Wデートをした姉妹の家で、ささいなことで切れてしまい、就職をふいにする。彼はニューオーリンズにもどり、ふたたび男娼稼業をはじめる。コスプレを要求するオバサンがいたりして、女の欲望も男と変わらない。自堕落な生活になし崩しにはまりこみ、自尊心がずたずたになっていく姿は痛々しい。
母親のかかえる唯一の娼婦のキャロル(ミーナ・スヴァーリ)は、ソニーと駆け落ちして、堅気になる夢をいだいているが、ソニーが煮えきらないために、別の男を選ぶ。この選択も切ない。
母親の情人で、こそ泥のヘンリーを演じるハリー・ディーン・スタントンもいい味を出している。母と子を彼なりに見守ろうとするのだが、情けないオヤジをやらせたら、この人の右に出る役者はいない。
NHKスペシャルの「安全の死角 〜検証・回転ドア事故〜」を見た。一昨年、六本木ヒルズの回転ドアで起きた男児死亡事件の原因を中立的な立場から明らかにするために、『失敗学のすすめ』の畑村洋太郎氏が中心となって立ちあげた「ドア・プロジェクト」の活動を追った番組で、実に興味深かった。
畑村氏がボランティア・ベースの調査を思いたったのは、警察の捜査は責任追求のためにおこわわれるものなので、関係者は保身のために口を閉ざし、事件の構造的な問題にまでは踏みこめないだろうと危惧したからだという。果たして、警察の出した結論は、9つあったセンサーを切って回転ドアを運転していたから、引きこまれ事故が起きたというもので、争点は誰がセンサーを切る決定をくだしたのかという一点に矮小化されてしまった。
プロジェクトではまず、事故の起きた回転ドアに子供のダミーヘッドをはさみ、どれくらいの圧力が加わったかを検証した。子供の頭蓋骨は100kgの圧力で骨折するが、事故の再現実験では800kgもの力がくわわっていた。警察はセンサーを誰が切ったかを問題にしたが、センサーがきちんと働いていたとしても、回転ドアには慣性があるので、事故を防ぐことはできなかったことも明らかになった。
プロジェクトでは、防火シャッターや自動車のドア、電車のドアなど、さまざまなドアにダミーヘッドをはさむ実験をおこなったが、多くのケースで、200kgを越える圧力がくわわっていた。EUでは肩のはさまる幅では40kg、頭のはさまる幅では70kgという回転ドアの基準があるが、日本にはない。それどころか、子供の頭がはさまれることを想定した実験すらおこなわれていなかったのである。
もう一つ意外だったのは、事故の起きた回転ドアはもともとはオランダのメーカーの設計で、日本製品はオランダの技術を導入して作られていたというのだ。北欧ではよく似たデザインの回転ドアが、EUの基準を満たしたうえで、多数使われているという。事故直後の報道では、欧米では、六本木ヒルズのような大型の回転ドアは使われていないということだったが、実際には外気温の低い北欧で広く使われていたのである。
なぜオランダ製の回転ドアは70kg以内というEU基準を満たし、日本製の回転ドアは800kgもの圧力のくわわる、回る兇器になってしまったのだろうか?
原因は回転ドアの材質と構造にあった。外見はどちらもよく似ているが、オランダ製のドアは総アルミ製で、モーターが梁側にとりけられているのに対し、日本製は鉄とステンレスで頑丈に作られ、モーターは回転ドアの上部外周にとりつけられていた。どちらのドアも上から吊った形だが、オランダ製が総重量900kgなのに対し、日本製は3倍の2.7トンもある。
番組の一番の見どころは、なぜ日本で重量が3倍も増えてしまったのか、「技術の系譜」を明らかにしたくだりだ。
回転ドアの親会社が調査に乗りだして、ようやくわかったのだが、1994年にオランダのメーカーの技術供与を受け、国産第一号機を作った時点で、重量は1.2トンに増えている。理由はアルミでは安っぽく、顧客が納得しないので、表面にステンレス板を張ったためだった。
重量が1/3増えたので、中心駆動では異音が出るなどトラブルがつづき、1998年に、回転ドア上部外周に複数のモーターをとりつけた「改良型」が作られ、重量が一気に増えてしまった。さらに、強風の吹きつける超高層ビルの玄関に使えるように、鉄とステンレスで頑丈にこしらえた、さらなる「改良型」が作られた。これが2.7トンの事故機である。
この間、会社が倒産し、大手シャッターメーカーの子会社になるというアクシデントが重なった。倒産と同時に、オランダのメーカーはすべての技術資料を引きあげ、担当技術者も退職してしまい、なぜ軽く作らなければならないのかという設計思想が忘れられる結果をまねいた。
もともとの設計思想が忘れられ、改良のつもりが改悪になったという事例には、文字コードの歴史を調べた際に何度も出会ったことがある。こういう不幸な歴史は、どの分野にもあるのだろう。
失敗学も重要だが、設計思想学も必要なのではないかと思った。<
重いし、救いのない映画だったが、おもしろかった。アンドレ・デビュースの原作も、多分、よく書けているのだろう。
夫に逃げられたキャシー(ジェニファー・オニール)は、父の残した家に引き籠もって暮らしているが、税金を500ドル滞納しただけなのに、役所の手違いで家を差し押さえられてしまう。家は翌日、競売にかけられ、相場の1/4の値段で落札される。
