エディトリアル   April 2007

加藤弘一 Mar 2007までのエディトリアル
May 2007からのエディトリアル
Mar04

 テレビ朝日の「素敵な宇宙船地球号」の「日本ふしぎ”音”紀行」で、欧米人や中国人、韓国人は虫の鳴き声や川のせせらぎ、風音などの自然音を右脳で処理するのに体し、日本人は言語と同じ左脳で処理するという首都大学東京大学院の菊池吉晃氏の説を紹介していた。

 日本人は虫の音のような自然音に情緒を感じるが、欧米人や中国人、韓国人は耳障りな雑音としか感じないのは脳の処理過程に原因があるというわけだ。こうした違いが生まれたのは、日本語が音素がすくなく、母音が重要な弁別機能をもつために、日本語で育った人間は母音を左脳で処理するからなのだという。菊池氏は母音と子音を聞いた時の日本人と日本人以外の脳の反応の違いをPETの画像で示していた。

 若い人は知らないだろうが(Wikipediaには載っていない)、これ、角田理論そのままではないか。

 角田理論とは1980年代に東京医科歯科大の角田忠信氏が母音と子音の聞きわけ実験を根拠に提唱した説で、上記の菊池説とほぼ同様の内容だった。1978年に『日本人の脳』という本を出したことからブームになり、専門書であるにもかかわらずベストセラーになった。しかし、肝腎の実験の再現性が悪く、角田研究室以外ではことごとく結果がえられなかったために、トンデモ科学扱いされ、忘れられていった。

 菊池氏は東京医科歯科大の出身のようだから、角田氏の弟子かもしれない。PETのような最新の脳計測技術を使って、師の理論を甦らせたということか。

 意外なことに『日本人の脳』と、一般向けに書き直した『脳の発見』が今でも入手可能である。おもしろい本なので、興味のある人はぜひ読んでほしい。

「蒼き狼 地果て海尽きるまで」

 森村誠一の『地果て海尽きるまで』の映画化。森村の小説は大ハーン即位後にも分量をさいているらしいが、映画は即位までを中心にしている。血の正統性に悩むテムジンが自己証明のために戦いを繰りかえすというストーリーは井上靖の『蒼き狼』そのままだ。クレジットには井上靖の名前も出てきたら、両方を原作としているのだろう。

 見ている間はおもしろかった。人間ドラマを細かい筆づかいで描いていて、一瞬も飽きさせない。さすが澤井信一郎だと思った。

 しかし、見終わって暫くすると、チマチマした映画だなという印象が勝ってくる。戦闘場面や大群衆を動員した即位場面までチマチマした印象なのだ。おもしろくはあるが、スケール感に乏しい。

 役者はみな好演しているが、母親ホエルン役の若村麻由美と、女戦士クラン役のARAがよかった。澤井信一郎は女性を描くのがうまい。

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Mar05

 TBSが昨年につづいて「古代発掘ミステリー 秘境アマゾン巨大文明」を放映した。

 アマゾン巨大文明とはアマゾン上流域のモホス平原に残る遺構群を指す。モホス平原は雨期に水没するために現在は放牧しかおこなわれていないが、ここに直径数十メートルから数百メートルのロマと呼ばれるマウンドと、マウンドを縦横に結ぶ直線の道路網、二つ一組の長方形の池、6メートル間隔の畝等々が夥しく発見されたのである。マウンドと道路と畝の最上部は雨期の最大水位より高く作られており、計画的な農業がおこなわれていたと見られている。詳しくは実松克義氏の『衝撃の古代アマゾン文明―第五の大河文明が世界史を書きかえる』を参照。

 昨年の番組は実松氏の本を実際の映像で確認したもので、それはそれで実に興味深かった。実松氏の本は掲載されている写真が不鮮明な上に、紹介されているのは現地の郷土史家の研究ばかりで、内容が内容だけに、どこまで信憑性があるのか、迷う部分があった。番組ではロマや道路、畝の実物を間近に映し、飛行機からまっすぐに伸びる直線の道路網を鳥瞰して見せてくれた。あの本は本当だったのかと、鳥肌が立つ思いだった。

