日華事変前夜の上海を舞台に、亡命ロシア人貴族の未亡人と、テロで盲目となった元アメリカ外交官の恋を描いた大ロマン。クライマックスの日本軍総攻撃のくだりはアイボリー監督らしくない大仕掛けなスペクタクルになっている。カズオ・イシグロのオリジナル脚本で、イシグロの祖父は当時の上海で商社マンとして活躍していたとのこと。
ジャクソン(レイフ・ファインズ)は中国に赴任したやり手の外交官だったが、暴動で妻を失い、テロに巻きこまれて娘と視力を失っている。彼はそれでも中国に残り、アメリカ企業の顧問をつづけながら、理想のナイトクラブを開こうという夢をあたためている。
ソフィア・ベリンスカヤ(ナターシャ・リチャードソン)は夫の家族とともに亡命してきて上海の貧しい地区で一人娘のカティアを育てている。夫が亡くなったので、場末のダンスホールでステッキガールとして働いて一家の暮らしを支えているが、夫の家族は水商売に身を落とした嫁を蔑み、カティアに悪影響があるからと仲を裂こうとしている。
ジャクソンはダンスホールでチンピラに襲われそうになるが、ソフィアに救われる。ジャクソンはソフィアの声に惚れこみ、彼女を女主人にすえてナイトクラブ White Conuntess(白い伯爵夫人)を開店する。
White Conuntessは謎の日本人、マツダ(真田広之)の協力で繁盛するが、日本軍侵攻の噂が広がり、租界は不安に包まれる。ソフィアの義父はロシア時代のつてで香港に脱出する算段を整えるが、費用はソフィアに頼るしかない。ソフィアは大金を用意するが、上海を出る直前になって家名を傷つけた嫁は連れていくわけにはいかないと言いわたされる。ソフィアは娘から引き離されてしまうのか。
前半は場末の怪しげな雰囲気が出ていて悪くなかったが、後半がいただけない。ソフィアは White Countessの中心で輝いていなければならないのに、店での彼女は影が薄いのだ。あれでは魔都上海が泣く。マツダもスーパーマンすぎて、いかにも便宜的に作った人物という印象である。
アイボリーもイシグロも無理をしている。慣れないことはしない方がいい。
英国上流階級にあこがれ、まんまと成りあがった青年を通して上流階級のお粗末さを描いた映画。いかにもウッディ・アレンらしく、皮肉がきいている。
クリス(ジョナサン・リス・マイヤーズ)はアイルランド人のプロテニス・プレイヤーだったが、才能に見切りをつけ、高級テニスクラブのコーチに転進する。上流階級の娘とねんごろになって出世しようという計画で、『罪と罰』の入門書を読んでにわか勉強したりするが、はたして名家の息子のトム(マシュー・グード)と知りあい、彼の妹のクロエ(エミリー・モーティマー)をたらしこんで婿におさまる。
トムはアメリカから来た女優志望のノラ(スカーレット・ヨハンソン)とつきあっていたが、クリスはノラに一目惚れする。ノラは女優として芽が出ず、トムからも捨てられ、ブティックで働くようになる。クリスはノラと深い関係になるが、ノラが妊娠したことから万事休し、ノラの殺害を計画する。
こういう話だと主人公が破滅するのがお決まりだが、裏をかいてハッピーエンドにしたところが最大の皮肉だ。英国上流階級にはクリスのような男がごろごろいると言わんばかりだ。
はじめての英国ロケのせいか、ウッディ・アレンにしてはぎこちなく、見ていて楽しくない。スカーレット・ヨハンソンは美しいが、危険な色気が不足している。次回作に期待といったところ。
筒井康隆の長編ハチャメチャ小説のアニメ化だが、あまり筒井康隆らしくない。「千年女優」の今敏監督だからか、出だしは「千年女優」そっくりだ。絵柄も似ている。
「千年女優」はなぜ評価されるのか理解できなかったが、「パプリカ」も同じだ。ヒロインのパプリカ=千葉敦子のアニメ声には不快感をおぼえた。
「千年女優」にはまだオリジナリティがあったが、「パプリカ」はどこかで見たようなモチーフだらけだ。妄想のパレードは「イノセンス」だし、怪物化する理事長は「童夢」だ。こういうのは「引用」とはいわない。
筒井康隆のジュブナイル小説のアニメ化だが、傑作といっていい。
時代は現代に移していて、原田知代版の続篇という位置づけらしいが、ほとんどオリジナルといっていい。おなじみの理科準備室も出てくるが、時間移動の方法は異なり、原作へのオマージュにとどまる。