家を買ったのは、ホメイニ革命でアメリカに亡命してきたベラーニ(ベン・キングスレー)だった。ベラーニはイランでは空軍大佐で、秘密警察の幹部だったらしいが、アメリカではろくな仕事が見つからず、家賃4000ドルの立派なアパートメントに居を構えているものの、昼は工事現場、夜はガソリンスタンドの売店で働いている。家族には肉体労働をしていることはひた隠しにしていて、汗と埃で汚れた作業着をアパートメント一階のトイレでスーツに着替え、ビジネスマンのように身なりを整えて、家に帰る毎日だ。
故国からもちだした財産は4万8千ドルしかなくなっていた。家は残金の大半を費やした買い物だったが、3倍の値段で売れれば、それを元手に事業を起こしたり、一人息子に教育を受けさせることもできる。
ところが、父の遺産の家しか頼るもののないキャシーは、失った家に固執する。弁護士に家に近づくなと言われていたのに、ベランダを増築していると知ると、発作的に家に飛びこんでしまう。
差し押さえに立ち会った警官が、彼女に同情したことから、話はさらにややこしくなる。彼はキャシーと恋仲になり、離婚すると言いだし、警察の権威を笠に着て、ベラーニに家を立ち退けと強要してしまう。
ストーリーを書くと、登場人物たちはみな愚かとしかいいようがないが、緻密な演出と役者たちの名演のおかげで、ギリシャ悲劇のような運命のドラマとして粛々と進行していき、一瞬も気を抜くことができない。ベン・キングスレーのいぶし銀のような芝居もすばらしいが、ジェニファー・オニールの切々とした演技も胸を打つ。第三者的に見れば、キャシーははた迷惑なバカ女だが、ジェニファー・オニールが演じることによって、悲劇のヒロインに見えてくる。類は友を呼ぶというか、キャシーとベラーニは、自己破壊衝動に衝き動かされているという点では、似た者同士なのだ。
北朝鮮が「反乱軍」を名乗る特殊部隊を福岡に送りこみ、占領するという話で、上下巻で800ページを越える大作だ。
長い作品だけにスロースターターで、最初のうちは金正日政治軍事大学の日本語教官に拉致被害者がいないのはおかしいとか、2010年には北朝鮮はとっくに潰れて、中国領になっているのではないかとか、疑問がいろいろ浮かんだし、この時期に、北朝鮮が攻めてくる小説なんて、あざといと感じないでもなかった。
しかし、福岡ドームがコマンドに制圧されるあたりからエンジンがかかりだし、北朝鮮「反乱軍」が勝手に犯罪者を指名・逮捕して財産没収をはじめるとフルスロットルでクライマックスまで爆走する。こうなると、あざとさも、突っこみどころも吹き飛んで、一気に読みとおした。表紙には猛毒を分泌するヤドクガエルの画像があしらわれているが、中味にも毒気が充満している。これは傑作である。
多くの資料をもとに書いたポリティカル・フィクションとしては、『愛と幻想のファシズム』がある。日本が富を失い、国際的に爪弾きにされているという設定は共通するが、『愛と幻想のファシズム』が自白剤とCGという魔法の杖に頼りすぎている点が弱かったが、『半島を出よ』は政府やマスコミ、企業の反応まで、細部にまで説得力があり、想定外の事態に、日本が勝手に自縄自縛に陥っていく過程がリアルに描かれている。もし万一、北朝鮮のコマンドが日本に上陸して、都市を人質にとったら、日本政府はこの小説に近い対応をしかねない。
他国の都市を占拠した上に、12万もの軍団を送りこんでくるのは侵略以外のなにものでもないが、「反乱軍」と称している上に、南北統一に反対する軍強硬派の厄介払いということで、中国、韓国、アメリカの了解をとりつけているので、日本が北朝鮮の非道を訴えても、国際的には無視され、笑い者になるだけだ。
『愛と幻想のファシズム』がトウジとゼロという二人の主人公を中心に進んでいくのに対し、『半島を出よ』は章ごとに視点人物が変わり、それに応じて語り口も変化していて、全体小説的な拡がりが生まれている。村上龍の読者なら、ここは『恋はいつも未知なもの』、ここは『ヒュウガ・ウィルス』と、過去の作品の谺を聞きとるだろう。茫然自失した政府に代わって、社会からネグレクトされてきた少年たちが北朝鮮コマンドと戦うというストーリーは『希望の国のエクソダス』と軌を一にするし、その少年たちを集めたのは『昭和歌謡大全集』の生き残りだった。そして、圧倒的な戦闘力と細心さをあわせもった北朝鮮特殊部隊の将校は『五分後の世界』の国民兵士を彷彿とさせる。この作品は村上龍の小説の集大成となっているのである。
この小説のもう一つのテーマは住基ネットである。12万人の本隊が到着するまでの10日間、北朝鮮側は500人の先遣隊だけで人口140万の福岡市を支配しなければならないが、その手段に住基ネットが使われるのだ。
北朝鮮だけがテーマなら、2010年という設定はおかしいが、あえて5年先の話にしたのは、住民票コードが納税者番号になり、民間利用が解禁されている必要があったからだろう。この二条件が通ったなら、この小説に近い情況がうまれるはずである。
(登場人物が誤解しているだけかもしれないが、北朝鮮軍と戦うネグレクト少年たちが住民票コードをもっていないと語られているのはおかしい。杉並区民や横浜市民であっても、住民票コードはすでについてしまっているのだ。)
『希望の国のエクソダス』は発売前からマスコミが飛びつき、さまざまなメディアでとりあげられていたが、『半島を出よ』はおもしろさという点でも、問題提起という点でも、前作を凌駕しているのに、今のところ、あまり話題になっていない。長い作品なので反応が遅れているだけなのか、毒気が強すぎて、たじろいでいるのか。もっと話題になってしかるべき作品だと思う。