 今回の第二弾ではロマの一つからドイツの調査隊が発掘した二体の人骨と副葬品を紹介していた。

 一体の方は長身で額と両耳に銅板の飾り、ジャガーの牙と翡翠のビーズを連ねた首飾をつけていたので、貴人と見られている。幼年期には栄養状態がよかったが、眼窩の縁に微小な凹みができていることから、成年に達してからたびたび飢餓状態を経験したようだ(宗教的な断食の可能性がある)。奥歯がすり減っていることから、緊張してたびたび歯を食いしばっていたらしい。シャーマンか族長か、責任のある立場にいたのだろう。

 もう一体は短身で、便宜的に「番人」と呼ばれている。

 DNA鑑定から二体ともモンゴロイドであることが確認されている。貴人の方は特異な塩基配列をしていたが(特別な家系だったのだろうか)、「番人」の方はアイヌ人など東北アジアの少数民族とよく似た配列だったそうである。

 古代農法についても、タロペというホテイアオイのような水草を肥料に使っていたなど、かなり研究が進んでいるようだった。

 モホス平原に文明があったのは間違いない。次回が楽しみだ。

「さくらん」

 安野モヨコのマンガを蜷川実花監督で映画化。菅野美穂の絢爛たる花魁道中ではじまり、廓の舞台裏に移って遊女たちの日常生活をクローズアップする。実花監督には不本意かもしれないが、蜷川幸雄ファンとしてはどうしても「近松心中物語」を思い出してしまう。「近松」の二幕目に禿かむろが毬をついている場面があったが、廓は遊女の生活の場でもあるのだ。

 蜷川幸雄の方は最近は枯淡の境地だが、実花監督の方は全盛期の蜷川マジックをしのぐ派手さで押しまくる。椎名林檎の音楽はゴージャスですばらしい。

 映像美では満腹したが、映画としては欠点がある。ストーリーテリングが弱いのだ。ストーリーの吸引力はないわけではないが、何度か途絶えてしまう。カメラマン出身やCM出身の監督の第一作でよく見られる欠点だが、実花監督も同じ轍にはまってしまった。豪華キャストをそろえているだけに、もったいない。

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Mar06

 韓国で人名用漢字が113字追加され、計5151字になったそうだ(朝鮮日報)。人名用漢字のリストはpdfで公開されているが、文字ではなく画像データである。

 今回の追加分に「苺」や「澪」がはいっているのは日本の騒動の余波か。「昭」がはいっているのでおやと思ったが、そう言えばこの字は、日本でも元号が「昭和」に決まるまではめったに使われない字だったと読んだ記憶がある。「眀」は「明」の異体字だろう。

 制度の違いなのだろうが、最高裁判所が命名に使ってよい字を決め、命名にあたっての注意事項まで発表ている。そういうことは行政の仕事だと思うが、韓国の三権分立はどうなっているのだろう。

 命名の注意事項も日本とはかなり違う。氏を除いた名前を五字以内としているのは御愛嬌として、人名用漢字にない文字を使って出生届を出したら受理されないはずが、万一、受理されても「後で公務員が職権で名前をハングルに修正し、届け人に通知する」とある。公教育から漢字を締めだした期間が長かったので、窓口の職員が漢字をよく知らないということなのかもしれない。

 漢字とハングルを混淆を禁止しているのは、漢字ハングル交じり文ではなく、ハングル専用を選んだことと関係しているのだろうか。

 前から不思議に思っているのだが、大韓帝国の時点では漢字ハングル交じり文を選び、日本統治時代も漢字ハングル交じり文を教育していたのに、なぜハングル専用になってしまったのだろうか。このあたりの経緯を書いている本があったら教えてほしい。

「カンバセーションズ」

 ひねりの効いた水際だった映画だ。結婚式で出会った女(ヘレナ・ボナム・カーター)と男(アーロン・エッカート)の話。前半は結婚パーティの会場で、人はたくさんいるが、ほとんど二人の会話で進んでいく。後半は女が自分の部屋に男を誘う。女と男、それぞれに電話がかかってきて中断するものの、やはりほとんど二人の会話だけで進む。

 この映画はもっぱら左脳で見るようにできている。画面は左右に分割され、大半の時間、語りあう二人の表情をそれぞれクローズアップするが、時に片方の画面が過去に飛んだり、説明的な映像を映したりする。見ている方は視線を左右に忙しく動かして、二人の表情の変化を追わなければならず、感情移入している暇がない。

