『群像』11月号が「知られざるウラジーミル・ナボコフ」と題してナボコフを特集している。遺言通り焼却するか出版するかで話題になった遺作長編 "The Original of Laura" の刊行にあわせたものだが、文芸誌とは思えない充実ぶりで、現在進行中の遺稿の編纂状況など最新情報を知ることができた。
まず、内容を紹介しよう。
ナボコフ 「ナスターシャ」 沼野充義 「ナスターシャ」解題 ブライアン・ボイド 「ナボコフの遺産」 秋草俊一郎 「ナボコフの遺産」解説 若島正 「「私」の消し方」
「ナターシャ」は1924年に書かれた最初期の短編で、生前活字になることはなかったが、ボイドの決定版伝記『ナボコフ伝』で梗概が紹介されていた(上巻289ページ)。
病床の父親を看護する娘が隣室に住む若い亡命者に誘われ、息抜きにピクニックに出る。家にもどる途中、新聞スタンドで病床のはずの父と出くわし、財布を忘れたのでとってきてくれといわれびっくりする。家にもどってみると父は亡くなっていた。
要するに幽霊話だが、情感あふれるいい短編だし、しかも "The Original of Laura" のテーマともかかわってくるらしいのである。
没後32年にしてなぜ遺稿の出版があいつぐのかという事情はボイド氏の「ナボコフの遺産」を読むとわかる。『ロリータ』で成功したナボコフはモントルーのパレス・ホテルでホテル暮らしをしていたが、スイートルームを五つも借りていて、そのうちの一室をまるまる資料庫にしていた。ナボコフ没後も資料庫はそのままにされていた。博士論文を書き終えたばかりのボイド氏がヴェーラ夫人に見こまれ、資料の整理にあたることになったが、総重量一トンを越える分量だという。
ボイド氏の努力で詩、戯曲、小説、講義録、翻訳、鱗翅学の論文、書簡が目録化されていったが、ナボコフは自作の翻訳に細かくチェックをいれる人だったので、ヴェーラ夫人の生前はヴェーラ夫人が、夫人の没後は子息のドミトリイ氏が校訂作業にあたったために出版が遅々として進まなかった。ところがドミトリイ氏は70歳を過ぎて終わりを意識するようになり、ここにきて手綱をゆるめたということのようである。
名著の誉れ高い『ロシア文学講義』はなくなったと思われていた講義草稿が見つかり、倍以上の長さに増補されて出るようだ。ナボコフはトルストイしか評価していなかったわけではなく、マイナーな作家まで広くとりあげており、ナボコフ=高踏的というイメージが変わるという。『ヨーロッパ文学講義』も増えるらしい。
「ナボコフの遺産」で注目したいのはナボコフの「異界」というか、霊の世界への関心を特筆していることだ。『青白い炎』にもそうした関心は狂人の戯言として出てきたが、実は本気だったのかもしれない。
最後の若島正氏の「「私」の消し方」は "The Original of Laura" 論だが、この遺作、『透明な対象』と対になる作品らしい。そしてここでも「異界」がかかわってくるのである。注意深い読者ならとうに気づいていたのかもしれないが、ナボコフは意外にオカルトの人だったようである。
「書評空間」事務局から読者からわたしの本の選定が偏っているとか、特別なキャンペーンをやらせているのではないかという苦情が来ているので、本の選び方を考慮しろという趣旨のメールをいただいた。
まず、選書が偏っているという指摘であるが、「書評空間一覧」を御覧になればわかるように、2005年に「書評空間」に参加させていただいた時点から偏っているのである。月ごとにテーマを決めて感想を書くスタイルをまる四年つづけているのに、何を今さらと当惑した。
テーマ方式は本サイトの「読書ファイル」で1998年からはじめている。本を単独に読むより、同一テーマの本をまとめて読んだ方が理解が深まるし、個々の本の価値について適切な判断がしやすい。読者にとっても複数の本を比較できた方が有益なはずである。
「読書ファイル」の場合、複数月にまたがって同じテーマの本をとりあげることがあったが、「書評空間」では月ごとにテーマを区切っている。これはページ構成の違いによる。「読書ファイル」は数ヶ月分を一ページとしているので、月がまたがってもそのまま読み進めることができるが、「書評空間」は月別なので月ごとに完結させる必要がある。「書評空間」右欄下の「月別アーカイブ」の2008年2月をクリックするとインフルエンザ関係の本の感想が、2007年10月では村上春樹論の感想がまとめて出てくるという具合である。
わたしは一ページに関連する作品の感想をまとめて載せる方式をできるだけとりたいと考えている。クリックしてリンク先に飛ぶ方式だと、知名度の低い作品の感想を読む人があまりいないことがわかっているからだ。
