アンソニー・ミンゲラが監督した旧ユーゴ難民もの。
建築家のウィル(ジュード・ロウ)は相棒のサンディ(マーティン・フリーマン)とともにロンドンの下町の再開発事業を請け負い、危険とされるキングス・クロス地区に事務所を開くが、事務所開きをした夜、盗みにはいられパソコンなど備品をごっそり盗まれる。保険で新しい機械をいれるが、すぐにまた盗みにはいられる。
盗んだのは旧ユーゴ難民のグループで、十代で身の軽いミロ(ラフィ・ガヴロン)にガラスの屋根から玄関のパスワードを盗み見させていた。ミロは分け前としてウィルのノート型パソコンをもらうが、家族写真がはいっていたので家族写真をCDに焼き、二度目に盗みにはいった際、ウィルの机に置いていく。
ウィルは三度目を警戒し、サンディとともに事務所を密かに見張る。ミロが屋根によじ登るところを見つけた彼はミロを追跡し、アパートをつきとめるが、家族写真を返してもらったので警察に連絡することは控え、仕立屋をやっている母親のアミラ(ジュリエット・ビノシュ)の客を装って、様子を探ろうとする。アミラは今は貧しいが、教養のあるモスレム人で、サラエボではいい暮らしをしていたらしい。
ここからウィルとアミラの恋愛模様に移るが、リアリティがいよいよなくなっていき、歯の浮くような人権ファンタジーと化していく。クライマックスの法廷場面で、ミロを救うために、ウィルはアミラとの浮気を認める証言をし、妻のリヴ(ロビン・ライト・ペン)も夫の証言を認める。さすがに最後の場面ではリヴは臍を曲げるが。
祖国が平和にもどったのに、なぜ難民が英国にいつづけなければならないのかが描かれていないので、すべて偽善にしか見えない。英国で二級市民として暮らすより、祖国に帰った方が幸せだと思う。
忍者ブームをまきおこした市川雷蔵主演の「忍びの者」シリーズの第一作。
評判は聞いていたが、確かに面白い。石川五右衛門は伊賀の下忍だったが、頭領の百地三太夫(伊藤雄之助)に見こまれ、出世の糸口をつかむ。しかし、百地の若い妻(岸田今日子)の妖しげな色香に迷ったことから、過酷な運命を歩むことになる。クライマックスは織田信長(若山富三郎)の伊賀攻めで、お金のかかってそうなオープンセットを盛大に爆発させている。
原作の村上知義は忍者の世界に階級的視点を導入したことで評価されているらしいが、網野史観に通じる中世自由民の視点も見られる。左翼的味つけといい、ニヒリズムのスパイスといい、1960年代だなあと思った。
気になるのは司馬遼太郎の『梟の城』との関係だ。『梟の城』は1959年発表で、村上の原作よりも早く、この作品に決定的な影響をあたえたと考えていいだろう。忍者小説の研究書なんてないんだろうか。
「忍びの者」シリーズの第二作である。五右衛門は天正伊賀の乱の時点では忍者をやめて山奥に隠棲していたが、その後の残党狩りで子供を殺される。五右衛門は妻のマキ(藤村志保)の里の雑賀に逃げ、信長に復讐を誓う。
石山合戦で敗れた雑賀党は信長(若山富三郎)に一矢を報いようと、明智光秀(山村聰)に謀反を起こさせるように工作し、本能寺の変を誘導することに成功する。雑賀党は明智方につくが、明智は秀吉(東野英治郎)にあっさり敗れ、雑賀は秀吉軍に蹂躙されてマキも殺されてしまう。五右衛門は秀吉暗殺をくわだて聚楽第に潜入するが、失敗して釜茹でにされる。
94分にしては盛りだくさんで、ちょっと食い足りない。第一作の時点ではシリーズ化の予定がなかったのか、五右衛門の人物像からニヒリズムが消えるとか、秀吉が東野に交代するとか、不整合が目立つ。
しかし、そういううるさいことをいう作品ではない。活劇として見れば、十分面白い。
「文芸ホームページ ほら貝」のblog版を開設する(以下、「文芸ホームページ ほら貝」は「ほら貝」本館と呼ぶ)。
「ほら貝」本館では「エディトリアル」を日記的に使ってきたが、映画評や演劇評がたまってしまい、時事的な話題のタイミングを失うことがよくあった。今年も1月後半から遅れはじめ、3月以降、時事的な話題をとりあげることができなくなった。
「ほら貝blog」では時事的な話題を身軽にとりあげていこうと考えている。
映画評や演劇評は翌日までに書けたらこちらに載せるが、間にあわなかったら「ほら貝」本館にのみ載せる形で、blogの速報性をたもっていきたい。