 ストーリーの上でも、いたるところに伏線が張りめぐらしてあって、油断も隙もならない。女は新婦の介添え役を勤めるが、式の三日前に急に電話がかかってきた、最初予定していた介添え役の都合が悪くなって、ピンチヒッターに選ばれたのだろうなどという。新婦とは深いつきあいではないと繰りかえすが、既婚者であることがわかってくる。既婚者をわざわざ介添え役にするなんておかしい。

 おかしいといえば、男が新婦の兄だということを黙っていたのもおかしいし、大学時代からの知りあいだという事実が途中から出てくるのも変だ。そもそもこの二人、いつ、どこで、どのように知りあったのか……。

 この映画は異化効果のかたまりであって、左脳をフル回転させながら見なくてはならない。半分を過ぎたあたりで、ほろ苦い真相が明らかになる。結末は大人の結末である。

 女を演じるヘレナ・ボナム・カーターの表情がゆたかで、いくら見ていても飽きない。この人には本物の知性を感じる。

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Mar09

「善き人のためのソナタ」

 統一後のドイツで長らくタブーとなっていた旧東ドイツのシュタージ(国家保安省)の内情を暴いたはじめての映画だそうだが、まだストレートには描けないらしく、「グッバイ、レーニン!」ばりの奇想天外なフィクションがくわえられている。

 ベルリンの壁が崩壊する5年前、シュタージの筋金入りの局員、ヴィースラー(ウルリッヒ・ミューエ)は文化大臣じきじきのお声がかりで、国際的な名声を博する劇作家ドライマン(セバスチャン・コッホ)の監視を命じられる。留守中にチームで乗りこんで盗聴器をしかけ、屋根裏部屋を基地に24時間監視をはじめる。隣家の主婦に作業を目撃されるが、彼女の家族関係はとっくに調べていて、脅して口封じする。実にリアル。

 ドライマンは女優のクリスタ(マルティナ・ゲデック)と同棲していて、激しい夜の営みもすべて筒抜けだ。ヴィースラーと交代で盗聴する局員は、これだから芸術家の盗聴は牧師の盗聴よりもおもしろいなどという。

 ヴィースラーはクリスタが文化大臣に言い寄られている事実をつかみ、ドライマン監視の真の目的に気づく。文化大臣はクリスタを自分のものにするためにドライマンをおとしいれようとしていたのだ。社会主義体制を信じていたヴィースラーの信念に揺らぎが生ずる。彼は盗聴をつづけるうちに、ドライマンに感化されていく。

 ドライマンは当局と妥協しながら演劇活動をつづけていたが、干されていた先輩演出家が自殺したことから体制批判に踏み切る。

 東ドイツの作家の使うタイプライターはすべて当局が把握しているので(!)、ドライマンの協力者は西ベルリンから携帯用タイプライターを持ちこむ。ドライマンはそのタイプライターで東ドイツの自殺率が異常に高いことを暴露した文章をシュピーゲル誌に匿名で執筆する。

 シュタージはあわてて犯人探しをはじめる。シュピーゲル誌の印刷所から原稿のコピーを入手するが、未登録のタイプライターが使われていたので誰かわからない。体制に疑いを持ちはじめたヴィースラーはドライマンが執筆したことを知っていたが、かえって庇う行動に出る。

 後半はドライマンを庇いとおそうとするヴィースラーとシュタージ当局の息もつかせぬ攻防で、なまじのサスペンス映画よりはらはらする。「グッバイ、レーニン!」は竜頭蛇尾だったが、こちらは最後の最後までおもしろい。

 恐ろしいのはこれだけの戦いが繰りひろげられていたのに、ドライマンは自分が監視されていたことも、クリスタの悲劇の真相もまったく知らなかったことだ。

 ベルリンの壁崩壊後、ドライマンは元文化大臣から自分が監視されていた事実を知らされる。彼は旧シュタージの記録保管所で自分の盗聴記録を閲覧して愕然とし、ヴィースラーの存在をはじめて知る。結末はずしりと重い。

 一歩間違えれば「グッバイ、レーニン!」のような荒唐無稽な話になりかねないが、ヴィースラー役のミューエは内面の葛藤をうかがわせない鋼鉄のような無表情でリアリティを維持した。要となるクリスタ役のマルティナ・ゲデックは「マーサの幸せレシピ」の凛とした女性シェフとは打って変わったセクシーな美女役で、文化大臣が夢中になるのはわかる。

