村上春樹/村上龍 W村上の問題圏

加藤弘一

 村上春樹と村上龍はデビュー時期が近く、一九八〇年代以降の日本文学を両輪となって牽引したきただけに、「W村上」とか「両村上」と併称されることが多いが、二人の作品の関係が論じられたことはあまりない。W村上を論じた文章は膨大なだけに(特に村上春樹)、あるいは見落としがあるかもしれないが、W村上の比較論はすくなくとも流行のテーマとはなっていないようだ。

 W村上の関連が話題にのぼらないのは村上春樹贔屓の論者と、村上龍贔屓の論者がはっきりわかれ、互いに無関心なことが影響しているかもしれない。W村上にはアメリカ文化や音楽への傾倒、サブカルチャーとの親近といった共通点があったとしても、世代的なものにすぎず、本質的にはまったく別の主題をもった別の種類の作家で、互いの接点はないという受けとめ方が一般的だ。

 だが、わたしはある時期から、W村上は共通重心のまわりを回転しあう連星のように、同じ主題を共有し、互いに影響をおよぼしあっているのではないかと考えるようになった。

 そう考えるきっかけになったのは一九九一年に発表された村上龍の『コックサッカー・ブルース』である。この長編小説は、『愛と幻想のファシズム』の後、小休止しているかに見えた村上龍がSMというテーマに出会い、再び加速しはじめる時期に書かれたが、半ばまで読んだ時、これは裏返された『羊をめぐる冒険』だと直覚した。

 『コックサッカー・ブルース』は主人公のにわか探偵が怪しげな男とともにSMの女王様を探す話だが、シーク&ファインドという枠組が『羊をめぐる冒険』と共通しているだけでない。探しだすべきSMの女王様は「羊」にたとえられ、しかも相棒は「痩せネズミ」と呼ばれているのだ。

 「鼠」が『風の歌を聴け』から『羊をめぐる冒険』にいたる三部作で重要な役割をはたす人物の名前であることは、村上春樹の読者ならよくご存知のはずである。

 「羊」は『羊をめぐる冒険』ではじめて登場するが、日本の近代史の表と裏にかかわる存在として描かれている。

 表の歴史に登場する羊は明治期に富国強兵策の一環として飼育が推奨され、敗戦とともに捨てられる「徹底して管理された動物」である。それに対して、裏の歴史の羊はジンギス汗の体内に入っていたというオカルト的な存在であり、戦前、ある右翼青年に取り憑いて中国で暗躍させ、戦後、日本に帰ってからは彼を政界の黒幕にしたてあげていく。表の羊が民衆の象徴なら、裏の羊は権力の象徴ということになろう。

 日本近代史という重荷を背負った村上春樹的羊に対し、村上龍の描くもう一頭の羊はただひたすら淫乱で獰猛な欲望の化身であり、「国を滅ぼし人を活かす」をモットーに、政財界の大物の集まる秘密パーティーを極限的な狂宴の場にしてしまう。

 もちろん、村上龍が『羊をめぐる冒険』のパロディを意図して『コックサッカー・ブルース』を書いたのかどうかはわからない。案外、無意識だったのかもしれない。しかし、村上龍が羊に象徴される日本近代史という主題に引きつけられ、反応したのは間違いない。

 W村上が次に接近するのは一九九四年の『ねじまき鳥クロニクル』と二〇〇〇年の『共生虫』/『希望の国のエクソダス』においてだ。

 『共生虫』の主人公のウエハラはアパートで一人鬱々と暮らす引きこもりだったが、インターネットの掲示板で体内に共生虫を宿した人間がいて、自分もその一人だと自覚するや、突然、元気をとりもどし、兄と父親を金属バットで殴り殺してしまう。共生虫の自覚前は、視線恐怖と自己臭恐怖で外出すらままならなかったのに、シャツとズボンが父親のつぶれた頭から飛び散った血と脳漿で汚れても、ダッフルコートで隠しただけで、旧日本軍の防空壕を探しに出かける。

 悪の化身を体内に宿すというすぐれて村上春樹的なテーマを、村上龍がなぞっていることも興味深いが、それ以上に意味深長なのは、ウエハラの見つけた防空壕が竪穴であり、その底に日本近代史の暗部の象徴というべき毒ガス兵器が残されていたことである。

 お気づきと思うが、『ねじまき鳥クロニクル』にも、二つの竪穴が登場する。一つは主人公の家の裏の不幸つづきの空き家の庭に残る涸れ井戸であり、もう一つはノモンハンの涸れ井戸である。二つの井戸はオカルト的なエネルギーによって通底しており、主人公は金属バットを手に隣家の涸れ井戸の底に降りていき、井戸に流れこんでくるケガレと心霊的に戦い、頬に青黒いあざを負うことになる。

 『ねじまき鳥クロニクル』の主要な人物は大陸の物語を背負っている。失踪した妻の伯父は石原莞爾の下で働いた関東軍の幹部だったし、ナツメグの父親は新京の動物園の獣医だった。不思議なえにしで結ばれた本田さんは満洲の生き残りだし、不幸つづきの空き家の主人も中国派遣軍の司令官だった。主人公の心霊治療を受ける政財界の要人の妻たちも、おそらく満洲がらみの物語をもっているはずである。主人公が井戸の底で戦うケガレとは、日本の大陸進出にまつわるケガレであり、日本近代史のケガレである。『ねじまき鳥クロニクル』と『共生虫』はともに日本近代史の闇をわだかまらせた竪穴のまわりを回転していたのである。