それに気がついたのは一作品一ページにした「DVDファイル」のログを解析した時である。「DVDファイル」では毎月同一テーマのDVDを5枚とりあげているが、ログを見ると知名度の低い作品の感想はほとんど開かれていない。わたしは知名度の低い作品ほど気になる方なので他の人も同じかと思っていたが、そうではないようである。
SEO的には一作品一ページの方が有利なのはわかっているが、複数作品を同一ページにならべることで知名度の低い作品の感想もついでに目にはいるようにし、書店の店頭でついで買いする時のような未知の作品との出会いをしかけてみたいのである。
次に「キャンペーン」であるが、これはまったくの誤解である。「書評空間」の本の選択は執筆者にまかされており、こんな本をとりあげてくれと言われたことは一度もない。
推測だが、今月はじめ「河出ブックス」創刊にあたり河出書房の編集者が「書評空間」に紹介文をまとめて投稿したことが誤解の一因だった可能性もある。あるいは今月とりあげたのが漫画だということも、ひょっとしたら関係しているかもしれない。
「書評空間」は雑誌や新聞の書評とは異なり、「仕事」として書いているわけではない。「読書ファイル」の延長のつもりで書いている。「書評空間」で受けとるのは本の実費とアフリエイトだけで、原稿料は出ていない。その代わり好きな本について長さや漢字の制限なく自由に書けるのである。
書評という仕事は制約が多い。多くの場合、とりあげる本は選べないし、とりあげる以上は誉めるのが前提だ。気心の知れた編集者なら、こちらが本心から誉めるだろう本を回してくれるが、そうでない場合もすくなくない。
長さや漢字、用語の制約もある。新聞では行数ぴったりにおさめる必要があるので、行数合わせに神経を使う。そういう制約をクリアするのがプロだし、制約の中で意を尽くせた時はうれしいものだ。しかし、好きな本について制約なしにだらだら書きたいこともあるのだ。多くの物書きが自分のblogやホームページで頼まれもしないのに本の感想を書いているのは同じ動機からだろうと思われる。
本物の書評とは別に、「書評空間」のように本の実費とアフリエイトだけで好きな本について、好きなように書ける場があるのはありがたい。実費が出るので高い本でも躊躇なく買えるし、自分のサイトの読者よりも広い範囲の読者の目にふれる可能性があるのは大きなメリットだ。
というわけで「書評空間」とは長くおつきあいしたいと考えているが、新しい担当者はテーマ別方式が気にいらないらしく、おやおやというメールをよこしてきた。さて、どうしたものか。
太宰治の著作権保護期間は昨年で終わったので、今年、彼の作品が相次いで映像化されている。これはその一編で「ヴィヨンの妻」を中心にいくつかの短編を組みあわせているが、脚本が実にうまくできていて最初からこういうストーリーだったかと錯覚をした。
例によって駄目作家の話である。飲んだくれの大谷(浅野忠信)が久しぶりに家にもどってくるが、そこへ行きつけの椿屋という飲み屋の夫婦(伊武雅刀と室井滋)が踏みこんでくる。大谷はさんざん酒代をためたあげく、売上を盗んで逃げたからだ。妻の佐知(松たか子)は金は明日工面するから警察沙汰にだけはしないでくれと平謝りするが、金のあてがあるわけではない。彼女は子供をつれて椿屋にゆき、頼みこんで働いて借金を返すことにしてもらう。
原作では椿屋は怪しげな飲み屋で、佐知は一気にダークサイドに落ちるが、映画では夫婦も客もいい人ばかりで、けなげに働く佐知を応援する。佐知に惚れる岡田(妻夫木)という若い工員も純情青年でプラトニックな関係で終わる。
松たか子の持ち味の範囲で終わるのかと思ったら、ちゃんとダークサイドが用意されていた。大谷と佐知のなれそめに「燈籠」をもってきて弁護士の辻(堤真一)をからませ、大谷が起こした心中未遂事件を解決してもらうために佐知は辻に身をまかせる。
佐知は心を決めるために銀座の街頭で洋パンから口紅を買い、化粧をしてから辻の事務所の扉を開ける。事務所から出てきた彼女のうってかわったやさぐれた表情がぞくっとするほどエロチックだ。
コンパクトにまとまった原作を松たか子のいい子の面で長編にふくらませ、最後にダークサイドにもどり、「人非人でもいいじゃないですか」という原作と同じ台詞で締めくくっている。文芸作品の映画化としては最もうまくいった例だろう。
新文芸座の中原早苗特集で見た。言わずと知れた川端康成の名編の最初の映画化で、最近ではドイツのグロウナがリメイクしている。
監督は吉村公三郎、主演は当時40歳の田村高廣。不能になった老人の役には若すぎるが、回想シーンがあるのでぎりぎりの選択だったのだろう。老けメイクが今ほど発達していなかったので肌が老人には見えないし、悪友役の殿山泰司や北沢彪のような本物の老人と並ぶと苦しいものがある。
