国会図書館が進めているWebアーカイビング計画については本欄でもふれてきたが、朝日新聞の「国会図書館、情報保存はお堅いサイト限定
」によれば、法務省や音楽、出版、ソフトウエア関連団体から反対が相次いだため、jpドメインを網羅的に収集するという方針をあらため、第二レベル・ドメインをgo(政府機関)、lg(自治体)、ac(大学)、ed(学校)、or(各種団体)に限定することにした。jpドメインのサイトには約9000万のWebページあるとみられているが、この方針転換によって8割は保存対象外となる。要は個人ページを除外したわけである。
個人ページの保存に反対が出たのは「著作権やプライバシーを侵害しているものだけでなく、児童ポルノや犯罪教唆の情報まで含まれるものがある
」からだという。
しかし、紙の情報だけでは、日本の現在はとらえられなくなっているし、今後、いよいよその傾向が顕著になるはずだ。
保存の対象外となる個人ページや企業ページは、きわめて失われやすいコンテンツであり、こうしている間にも、多くのページが消えている。違法コンテンツとなれば、なおさらだ。個人ページの多くは、百年後には消滅しているだろう。百年後の歴史学者が困るのはもちろん、文化の保存という面でも重大な欠落をきたすことになる。
archive.comのような在野保存サイトもあるが、数百年後も存続しているという保証はない。百年単位の保存は国にしかできないと思う。国会図書館の方針転換はきわめて残念である。
そもそもこういう反対が起こったのは、収集したページをすぐに公開しようとしたからだと思う。何度も書いてきたことだが、重要なことは収集し、後世に残すことであり、公開は百年後、二百年後でよいのだ。
Webページの収集保存は緊急を要する。国会図書館は公開を数百年後に延ばすという条件で、もう一度、全ページの収集を検討してほしい。
怖かった。この作品と較べたら「ET」も、「未知との遭遇」も、「A.I.」もゴミである。スピルバーグは「ジョーズ」を越える作品をやっと作ったといえる。将来、スピルバーグの名前は「ジョーズ」、「」、「宇宙戦争」の三作品で記憶されることになるだろう。
映画評では人類がなすすべもなく殺されていく点に不満が出ているが、それこそが文明批評家、ウェルズの卓越した点なのである。新訳が出たことだし、この機会に読み直してみようかと思う。
抱腹絶倒。新国立劇場で、こんなに笑いをとった芝居が上演されたのははじめてではないだろうか。
幕が開くと、一階と二階で扉が八もあるセットに、家政婦役の沢田亜矢子が登場し、主人夫婦がスペイン滞在中で、ずっと留守番をしていること、今日の午後は休みをもらったが、外出しないでサッカーの試合を見るつもりだといった事情を問わず語りに説明し、引っこもうとすると、客席の演出家から駄目だしがはいる。その駄目だしが「沢田さん」と、沢田個人を名指したのだ。
実名の効果は大きく、これだけで、舞台ががらっと変わってしまった。
この芝居は「ナッシング・オン」というドタバタ喜劇を演ずる一座を描いたバックステージ物なのだが、役者はすべて実名で登場する。ほとんど下着姿で通すアイドル女優が井川遥、ボケかかった老優が森塚敏、生意気な若手実力派俳優が今井朋彦、おせっかいな中堅女優が山崎美貴、たよりない中年俳優が羽場裕一という、いかにもそれらしい配役である。しかも、女癖の悪い演出家役の白井晃は、この舞台の本当の演出家でもあるのだ。
第一幕は開演前夜のゲネプロだが、18時間後に幕を開けなければならないのに、全然仕上がっていない。劇中劇の「ナッシング・オン」はドアの出入りの行き違いを使った、タイミングが命のドタバタ芝居なので、もうハチャメチャ。
幕間に演出家役の白井が登場し、もう自分の出番はないから、客席の一番いい場所を占めている演出家席に座ってもらってかまわないと客席に呼びかけ、手を上げた人がいると、あれこれからかう。客をいじって笑いをとるという、新劇にあるまじき演出だ。新国立劇場で、こんなことをやっていいのか。