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Mar14

「コペンハーゲン」

 2001年に初演され大評判をとった舞台の再演で、今回はじめて見る。ボーア役が江守徹から村井国夫に交代したが、ボーア夫人マルグレーテ(新井純)とハイゼンベルク(今井朋彦)、演出(鵜山仁)は同じ。戯曲のマイケル・フレインは「うら騒ぎ/ノイゼズ・オフ」と「デモクラシー」の作者で、たまたまどちらも見ている。

 1941年3月、ハイゼンベルクがボーアに会うためにドイツ軍占領下のコペンハーゲンを訪れた「謎の一日」をテーマにしている。舞台は円形で、周囲にはリング状の張りだしがとりまき、原子模型をかたどっている。舞台は下手手前にやや傾き、三脚の椅子がおかれている。

 幕はなく、暗転後、幽冥界のボーア夫妻が椅子に座り、ハイゼンベルクはなぜ来たのかと話しあっている。ハイゼンベルクのボーア訪問は謎とされているが、ボーア夫妻もよくわからなくなっているのだ。当のハイゼンベルクはリングの上をゆっくり歩みながら、ボーア家に接近していく。

 ハイゼンベルクはボーアとの交友を『部分と全体』で回顧しているが、この芝居で描かれる二人の師弟関係はずっと生臭い。はじめてボーアに面会したハイゼンベルクは敗戦国からきた一介の留学生にすぎなかったが、1941年の彼はドイツ第三帝国を代表する科学者で、ユダヤの血を引くために事実上の公職追放にあっているボーアとは力関係が逆転している。マルガレーテはハイゼンベルクは自分の出世を見せびらかしに来たのだと容赦ないが、ボーアはどっしり構えていて、下世話な評判などどこ吹く風だ。

 ハイゼンベルクがボーア邸に到着すると、ボーアとハイゼンベルクの対話が中心になり、そこにマルガレーテが時々つっこみをいれる。ハイゼンベルクの不確定性原理の発見からボーアの相補性原理の提唱まで、1926年から翌年にかけての量子力学の疾風怒濤時代が熱っぽく回想されるが、マルガレーテは二人の研究は別個になされたもので、世にいうような師弟の共同研究ではなかったと水を差す。男二人はまさかという顔をするが、記憶がもどるにつれ、師弟のライバル関係が表に出てくる。

 ユダヤ人問題も避けて通れない。量子力学の建設に貢献した理論物理学者の多くはユダヤ系で、ボーア以外、ほとんどがアメリカに亡命していたが、ユダヤ人が多かったのは理論物理学が二流の学問と見なされていたからだという。

 ハイゼンベルクはユダヤ人に同情を寄せるドイツ大使館の書記官をボーアに紹介するが、この書記官はデンマークでユダヤ人の強制収容がはじまるという情報をいちはやく流し、集団脱出に道を開いた。ボーアがアメリカに亡命できたのも彼のおかげだ。

 さて、この劇の核心はナチスの原爆開発である。「謎の一日」が問題になるのも、原爆開発の指導者だったハイゼンベルクがボーアに協力を要請したのではないかという疑惑が背景にあるからだ。

 だが、ここで意外な秘話が明らかにされる。ハイゼンベルクはウラン235は3トン以上ないと連鎖反応を起こさないと思いこみ、そのためにナチスは比較的簡単に作れるはずのウラン型核爆弾の開発を放棄し、プルトニウム型に注力したというのだ。ボーアはハイゼンベルクになぜ中性子の拡散係数を計算しなかったのか、計算が君のモットーだったじゃないかと問いつめる。ハイゼンベルクはうっかり無理だと思いこんでいたとお茶を濁す。これは重大問題だ。もしハイゼンベルクが計算していたら、ナチスは原爆開発に成功していたかもしれないからだ。

(この芝居ではハイゼンベルクの立場は曖昧にされているが、『なぜナチスは原爆製造に失敗したか』ではハイゼンベルクは意図的に原爆開発をサボタージュしたとしている。真相はどうだったのか)。

 中味の濃い芝居だったが、台詞のトチリが多く興をそいだ(特に新井純)。

 村井の泰然自若としたボーアは適役だと思うが、やや一本調子の気味がある。初演の江守だとどうなったのだろう。小細工しすぎの江守にはあの貫禄は出せないと思うが、一癖あるボーアだと、まったく別の芝居になっていた可能性がある。