ストーリーはオリジナルだが、時間移動を思春期の少女の心に揺れにからめた作品の核心はおさえていて、まぎれもなく今日版「時をかける少女」になっている。
この作品はこれからも時代の変わり目ごとに映像化されていくのだろう。
昨年10月亡くなった木下順二の追悼公演である。演目に選ばれたのは「沖縄」だが、もともと上演の準備が進められていて、結果的に追悼公演になったということらしい。
敗戦から15年後の沖縄の離島。地元有力者の息子で、那覇の大学に遊学している朝元(境賢一)が友人を連れて島にもどってきている。太陽の下、男女三人で浜辺でくったくなく遊ぶ場面につづいて、舞台は洞窟の中に転じ、
武吉は本土の人間だったが、沖縄戦後も島にとどまり、島の女と結婚していた。武吉は目立たぬように暮らしていたが、手紙には何か秘密の計画が書かれているらしく、人が変わったように尊大な口調になっている。
島には米軍が新しい施設を作るために土地収用の話がもちあがっていた。青年団は反対運動をはじめようとしていたが、動きが鈍い。武吉は本土の大手製糖会社の友人とはかり、島に工場を誘致することによって土地収容を阻止しようと思いつく。武吉は日本兵として沖縄の住民を虐殺した罪悪感から人目を忍んで生きてきたが、本土資本の進出計画に急に元気づいた。
絶対反対の青年団、米軍利権に目のくらんだ村長派、本土資本進出に暗躍する武吉という三者三様の思惑の中で、年一回の祭りがはじまる。武吉はツカサの血を引く秀を使って一芝居打とうとするが、事態は思わぬ方向に転がっていく。
沖縄に対する贖罪意識で書かれた戯曲だが、米軍進出を阻止するためには本土資本と結びつかなくてはならないというジレンマがしかけられており、単純な左翼演劇ではない。ツカサの神事に注目したのも、1963年の初演時点では画期的だったろう。
しかし、物狂いした秀が武吉を転落死させるという結末はとってつけたようだ。殺人にしてはあまりにあっけなく軽い。殺人を本土人に対する沖縄人の復讐と意味づけ、肯定しているように聞こえる台詞を秀に語らせているが、それにしてはリアリティがない。収拾のつかない問題をかかえこんでしまい、図式に逃げたように感じた。
1995年まで白塗り、白いドレスで伊勢崎町の街頭に立ちつづけた老娼婦を追ったドキュメンタリー映画。
「ハマのメリー」と呼ばれ、都市伝説の一部になっていたお婆さんだが、芝居の目利きで、メリーさんが見に来た芝居は当たるというジンクスが劇場関係者の間にあったそうだ。自筆の手紙が映しだされたが、なかなかの達筆で、文面からするとちゃんと教育を受けた人のようだ。
白粉を売っていた薬局や通っていた美容室、衣装を預っていたクリーニング店、寝場所にするのを黙認していたビル、天敵関係の飲み屋の仲居など、メリーさんと交流のあった街の人が登場し、横浜の戦後史や自分史をメリーさんに託して語っている。メリーさんが姿を消したあたりから横浜の街は大きく変わったそうで、メリーさんの行きつけの店は廃業したり、移転したところが多いらしい。
圧巻はゲイ・バーの経営者で、シャンソン歌手でもある永登元次郎氏。撮影時点では末期癌だったが、普通に歌っていて、余命を宣告されている人にはとても見えない。メリーさんとはリサイタルに招待したのがきっかけでつきあいがはじまった。永登氏の母親は敗戦直後、売春をして家計を支えていたが、その母親をパンパンとなじり、家を飛びだしたことを悔いていて、母親に対して詫びるような気持ちで、メリーさんに経済的援助をしていたという。
敗戦直後は横須賀にいて、米軍将校専門だった。当時から白いドレスで「皇后」と呼ばれていたとか。1950年代の終わりに横浜に移ってきてからは、白粉を厚塗した異相で有名になり、「ハマのメリー」になった。
横浜に来てからのメリーさんは落ち目で、最後の数年間はホームレス状態だった。エイズ騒動の頃、行きつけの美容院は他の客からの苦情でとうとう来店を断らざるをえなくなる。そして、メリーさんは横浜から姿を消す。
最後、すごいサプライズがある。一応、ハッピーエンドといっていいのだろう。素顔のメリーさんは整った顔立ちで、若い頃は美人だったろう。
東京外語大アジア・アフリカ言語文化研究所で「好奇字展」を見てきた。