二幕は福岡の中日だが、舞台装置が回り舞台で半回転し、文字通りの「バックステージ」である。ベニヤ板剥きだしで殺風景だが、舞台裏の人間関係はそれ以上に殺伐としていて、スタッフまで含めて、ややこしいことになっている。出番がないはずの白井は、東京に帰ると駄々をこねる井川のご機嫌をとるためにあらわれるが、白井と関係のあるスタッフの女の子(谷村実紀)がそれに嫉妬すし、いよいよ収拾がつかなくなる。舞台装置の裏側で、劇中劇が進行しているというのも妙なものである
三幕は千秋楽。人間関係は完全に壊れ、舞台の上にプライベートな喧嘩をもちこむようになっており、それでも芝居をつづけるために、代役や代役の代役が出てきて、舞台は大混乱。
昔、民藝がイタリアのドタバタ喜劇を上演して、笑いころげたことがあった。真面目な新劇俳優がドタバタをやると、本当におもしろい。
生誕百年を記念した新文芸座の成瀬巳喜男特集で見る。
林芙美子の『放浪記』の三回目の映画化だが、クレジットに菊田一夫の名前が出てくる。原作そのままではなく、菊田一夫脚本の舞台の映画化である。だから、芙美子(高峰秀子)のライバルとして、日夏京子(草笛光子)が登場するが、ラストで、下落合の豪邸で睡眠時間を削って原稿を書いている芙美子を訪問し、昔話をするのは京子ではなく、印刷会社の社長になった定岡(加東大介)である。
ニュープリントで、映画館で見ることができたのは幸運だったが、作品としてはヘビーだった。ラスト5分を別にすると、これでもか、これでもかと貧乏話がつづき、気が滅入ってきた。『放浪記』には貧乏に負けない底抜けの明るさと、貧乏ななりに東京生活を楽しむたくましさがあった。森光子の演ずる芙美子にも、天然に近い楽天性があった。しかし、この映画にはあるのは暗さだけだし、高峰秀子の演ずる芙美子はやたら小賢しく、広末涼子がだぶってくる。作品としては優れているのだろうが、好きにはなれない
13日、韓国の鄭東泳統一相は北朝鮮が核廃棄に応ずれば、「見返り」として20万KWの電力を直接送電し、提供すると発表した(MSN)。ライス国務長官は「創造的な提案」と評価し、北朝鮮当局も歓迎しているという。
200万KWというと、現在、北朝鮮国内で発電している電力に匹敵する量だという。これだけの電力を、石油供与ではなく、原子力発電所の建設という形でもなく、電気として直接供給すると、いつでも遮断することができるわけで、北朝鮮は韓国に生殺与奪の権をあたえることになる。これで満足するなら、まずは結構な話といわなくてはならないが、そんなこと、できるのだろうか。
そう疑問に思ったのには理由がある。李佑泓の『暗愚の共和国』によると、北朝鮮は金日成主席の「天才的な考案
」により、「一地域・一発電所」政策をとっており、全国的な送電システムはないはずだからだ。
日本統治時代、総督府は北の山岳地帯に水力発電所を作り、半島全体に送電するシステムを確立していたので、一部がまだ使われているかもしれないが、他のインフラ同様、どうせ更新していないだろう。
しかも、1954年着手の戦後復興3ヶ年計画で、金日成主席は電線の「主体的地下埋設」を命じたが、技術的裏づけがなく、設備が更新されずに放置されているために、李氏の推算によると、総発電電力の7割が漏電で失われているそうである。
いずれにしても、ただ電気を送ればよいわけではなく、北朝鮮の送電システムをゼロから作り直す必要があるのだ。
果たして、韓国では、早速、懸念する声が出てきている。東亞日報の「北朝鮮への送電計画、99年に技術問題で放棄」によると、金大中政権時代に北へ電力を供給する計画が検討されたことがあったが、北の送電・配電設備が老朽化しているために、「南北を一つの電力網で結ぶと、大規模な電気事故が起こりうる
」という危険が指摘され、とりやめになっていたというのである。
元韓電社長の張栄植米ニューヨーク州立大経済学科教授は「kw(電力)とkwh(電力量)も区分できない鄭東泳統一部長官が、北朝鮮と専門的な内容について協議し、性急に発表した
」と懸念を表明したとのこと。
李氏によれば、北朝鮮には6千ボルト程度の送電線しかないという。全国的な送電システムを作るとなれば、外国の企業が北朝鮮内部にはいって、測量をし、工事をするしかないだろう。アメリカが韓国のトンデモ提案を歓迎したのは、そこまで見越してのことかもしれない。