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Mar17

「DEATH NOTE デスノート」&「DEATH NOTE デスノート the Last name」

 昨年最大の話題作だが、確かに面白い。冒頭の渋谷の場面のつかみから一気に世界に引きこまれた。アイデアが面白いだけでなく、脚本と演出が水際だっている。

 死神のリュークのCGが安っぽいし、らいとと対決する L もいかにもマンガ的と思ったが、見ていくうちに安っぽくマンガ的でなければならないとわかってきた。この話は一歩間違えれば『罪と罰』ばりの大文学になってしまうが、大文学にしないためにはマンガ性にとどまる必要があるのだ。ストーリー展開がゲームに徹しているのも正解だ。

 第一部の最後で大技を使ってしまい、第二部が心配だったが、新キャラクターと新死神を登場させて、みごとに一歩先に進めた。プロの仕事である。

 エンターテイメントではあるが、意外に後に残る。文学すれすれを狙ったのが成功している。

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Mar19

「それでもボクはやってない」

 面白かった。後味はよくないが、この映画は満員電車に乗る人も乗らない人も見ておいた方がいい。今の世の中、いつなんどき刑事被告人にされてしまうかわかったものではないからだ。

 いったん刑事被告人になるとどうなるか? この映画の主人公のように、まったくの異次元世界に放りこまれるのである。刑事被告人の世界にはいたるところ罠がしかけられており、この映画を見ていたかどうかで、その後の展開はかなり変わってくるだろう。伊丹十三と比較する人がいるが、「お葬式」と違って、この映画は実際に役に立つと思う。

 お勉強映画的な部分がかなりあるが、手練の技を駆使してわかりやすく解説してあるので、わからないということはないし、退屈することもない。退屈するどころか、一瞬も気が抜けなくて、見終わると溜息が出てくる。

 映画館のロビーにはTシャツとかステッカーなどのグッズがならべられているものだが、なんと『事実認定の適正化』という専門書が置いてあった。シナリオ本もハードな作りである。

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Mar20

「ブルーストッキングの女たち」

 20年前の初演に感動し、期待をもって見たが、ひどかった。一本調子の絶叫芝居で、木村演出の衰えが著しい。

 初演は伊藤野枝を石田エリ、最初の夫の辻潤を江藤潤、二番目の夫の大杉栄を清水紘冶、周囲を新劇のベテラン女優陣が支えるという配役だったが、今回は伊藤野枝を純名りさ、辻を中村彰男、大杉を上杉祥三、青鞜社のメンバーはかとうかずこ、加藤忍、佐古真弓という混成部隊。

 初演ではリンゴのようなほっぺの山出しの伊藤野枝が都会に出てきて、どんどん洗練されていくという描き方をしていたが、今回の野枝は最初から垢抜けている。史実的には今回の方が正しいだろうが(野枝は東京の高等女学校に遊学し、辻との恋愛事件で郷里にもどされ、それから再度上京している)、東京と地方の圧倒的な格差が見えにくくなったと思う。

 しかし、それは大した問題ではない。問題は辻と大杉である。両方ともやたら陽気で騒がしい。初演の江藤の辻潤は寡黙で、生きていること自体が申し訳なさそうだった。あの辻潤なら虚無僧になって放浪するのも不思議ではないが、今回の中村の辻潤は妙にハイテンションで、虚無僧には不似合いだ。上杉の大杉栄はもっとまずい。劇中で荒畑寒村がキザなセリフの似合う男と評したが、肝腎のキザなセリフが似合わないのである。辻も大杉も暗さが吹き飛んでしまっている。

 青鞜社の女たちも一本調子の絶叫芝居におちいっている。平塚らいてうは世間知らずのお嬢様でなければならないが、かとうかずこがやるとしっかり者に見えてしまう。純名りさはよくやっているが、テンションが高くなると宝塚調になる。

Mar21

「紙屋悦子の青春」

 「静かな演劇」を代表する松田正隆の戯曲の映画化で、松田自身の母親をモデルに戦中の青春を描いている。松田は黒木和雄の「TOMORROW/明日」に触発されてこの芝居を書いたが、黒木はこの芝居に注目して「美しい夏キリシマ」の脚本を松田に依頼したという。黒木はいよいよ「紙屋悦子の青春」を映画化したが、はからずも遺作になった。