「好奇字展」とはもちろん康煕字典の語呂合せで、2002年にインド文字、2004年にアラビア文字を紹介しているが、今回は中国周辺の文字がテーマで、西夏文字やモンゴル文字、契丹文字、女真文字、ハングル、トンパ文字、水文、彝文、そして日本の仮名をとりあげていた。
アジア・アフリカ言語文化研究所の所蔵品と所員が現地調査のおりに私的に購入してきた物が中心で、最近の印刷物や写真が多い。水文を入れた熱帯魚の水槽(水族館だそうだ)や西夏文字のマニ車など、今回のために手作りしたオブジェもあった(西夏文字のマニ車は現実には存在しない)。あっと驚く展示品はなかったが、高校の文化祭のようなアットホームな雰囲気で、居心地がよかった。
最終日のせいか、展示責任者の所員が詰めていて、懇切に解説してくれた。マニ車の中を見せてもらったが、本当に巻紙の経文がはいっていた。写真を撮らせてもらったが、ネットで公開しないという条件なので載せることはできない。
山本一力の芥川賞受賞作の映画化。
原作は感動的な話らしいが、映画はそこそこおもしろかったものの、感動するところまでいかなかった。
退屈なので余計なことを考えた。京都から出てきた豆腐職人の永吉(内野聖陽)は相州屋の親子二代にわたって恩を受け、そのおかげで成功することができたが、相州屋に不幸が起らなかったら、成功はおろか、深川に根を下ろすことさえできなかったのではないか。江戸という既得権絶対のゼロサム社会では、どこかが没落して空きができないと、新参者が成功することはないのではないか。そう考えると、江戸時代は息苦しい。
夢枕莫の大河伝奇ロマンの映画化。
ちゃちな特撮を寒いギャグでごまかそうとしたゴミ映画。「おもしろければそれでいい!」がキャッチフレーズだが、おもしろくもなんともない。
1921年の英国・アイルランド条約前後の話である。アイルランド独立運動の激化で英国は英連邦内の自由国として自治を認めるという妥協案を出すが、アイルランド側は完全独立を目指す反条約派と、妥協やむなしとする条約派に分裂し、昨日まで同志だった者どうしが殺しあう内戦に発展する。1937年の独立宣言で一応の決着がつくが、その後も北アイルランドをめぐって最近までテロがつづいていたのはご存知の通りだ。
同じ時期を描いた作品としてはニール・ジョーダン監督の「マイケル・コリンズ」がある。テロの指導者から現実路線に転じ、結局、反条約派のテロに倒れたコリンズを演ずるリーアム・ニーソンの火を吐くような演説は迫力だし、映画としてもおもしろかったが、反条約派のデ・ファレラを因循姑息な悪役にしたてており、アイルランドの複雑な歴史を単純化しすぎているのではないかという疑いが残った。
「麦の穂をゆらす風」は「マイケル・コリンズ」とは正反対の映画である。反条約派の若者を主人公にしていることもあるが、「マイケル・コリンズ」がシン・フェイン党上層部のどろどろした権力抗争を描いたのに対し、中央の決定に振りまわされる地方の草の根組織に焦点をあわせているのだ。「麦の穂をゆらす風」は「マイケル・コリンズ」では愚直な将棋の歩あつかいされていた末端活動家の視点から描いた1921年なのである。
主人公のデミアン(キリアン・マーフィ)はコーク州に住む医学生で、ロンドンの病院に実習にいくことになっていた。シン・フェイン党の活動家である兄のテディ(ポードリック・ディレーニー)から独立運動に医者が必要だと誘われるが、デミアンは抵抗は無意味だと英軍の暴虐を見てみぬふりをしていた。だが、ロンドンに出発する日、兵士を列車に乗せろと要求する英軍将校に対し、規則を盾に駅員が抵抗し、駅員が殴り倒されると車掌が、車掌が殴り倒されると運転士が抵抗して、ついにあきらめさせる場面を目撃する。デミアンは医師となる道を捨ててアイルランド共和軍(IRA)に入隊し、地下活動にはいる。
地下活動はきれいごとではすまない。コリンズのテロ路線にしたがって英軍兵士を酒場で襲い、英国べったりの地主を血祭りにあげる。秘密をもらした幼なじみを自分の手で処刑する苦悩も味わう。
英国との戦いの中で、早くも路線対立がはじまる。IRA支配地域では人民法廷が開かれるが、貧乏人に有利な判決をくだす共和派に対し、軍の指揮官であるテディは軍資金を提供してくれる金持ちを敵に回すことはできないと、共和派に圧力をかける。