眠れる美女の家と回想の場面は原作通りだが、主人公は孤独な老人ではなく、妻(山岡久乃)と三人の娘のいる成功した老作家という設定に変えている。香山美子(当時24歳)がヒロインだというので期待したが、眠れる美女役ではなく三女の役だった。彼女の結婚問題が表のストーリーの要になる。
娘の結婚などというホームドラマをつけくわえたために原作の絶望的な孤独が吹き飛んでしまっている。全裸の娘をもてあそぶ場面に緊張感がなく、裕福な老人が金に飽かせて経路の変わった風俗を楽しんでいるようにしか見ない。よくこれで映画化を許したものだ。
深読みだが、小津のパロディを狙っているということはないだろうか。笠智衆は裏ではこんな悪いことをしていましたというような。縁談のもちあがっている三女も二人の男を天秤にかけたあげく、レイプされるという危ない役で、これも小津に対する当てつけと解釈できないことはない。
原作とはかけはなれた映画だが、香山美子の美しさはまぶしいほどで、彼女のファンなら見る価値がある。
新文芸座の中原早苗特集で見た。轟夕起子が京都の経師屋の肝っ玉母さんを演じるコメディで監督は中平康。吉行和子が「新人」として出演している。
経師屋の市松(大坂志郎)は置屋の息子だったが、大阪の経師屋に弟子入りして腕を磨き、今では京都で名を知られた職人になっていたが、妻の登代(轟)の尻に敷かれ、コーヒー屋にいりびたって息抜きをしている。京大を出した長男は戦死してしまい、次男の令吉(長門裕之)は大学を卒業したものの就職せずにぶらぶらしている。男二人の腑甲斐なさに登代はやきもきしている。
ところが令吉に突然、西陣の老舗の織物問屋の娘久子(吉行)との縁談の話があり、とんとん拍子に進む。登代は知らなかったが、令吉と久子は妹の宏子(中原)の紹介でつきあっていて、見合は出来レースだったのだ。
新婚二人を住まわせるために、登代は離れを課しているまき(原ひさ子)に出ていってもらおうと言いだすが、市松は渋い顔。まきは市松が世話になった大阪の経師屋の刀自で、空襲で家族と家を失い、一人息子の一夫(葉山良二)は中国戦線で行方不明になっていた。ちょうど揉めているところに一夫が復員してくる。現地除隊になった後、中国各地を見てまわっていたというのだ。
登代はまきと一夫を妹の辰江(渡辺美佐子)のやっている飲屋の二階に追いだすが、嫁の久子と早くも衝突し久子は実家に帰ってしまう。娘の宏子は登代の反対を押し切って一夫とつきあいはじめ、これも家を出てしまう。
市松は長男の七回忌で和解をはかるが、登代が我を張り通したために逆効果に。もちろん、最後は丸くおさまるが、はらはらさせてくれる。
頼りないようでいて、二枚腰のふんばりをみせる大坂志郎がいい味を出している。渡辺美佐子は新劇女優とは思えないあだっぽさで目立っている。
中平康というとキザな監督というイメージがあったが、ぬかみそ臭いお茶の間コメディをこんなにうまく撮るとは。ただ、轟の演じる登代は「才女」というよりは「賢妻」だろう。
今村昌平の初期作品で藤原審爾の原作を映画化。社会派的な味つけをしたサスペンス映画で、骨太のエンターテイメントになっている。
大阪近郊の川沿いの街に怪しげな男女が集まり、軍の徽章を見せて互いを確認しあっている。彼らは終戦直後、この街にあった陸軍病院でモルヒネを地下に隠匿した一味で、十年後に掘りだすということで再会したが、リーダーの軍医の代わりに妹と称する女(渡辺美佐子)があらわれた上に、四人のはずが五人になっている。一人は贋物のはずだが、十年たっているのでそれが誰かわからず、互いに疑心暗鬼になっている。
陸軍病院の跡地に行ってみると新開地になっており、モルヒネを埋めたとおぼしい場所は肉屋になっていた(中原は肉屋の娘役)。一味は近くの空き店舗を不動産屋という触れこみで借りてトンネルを掘ることにするが、大家の風呂屋はなかなか承知せず、ぶらぶらしている息子(長門裕之)を雇うという条件でようやく借りることができる。
いよいよトンネル掘りがはじまるが、妙にやる気を出した長門が邪魔な上に、紅一点の渡辺美佐子をめぐって男たちの間に対立がうまれる。しかも再開発のために新開地は二週間後に取り壊すことがわかり(風呂屋が貸すのを嫌がったのはそのため)、タイムリミットが切られてしまう。
ラストに向けてサスペンスを盛りあげる手際はみごとだし、どんでん返しも効いている。今村昌平はサスペンス映画もうまかったのだ。
資料だと長門裕之が主演のような扱いだが、無邪気に一味の秘密に立ち入ってくる盛りあげ役にすぎず、本当の主役は渡辺美佐子である。鉄火肌の姐さんをかっこよく決めていて、新劇女優とは思えない。長門は人のいいボンボン役が持ち役だったらしく、大映でいえば川崎敬三のポジションである。