R.A.ラファティ「絶倫世界」2

加藤弘一
承前

 フェアブリッジ・エクセンダインはこの椿事に、ただただ動転し、恐怖にかられて現実拒否状態に陥った。一方、他の面々はたいそう好意的に事態を受け入れた。もちろん、説明をつけることは必要だ。必要なら、みんなで説明をさがそうではないか。

 「おませな女の子事件に結論を出そう」とラシュモアがいった。

 「誰か意見のある人は?」

 「あなたの子供よ、ジュディ」エルマがいった。「答えなさいよ。さっきみんなが聞いたと思った言葉は本当に聞こえたの?」

 「あら、この子はあんなにはっきり喋ったわ。みんなもちゃんと聞いたでしょ。だけど、何であたしに聞くの? 喋った当人がここにいるじゃない。ね、おまえ、どうやって言葉をおぼえたの?」ジュディは愛娘のちい姫に尋ねた。

 「あたし、五日間もおしゃべり母さんのお腹の中に入ってたのよ。どうして言葉をおぼえないわけがあって?」ちい姫は一本とった。年にしてはみごとな受け答えである。はたして説明は簡単至極だった。娘は母親から言葉を学んだのである。

 しかし、フェアブリッジ・エクセンダインは恐怖で色を失ったままだった。しかも、この独身者は彼女とは何のゆかりもない。彼はなぜかくもおびえるのか?

 そのすこし後、ジュディはわが子にたずねた。

 「知ってる? おまえは絶倫世界で生まれた最初の人間の子供なのよ」

 「まあ、母さん、それ違うわ」ちい姫はいった。「あたしの計算では、二百一人目というところね」

 さらにすこし後、ブレーズ・カーウィンは乙女にたずねた。

 「君、歩けるの?」

 「まあ、そんなこと、無理にきまってるじゃない」彼女は言った。「おけいこをはじめるのだって、あと一標準時間後だわ。ちゃんと歩けるまでには一標準日はかかるわね」

 一方、フェアブリッジ・エクセンダインは発掘現場に戻っていた。地下のあらたな謎も恐ろしかったが、それ以上に乙女が恐ろしかったのだ。

 それにしても、彼女のかわいらしさは比較を絶していた。──少なくとも、今までのところは。

 「わたしたちのやることなんか、ジュディとくらべたら、まったく竜頭蛇尾ね」とエルマ・プランダはたわむれにぼやくのだった。黄金のからだと堂々たる美貌をもつエルマは、実はジュディ・ブリンドルスビーなど歯牙にもかけていない。それはリゼッタ・カーウィンも同じで、彼女には端麗な容姿と鋭敏な知性がある。二人はジュディに先を越されることは先刻承知だった。たしかに、二人は今度も先を越された──わずか数時間。

 「さて、たしかにこれは難問だぞ」ラシュモア・プランダはある日、浮き浮きしながら語り出した。「われわれはみな人間だが、人間の妊娠期間が五日だなんてことはありえない」

 「そ──その話はやめろ」フェアブリッジはどもった。「掘──掘れよ」

 「もちろん、可能性としては、三人とも九ヶ月前から妊娠していたことも否定は出来ない。それなら合理的だ、つじつまがあう。だが、非合理の虫がこう囁きかけてやまないのだ。「そうじゃないことぐらい、わかってるくせに」と。しかも、子供たちは三人ともお腹の中には五日しかいなかったと断言している。たしかに、ここですごした最初の晩、われわれは、みな、異様な生命力の高ぶりにおそわれた。君は別だったがね、フェアブリッジ」

 「や──やめろ、そんなくだらん話。掘──掘るんだ、クソ」

 「ここは奇跡の星だ、言うまでもないが。奇跡の物質があふれている。しかし、それにしても、今回の狂言、奇跡の主もいささか趣味が悪すぎるのではないか。わたしがあの息子を愛していることといったら、言葉ではあらわせないほどだが、それでもあの子には肌合のちがう何かを感じてしまう。わたしともエルマとも異質な何かをね。彼の親の一人は絶倫世界なんだな」

 「ク──クソ──くだらん話だ。そ──そんなことがあるはずないじゃないか。掘──掘れよ」

 臆病なことと神経過敏なことにかけては、フェアブリッジは空前絶後だった。彼は事実から顔をそむけ、発掘作業に埋没している。今では地下四十五メートルの竪坑の底に埋ずもれて。ああ、この男は追いつめられている!