 元の芝居は福田善之演出の舞台を見ているが、「静かな演劇」とは正反対の騒がしい演出で台無しになっていた。この戯曲はもっと面白くなるはずだと思っていたが、映画によって期待通りの上演を見ることができた。

 映画は舞台を現代の病院の屋上と戦時中の紙屋家の二つにしぼり、長回しで撮影するなど、映画らしさをみずから封印しているが、それが成功して演劇的な拡がりを生みだしている。静謐で質素な紙屋家の外側では確かに硝煙が立ちこめているのだし、見合いをした初々しい男女と病院の屋上で気遣いあう老夫婦の間には確かに40年以上の戦後の時間が流れているのだ。

 配役がすばらしい。悦子に原田知代、兄に小林薫、嫂に本上まなみ、悦子が思いを寄せる明石少尉に松岡俊介、明石の親友で悦子と結婚することになる永与少尉に永瀬正敏。

 原田知代は老けが不自然ではない年齢になっていた。戦時中の場ではさすがにアップは苦しいが、8歳年下の本上まなみと同級生という設定も異和感はなく、二十代前半に見える。なにより張りつめた清潔感が好もしい。こういう清潔感は宮﨑あおいには無理である。

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「待合室」

 富司純子と寺島しのぶの母娘共演で話題になった映画である。岩手県小繋駅前の酒屋のオバサンと、悩みをかかえた旅人たちが待合室に置かれたノートを通して心を通わせあうという実話もので、いかにもベタなエピソードがつづくが、意外にも面白かった。富司純子がすばらしいのである。

 和代(寺島/富司)は遠野で看護婦をしていたが、小学校の教師を辞めて小繋駅前の酒屋を継いだ志郎(ダンカン)のもとに嫁いでくる。夫は集団就職した教え子の手紙に丁寧に返事を書いて出すような律儀な男で、店は繁盛し、娘が産まれ、すべてうまくいくかに思われた。だが、小学校にいくまでに育った娘は川で水死し、夫にも先立たれ、和代は一人で酒屋を守らなければならなくなる。

 和代は旅人がノートに書き残したメッセージに返事を書きこむのが生き甲斐になっていく。彼女が面倒をみた旅人は彼女を慕って小繋駅にもどってくるようになるが、ある冬、ノートが待合室からすべて消えてしまったのだ。

 犯人はすぐにわかった。近所の高校生の晶子の弟が、晶子に代わって謝りに来たのだ。晶子は高校を卒業したら上京して絵を勉強したがっていたが、親に反対され、町を出られなくなってしまった。晶子から見れば和代の返事はきれいごとにすぎなかった。弟からノートの行方を聞かれた晶子は燃やしてしまったと答える。

 ノートが燃やされたことを知った和代は晶子を責めるでなく、やさしい言葉をかけてやったが、本心では落胆し、半ば店をたたむつもりで遠野で一人暮らしする母のもとを訪ねた。和代は本当に店をたたんでしまうのかが最後の見せ場になる。

 やや舌足らずではあるが、押しつけがましくない演出が成功している。

 富司純子はあくまで控えめな演技しかしていないが、それでも存在感が圧倒的だ。色香がまったく衰えていないのもみごと。気の毒なのは寺島しのぶで、女っぷりでも、存在感でも母親に到底およばない。

 脇を固める役者が皆好もしい。濃い面々が揃っているが、主演の富司が控えめなので、皆くどい芝居はせず、淡々と演じている。実直な夫を演じたダンカン、自分が癌であることを知っている老人を演じた斉藤洋介、その妻の秋竹城、ルポライター役の市川実和子、みな記憶に残る。

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Mar23

「るにん」

 團紀彦という作家の『るにんせん』の映画化で、奥田瑛二監督初の時代劇。

 八丈島は伊豆七島の中でも、他の六島と黒潮(黒瀬川)に隔てられているので絶海の孤島とされ、江戸時代は重罪人の流刑地となった。最初は関ケ原で敗れた宇喜多秀家の一党や幕府に弾圧された不受不施派など政治犯や思想犯が流されたが、後半になると死一等を減じられた刑事犯が送られた。この映画は天保年間に実際に起きた二件の島抜け事件をモデルにしており、中心になった吉原女郎の豊菊(松坂慶子)と花鳥(麻里也)の名前と境遇はそのまま物語に取りいれられている。