1995年の開設以来、11年半「ほら貝」本館をつづけてきて、いささか飽きてきている面がある。blogという新しいメディアに乗りだすことで、気分を一新できたらと思う。
「ほら貝」本館、「書評空間」分館ともども「ほら貝blog」をご愛読いただきたい。
澁澤龍彥の没後20年を記念して、埼玉県立近代美術館で「澁澤龍彥 幻想美術館」展が開かれている。澁澤というと鎌倉というイメージが強いが、澁澤家は血洗島に本拠をおいた豪商であり、埼玉は本貫の地にあたるのである。
美術館の二階すべてを使って、デューラーやピラネージ、ゴヤのエッチングやアルチンボルドの擬人画、タンギーやデルボー、エルンストのシュルレアリスム絵画など、澁澤の本でおなじみの作品のオリジナルが一堂に集められているのである。さらに澁澤の初版本や直筆原稿、部屋の写真などの資料類も展覧されており、ちゃんと見たら二時間はかかる。
展示は「澁澤龍彥の出発」から「高丘親王の航海」までの七部にわかれ、澁澤の59年の生涯をたどっている。最初の室に『のらくろ』や雑誌「コドモノクニ」をもってきたのは永遠の少年、澁澤龍彥の原点がここにあるという認識を示したものだろう。澁澤ワールドは巨大な子供部屋だといっても間違いではないのだ。
次の室は三島由紀夫の絶賛で異色のフランス文学者として知られるようになった1960年代。翻訳が猥褻にとわれたサド裁判の一方、瀧口修造らシュルレアリストや、舞踏の土方巽との交友がはじまっている。マン・レイの「サド侯爵の架空の肖像」のオリジナルも見ごたえがあるが、そのブロンズ像があったとは知らなかった。
第三室は澁澤の仕事のうち、もっとも影響力が大きかった「もうひとつの西洋美術史」がテーマである。本でいうと『悪魔の中世』、『夢の宇宙誌』、そして記念碑的な「手帖シリーズ」(『黒魔術の手帖』、『秘密結社の手帖』、『毒薬の手帖』)あたりだ。『ダ・ヴィンチ・コード』でテンプル騎士団やグノーシスが一般マスコミをにぎわすようになったが、ヨーロッパの裏思想史は澁澤が1960年代にとっくに紹介していたのだ。
澁澤は1969年にそれまで書物を通してしか知らなかったヨーロッパに長期滞在し、『滞欧日記』にまとめるが、実物を見る前と後では嗜好が微妙に変化・深化している。第四室はヨーロッパ滞在後の1970年代で、本でいうと、『ヨーロッパの乳房』、『幻想の画廊から』、『胡桃の中の世界』、『思考の紋章学』になる。この頃は雑誌連載中や本が出ると同時に読んでいる。どきどきしながらページをめくった興奮を思い出した。
第五室は澁澤に見出された四谷シモン、金子國義、山本六三ら、若い藝術家が中心で、作品的にはこの室が一番見ごたえがあった。文字どおりの三号雑誌となった「血と薔薇」を責任編集したのもこの時期である。「血と薔薇」は三号とももっているはずなのだが、どこへいったか。
第六室は博物誌で、荒俣宏の仕事の源流はここにある。第七室は日本回帰した晩年で、酒井抱一や河鍋暁斎がならんでいる。最近、再評価の著しい伊藤若冲はこの頃はまだほとんど知られていなかったが、澁澤はいちはやく注目していた。先見の明からいって、もっとたくさん展示してもいいと思うが、この展覧会ではあえてモノトーンの「付喪神図」を一点だけ選んでいる。キュレータもかなりの臍曲りのようだ。
最期の室の一番奥に四谷シモンが澁澤を偲んで製作した、まさに飛翔しようとする真っ白な天使が飾られている。咽喉癌と格闘し、声を失ったというと悲惨なようだが、『高丘親王航海記』のような軽みの域に達した洒脱な作品を闘病中に完成させているのである。澁澤龍彥は天使族の一員だという追悼のメッセージかもしれない。
澁澤が愛し紹介した作品をまとめて見て、澁澤美学の一貫性と影響の大きさを再認識した。日本のサブカルチャーは澁澤美学を源泉としているといっても過言ではない。『エヴァンゲリオン』も『攻殻機動隊』も澁澤の影の下にある。
指導的批評家としての小林秀雄の地位を吉本隆明が継ぎ、さらに柄谷行人が継承したという説がある。いや、江藤淳だろうという人もいる。小林は悟性と感性両面の指導者だったのに対し、江藤と吉本は感性の面が縮小し、柄谷にいたっては欠落している。戦後日本の感性の指導者は実は澁澤だったのではないか。そんな感想を持った。
「死ぬまでにしたい10のこと」のイザベル・コイシェ監督がふたたびサラ・ポリーを主役に撮った映画である。
