読書ファイル   1998年 5 - 8月

加藤弘一 1998年 4月までの読書ファイル
1998年 9月からの読書ファイル
書名索引 / 著者索引
May
北方謙三 『破軍の星』
北方謙三 『悪党の裔』
北方謙三 『道誉なり』
北方謙三 『武王の門』
June
北方謙三 『陽炎の旗』
森茂暁 『闇の歴史、後南朝』
井沢元彦 『天皇になろうとした将軍』
小和田哲男 『明智光秀』
小和田哲男 『呪術と占いの戦国史』
尾関章 『量子論の宿題は解けるか』
治部眞理&保江邦夫 『脳と心の量子論』
July
治部眞理&保江邦夫 『1リットルの宇宙論』
グリビン 『シュレーディンガーの子猫たち』
ペンローズ、竹内薫&茂木健一郎 『ペンローズの量子脳理論』
ペンローズ 『心は量子で語れるか』
小島郁生&加藤秀 『オウムガイの謎』
中村雄二郎 『述語的世界と制度』
中村雄二郎 『日本文化における悪と罪』
中村雄二郎 『悪の哲学ノート』
August
岸田秀 『対話 起源論』
岡田英弘 『世界史の誕生』
ハラー 『セブン・イヤーズ・イン・チベット』
木村肥佐生 『チベット潜行十年』
ダライ・ラマ 『ダライ・ラマ、イエスを語る』
ダライ・ラマ 『宇宙のダルマ』
河合隼雄&中沢新一 『ブッダの夢』
田中公明 『性と死の密教』
立川武蔵 『マンダラ瞑想法』
ゲンドゥン・チュンペル 『チベットの愛の書』

May 1998

北方謙三 『破軍の星』 集英社

 NHKの『太平記』では後藤久美子が演じた北畠顕家が主人公である。大河ドラマでは近藤正臣の親房とともに陸奥に下り、朝廷が危機におちいると颯爽とあらわれて足利軍を打ち破り、すぐに消えてしまったが、一冊の長編小説として読んでみると、端役にしておくにはもったいない大変な公家=武将だったことがわかる。作品としても傑作といっていい。

 いちいち書かないけれども、20歳になるかならないかで、スキピオに匹敵するようなことをやってのけたのだ。あのどうしようもない後醍醐周辺から、どうしてこういう人物があらわれたのだろうか。

 網野史観の影響を受けた最近の歴史小説らしく、安家一族という金属民の末裔が顕家を支えていることになっているが、ありそうな話である。史実はどうなのか。

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北方謙三 『悪党の裔』 文藝春秋

 NHKの『太平記』では渡辺哲が演じた赤松則村が主人公である。渡辺哲は最近でこそたけし映画で注目されているが(『HANA-BI』では解体屋のオヤジの役)、当時はシェークスピア・シアターというマイナーな劇団出身の役者の大部屋役者にすぎず、記憶している人はいないだろう。赤松則村はその程度の扱いだったのだ。

 倒幕の論功行賞では楠木正成の亜流のようなあつかわれ方だったし、北畠顕家の奥州軍に都を追われた尊氏の与力になったこともあって、歴史的評価も低かったと思うが、小説になってみるとおもしろい人物である。

 この作品は倒幕がきわどいところで成功した事情を描いていて、歴史書ではえられない小説の醍醐味を満喫させてくれる。

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北方謙三 『道誉なり』 中央公論社

 NHKの『太平記』では陣内孝則が演じた佐々木道誉が主人公だが、足利尊氏にも紙数がさかれている。尊氏は道誉にライバル意識を抱きつづけていたという設定で、案外、あたっているかもしれない。

 道誉は婆娑羅大名の代表格で、陣内は適役であったけれども、NHK版は後半生が簡単すぎた。この小説は後半生に重点があって、観応の擾乱など、NHKがうやむやのうちに省略したヤバい事件がちゃんと描かれている。

 ここに登場する道誉と尊氏は人生に倦怠していて、小説としても躍動感がない。本作は北方の南北朝ものの五作目にあたる。作者が倦きてしまったのかもしれない。

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北方謙三 『武王の門』 新潮文庫

 北方の南北朝ものの第一作だが、『破軍の星』をもしのぐ傑作である。北方のハードボイルド小説は読んだことがないので、あてずっぽうで言うのだが、多分、彼の最高傑作だろう。これほどの作品は一生のうちに何本も書けるものではない。