1921年7月、英国は停戦を提案し、コリンズらシン・フェイン党の代表団がロンドンに向かう。12月、英連邦内での自治と北アイルランドの分離をさだめた条約案をもって代表団が帰国する。共和派をはじめとするシン・フェイン党の大多数は条約に反対するが、国民投票では条約派が僅差で勝利する。
条約に反対する活動家はIRAを離れ、ついに内戦がはじまる。デミアンは反条約派だが、テディはIRAの幹部であり条約派だ。ラストは悲劇的だ。
この映画はコーク州に話を限定しているので、なぜコリンズが不利な条約をのまざるをえなかったのかがわからないし、英国の植民地支配の悪辣さは「マイケル・コリンズ」の方がうまく描かれている。二つの作品は期せずして補完的な関係にある。ぜひ両作品を見てほしい。
それにしても、英国のアイルランド支配は腹黒く、えげつない。日本の朝鮮統治なんて、あれにくらべたら子供だましだ。
エルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチという三大監督によるオムニバスで、舞台となるのはインスブルックからローマに向かう国際列車だ。
第一話はオルミ監督で、飛行機が欠航したために列車でローマに帰ることになった老教授の話。顧問をやっている会社の秘書が切符を届けてくれるが、車室で一人になった彼は秘書に初恋の人を重ねて感慨にふける。
第二話はキアロスタミ監督で、わがままな将軍未亡人と、彼女につきそう若者の話。フィリポと呼び捨てにしているので、息子のように見えるが、実は兵役期間中の青年で、将軍の一周忌の式典のために未亡人のお守りを命じられていたのだ。フィリポは愛想をつかして姿をくらまし、未亡人は目的地の駅に一人で降りて途方にくれる。
第三話はケン・ローチ監督で、ローマの試合を見にゆくフーリガンの三人組と、第一話と第二話にちらちら顔を出していた難民一家の話。三人ははじめての外国旅行で舞いあがっているが、一人が切符をなくしていたことがわかり大騒ぎ。ぎりぎりの金しかもってきていないので不足分を払うことができず、ローマに着いたら警察に引きわたすと通告される。切羽詰まって、食堂車で談笑した難民の少年が盗ったのではないかと気がつき、難民一家を詰問すると、はたしてその通りだった。一家はアルバニア難民で、切符を買う金がなかったのだと懇願する。フーリガンの青年は切符を難民にあたえることにするが……。
鼻つまみのフーリガンが最後にいいところを見せて終わるので後味はいいが、小品の寄せあつめという印象は残る。
山崎豊子の船場ものの小説を市川崑が市川雷蔵主演で映画化。新文芸座の市川雷蔵特集で見る。
老舗足袋問屋の主人の女性遍歴を描いた作品だけに、若尾文子、京マチ子、越路吹雪、草笛光子、中村玉緒と大女優がならぶ。さらに、母親に山田五十鈴、祖母に毛利菊枝、女中に北林谷栄。風俗喜劇の傑作であり、日本映画黄金時代の凄さに嘆息した。
喜久治は船場の老舗に多い女系家族に久々に生まれた男の跡取で、乳母日傘で育てられる。成金の娘(中村玉緒)と結婚するが、男の子が生まれると、祖母と母はここぞと嫁をいびり出す。喜久治は以後、嫁姑の争いに懲りて正妻をおかず、妾を五人つくる。
妾にもやかましい作法があるのが船場の旧家で、市川崑のドライな演出が冴えに冴え、最初から最後まで笑いどおし。女たちがものすごすぎて、喜久治は義務感で遊んでいるとしか見えない。
やがて戦争。空襲で大阪は灰燼に帰し、焼け残った土蔵に喜久治が世話した女たちが集まってくる。これでは仕事にならないので、河内の菩提寺に女たちを預ける。一年後、喜久治は寺を訪れ、女たちが仲良く風呂にはいっているのを見て忽然と悟るところがあり、女遊びを卒業する。
卒業したといっても、喜久治はその後二度目の妻をむかえ、その妻の法事が物語の額縁になっている。男はなんと哀しい生き物か。
三島由紀夫の「代表作を市川崑が市川雷蔵酒宴で映画化。傑作といわれているが、どこがいいのか。
市川崑だからしょうがないのかもしれないが、原作のメタフィジックな部分をばっさり削り、単なる心理劇にしてしまっている。吃音という障害をもった青年の転落物語で、ただ重苦しいだけだ。父代わりと慕っていた老師(中村鴈治郎)に見捨てられた憂さ晴らしに、国宝を燃やしてしまったとしか見えない。
禅寺の内情を描いた部分はさすがにおもしろく、鴈治郎が貫禄を見せるが、風俗劇としての面白さにとどまる。山崎豊子をみごとに映画化できる監督に三島由紀夫は合わない。