 「想像だが、同じことはガイアでもおこっているのかもしれないな」ラシュモアは問わず語りに言葉をつづけた。「あんまり長い間、ひとつの星しか知らなかったので、受胎の際、惑星が第三の親として関与していることがわからなかったんだよ。それにようやく気がつきはじめたのは、カミロイやダハエやアナロスに住むようになってからさ。ある星では妊娠期間が二十日短く、別の星では十二日長いというようにね。生物学が環境を無視してなりたたないくらい、前から知られていたけれども、絶倫世界がこんなとんでもない星だとは、誰も夢にも思わなかったんだな」

 「そ──そんな話はやめてくれ」フェアブリッジは懇願した。「三──三十日間なんだ。も──もう十四日たった。掘れよ。掘ってくれ」

 「なにが三十日なんだい、フェアブリッジ? ここの調査が三十日間で終りなのか? それは初耳だ。フェアブリッジ、いいかい、君は自分の常識がひっくり返るのが怖くて、穴掘りに逃避しているだけなんだよ。九日であんなに大きくなった子供がどこにいる? ところが、この星では、木だって一日二十メートルは育つんだ。それに、ジュディ・ブリンドルスビーの髪の伸びっぷりをみてみろよ。あいつ、人間なんだぞ! いや、子供たちだって人間でないわけではない。三分の二は、まちがいなく、地球人なんだからな。

 フェアブリッジ、あの子たちは三人とも、前代未聞の利発さだ。わたしはあの年齢では(おっと、生後九日ではなく、見かけの年齢の九歳か十歳の頃はという意味だが)、すべての面で、あんなにすごくはなかったよ。けっこう神童で通っていたんだがね。それに、あんなに物腰の立派な人間が古今東西どこにいただろう? 段丘の死者たちといい勝負じゃないか。ひょっとしたら、同じ血を引いているのかもしれないな。どう思う?」

 「掘──掘るんだ。さもなきゃくたばるがいい。と──とにかく、そんな話はやめるんだ。そんなことはありえないんだ。あるはずないんだ」

 「エルマによると、子供たちは段丘の死者たちと心が通じあうらしい。やはり三分の一は兄弟なんだな。絶倫世界という共通の親がいるわけだから。これもエルマの説だが、子供たちは三人とも思春期にさしかかっている。思春期特有の超常現象も発現するが、その強烈なこと、水際だっていること、周囲を強引に巻きこんでいくことにかけては、ガイアやカミロイ、ダハエの比ではない。ガイア=地球のポルターガイスト現象のような不毛で痕跡程度のあらわれ方とは大違いだろうというのさ。実際、コミュニケーションの失敗といっても、ポルターガイスト騒動くらいこじれにこじれた例はないがね。

 エルマによると、この星の超常現象はケンタウロン=ミクロンの子供たちの三天使パラドックスをはるかにしのぐのだそうだ。いや、しのがないわけがあるだろうか? われわれの母星でさえ、あのような奇々怪々な前兆現象がおこったのだ。妻のエルマの考えでは、こうした思春期の超常能力は(火山はこの能力の一面のあらわれでもあれば、具体化でもある)、もうじき発現しはじめるはずだ。あと二日、遅くとも三日とかかるまい」

 「掘──掘れよ。そ──そんなこと考えてないで」

 絶倫世界で「大人になる」とは、完結した人生を歩みはじめるという意味である。完結したといっても、閉鎖的とか自由をうばわれたとかとではない。人生の四時がおのづから定まっているということだ。終幕はそもそもの幕開けから影を落している。

 ちい姫、ヒーローズ・プランダ、コーラ・カーウィンはパラドキシカルな子供だった。弛緩した緊張、愚昧な賢慮、冷静なヒステリー、明朗な憂鬱、陽気な自殺願望などといったら、馬鹿げて聞こえるだろうか。そうしたあれこれの性質を、子供たちは矛盾したままかかえこんでいた。彼らは両親やその場にいあわせた大人たちと、つねに親密で言葉をこえたコミュニケーションを持っていたが、しかし同時に、まったき異星人でもあった。途方もない子供たちだが、当の彼らは間違っても途方にくれたりしなかった。自分のやろうとしていること、やりたいことは、つねにしっかりわきまえていた。進む方向に迷いのないことは、円周上の円弧と同じだったのだ。

 リゼッタ・カーウィンは娘が知恵おくれではないかと、いささか気が気ではなかった。乙女は知恵がまわらなかったのではなく、他所にまわしているだけだった。読書を面倒がったからといって、生後十九日の女の子を知恵おくれ呼ばわりしたものだろうか? コーラは本を読むことぐらい、朝飯前だった。ちょっとその気になり、カンの耳をとぎすませば、どんな本だろうと、まっすぐ核心に切りこめた。だが、子供たちは三人とも、たいていは本を読むのを億劫がった。