新文芸座の成瀬巳喜男特集。今日は山田五十鈴主演の芸道もの二本立て。
第一回直木賞を受賞した川口松太郎の人情噺の映画化。新派の演目として有名だが、まだ舞台は見ていない。
兄妹同然に育った新内語りの鶴次郎(長谷川一夫)と、三味線弾きの鶴八(山田五十鈴)のコンビは20代で有楽座名人会に出演するほどの人気だったが、なまじ引かれあっているだけに、喧嘩が絶えない。有楽座の支配人(大川平八郎)は番頭(マネージャー)の佐平(藤原釜足)と一計を案じ、二人を慰労と称して温泉に招待する。二人は互いの思いを告白しあい、自分たちの寄席をもてたら結婚しようということになる。
話はとんとん拍子に進み、新聞に婚約を発表して、鶴賀亭のこけら落としも間近に迫るが、先代からの後援者で、一度は鶴八にプロポーズした竹野が出資していたとわかり、鶴次郎は臍を曲げ、結婚も寄席をもつ話もすべて白紙にもどる。愛想をつかした鶴八は竹野と結婚するが、一人になった鶴次郎は人気が急落し、場末や田舎の寄席を転々として身を持ち崩していく。
鶴次郎の才能を惜しんだ佐平は、有楽座の支配人と鶴八に頼みこみ、鶴八鶴次郎のコンビを復活させて、有楽座名人会に出演させる。公演は成功し、鶴八は大店の若奥様の地位を捨ててでも、もう一度芸の世界にもどろうと言いだすが、人気のなくなった芸人の悲哀を思い知った鶴次郎は、鶴八の将来を考え、あえて理不尽な喧嘩を吹っかけて仲たがいする。
若い日の山田五十鈴の映画をはじめて見たが、上村松園の美人画から抜けだしてきたような美貌と気品、そして演技力にただただ見とれた。当時、21才だったというが、この落ち着きと貫禄は何なのだ。三味線はわからないが、あの若さで清元の師匠だったというから、腕も確かなのだろう。
鶴八と鶴次郎の言い争いが江戸弁で小気味いい。特に鶴八のタンカがかっこいい。山田五十鈴は江戸文化のエッセンスを受けついでいるのだ。藤原の番頭も飄々として、いい味を出している。
作品自体すばらしかったが、昭和初年の名人が出演して芸を披露しており、昔の寄席の雰囲気を味わえたのも収穫だ。背広を着た、しゃべくり漫才風の二人組も画面の隅にいたが、明治の終わりから大正の初めという設定からするとおかしい。
ニュープリントなので、輪郭がしっかりしていて見やすいが、パチパチノイズは若干残っている。
泉鏡花の映画化。古いプリントなので、見にくい。
若宗匠として期待されている恩地喜多八(花柳章太郎)は、叔父の源三郎(大矢市次郎)と鼓方の辺見雪叟(伊志井寛)の三人で古市に逗留するが、土地の按摩で、謡曲自慢の宗山(村田正雄)より劣るといわれる。喜多八は宗山を訪ねていき、一曲所望するが、合いの手をいれて呼吸を乱してしまう。深く恥じた宗山は首をくくって自死する。養父は田舎師匠相手に大人げないふるまいをした喜多八を咎め、謡曲を禁じて勘当する。
謡を禁じられた喜多八は温泉町を門付けして糊口をしのいでいるが、相棒の次郎蔵(柳永二郎)から、宗山の娘のお袖(山田五十鈴)が継母に置屋に売られ、芸がないので枕芸者にされそうになっていると知らされる。宗山の夢にうなされていた喜多八は身元を隠してお袖に近づき、深夜、松林で姉妹の稽古をつけてやる。
ふたたび伊勢路を訪れた恩地源三郎と辺見雪叟の座敷にたまたまお袖が呼ばれ、仕舞を披露する。舞を見た二人はすぐに喜多八が教えたと見抜き、彼を懐かしんで、舞に謡と鼓をつける。辺見の鼓を聞きつけた喜多八が宿にあらわれ、ハッピーエンド。
原作を読み直してみたが、桑名の一夜にまとめ、しだいに事情が明らかになっていく構成が時間を追った展開に変わっている点を除けば、セリフ一つにいたるまで忠実に映画化している。筋立がわかりやすくなっただけに、御都合主義がいよいよはっきりするが、鏡花の文体に匹敵する強い映像表現で、不自然と感じさせない。お袖が月明かりの松林で舞うシーンは蓮實重
唯一気にいらなかったのは花柳章太郎。歌舞伎役者独特の体臭のようなものが漂っていて、能役者には見えない。
Bunkamuraザ・ミュージアムで「レオノール・フィニ展」を見た。このところ、二つつづけて中味のない展覧会にぶつかったが、これは中味の濃い、見応えのある内容である。