 映画は「ぶっころがし」と呼ばれる死刑の場面からはじまる。囚人を球形の竹籠の中に押しこめ、真っ青な海へつづく断崖を転がり落とすのだ。

 囚人を密告したのは豊菊だった。豊菊は吉原の女郎だったが、火付で死罪になるところを15歳だったので島送りになり、以来26年間、流人や島役人に体を売って暮らしてきた。赦免になって江戸に帰ることが彼女の夢で、島役人の稲葉(根津甚八)の甘言にそそのかされて密告を繰りかえしていた。だが、江戸から便船が来ても、赦免の沙汰はなかった。

 その便船には博徒の喜三郎(西島千博)と火付をした吉原女郎の花鳥が乗っていた。喜三郎は体がきかなくなっているのに豊菊を買いに来た破戒僧を背負ってやった縁で豊菊と知りあい、深い仲になっていく。彼はなんとしても江戸に帰りたいという豊菊の願いをかなえてやるために潮目を研究しはじめる。

 花鳥は島の娘のお千代(小沢まゆ)に親切にされ、最初は堅い仕事をしていた。だが、好意をもっていた喜三郎が豊菊のために島抜けの準備をはじめたことを知ると、自分も女郎にもどり、周囲に男を集めて島抜けを画策しはじめる。

 花鳥が島抜けを考えたのにはもう一つ理由があった。恩人のお千代は流人の源蔵と深い仲になり、赦免になったら江戸に連れていってもらえる約束だったが、源蔵の赦免が出産と重なったために島においてきぼりにされたのだ。花鳥は島抜けにお千代も誘う。

 豊菊と花鳥、ふたつの島抜けが首尾よくいくかどうかが後半の山場となる。

 どこまで史実かはわからないが、意外に自由な八丈島の流人社会や島民との関係など、実に興味深い。豊菊の妹分で、男娼をして暮らしをたてているひかる(ひかる)という陰間や、島の地理と歴史を調べている富蔵(島田雅彦!)、ふんだんに仕送りを受けているのか、小判をじゃらじゃらさせた金次郎(奥田瑛二)という流人まで出てくる(すべてモデルがいるらしい)。流人についてもっと知りたくなった。

 松坂慶子も、麻里也も、小沢まゆも、全裸になっての体当たりの熱演である。やや空回り気味といえなくはないが、十分面白かった。この映画はもっと話題になってよい。

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「狼少女」

 昭和レトロの低予算ファンタジー映画。なつかしい時代を描いているだけでなく、作り方自体が教育テレビ的でなつかしい。まったくノーマークだったが、傑作に近い。こういう作品に出会えるから、二本立てはありがたい。

 舞台は昭和末年の関東地方の田舎町(ロケは水海道市)。大田明(鈴木達也)は不思議な物が大好きな小学四年生で、新聞記者の父親(利重剛)と専業主婦の母親(大塚寧々)との三人暮らし。同じクラスには家が貧しく、新聞配達をして家計を助けている小室秀子(増田怜奈)がいる。秀子は身なりがみすぼらしく、髪がぼさぼさなのでイジメにあっている。

 ある日、神社に見世物小屋がやってくる。ろくろ首とか狼少女といった一昔前の出し物だが(念のために書いておくが、いくら昭和でも、こういう人権無視の見世物はなかった)、明は狼少女が気になってならなかったが、先生(馬渕英里何)や親から禁止されているので、見にいくことができない。

 そこへ手塚留美子(大野真緒)が転校してくる。留美子は勉強もできればスポーツも得意、洋服もいかにも高級品で都会的。正義感も強く行動的というスーパー美少女。なぜか明は留美子に気にいられ、いじめられている秀子を二人で庇うようになる。

 留美子はいじめっ子を懲らしめるために大胆な行動をとり、明は振りまわされる羽目に。同じ頃、明の母親は編物教室の講師をはじめ、夫婦喧嘩が絶えなくなる。明は両親は離婚してしまうのではないかと、気が気でならない。