 ヒラリー・ブリンドルスビーは科学的な考え方や方法のきざしさえ見せないといって、子供たちに苦言を呈した。しかし、科学的な考え方や、それに必要な体系だった学習法では、現に彼らがやっているような迅速な理解は望むべくもない。彼らは三人とも直感的に理解し、膨大な量の知識をたちまちにして得ているのである。

 子供たちは段丘の死者とたいそう親密だった。(フェアブリッジが恐怖から逃避するため、仕事に没頭してくれたおかげで、段丘の発掘は全層にわたってほぼ完了していた)子供たちは死者一人一人の姓名を名ざし、こみいった縁戚関係を説明した。リゼッタ・カーウィンは聞いたとおりを記録したが、瞠目すべきは、その姓が歴代の隊員の姓のどれかとぴったり一致したことである。

 「段丘の死者と話ができるなんていうことがあるものか」とブレーズ・カーウィンは娘のコーラに言った。「おまえたちがさも知っているように喋ることは、みんな埒もない空想の産物にすぎないんだ」

 「まあ。あの人たちもそっくり同じことを言っているのよ、父さん」とコーラは言った。「父さんたちみたいな絶倫世界生まれではない退屈な人間となんか、話が通じるはずないと言いはるの。でも、あたしたち、どうにか通じてあっているわよね。いつもというわけではないけれど」

 さて、ある宵のこと、ヒーローズ・プランダとコーラ・カーウィンは自分たちの結婚を一同に告げた。

 「生まれて二十二日目で結婚とは、ちょっと早すぎるんじゃないか?」ラシュモア・プランダは息子にいった。

 「そうは思わないな、父さん」とヒーローズは答えた。「絶倫世界では、これがふつうなんだよ」

 「媒酌は誰にお願いしたの?」リゼッタ・カーウィンが尋ねた。いずれにせよ、媒酌した者がいるはずだが、この星には隊のメンバー以外、人間は一人もいないのだ。

 「名前はわからないの」とコーラはいった。「冗談に仲人サムと呼んでるんだけど、段丘の人たちもたいていそう呼んでるのよ。もしかしたら、今はそれが名前になっているのかもしれないわね」

 「人間ではないのね? じゃ、何なの?  どんな種の生き物?」

 「どんな種にも属していないわ、母さん。だって、彼の仲間は彼しかいないんですもの。火山にいわせると、仲人サムは俺の(火山の)犬だって。でも、彼はちっとも犬には似ていないのよ。わたし、犬のことを直観してみたんだけど。彼はどんなものにも似ているはずないの。だって、彼の仲間は彼だけしかいないんですもの」

 「わかったわ」とリゼッタ・カーウィンは言ったが、それはすこしばかりやぶにらみのわかり方だった。彼女は何となく拍子ぬけした思いだったのである。もし娘ができたら、盛大な結婚式をあげてやろうというのが、彼女のかねてからの願いだった。いま、娘の誕生と結婚がたてつづけにやってきてみると、何か物足りなく思えるのだった。彼女は知らなかったのだ。コーラの結婚式がどんなに壮麗なものであり、火山と大海原という惑星の二大要素の臨席を得て挙行されたものであるということを。彼女自身、絶倫世界のすべてのものたちとともに式典につらなっていたが、それさえ知らぬ彼女だった。

 「きっと喜んでもらえると思ったのに、母さん。あたしたち、結婚してけじめをつけたのよ」コーラは祝福をうながした。

 「喜んでいるわよ、もちろん。早すぎるというのは本当だけど」

 実をいえば、結婚の式典はまだ終っていなかった。式の一部には、その晩、ほぼ全員を巻きこんで出来する出来事も周到に織りこまれていたのである。それはまさに、絶倫世界到着第一夜に降ってわいた、神秘的な官能の祭典の再来だった。

 またしても、あの異様な生命の高ぶりが一同を襲った。それは黄金のからだのエルマ・プランダと驚異の髪のジュディ・ブリンドルスビーを襲った。それはいまや千々に心の乱れたリゼッタ・カーウィンを襲った。それはラシュモアとヒラリーとブレーズを襲った。

 あるいは雲雨の情は星と所を選ばずに降りそそぐものだと考える向きもおありかもしれない。この星の場合は違った。絶倫世界の場合は、ガイアやカミロイやダハエとは大違いだった。絶倫世界はふだんから合歓の喜びに満ちている。合体の熱情、ほとんど汎神論的な万象合一の熱情は不易に存在している。しかし、それとは別に、もうひとつのはるかに強烈な情熱も、ある特定の時期に流行する。引金となるのは、おりおりに到来する特別な事件だ。それはがむしゃらで奔放不覊、血と精液の匂いにむせかえる季節だ。