展示は「トリエステから 1925年〜30年代」、「シュルレアリスム 1930年代〜50年代」、「鉱物の時代 1950年代〜60年代」、「エロティシズム 1960年代〜70年代」、「円熟期」、「演劇」の6部で構成し、彼女の全貌を鳥瞰することができた。トリエステ時代の明るく初々しい作品や、「鉱物の時代」の昆虫を思わせるフォルムを描いた作品は、日本ではなじみが薄かったと思う。「シュルレアリスム」までは、大理石の額縁にはいった画がかなりあったのに、「鉱物の時代」になると、木であることを強調した木製の額縁が増え、大理石の質感が画の中に移ったのは興味深い。
肖像画が多いのも、貴重である。フィニというと、猫科の肉食獣の大きく、鋭い眼が思い浮かぶが、肖像画は、どれも寂しげで、憂いをふくんだ眼をしている。ジャン・ジュネの見開かれた、悲しみをたたえた眼はとりわけ記憶に残った。
しかし、一番おもしろいのは、「エロティシズム」と「円熟期」の部である。「エロティシズム」の部は、男の好色な視線を撥ねつけるような力に満ちた女性像のパレードだ。「円熟期」の部になると、一転して、内的なドラマを描いた静謐な作品が増える。どの作品もすばらしく、本当に盛りだくさんで、途中で座りたくなったが、スツールが猫科のフィニにふさわしく、すべて豹柄になっていたのはご愛敬だ。
油彩が彼女の本領だが、「円熟期」の部には映像作品が二点、上映されていたし、「演劇」の部では舞台衣装や装置のデッサンだけでなく、オペラ『タンホイザー』の衣装(どれもスリム!)や、フィニ手作りの仮面の現物も展示されていた。しかも、今回の作品はすべて個人蔵だから、この機会を逃すと、なかなか見ることができないだろう。
Amazonでしらべたところ、現在、入手可能な彼女の画集は、洋書もふくめて一点もない。今回の図録は貴重だ。
蜷川の歌舞伎初演出で評判の舞台である。補助席の出る盛況で、外では幕見の列ができていた。外国人が目につく。
劇場にはいって、まず、時間を確かめた。4時半開演、9時終演で、間に30分と20分の休憩。なんと、いつもと同じスケジュールだ。もろもろのしがらみの結果なのだろうが、「十二夜」で3時間40分引っぱるのかと危惧しながら席に着いた。
定式幕が引かれると、一面の鏡。客席が映っており、提灯がきれいだ。次の瞬間、舞台側の照明がついて、鏡が素通しになり、満開の桜と、その前に立つ三人の童とチェンバロ。どよめきが起こる。蜷川一流のはったりだが、「十二夜」に鏡は不自然ではない。
最初の場面は大篠左大臣(信二郎)邸で、原作通りだが、次の場は紀州沖で、船の舳先に若衆姿の主善之助(菊之助)がりりしく立つ。船橋に引っこむと、すぐに琵琶姫に早変わりして出てくる。これはみごと。セバスチャンとヴァイオラを同じ役者が演じる「十二夜」は、大地真央主演で見たことがあるが、あの時は早変わりに時間がかかり、リズムが乱れた。歌舞伎はこの辺りの仕掛はお手のものである。
大体原作通りに進むが、シェークスピア劇のテンポではなく、歌舞伎のテンポで、まったりしている。ダイアナのような西洋の女神様は「三保の松原に舞い降りた天女」のように置き換えられ、シェイクスピアの大時代的なレトリックは歌舞伎のテンポの中に呑みこまれている。歌舞伎のテンポなので、3時間40分は決して長すぎない。小田島訳の駄洒落がそのまま出てくるところがあるが、これはいただけない。
琵琶姫は男装し、獅子丸と名乗って大篠左大臣に仕えるが、男に化けた女を女形が演じるという趣向が、この舞台の一番の見どころだ。果たして菊之助の獅子丸はすばらしい。妖しい美しさはもちろんだが、思わず女形の発声にもどるところが笑わせる。シェークスピアの時代、この役は少年俳優が演じていたわけだが、少年俳優ではこんな芸当はできなかったろう。二幕冒頭の大篠の前で、浄瑠璃仕立てで舞を披露する場面は、この芝居の最大の見せ場だった。若衆姿の女舞はなんともなまめかしい。シェークスピアがこれを見たら、ため息をもらしただろう。