はじまりが謎めいている。英国の紡績工場で思いつめた顔で働くハンナは上司に呼ばれ、無遅刻無欠勤で労働組合から苦情がきているから一ヶ月休暇をとれと厳命される。
上司はハワイの旅行パンフレットを押しつけるが、ハンナは北に向かう長距離バスに乗り、民宿に宿をとる。そして怪しげな日本料理店で看護士を探していると電話する男に自分から声をかけ、油田事故で一時的に視力を失った男を介護するために、北海に浮かぶ掘削櫓にヘリコプターで向かう。この女、看護士だったのか。
そもそもハンナとは何者なのか。白米のご飯と鶏の唐揚げばかり食べているらしく、冷蔵庫の中には鶏の唐揚げしかない。眉間に皺を寄せ、誰とも喋らず、黙々と働く。四角ばった発音からするとドイツか東欧の移民らしいが、喋らないのは移民という理由だけではなさそうだ。
海上の掘削所でも無口で禁欲的な生活スタイルは変わらない。ハンナが看病するのはジョゼフ(ティム・ロビンス)という陽気な大男で、上半身に火傷を負い、角膜が焦げたので二週間、目が見えなくなっている。ジョゼフがいくら冗談を言っても、ハンナはとりあわない。
事故のために採掘は中止され、掘削所には最小限のメンテナンス要員と波を調査している海洋学者しかいない。誰もが嫌がる海上の掘削所に来るくらいだから、みな一癖ありそうだが、ハンナは居心地よさそうだ。
ジョゼフが内地へ運ばれる前夜、ハンナははじめて彼に秘密を明かす。それはさんざん引っぱっただけの重みのある秘密だった。目の見えない相手だからこそ明かせる秘密がある、ということだ。
ジョゼフはハンナの顔を一度も見ずに別れるが、ラストは救いがある。
サラ・ポリーは「死ぬまでにしたい10のこと」につづいて、いい仕事をした。
NHKの「その時歴史が動いた」が「日本ミステリー誕生 」として江戸川乱歩をとりあげた。乱歩はわがワセダ・ミステリ・クラブの創立時の特別顧問である。
特に目新しい話はなかったが、乱歩が「屋根裏の散歩者」を書いた頃住んでいた家が出てきた。乱歩が実際に上ったという屋根裏までカメラがはいっていて、おおっと思った。
ゲストとして森村誠一氏が出演していたが、戦後の乱歩が創作より探偵小説振興に向かい、新人育成や推理作家協会に尽力した理由を、商店街振興に喩えていたのは言い得て妙だった。
小説は個人が孤立して書くものだと思われているが、作家が一人で頑張っても読者は広がらない。商店街のようにさまざまな個性をもった作家がたくさんでてくることで、より多くの読者が集まるというのだ。
エンターテイメントはもちろん、純文学でもそういう面はある。文芸誌は商店街というかショッピング・モール的な役割をはたしている。
書き下ろしでいい作品が出てくれば文芸誌はいらないという人がいるが、そんなことになったら読者は確実に減るだろう。文学に関心を持ちつづけてくれる読者層を維持するためにも、文芸誌は必要なのだ。
NHKの「探検ロマン世界遺産」の「殷墟」を再放送で見た。
甲骨文字をもうちょっと取りあげてほしかったとは思うが、この番組の一番の見どころは羌族の末裔の住む村をカメラにおさめたことだ。あの羌族が現代まで生きのびていたのである。
羌族は史書には野蛮人のように書かれているが、実際は被害者で、殷などは生贄にするために定期的に羌族狩りをおこなっていた。
羌族は中原を追われ、山奥でひっそりと生きのびていた。伝統の白い頭巾をかぶり、太鼓にあわせて民俗舞踊を踊っていたが、ちょっと感動した。
連休前に作りはじめたVista用のパソコンへの移動がやっと完了した。四年ぶりに自作したが、大型ファンが普通になっているとか(大きなファンをゆっくり回した方が静かなのだそうである)、勝手が違う。本当は連休中に終える予定だったが、パーツ輸入代理店のサポートが休んでいて身動きがとれなかった。
わがVista機の構成は次のようなものだ。
CPU | Athlon 64 X2 3800+ |
マザー | M2A-MVP |
メモリ | 1Gx2 |
VGA | GV-RX155256D-RH |
HDD | WD Caviar 500G |
DVDD | Pioneer DVR-A12J-W |
電源 | Skytech SKP-520PC/V |
Cooler | CoolerMaster HyperTX AMD |