 それは、発情期である。

 ああ、そんな言い方では駄目だ。それは力みちた内なる詩と音楽の夜、いや、夜と昼だ。それは自己肯定の期間、肉体と精神と魂の大盤振舞いの期間であり、美の芽ぶく時だ。それは澄みきった水晶の熱情だ。

 だが、あまり美辞をつらねては、実情を見失いかねない。それは淫欲のきわみであり、夜から昼、昼から夜と、まる一昼夜半つづくのだ。

 ヒラリーとジュディのブリンドルスビー夫妻。夫は猛々しく、妻は豊満な多産系。二人は愛にはげみながら笑い、あまりに笑うので、葦原は雷鳴がとどろくよう。鳥や野兎たちさえ、二人にあてられてはげみだす始末。

 ラシュモアとエルマのプランダ夫妻。夫は野牛の巨体、モーゼが祝福した角を頭に振りたて、国々の民をことごとく突き倒す勢い。妻は黄金のからだにエメラルドの眼。「みんな、わたしたちをお手本にするべきだわ」二十七夜前のあの記念すべき一夜、エルマはそういった。「誰もやったことのないことをやったのだもの、みんなに披露しなくては」

 そして、ブレーズとリゼッタのカーウィン夫妻──彼らがどうやって愛しあっているか、正確に知るものは一人もあるまい。すばらしすぎて余人の立ち入りを許さぬこと(第三の恋人として一枚かむ惑星は別だが)、すばらしすぎて言葉にしようのないこと、いや、暗示すらかなわぬことを二人はおこなっているのだ。だが、それがどんなにすばらしい喜びであるかは、終えたあとの二人の比類のない睦みぶりで知れる。

 しかし、コーラとヒーローズはその道の達人だった。絶倫世界は二人の結合において真実第三の肉体であり、その点で大人たちの追随をゆるさない。二人は溶岩台地の頂きで快楽を謳歌した。ガイア人の夫婦のように、葦の茂みやウシクサヶ丘、果樹林に隠れておこなったりはしないのだ。

 情熱の激しさにおいて、絶倫世界は諸惑星中第一だった。唯一、匹敵するかも知れないのは商人惑星のクレプティスで、あの星は万事に貪欲きわまりなかった。絶倫世界を伝説・事実ひっくるめて造りあげた奇跡の造物主は、ヒーローズとコーラのような男女が手をたずさえて出現するたびにあわてふためき、目のやり場に困るのだった。いくら正式に結婚し、正式のやり方でおこなっていようと同じことだ。二人は深淵をきわめ、激しさの限りをつくし、法則をこえた。奇跡の造物主でさえ、こんなとんでもないことを自分がゆるしたのかといぶかしむほどであった。

 まことに、いまこそ星の名の由来となった絶倫節なのである。

 絶倫世界の雷鳴とどろく発情期に、唯一、場違いな存在だったのはフェアブリッジ・エクセンダインとブリンドルスビー家のちい姫だった(場違いな思いをしていたというだけで、水を差したわけではないが)。

 「あたしは嫁きおくれのお婆さん。今は恋の季節だというのに」かって知った丘々をさまよいながら、ちい姫は言うのだった。小さい月アンチラも、大きい月マトローナも、二つながらさやかに乙女を照らしている。「あたしに定められた夫は半信半疑の半熟者。第三の親であり、あたしたちの愛の第三の恋人でもある絶倫世界は、あたしの体にろくに入って来てもくれない。惑星の父よ、あたしたちを助けてください! あなたはこの星に生まれついたあたしたちに、とくに教えをくださいました。「すべてに速くあれ」と。あの教えは他所の星でと同じように、あたしたち二人にもあてはまらないのですか。答えてください、いますぐ答えて!」

 すぐに答えがこなかったので、ちい姫は怒りの岩を天に投げつけた。絶倫世界ではぐずぐず答えを待っている暇はないのだ。

 さて、フェアブリッジは(依然として恐怖にとらえられたままで、脱する見こみはなかったが、しかし、いまではしみじみとした底深い感情が心に根をおろしていた)おのれを激しく叱責するばかりだった。「わたしは人間だ。こんなことはありえないし、あったはずはなく、あってよいわけもない。すべては幻覚だ。ここは幻覚をおこす星なのだ。怪物的なガキどもはあいかわらず怪物そのものだ。はらはらするくらい怪物そのものだ。あぶないところで生まれてはじめての恋に落ちるところだった。これでいい──万が一にもこんなことはありえないし、こんな出来事が実際におこったはずもない。あの子が悪魔だろうと天使だろうと知ったことか。人間が幻や怪物と交われるわけでもなし」