「十二夜」のもう一つの柱はマルヴォーリオいじめだが、これが冴えない。マルヴォーリオにあたる丸尾坊太夫には菊五郎を配しているが、なぜかフェステにあたる捨助との二役なのだ。フェステが博士に扮してマルヴォーリオをいたぶる場面は、庵五郎が大僧正に扮して坊太夫をいたぶるように書き換えられているために、全然見せ場になっていない。この場面だけではなく、坊太夫をいじめる場面はどれもあっさりしていて、生彩がない。
その代わり、サー・アンドリューにあたる英竹(松緑)をいじめる場面が増やされている。松緑の阿呆ぶりは堂にいっていて、柄が大きいというか、カラッとしているので、こころおきなく笑える。松緑はもうけ役である。
しかし、いくら英竹の場面で笑いをとっても、後半の見せ場が失速してしまったことは否めない。これは半分以上、脚色の責任だと思う。脚色を担当したのは歌舞伎座の座付き作者だというから、大音羽屋に遠慮して英竹いじめに振り替えてしまい、そうなると菊五郎の影が薄くなるので、捨助を兼ねさせるという小細工に出たということではないか。菊五郎が徹底的にいじめられていたら、もう一回り大きな舞台になっていただろう。それができてこそ、蜷川演出と言えるはずだ。蜷川はこんな台本で妥協すべきではなかった。
不満はあるが、大団円の幸福感はまさに「十二夜」だった。歌舞伎は一つ、財産を増やしたことになる。
三越本店で「ジャン・コクトー展」を見た。あまり評判になっていなかったが、思いがけず充実した内容で、見てよかったと思った。
今回、展示されたコレクションは、高級宝飾時計のCorum Sarl社のオーナーであるサヴァリン・ワンダーマン氏の所蔵品で、狭い意味での美術品だけでなく、スナップ写真、ジュエリー、友人の画家たちが描いたコクトーの肖像、オペラの舞台衣装まで、見境なしに集めてある。ワンダーマン氏の会社が一品製作した、コクトーをイメージした腕時計までならべてあるのはご愛敬だが、ジャンルの枠を飛び越えて活躍したコクトーの全貌をみわたすには、マニアのイカモノ食い的コレクションが案外有効である。
驚いたのは、堀口大學の所蔵本がまとめて展示されていたことだ。コクトーは1936年に『80日間世界一周』を再現する旅行をくわだて、日本に1週間滞在するが(滞在の模様は西川正也『コクトー、1936年の日本を歩く』に書かれているという)、その際、コクトーの作品を訳していた堀口大學が各地を案内した。コクトーは堀口のもてなしに感激し、Nicoという愛称で呼んで、サインやスケッチを書きこんだ自著を贈った。その本がそっくりサヴァリン・コレクションにはいっていたのである。若き日の堀口の横顔のスケッチもあって実に興味深いが、日本とコクトーの関係を物語るこういう第一級の資料がアメリカに流出したのは残念である。
予告編では、家族に引きとられた精神病患者を精神科医が連れもどしに出かける話と紹介されていたので、封切では見なかった。名画座に落ちてきたので、期待せずに見たが、トンデモ映画というほどではなく、意外に良くできていていた。
ヒロインのコーラ(ブシェーズ)は精神科医だが、身元不明で、一言も喋らないロア(ヨンスドッティル)という中年の女性患者が気になり、自分の担当にする。森に連れだしたり、自宅に連れてきたりして、ロアが心を開く兆候が見えはじめるが、そこでロアの身元が判明し、アイスランドの家族の元に引きとられてしまう。
治療を中断されたコーラは、ロアの家のあるアイスランドの離れ小島に衝動的に出かけてしまう。島には精神科の医師はいないので、治療をつづけるためにフランスの病院にもどすようにロアの夫に勧めるが、拒否される。
なんの準備もせずに冬のアイスランドに来たので、コーラはすぐに帰国するつもりだったが、海が荒れてアイスランド本島にもどれなくなり、体調を崩して島の医師宅に世話になる。島に留まらざるをえなくなったコーラはロアを理解しようと努力するが、結局、ロアは心を開かず、コーラは島を去っていく。
ロアを演ずるディッダ・ヨンスドッティルはアイスランドを代表する詩人だそうで、ほとんど台詞がないのに、存在感があり、風格を感じさせる。干渉を撥ねつけるような凄涼たる風景の中で、人格崩壊していくディッダは痛ましい。