ケース | Antec Solo White |
問題はマザーの M2A-MVP とVGAの GV-RX155256D-RH がVista非対応だったことだ。Vista発売後の新製品だったので、うっかりしていた。
付記:「Vista Ready」というシールを貼った M2A-MVPが店頭に並んでいるが、Vista対応のユーティリティはASUSのサイトに出ていないので、多分、BIOSが 0401になっただけだろう。(Jun03 2007)
マザーのユーティリティやドライバは附属のCD-ROMのインストーラーが動かないので、ネットからダウンロードしていれこんだ。BIOSは2007/01/26の 0401版があったので、ユーティリティから更新し、成功というメッセージが出たが、起動時に BIOS Checksum Error という警告が出るようになった。
ASUSのマザーにはファンの回転数を調整するQ-Fanという機能を売物にしていて、静音化の決め手と宣伝しているが、Q-Fanを有効にするとファンが回転しているのに、ファンが停止したので危険という警告が出てしまう。
VGAはドライバとユーティリティがインストールできたものの、ドライバがはいっていないのでユーティリティを強制終了するというメッセージが出たりおかしな動作をし、ついには画面が真っ暗になった。
仕方なくセーフモードで立ちあげ、復元機能で GV-RX155256D-RH のドライバとユーティリティをインストールする前の状態にもどした。Q-Fanも解除した。
連休明けにサポートからメールの返事がきたが、どちらもVista非対応なので、ドライバもユーティリティも使わないでくれというもの。BIOSはVista非対応のユーティリティを使ったことから考えて更新に失敗した可能性が高く、DOSのユーティリティを使って更新し直すようにとのことだった。
今度こそFDDなしの機械にする予定だったのだが、結局、FDDをとりつける破目になってしまった。
Q-Fanはファンの回転数が低いと動いていないと誤認するので、ファンをとりかえるか、Q-Fanを使わないでくれという。
美味しい宣伝文句が書いてあったユーティリティやQ-Fanを全部あきらめたところ、やっと安定した。鍋焼きうどんを注文したのに、かけうどんにされてしまったようで釈然としない。M2Vあたりに交換することも考えたが、Vistaのアクティベーションをした後だったのであきらめた。
XPの場合、最初の一ヶ月はアクティベーションなしでも普通に使うことができたが、Vistaではアクティベーションをしないと、起動するたびに20桁のキーの入力を求められる。20桁も打ちこむのは大変なので、アクティベーションしてしまった。今回は附属機能をあきらめれば動いたからいいが、初期不良だったら面倒くさいことになる。
マザーとVGAはVista非対応を除いても選択を誤った。
M2A-MVPはM2NやM2Vから較べるとマイナーだが、消費電力が一番すくなかったのと、ATIのビデオカードと相性がいいだろうという理由で選んだ。CrossFire対応なのでビデオカードをとりつけるスロットが二つあるが、一枚だけの場合は下のスロットに取りつけなければならないのである。下のスロットにビデオカードをとりつけると、底面との距離が5cmもないので、空気の淀みができてしまう。
VGAの GV-RX155256D-RH はATIのファンレスという理由で選んだ。いかつい放熱器が表側一面を覆って、一見、頼もしげだが、マザーに取りつけると放熱器が下を向いてしまい、空気の淀みを上からおさえこむ形になる。熱源が上にあるのだから、空気の淀みに対流は起らない。
30分ほど動かしてみたが、はたして放熱器はかなり熱くなった。今の季節でこれでは夏場は使えない。3.5インチベイの前面に9cmファンを二個取りつけ、最下段に取りつけていたHDDを最上段に移して、ファンの風が空気の淀みを直撃するようにした。
ケースのSolo Whiteは仕上げがみごとな上に、静音を売りにするだけあって静かだったが、前面ファンを取りつけると音が耳につくようになった。GV-RX155256D-RH を放熱器が上にくる製品にかえれば、前面ファンは一個に減らせるかもしれない。そういう製品はすでにあるが、Vista非対応で懲りているので、安定する秋まで待とうと思う。