 訪れるべき季節にすべてのものに訪れたものも、この二人のはぐれ者にはついに訪れなかったのである。

 翌々朝には、饗宴にあづかった夫婦たちは目がくらむほど消耗していた。しかし、十分な憩い、永遠の稔りを得たという手ごたえはあった。その後の何日かは、黄金の倦怠がつづいた。絶倫世界では虚脱の期間さえすばらしい。

 もちろん、みんなは、情欲にはちきれそうなフェアブリッジと迷路から出られなくなったちい姫に同情した。二人の恋のいきさつは滑稽だった。絶倫世界ならではの雲つくばかりの喜劇のように。やることなすこと、すべて調子が狂っていた。なるほど、二人は断腸の思いも、胸に杭を打ちこまれる恋の痛苦もともに味わっていた。だが、そうした感情はいずれ前景から退くはずだ。ちょうど、絶倫世界の大地に打ちこまれた杭から、若葉がたちまち青々と芽ぶき、猿の顔そっくりのグロテスクな花が咲きでるように。しかし、花が咲いた後も、杭の先端が鋭さを失うことはないだろう。

 フェアブリッジ・エクセンダインは無骨な顔立ちの男で、どう見ても美男とはいえない。野暮天のそしりをまぬがれたのは、まったくもって俊敏このうえない立居振舞のおかげだった。彼は一貫して独身主義で通してきた。女嫌いと呼ぶわけにはいかない。女性に対しては慇懃この上なく、崇拝さえしていたのだから。しかし、女性恐怖症ではあったろう。恋の炎で大火傷を負ったことがあるのか、骨の髄から独身主義者なのか、どちらかだった。

 彼はぶっきらぼうな性格だが、自分に対しては厳格だった。物腰にも片言隻句にも、そんなところはみじんも見せなかった。厳格さは心の殻の中、彼を包む樹皮の下に押しこめられていたのである。

 では、ちい姫は? ──フェアブリッジは彼女は実在しないものと決めつけていたが、彼女は現実の存在だった。二十四日前のあの日、彼女は古今未曾有、天上天下に較べるもののない美しい子供だった──コーラとヒーローズが生まれるまでの数時間のことだったが。彼女はいまでもほぼ完璧な美人だった。唯一、欠点といえるのは、一種あふれんばかりの人なつっこさで、美人の枠からはみ出してしまっていた。彼女はもはやちい姫ではなかった。母親と肩をならべるほど立派に成長していたからだ。彼女はコーラやヒーローズよりも上背があった。スタイルのみごとさと品格の高さは母親をさえしのいだが、それは絶倫世界生まれのゆえである。

 しかし、一方は優雅な美女、他方は無骨な醜男にもかかわらず、彼女はフェアブリッジ・エクセンダインに生きうつしだった。まるて娘が父親を象り、妻が夫に似ることがあるように、彼女は彼にそっくりだった。絶倫世界流にいえば、彼女は「彼に向かって成長した」のである。この星ではこのような生長はきわめて迅速におこわなれることになっている。

 彼女はすこぶるユーモアに富んでいた。このちい姫という娘にはユーモアが不可欠だった。彼女はヤワな育ちではなかった。それは他の子供も同様だった(もう子供ではなかったが)。急速な成長は他の惑星・準惑星でも見られたが、中味に問題が生じた。たちまち樹木ほどに成長しても、実質は巨大な草にすぎない場合がある。急激な成長に内容がついていけなかったのだ。絶倫世界はちがった。この星の動植物は急速に生育したが、組織は稠密であり、諸器官は十分に発達し、完熟の域にたっしていた。人間も同じであり、とりわけちい姫がそうだった。

 彼女は育ちすぎの草ではない。草はユーモアを欠いているもの(もちろん、アフソニアクシャミソウは別だ)。しかし、彼女は時々、ユーモアたっぷりにフェアブリッジを追いかけまわした──追われる方はちぢみあがったけれど。