 いかにも頭の中でこしらえた設定で、この後、予想通りの展開をするが、子役がすばらしいので(特に大野真緒は最強の美少女)、最後まで引きこまれた。

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Mar27

「タイヨウのうた」

 沢尻エリカ主演のTV版はちらと見て引いてしまったが、映画版は悪くない。原作はコミックで、ありがちな難病物ではあるが、主演のYUIが奇跡的によいのだ。

 YUIは美貌ではなく、ぼそぼそ呟くような喋り方だが、雨音薫という役にはあっている。脇を固める塚本高史、岸谷五朗、麻木久仁子といった面々が頼りない主役を支えることに徹しているのも好感がもてる。岸谷の不良っぽい父親は印象に残る。

 泣きそうな顔で歌う劇中歌「Good-bye days」はいいが、シンガーソングライターがおちいりがちのワンパターンをどう脱するかが歌手として大成するかどうかの別れ道だろう。

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「夜のピクニック」

 恩田陸の小説の映画化。

 直球勝負の青春映画で、ちょっと応対に困る。感動する人は感動するだろうが。

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Mar28

「蟲師」

 漆原友紀の漫画を大友克洋が実写で映画化した注目の作品。映像は黒澤映画級に格調高く、最初の場面は堂々たる押しだしだが、緊張感がつづかない。設定の説明が下手なので、あっちの方で勝手にごちゃごちゃやっているようにしか見えない。大変な予算をつぎこんだだろうに、監督の力不足につきる。

 役者はみな力を発揮できていないが、唯一、蒼井優に凄みがあった。江角マキコのぬいはミスキャストだと思う。彼女に超自然の役は無理。

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Mar29

「愛されるために、ここにいる」

 傑作。明らかに「Shall We ダンス?」のパクリだが、一捻りも二捻りもしてあり、ほろ苦いフランス恋愛映画になっている。邦題は「愛されるために、ここにいる」だが、原題は Je ne suis pas là pour être aimé で、逆の「愛されるためにここにいるのではない」。

 ジャン=クロード(パトリック・シェネ)は離婚して一人暮らしをしている中年男。毎週末、老人ホームの父親(ジョルジュ・ウィルソン)を訪ねるのが習慣になっているが、父親は憎まれ口をきくだけ。父親の跡を継いで執達吏の事務所をやっているが、家賃滞納者の追いたてなど嫌われる仕事ばかりだ。妻についていった観葉植物マニアの息子(シリル・クートン)が事務所を手伝うようになるが、関係がぎこちない。

 鬱々とした日常だが、医者から軽い運動を勧められたのを機に、ジャン=クロードは事務所の向かいのタンゴ教室に入会する。レッスンが終わると、フランソワーズという女性(アンヌ・コンシニ)に自分を覚えているかと声をかけられる。彼女はジャン=クロードの母親がベビーシッターとして世話をしていた女の子だったのだ。

 フランソワーズは同じ学校の教師と婚約しており、結婚式でタンゴを踊るために教室に通っていたが、しつこく言い寄ってくる会員を避けるためにジャン=クロードを盾にする。そういう事情を知らない彼はフランソワーズにしだいに引かれていく。

 フランソワーズの方も微妙だ。婚約者は小説家志望で、結婚式が近いというのに執筆中の小説のことしか考えておらず、自分に関心をもってくれるジャン=クロードに好意をもちはじめていた。

 しかし、破局が訪れる。フランソワーズにつきまとっていた男がジャン=クロードに彼女の結婚のことを教えたのだ。ジャン=クロードは自分は利用されていただけだと思いこみ、タンゴ教室をやめる。フランソワーズは事務所に事情を説明に来るが、それも追い返してしまう。

 フランソワーズはジャン=クロードとのことで婚約者を愛していないと気づき、婚約を破棄し南仏に移住する。それを知ったジャン=クロードは思い切った決断をする……。

 主演の二人がすばらしい。アンヌ・コンシニの控えめでつましい美しさ、パトリック・シェネはオヤジなのにほほえましさ。どちらもフランス人らしくないが、日本映画を意識したせいだろうか。

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「クリムト」

 「見出された時」のラウル・ルイス監督だというので危惧したが、案の定、独りよがりな藝術映画だった。病院で臨終の床にあるクリムト(ジョン・マルコヴィッチ)が過去を回想するという趣向で、時間があちこちに飛び、ドラマがまとまらない。世紀末風俗はよく再現されているが、画面がくっきりしすぎている。クリムトという感じではないと思う。

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