 建武の新政崩壊後、後醍醐帝は地方に皇子たちを送り、各地の反足利勢力を糾合しようとしたが、もっとも成功したのは征西将軍宮として九州に下向した懐良親王で、征西府は一地方政権にとどまらない国際的な存在にまでなった。そのあらましは中公新書で出た森茂暁の『皇子たちの南北朝』(名著!)で読んでいて、ずっと気になっていたのだが、こんなにおもしろい小説が書かれていたとは知らなかった。

 懐良親王と和寇や異形の民、高麗、明朝との関係について、思い切った虚構を加えているが、征西府の事蹟からすれば似たようなことはあったかもしれない。

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June 1998

北方謙三 『陽炎の旗』 新潮文庫

 『武王の門』の続編にあたる。征西府壊滅の二十年後という設定だが、足利直冬の孫の頼冬と、懐良親王の孫の竜王丸という二人の虚構上の人物を軸に、皇位をうかがう足利義満の野望を頓挫させる経緯を語る。

 月王丸、竜広、今川仲秋が再登場するが、予想を裏切り、怨念どろどろの後南朝の話にしなかったのはうまい。北方の描いた征西将軍宮懐良親王は南北両朝の対立にとらわれず、九州に独立王国をつくり、遠く海外に目を向けていたが、懐良の水軍を継いだ月王丸は南朝には目もくれず、より広い観点から日本の統一のために動く。

 出来は悪くはないが、『武王の門』には遠くおよばないし、網野史観の絵解きで終わっている。

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森茂暁 『闇の歴史、後南朝』 角川選書

 題名はおどろおどろしいが、『皇子たちの南北朝』の森茂暁氏による手がたい研究書である。

 明徳3年(1392年)の後亀山帝入洛をもって南北両朝の対立は終わるのであるが、南朝を支持していた勢力はしぶとく残っていたし、室町幕府の構造的不安定性は不断に分裂の火種を生みだし、叛乱のための旗印が必要とされた。後醍醐末流は文明年間にいたる一世紀近くの間、政治的事件のたびに担ぎだされ、ついに断絶する。本書はその歴史をたどるが、同じパターンが何度もくりかえされてうんざりしてくる。後醍醐流の皇族は負けるとわかっていてなおかつがれるしかないほど追いつめられていたようだ。

 嘉吉の乱(赤松満祐が将軍足利義教を自邸で弑逆した事件)の後、赤松は小倉宮の皇子をかつごうとしたが、不首尾に終わると、播磨で禅門にはいっていた足利直冬の孫を旗印にしようとした。赤松の敗北でこの孫は斬られるが、満祐の息子は九州の菊地にのがれ、和寇にくわわったとある。北方謙三の『陽炎の旗』はこのあたりの史実をアレンジしたのだろう。

 赤松の領国を引き継いだのは山名だが、その山名も応仁の乱では南朝皇胤をかつごうとしている。ここまで目茶苦茶だと笑える。一度目は悲劇でも二度目からは喜劇なのである。

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井沢元彦 『天皇になろうとした将軍』 小学館文庫

 嘉吉の乱で没落した赤松一党はお家再興のために吉野にたてこもる南朝皇胤に味方を装って近づき、二人の皇子を惨殺して神璽を奪ってしまう。いわゆる長禄の変だが、本書は事件のあった奥吉野を訪ねる歴史紀行の形ではじまる。

 この紀行は「週刊ポスト」に短期の予定で連載され、評判がよかったので、足利義満の皇位簒奪説を紹介する「天皇になろうとした将軍」(本書の前半部分)に発展し、さらに現在も書きつがれている『逆説の日本史』につづいた。

 松本清張以来、いや、坂口安吾以来、推理作家の目で歴史の謎解きをする伝統が日本にある。パズル的な本格推理はマニアしかおもしろがらず、歴史という人間くさい話の方が受けるのはいかにも日本である。本書はどうかという部分もあるが、今、一番おもしろい中世史がこういう形で紹介されるのは時代の要請なのだろう。

 後小松帝の系統が絶え、伏見宮流に皇位が移ったのは後小松帝が義満の子ではないかという疑惑があったからというのはおもしろすぎる。伏見宮彦仁王への譲位は後小松院自身が南朝皇胤の践祚を防ぐためにすすめたというのが穏当なところだろう。

