昨年十月、講談社版『日本の歴史』の00巻として出た網野善彦『「日本」とは何か』(講談社 二〇〇〇年)はこの種の本としては異例のベストセラーとなり、十万部を超えた。
先の見えない時代だから歴史をふりかえりたいという欲求もあるだろうが、歴史学自体が大きな曲がり角をむかえていて、「常識」が次々と書きかえられていることも見のがせない。網野はマルクス主義者を自称しているが、戦後歴史学を陰に陽に支配してきた唯物史観を根底からくつがえし、平泉澄に淵源する中世像を復活させた当事者である。『「日本」とは何か』はその網野の総決算といえる。
従来の歴史学、特にマルクス主義に支配された戦後歴史学は、生産力の基盤である農地を誰が支配したかに目を注いできた。自給自足の農村経済という虚像がつくられ、漁師、猟師、職人、商人といった農地を耕さない人々――非農業民――は無視してきた。
網野は漁村の調査を通じて、農地を耕さない人々が河海の交通によって日本国内はもとより、カムチャツカ半島から東南アジアにいたる広大な地域と活発な交易をおこない、歴史の一方の主役だったことを発見した。江戸時代、農民は人口の八割以上といわれてきたが、実際は六割以下だったらしい。
というような公式的な言い方ではピンと来ないかもしれないので、思いっきり単純化して言うと、非農業民とは堅気の仕事についていない人のことである。職人や商人、船乗、猟師、宗教者は山賊、海賊、芸人、娼婦、博奕打ちと紙一重だったし、ヤクザというかアウトローの世界ともつながっていた。マルクス主義の主導してきた日本の歴史学はかわいそうな農民が強欲な支配階級に搾取されてきたというパターンをなぞってきたが、網野はしたたかでいかがわしい悪党が日本史の一方の主役だと喝破したのだ。
『無縁・公界・楽』(平凡社ライブラリー 一九七八年)は民俗学の知見を大胆に援用し、中世自由民の活動を鮮かに描きだし、学界のみならず、一般読書界にも衝撃をあたえた。漂泊民のネットワークと天皇の関係に迫った『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店 一九八四年)、悪党が堂々と出入した後醍醐帝の宮廷を手がかりに、南北朝期の社会の転換を明らかにした『異形の王権』(平凡社ライブラリー 一九八六年)も知的興奮をよびおこした。ヤクザがなぜ天皇をあがめ、街宣車に乗っているのかという秘密を網野は明らかにしたのである。
網野は一般向けの入門書も書いている。『日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房 一九九一年 続篇と合せて文庫化)は勤務先の短大でおこなった講義をもとにした本で、短大生が相手だけに網野史観のエッセンスがもっとも平明に語られている。三巻本の『日本社会の歴史』(岩波新書 一九九七年)もわかりやすいが、一冊だけ読むなら『「日本」とは何か』がお勧めである。
網野史観は学問以外の分野にも影響をおよぼしている。一九九一年放映のNHK大河ドラマ『太平記』は吉川英治原作とはいえ、『異形の王権』の影響が顕著だったし、宮崎駿のアニメ『もののけ姫』(一九九七年)は白拍子が癩者を集めて山中に鉄の王国を築く話で、網野史観の絵解きといってもいいくらいだった。
海を介した活発な交易と忍者とつながりのある漂白民を解明した網野に歴史小説が刺激を受けないはずはない。
まず、北方謙三の南北朝ものである。『武王の門』(新潮文庫 一九八九年)は後醍醐帝の皇子で、九州に南朝の独立王国を築いた懐良親王の一代記で、とにかくおもしろい。戦後に書かれた歴史小説の最良の作品の一つといっていい。東北の騎馬軍団を率いて足利尊氏を破った北畠顕家を描いた『破軍の星』(集英社文庫 一九九〇年)も傑作である。
安部龍太郎の『彷徨える帝』(新潮文庫 一九九四年)は後南朝をとっかかりに足利義満の皇位簒奪の陰謀を描いている。『関ケ原連判状』(新潮文庫 一九九六年)もおもしろい。
先年亡くなった隆慶一郎はエッセイの中で網野の影響を明言しているが、『吉原御免状』(新潮文庫 一九八六年)は吉原遊郭は漂白民が江戸市中に築いた城で、それを許した徳川家康は漂泊民の出身だったという説を持ちだしている。
この説を史実とからめて堂々たる長編小説に仕立てたのが『影武者徳川家康』(新潮文庫 一九八九年)で、本当にそうだったのではないかという気がしてくるくらい巧みに書きこまれており、コミックにもなっている。絶筆となった『花と火の帝』(講談社文庫 一九九〇年)は幕府と後水尾天皇の暗闘を描いている。網野の仕事はこれからも文学やマンガ、アニメの重要なインスピレーション源となりつづけるだろう。