静音性をあげるために、ネットで評判のいいオトナシートを貼りこんでみた。オトナシートはブチルゴム系のシートだが、指にはほとんど着かず、臭いもそれほどではない。もともと自動車用に開発されただけに、秋葉原で売っている防音シートの半額である。
Soloの側板と天板の裏側には塩ビ系のシートが貼ってあるが、すきまに片端からオトナシートをはりこんでみた。2枚近く貼ったが、Soloでは効果はよくわからなかった。しかし、余ったシート3枚分を XP機に貼りこんだところ、音がはっきり小さくなった。オトナシートは効果がある。
電源のSkytech SKP-520PC/Vはケーブルが着脱式なのと、40度になるまでファンが回転しないセミファンレスに注目して選んだ。今のところファンが回転することは一度もなく、確かに静かだが、ファンレス機能はいい面ばかりではなかった。今の季節ファンはまったく回転せず、電源の開口部が吸気口になってしまうのだ。電源内が埃だらけになりかねないので、100円ショップで売っているレンジ用フィルターを切って貼りつけた。気休めかもしれないが、どうせ100円である。
いろいろあったが、今のところ安定して動いている。静音性は前面ファンのために今一つだが、これまで使ってきた XP機から較べれば格段に静かだ。XP機を作った頃は静音がブームになっていて、いろいろな説が飛びかっていた。安定して動いてくれていたので、自作の世界がどうなっているのか知らなかったが、淘汰の時期をへて本当に効果のある方式が残ったということだろう。Vistaの感想はまた後日。
ドライデンの同時代人で卑猥な諷刺詩で英文学史に悪名を残す第二代ロチェスター伯、ジョン・ウィルモットの後半生を描いた映画である。表題の「リバティーン」とはリベルタン libertin の英語読みで、ジョンはサド侯爵の大先輩にあたる遊蕩児だった。ジョン役はジョニー・デップで、久々の破滅型を楽しそうに演じている。
ジョンの父親のフィリップ・ウィルモットは清教徒革命時代、チャールズ二世(ジョン・マルコヴィッチ)を命をかけて守った功績で初代ロチェスター伯となる。息子のジョンは18歳から宮廷に出入するようになり、チャールズ二世から文才を愛され、「余の時代のシェイクスピアになれ」と期待されるが、破廉恥事件をたびたび起している。
映画は猥褻な詩を王妃の面前で朗読したかどで追放されていたジョンが恩赦でロンドンにもどってくるところからはじまる。ドライデンをはじめとする友人たちと騒いだ後、芝居小屋にくりだし、客からやじり倒されている新人女優、エリザベス・バリー(サマンサ・モートン)に目をとめる。才能を見ぬいたジョンは劇場に手を回して解雇を撤回させ、演技指導をはじめる。
ここがすごい。当時の女優は娼婦と紙一重だったが、ジョンの申し出を貴族の傲慢さと誤解したエリザベスは激しく抵抗するのだ。ジョンの指導に演技がどんどん変わっていくくだりも見ものだ。この映画はもとはスティーヴン・ジェフリーズの戯曲だったそうだが、映画でこの迫力なら、舞台では鬼気迫る見せ場になっていただろう。
ジョンはチャールズ二世からフランス大使の前で上演する新作を依頼されるが、女優たちが舞台の上で巨大な張形で自慰をはじめたり、全裸の男女が実際の性交をはじめるというとんでもない代物で、あきれた王は舞台にのぼってジョンを叱りつける(こんなこと、本当にあったのだろうか)。
面子をつぶされたジョンは姿をくらまし、イカサマ医者になったりして砲塔三昧の生活を送るが、梅毒の症状が表面化し、顔にゴム腫ができたり、鼻がもげたりする。
最期はさんざん裏切った妻に看とられて33年の生涯を終えるが、ジョンもさることながら、ジョンを生んだ王政復古時代に興味がそそられた。
王政復古時代は清教徒革命の反動で風俗が頽廃したといわれているが、この映画を見ると半端ではない。こんなに面白い時代だったとは知らなかった。
わたしも参加させてもらっている紀伊國屋書店書店が主宰する書評blog「書評空間」がリニューアルした。
書評メンバーが30人と一挙に倍増し、ほぼ毎日投稿がある。リニューアル前は投稿のない日が十日くらいつづくのは珍らしくなかった。内容にくらべてアクセス数が伸び悩んでいたが、投稿が頻繁になれば閲覧者が増えるだろう。