 「背の君はあたしをこわがっておいでだ」と彼女はいうのだった。「本当は好いていらっしゃるのに、あたしのことを妖怪変化と決めつけて。あの方は妖怪変化の類が恐ろしくてならないのだわ。おお、あたしのせいで意馬心猿、鼻血を噴き出されるのか。そそりたつ血の塊となられるのか。あの方に七つの恐怖をすべてあたえるあたしだというのに、あたしはあの方がいとしい。フェアブリッジ、フェアブリッジ、あなたの恐怖、あなたの窮地は岩さえ笑う。そしてあたしの笑いはいかな岩より一層いわれない笑いだ」

 ああ、岩たちはこの途方にくれた哀れな男を、カタカタ笑うハイエナさながら、笑いのめすのだった。

 とはいえ、ちい姫もちょっぴり泣くことがあった。絶倫世界では涙はどっとあふれ出した。水量厖大なことといったら、すこしの間で泣きやまなければ、惑星中水浸しになってしまうほどだ。ある日、乙女はコップもあふれよとばかり泣き、大きな青ガラスのコップを本当に涙でいっぱいにしてしまった。そこで不意に気分が変わり、彼女はコップをフェアブリッジの食事の席においた。彼は首をかしげながら一口飲み、すぐに吐きだした。いあわせた一同はどっとふきだし、彼はほとんどいたたまれぬ思いだった(絶倫世界の涙は塩辛いを通り越して、ピリッと辛いのだ)。

 その時、フェアブリッジは妙なことをした。彼はコップの口をナプキンで覆い、その上からタオルでくるむと、自分の独身居住区へ持って帰り、そのまま保存したのである。

 そのしうちに、ちい姫は泣いた。少なくともコップもう一杯分の涙を大地にふりまいた。だが、それも数秒のことだ。彼女はいつだってほがらかこの上もなかった。──たとえ、涙の直後でも。

 探検第三十一日目、絶倫世界の空気はピンと張りつめた。快晴の生気みなぎる朝だった。グリアン星とアルファ星がふたつながら、明星のように白く、青空に輝いていた。これはつねに吉兆である。しかも、当のβ星もにこやかに照りつけている。猛烈な一日だった。

 それがどんな風におこったか、正確に知るすべはない。野原の告げるところによれば、特別な発情期が、全員のためではなく、選ばれた二人のために、特例として訪れるという。砂はキーキーと盛りのついた音をたてた。コーラは火山とも、また唯一無二の存在、擬似動物の仲人サムとも話しあった結果、儀式そのものがかなり四角ばったものになることを知らされていた。問題は慎みの殻に閉じこめられた千尋の深さの情念、岩のごとき自制心に幾重にも封じこめられた底の知れぬ情念だった。火山は自分自身の経験からそうしたものを知悉していたが、奥深い魂の持ち主にはこのような重しが必要なものなのだと説明した。

 はたして、フェアブリッジとちい姫と惑星は、絶倫世界そのもののどこかで、秘密の体験をもった(ニャンニャンなどといったら身も蓋もない。秘密尊重は言葉使いにもおよんでいる)。二人は心ゆくまで堪能した──それは満を持して爆発した一瞬だった。一同は遠く離れ、間接的な手がかりから、彼らの愛のいとなみに感歎したのだった。惑星そのものの鳴動と、かすかに聞こえてくる轟きをのぞけば、手がかりらしい手がかりはなかったが。

 一昼夜にわたる儀式が終わり、二重の種族である面々がふたたび一堂に会したときも、フェアブリッジの顔には依然として恐怖の表情が影を落としていた(これがなくなることは決してあるまい)。しかし、今やそれは多くの表情のなかの一つにすぎなかった。いゃ、表情のひとつというより、いみじくも「恐怖喜劇」と呼ばれている狂言のなかの一役というべきだろう──しかも、この狂言自体、深層の悠久たる芝居の流れの一部にすぎなかった。深層の芝居は六つの狂言から出来ていた。すなわち、くだんの狂言に加えて、「苦悶する魂の喜劇」、「生き急ぎの喜劇」(フェアブリッジの顔にあらたに刻まれた一本の皺こそ、速さは若さという諺──絶倫世界ではとりわけ真理である──を象徴するものだった)、「世界の終焉」と「超絶する愛」という一対の喜劇、そして、一名「死と深い埋葬の喜劇」と呼ばれる狂言。

 フェアブリッジは苦悶から少しも解放されたわけではなかったが、すくなくともそれが滑稽でもあることを学んだのだった。

 そして、ちい姫だが、彼女は切ないくらい幸福という顔をしていた。「切ないくらい幸福」はしばしばダブダブ服のピエロの姿であらわされるが、そこには一抹の狂気と、数沫の髑髏の影がさしている。彼女は果てしなく明るい娘だったし、とこしえに明るい娘でありつづけるだろう。彼女は死が単なる終わりではないことを知っていたのである。