 『ねじまき鳥クロニクル』のケガレは心霊的なものだが、意外にも皮膚感覚的な生々しいイメージで語られている。ある女性は「ぐにゃぐにゃ」「ぐしゃぐしゃ」といい、別の女性は「不定形な生き物のようなもの」、さらに別の女性は「生まれたての赤ん坊のようにぬるぬるしたもの」と形容している。

 女性の口から語られていることでも明らかなように、ケガレは明らかに胎児のイメージを原型としている。

 実は主人公の妻の失踪にも胎児がかかわっている。当初、彼はかつての堕胎が家出の原因ではないかと考えていたが、物語が大詰をむかえるにいたって「その何かは堕胎よりはむしろ、妊娠に関係したことだった。あるいは胎児に関係したことだったのだ」と認識をあらためている。彼は妻の一族の遺伝の方に話を進めていくが、小説の語りはむしろ「ぐにゃぐにゃ」「ぬるぬる」した胎児の肉感的な異様さの方に焦点にあわせている。

 ケガレ=胎児のイメージは、小説の結末に直接関係する。妻の兄は伯父の地盤を引き継いで代議士になった保守派のホープだが、彼は「不特定多数の人々が暗闇の中に無意識に隠しているもの」、「歴史の奥にあるいちばん深い暗闇にまでまっすぐ結びついている」ものを引きずりだそうとしている。主人公は井戸の底の戦いで妻の兄を殺し、野望の実現をくじく。それは「ぐにゃぐにゃ」「ぬるぬる」したケガレがこの世にふたたび出現するのを阻むことを意味する。『ねじまき鳥クロニクル』は国家的レベルにおける象徴的堕胎の物語だったのである。

 これに対して、村上龍の『希望の国のエクソダス』では、国家の誕生が語られる。中学生の一斉不登校を取材する語り手のルポライターは、中学生たちがインターネット上の掲示板でASUNAROというゆるやかな共同体を形成してビジネスを手がけ、ついには巨額の資金を運用するようになっていく一部始終を目撃する。

 語り手のルポライターも堕胎によって夫婦の危機をむかえるが、妻は子供をおろした空白感を埋めるために経済学の勉強をはじめ、物語の節目節目に経済状況を解説し、ASUNAROの狙いを予測する。プロットのレベルでは彼女の解説とASUNAROの成功は関係ないが、語りのレベルでは、ルポライター夫婦はわがことのようにASUNAROの誕生にかかわっているのである。作品の最後にルポライター夫婦は子供をもうけるが、それと符丁をあわせるように、ASUNAROは北海道の野幌に本拠地をおき、定住することを選ぶ。『希望の国のエクソダス』という小説は象徴的な国産みの物語といえる。

 W村上の第三の接近は『アンダーグラウンド』(一九九七)と『半島を出よ』(二〇〇五)の間でおこなわれた。

 『アンダーグラウンド』は地下鉄サリン事件の被害者と遺族に取材した聞き書き集であり、ノンフィクションである。地下鉄サリン事件をあつかった本は多いが、被害者は被害者としてのみ描かれている。それに対して『アンダーグラウンド』は、被害者の語りにとことんつきあうことで、被害者が被害者である前に一個の人間だったことを確認させてくれる。

 そういうまっとうなノンフィクションと、北朝鮮の特殊部隊が福岡を武力制圧し、日本から独立させようとする荒唐無稽な近未来小説を比較するのは強引にすぎるように見えるかもしれない。

 だが、実際に読むとわかるが、やはり近未来を舞台とする『愛と幻想のファシズム』が二人の主人公に収斂していくのとは対照的に、『半島を出よ』はおびただしい登場人物を一人一人、生活の細部にわたって描きだしていき、あたかも群衆劇のおもむきがある。そして、大部分の登場人物は結末の破滅的なテロによって、なにが起こったのかわからないまま死ぬことになる。

 地下鉄サリン事件の無辜の被害者と、日本を侵略しに来た北朝鮮兵士を同列におくのが無謀だということを承知でいえば、『半島を出よ』は、『アンダーグラウンド』同様、テロ被害者の聞き書き集なのだ。『希望の国のエクソダス』が裏返しの『ねじまき鳥クロニクル』だとするなら、『半島を出よ』は裏返しの『アンダーグラウンド』である。

 W村上については、米軍基地の街、佐世保に育った政治感覚に鋭敏な村上龍に対し、自閉的な村上春樹という見方があった。それだけに、『アンダーグラウンド』で地下鉄サリン事件をとりあげ、現実へのコミットメントを語るようになると、読者は驚き、村上春樹の転向や成熟がうんぬんされた。

 だが、村上龍との関係に注目してふりかえるなら、初期三部作の時点で村上春樹はすでに日本の近代史にコミットメントしていたのである。W村上の作品は、これからもブラックホールのまわりを回転する連星のように、現代日本の問題圏のまわりを回りつづけるだろう。

注 W村上の関連については以下の文章参照。

(May 2005 「大航海」55号)
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