積極的にアピールしているわけではないので気がつかない人が多いと思うが、「書評空間」にはもう一つ重要な変更点がある。文字の大きさが変更できるようになったことである。Ctrlキーを押しながら、マウスのチルト・ホールを手前に回してみてほしい。ほら、字が大きくなっただろう。前はピンの頭のような字だったので、エディタに貼りつけてから読んでいたが、これで普通に読めるようになった。
Webデザイナーには小さい字の方がデザインが美しくなると思いこんでいる人がすくなくない。なぜ字が小さいとデザインが美しくなるのか、わたしには理解できない。百歩ゆずって字が小さい方がデザインが美しくなったとしても(そんなことはないが)、文章が読みにくくなったのでは本末転倒だろう。
以前はblogといえば、字の大きさが絶対指定されていて、ブラウザ側で変更できないところが多かったが、当blogをはじめるにあたり調べたところ、変更できるblogの方が多くなっていた。OCNのように変更できないところもまだまだあるが、読者によってモニタの大きさも解像度もさまざまなのだから、変更できるようにすべきだし、それがHTMLの本来の趣旨だ。CSSをちょっといじればいいのだから、手間はかからないはずである。
国立近代美術館で「靉光」展を見た。日本シュルレアリスムの代表者とされる靉光の生誕百年を記念した展覧会である。習作時代から晩年の上向き加減の自画像まで、120点余が集められている。スケッチブックや書簡、妻となる女性の父親に出した身上書、軍隊で使っていた飯盒まで展示されている。
初期作品はルオーの影響が濃く、くすんだ色調の絵具を厚塗りしている。それがしだいに蛇紋岩のような質感に変わっていき、息苦しいほどの存在感を獲得していく。その頂点に「眼のある風景」がある。
靉光は画家として世に出る前、印刷所で図案工の見習をしていたというだけに、図案風の作品もすくなくない。溶した蠟やクレヨンに岩絵具を混ぜて描いた「ロウ画」と呼ばれる作品は色が平坦に塗られているが、暗いたたずまいは靉光のものだ。
靉光は日本画も描いていた。墨絵が多いが、花や鶏、牛を細密な線で息詰るばかりに描きこんでいる。「二重像」も墨だった。帯の元図が展示されていたが、正絹のぬめっとした地に真紅のまがまがしい鶏頭が屹立していて、こんな帯、誰がしめるんだろうと思った。
戦争がはじまってからのリアリズムに回帰した作品は寡黙で、どれもすばらしかった。シュルレアリスム的な作品が許されなくなったという事情もあろうが、これだけの作品が描けたということは、決して圧力に屈した結果ではないだろう。
ただ、無理矢理成熟させられてしまったという印象もないわけではない。戦病死という最期を知っているせいかもしれないが。
今やすっかり定着した感のある500円DVDだが、ZAKZAKの「追跡」に「500円の夢 〜DVDを取り巻くヒトビト〜」という舞台裏を取材した記事が載っている。
最初に登場するのは版権切れ映画のマスターフィルムを販売している会社社長。500円DVDを出している会社は多いが、マスターフィルムを提供しているところはすくなく、会社はちがっても中味は同じというケースがよくある。
現在、市場に出ている版権切れ映画は250タイトルほどだが、この会社では550タイトルを押さえているという。そろそろ打ち止めかと思ったが、まだまだ出てくるようである。
次に登場するのは500円DVDの草分けの「コスミック出版」。差別化のために、版権切れ作品だけではなく、1980〜90年代のTVムービーやインディーズ作品を買いつけているそうだ。
TVムービーは日本でいえば特番や2時間ドラマにあたるが、すぐれたものは「マザー・テレサ」のように劇場公開されたり、完全板がDVD BOXで発売されている。多分、その下のランクを狙うのだろうが、日本未紹介の名作を発掘してくれるならありがたい。
三番目は「おそ松くん」の1966年版アニメ(モノクロ)を出したスバック。カラー版の方はハピネットから3990円で出ているが、最初にアニメ化された1966年版は500円で出ているのだそうだそうである。もちろん、版権は生きているが、元ビクターの社長が粘り強く交渉して実現したとのこと。これは知らなかった。「ザ・ガードマン」なども500円で出ているらしい。