 世界の終り、一文化期の終りは足早に到来する。リゼッタ・カーウィンはこの星では杞憂にすぎないことで気をもんでいた。

(子供が四人、同じ日に生まれ、二日後に五人目が生まれた。一方をなす種族、絶倫世界族はこれで八人になった。ガイア側は以前と同じ七人だ)。

 「ここへ来て、まだ三十六日よ」リゼッタは気が気ではなかった。「それなのに、人口は倍以上に増えてしまった。まさか(「すばらしき出鱈目時代」の台詞ではないけれど)人口爆発にならないでしょうね?」

 「それはとりこし苦労だわ、母さん」とコーラはいった。「絶倫世界はちゃんと限度をわきまえているの。だって、それが星の習性ですもの」

 「そうよ、絶対とりこし苦労よ、おばあちゃま」生まれたばかりのコーラの娘、チャラ・プランダがいった。「これで全員そろった、この特別あつらえの星に必要な役者は。わたしやわたしの世代のみんなは何もかも自分で経験するというわけにはいかないわね。誰かとわかちあう形で経験することもあるでしょう。今の人数が最終的な人数よ。もっと人数の多い星があることは知っています。だから、その分、思いっきり元気に動きまわらなくちゃ」

 「だけど、二十日かそこらしたら」とリゼッタはこだわった。「また情熱の季節がめぐってくるわ。そして──」

 「いいえ、めぐりはしない」コーラは説明しようとした。「同じことを二度、三度とやったら(異文化との接触では、二度やることが必要な場合もあるけど)、繰返しに陥ってしまう。繰返しに堕すことくらい、許せない罪があるかしら。母さん、石をなで、砂をけり、木をたたいて祈って(ガイアにはそういう言い伝えがあると教えてくれたわね)。どうかわたしたちが一人もそんな破目に陥りませんようにって」

 「だけど、めぐってくるのは間違いないのよ、おまえたち。しかも、だんだん大がかりになるみたい。考えてもごらん、一年もしたらどんな大人数になるか──」

 「一年ですって!」母のコーラの腕に抱かれたチャラは甲高い声をあげた。「いったいぜんたい一年も生きた人がいるのかしら?」

 「聞かないわね」コーラは首をかしげた。「誰かいたかしら? 母さんは?」

 「ごめんなさい、わたしがそうらしいわ」リゼッタは白状した。だが、一年以上生きているからといって、どうして悪びれなければならないのか?

 「信じられない、母さん」コーラは半ば当惑して口ごもった。「だから話がかみあわなかたんだ。理解しあおうと、あんなに努力したのに」

 それからかなりの期間(当地の基準でだが)、絶倫世界では平穏な時期がつづいた。もっとも、それは多忙な中休みであり(この意味がわかる人はあまりいない)、事件が、去るもの、来るものが、一文化の芽ばえ・成熟・結実がぎゅう詰めにつまっている。一心不乱に余暇を生きたが、一人ですべてを経験する余裕は誰にもない。それぞれがすべてを取りこむには、同時に全員の心と体で生きなければならなかった。思考も行動も愉楽もゆったりとあわただしかった。昼夜の差はほとんどなくなり、睡眠と覚醒はまじりあい、夢と経験はかさなりあった。達人は歩きながらでも、走りながらでも眠れるというが、絶倫世界の全世代がまさにそうだった。

 「あたしたちは目醒めていてるの、睡っているの?」ある日か、ある夜か、ちい姫は恋人に尋ねるのだった。

 「わからない、そんなこと」どちらとも判然としないフェアブリッジは、そういったか、考えたかした。「しかし、二人はいっしょだ。星の収穫者よ、いつまでも共にいられるようはからいたまえ」

 「あたしたちはいっしょなのね」とちい姫は認めた。「けれど、あたしはミゼリコルス火山を登りつめ、北の尾根に出たところで、同時にここでぐっすり睡っているの。それに、あたしといっしょに深く深く睡りながら、あなたはフェスティナチオ河の河口に泳ぎでて、真水の下広がる海水を分け、底深く潜っていくのね。手をかして。ね! 現実でない現実から見たら、あたしがつかんでいるのはぼってりとしたイワサフランの蕾なのに、その蕾はあなたの腕につながっている。おつむのたりない人から見たら、あなたが手につかんでるのはアフソニアのブルー・フィッシュで(このお魚はおつむが足りないから、自分を魚だと錯覚しているわ)、それなのに、目といかがわしいウロコで身を鎧っている魚はあたしなのかしら。でも、ほんのちょっぴりでも目からウロコが落ちたから、あたしたちの見ているのは現実かもしれない。手を握って。しっかり」