500円DVDは「DVDファイル」でとりあげたことがある。「禁じられた遊び」は画質音質とも問題なかったし、「ヤングカルソ」のような掘出し物もあった。値段相応のものが多いが、知られざる名作もすくなくない。
広島高裁で光市母子殺害事件の差し戻し審がはじまった。北海道から福岡まで、全国からボランティアで集まった21人の弁護士が安田好弘弁護士を中心に弁護団を結成している。
報道によると、弁護団側は甘え説で犯意を否定しているが、その後がすごい。
被告は、自分が中学1年のときに自殺した母への人恋しさから被害者に抱きついた。甘えてじゃれようとしたので強姦目的ではない。騒がれたために口をふさごうとしたら誤って首を押さえ窒息死させた。死後に遺体を犯した行為は、生をつぎ込み死者を復活させる魔術的な儀式だった。長女は泣きやまないので首にひもをまいてリボンの代わりに蝶々結びにしたら死んでしまった。どちらも殺意はなく、(殺人より罪が軽い)傷害致死罪に当たる。
母恋しさで抱きついたという主張は最高裁の時からだが、今回、なにかのはずみで死んでしまったので、死体に精液を注ぎこみ、甦らせようとしたというストーリーが追加された。
死姦で生き返らせるなんて、山田風太郎をしのぐ。こんなオリジナリティあふれるストーリーを思いつくなんて、すごい才能だ。
誰が思いついたのだろう。F被告ではないと思う。F被告がそう信じて行為におよんだのなら、取調べで供述したか、一審の弁護士に訴えていたはずである。友人あての手紙に書いていてもおかしくない。しかし、そんな話は漏れてきていない。死姦で人を生きかえらせるなんて、心神喪失のかっこうの材料なのに。
多分、安田弁護士の創作ではないか。もしそうなら、安田氏は弁護士をやめて、エログロ作家になった方が世の中のためになる。
1989年製作の赤井英和の主演デビュー作。タイトル戦で脳挫傷を負い、隠退を余儀なくされたボクサーのその後の人生という赤井の人生と重なるストーリーである。
現実の赤井は役者に転進したが、作中の安達はオカマ・バーの経営者の北山(美川憲一)に出資してもらって自分のジムを華々しくオープンさせる。最初はよかったが、ボクシングをあきらめきれない安達は周囲にあたりちらし、研究生に逃げられ、ジムを閉めなければならなくなる。万事休した安達は後足で砂をかけてやめたかつて所属したオンボロジムにもどり、ボクサーとして再起をはかる。
ストーリーは先が読めるが、そんなことはどうでもいい。赤井英和がいいのだ。まだボクサーの顔をしていて、周囲を固めたコテコテの芸人の中では異和感があるが、浮いている印象にはならない。存在感で圧倒しているからだ。
安達をささえるオンボロジムの会長の娘の貴子を演じた相楽晴子と、トレーナーをつとめる元バンタム級チャンピオンの左島の原田芳雄がまた泣かせる。見るべし。
桐野夏生のベストセラー小説の映画化。
定年三年目に夫(寺尾聰)が急死し、取り残された敏子(風吹ジュン)がいやもおうもなく自立するまでを描くオバサン・オデッセイである。
カプセル・ホテルで身の上話を押し売りする老婆(加藤治子)や、その情けない甥(豊川悦司)、一見やさしげな老年プレイボーイ(林隆三)、彼女より年上なのに夫が浮気相手に選んだ初老の女(三田佳子)等々、化物のような人物が次々と登場し、敏子を翻弄する。高校以来のつきあいの同級生(藤田弓子、由紀さおり、今陽子)や、アメリカ帰りの息子(田中哲司)、男と同棲をはじめる娘(常盤貴子)も化物であったことがわかる。
ずっと家庭にいて、世間知らずになっていた敏子はそうした化物たちとぶつかりながら、すこしづつ成長していく。敏子の足どりはあぶなっかしく、はらはらしながら見た。
敏子を演じる風吹ジュンは最初はさえないオバサンだったが、どんどんきれいになっていく。そして、かわいい。風吹ジュンは本当にいい女優になった。
ICPFセミナー「情報アクセシビリティをビジネスチャンスに」を聞いてきた。講師は東洋大の山田肇氏。山田氏は JIS X 8341(高齢者・障害者等配慮設計指針)第一部の主査や、情報アクセシビリティ国際標準化調査研究委員会の委員長をつとめていて、『市民にやさしい自治体ウェブサイト』という著書もある。
アクセシビリティとビジネスチャンスというとりあわせを奇異に感じる人がいるかもしれないが、これにはアメリカのリハビリ法508条がからんでいる。
アメリカは第二次大戦後も継続的に戦争をしてきた。今もイラクでは多くのアメリカ兵が死傷しており、障碍者となって帰国する人がすくなくない。アメリカ政府は傷痍軍人を政府職員として雇用しているが、リハビリ法508条は公共調達品に障碍者対応を義務づけた法律で、もし役所が障碍者に使えないFAXや電話機、パソコンなどを購入したら、購入担当の役人が訴えられるという厳しい内容だ。
公共調達はどの国でもGDPの10%前後あり、無視できない市場である。508条が施行された2001年当時は、日本では508条を非関税障壁と見る向きが多かったが、障碍者対応は日本企業の得意技の活かせる分野であることがわかってきた。障碍者対応は高齢者対応と重なる部分が大きいからだ。
もともと日本の消費者は世界一うるさく、メーカーは消費者の重箱の隅をつつくような要求に応えてきた伝統がある。裕福な高齢者が多く、高付加価値の高齢者向け商品の市場がある上に、欧米と違って企業のトップが老人ばかりなので、高齢者向けの企画が通りやすい(これが意外に大きいらしい)。
経済産業省もそれを理解していて、山田氏は経済産業省の支援のもとに、JIS X 8341をベースにしたアクセシビリティの国際規格 IS 9241-20 制定に動いてきたという。
国際規格制定の舞台裏は文字コードの取材である程度知識があるので、実におもしろく聞いた。文字コードでは日本は後手後手にまわり、失地回復に十年以上かかったが、アクセシビリティではしたたかに立ちまわって、アメリカ包囲網を作りあげていた。日本もやるものである。
残念なのは、日本の高齢者・障害者向け技術が世界で待望されているのに、企業の側はわかっていないこと。たとえば、高齢者向け携帯電話の「らくらくフォン」。欧米のアクセシビリティの関係者はみな「らくらくフォン」の機能に驚嘆し、早く輸出してほしいと言っているそうだが、富士通にそれを伝えても、第二世代携帯電話で敗れた後遺症からか、海外に出す気がない。山田氏は「らくらくフォン」のよさは通信方式とは無関係なので、海外でヒットするのは間違いないのにと嘆いていた。
新国立劇場中劇場でジョン・ケアード演出「夏の夜の夢」を見た。
回り舞台を三等分し、一つを昼のアテネ、もう一つを夜の森に仕立てている。昼のアテネは真っ白な壁の宮殿に、ギリシャ風の破風のついた玄関が二つならんでいる。夜の森は二層構造で、鉄製の螺旋階段三つで上と下を結び、針金のごちゃごちゃしたオブジェで森の奥深さをあらわしている。三つ目の部分は最後のお楽しみ。
昼の支配者(アテネの公爵とアマゾンの女王)と夜の支配者(オーベロンとタイターニア)を同一の俳優に演じさせるおなじみの演出で、今回は公爵・オーベロンに村井国夫、アマゾンの女王・タイターニアに麻実れいを配している。
公爵は謹厳だが、オーベロンはネクタイを緩めて不良っぽいサングラスを決め、いかにもワルである。麻実れいも清楚なアマゾンの女王から、あだっぽいタイターニアに変身する。他の妖精と同じく、背中にかわいらしい蜜蜂の翅をつけている。この二人は貫禄たっぷりで、四人の恋人たちを完全に食っている。四人の恋人たちのドタバタは普通におもしろいが、特にいうことはない。
台詞をノーカットで使っているらしく、若い役者は持てあまし気味だ。松岡和子訳は軽快だが、ノーカットは苦しい。夜の場面は動きが派手なのでスピード感でカバーしているが、昼の場面はかなりもたつく。職人たちのピラマス劇ももっさりしすぎで、あまり笑えなかった。初日のせいかもしれないが、リズムに乗れていないのだ。
さて、回り舞台の最後の部分だが、カーテンコールで明らかになる。パックの最後の口上の通り、舞台裏を見せるのだ。ある程度は予想していたが、華麗なアテネの宮殿の裏側がベニヤ板剥きだして出てくるのはインパクトがある。昼が象徴界、夜が想像界なら、カーテンコールは現実界ということになるのか。理屈はいくらでもつけられる。
カーテンコールの最後におまけがあった。オーベロンを演じた村井国夫が本当の妖精の王を紹介しますといって、ジョン・ケアードを舞台に呼び上げたのだ。
ケアードは客席から振付の広崎うらん(金髪!)と翻訳の松岡和子を引きつれてあらわれ、舞台に上がって堂々の挨拶。初日で得をした。