 二人はしっかり手を握りあった。二人はひとつだった。

 磁器のフルート! フルートこそ、目下の絶倫世界文化を決定づける調記号である。この楽器の独特の音色は木管や金管では真似ができない。その軽く硬質で繊細な磁器は黄土色の丘から風で運ばれてきた黄土、フェスティナチオ河浅瀬の泥土、ミゼリコルス火山の火山灰と軽石が原料だった。こうして焼きあげられた磁器は比類なく、それでつくられた管楽器には太い細いにかかわらず、すべてになつかしい調べが宿ることになる。

 さらに、青々と緑の巻ヒゲを生やした若木のクラリネット、笛の音に和して一人でメロディーを奏でるエオリアン・ハープ、蛇皮の太鼓、ハンマーで鍛え上げたコハク金の喇叭(なんて豊潤な音色だろう!)、そして蜜木のヴァイオリンも。

 それにふさわしいオーケストレーションも自然流だ。ふつう、野兎たち(とても早起きだ)の鳴き声を合図にエオリアン・ハープが弦をつまびきはじめ、つづいて夥しい種類の鳥の群が唱和する。目醒めている、睡っているにかかわらず、人々がこれにあわせるのも間もなくだ。けれども、時には、人間の一人が口火を切って、音楽会のはじまることもある。

 「メロディを考えてよ、父さん」とヒーローズが求めたとしよう。ウシクサヶ丘のどこかで午睡にひたる父のラシュモアは、あるメロディを思いつく。父子の間は数キロを隔てているが、ヒーローズはその旋律を笛でなぞり、ヤカマシドリの大群や河面に顔を出した魚がさえずるとも吠えるともつかぬ鳴き声であとをひきつぐ。この絶倫世界文化は音楽に満ちあふれていたが、四角張ってもいなければ、押しつけられたものでもなかった。

 造形文化だってある──フェアブリッジは警告を発していたが。絶倫世界はあまりに造形力に富んだ土地なので、大雑把でも形をつくったり、刻んだりしたら、当人が意図した以上のものができてしまうというのだ。

 「この星では生きている必要のないものまで半ば生きている」と彼は言う。「石を信じるな。とくに火山の石は」

 だが、造形文化は浅彫り、深彫り、丸彫り、荒彫りとさまざまな手法で、油断ならぬという火山の南腹にくりひろげられた。夜の間に、火山から新しい溶岩の帯がうねうねと吐き出されていることがよくあったが、そうした朝は、溶岩の壁の冷めきらぬうちに、かならず、一同総がかりで、やわらかくつやつやした壁面に取りくむのだった。うねうねとつづく壁にはとりどりの色がとりまぜになり、派手やかな色もあればしっとりした色、目のさめるような色にもこと欠かない。まことに多彩な溶岩の化学変化である。そこに押し出されていたのは、まさしく虹の岩だった。

 ふつう、彫刻の素材には火山自身がモチーフをあたえていた。火山の下細工は出来がよく、力感にあふれていた。彼は大雑把にせよ、生物や人物、行事とわかる形を作り出すことがあったのである。しかし、彼はいわば手を持たぬ、腕だけの天才彫刻家だった。ほとんど生きている壁面に細かい仕上げをほどこすのは、すべて人間の役目だったのだ。

 この文化で上演される狂言は六つにわけることが出来た。大半の狂言は段丘各層の死者たちや、その先住者たちが演じたもののヴァリエーションであり、継承でもあった。それはすべて、深層の悠久たる芝居の流れの一部をなすにすぎなかった。目下、かけられている狂言は、火山のさる循環期の第四百幕第五場にあたるはずだった。すでに終った幕に出演したのは往時の人々であり、先住者であり、アフソニア熊であり、芝居の外では生命を持たない人物たちや、超常現象が見物だった。

 ここでは、詩は特別ないとなみではなかった。絶倫世界の人々は詩であり、詩を生き、詩を食べ、コップで詩を飲んだ。だれもがたがいに韻を交わしあっていたので、ことさら朗読するまでもなかったのだ。

 食事は芸術だった。絶倫世界の料理は二つと同じものがなかった。食卓はいつも饗宴であり、複製することも模倣することもかなわなかった。

 こうした日々がかなりの期間つづいた(当地の基準でだ)。三標準月が経過していた。絶倫世界生まれの者たちは、いまでは、全員同じくらいの年齢に見えた──親子の世代差があったというのに。

続く
Copyright 1996 Kato Koiti
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