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小和田哲男 『明智光秀』 PHP新書

 半村良の『産霊山秘録』の第一章、「真説本能寺」を読んだ時の衝撃は忘れられない。明智軍を京に呼びよせたのは信長自身で光秀に御所を焼討せよと命ずる。光秀は皇室を守るために信長を殺したというのだ。これだ、これに違いないと、本当に手が震えてきた。

 その後、朝廷とアウトローの隠れた結びつきを実証した網野善彦の研究が出てきて、半村ら伝奇小説には歴史学の裏づけがあったのかと驚いた(その源流には平泉澄がいたのだが)。1980年代にはいってからは信長と朝廷の対立が学問的な課題となり、信長の皇位簒奪計画まで論じられるようになった。

 小和田は最近の研究を踏まえ、本書で「非道阻止説」を提出している。ついにこういう説が歴史学者の口から語られるようになったかと感慨をおぼえた。

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小和田哲男 『呪術と占いの戦国史』 新潮選書

 これまで学問的にとりあげられることのほとんどなかった戦国武将とオカルトの関係を論じた本である。戦国史研究の第一人者が長年蓄積してきた呪術関係のメモをまとめただけに、同時代文書から次々と実例があげられており、実に興味深い。

 呪術を担当する軍配者や陣僧の活躍にも光があてられている。修験者、毛坊主といた怪しげな連中も登場する。伝奇小説を歴史学者が後追いしているともいえるわけで、伝奇小説おそるべしである。

 毛利発展のきっかけとなった厳島合戦で、陶晴賢はすぐにでも落とせる毛利の砦を二日間放置し、この遅れが毛利の奇襲をまねいて敗北するにいたった。なぜ攻撃を控えたかというと、日が悪かったのだそうである。凶日は休戦期間として機能していたようだ。

 呪術は融通無碍であるから、凶を吉に変えるまじないもある。元就は扇の呪法で凶日は終わったことにして厳島に渡り、陶軍を奇襲して勝利を勝ちとった。いい加減といえばいい加減だが、いい加減で片づけてしまっては歴史が見えなくなる。

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尾関章 『量子論の宿題は解けるか』 講談社ブルーバックス

 数年前、朝日新聞夕刊にヨーロッパの量子論研究の最先端を紹介するルポが掲載された。心の本性を脳細胞中の量子現象に求める仮説、普通のコンピュータで何千年もかかる因数分解を一瞬で解く量子コンピュータ、解読不可能な量子暗号、実験的に証明されるかもしれない多世界解釈、電子一個で情報を記憶する量子メモリーと、SFもどきの話題が次々と登場したが、新聞連載なのでさわりだけで終わり、欲求不満が残った。

 本書はその時の記者が連載に大幅に加筆して一本としたものである。割愛された原稿もはいっていて、第一線の研究者31人が登場する。新聞連載がもとだけにブルーバックスとは思えない豪華な内容だが、300ページを越える厚さでも食い足りない。これだけの内容だと倍の分量でも足りないだろう。

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治部眞理保江邦夫 『脳と心の量子論』 講談社ブルーバックス

 『量子論の宿題は解けるか』にちらと登場したペンローズの量子脳論を解説した本かと思って読んだが、そうではなかった。ペンローズよりも早く、別の方面からニューロンのマイクロチューブル(細胞骨格)に注目していた日本人研究者がいて、その説が紹介してある。

 ペンローズの先を越した研究者とは場の量子論の開拓者として知られる梅沢博臣と高橋康だそうで、マイクロチューブルにまつわりついているエバネッセント・フォトンの凝集体の変動に記憶の根源をもとめているらしい。記憶がシナプスに蓄えられるとすると、シナプスの数が記憶容量の上限になるが、最大50マイクロメートルの凝集体に蓄えられるとすると、記憶容量は無限になるそうである。エバネッセント・フォトンはきわめて質量が小さいので、摂氏50度程度まで量子状態を保持できるという。「量子状態」といっても、加速器で作りだしたり、宇宙からふってくる量子とは別もので、場の状態が量子のようにあつかえるということのようだ。

 スリリングな内容だが、書き方がいけない。『ミクロの決死圏』ばりにエルヴィン号という潜航艇で体内探検をするという趣向をとっているが、かえってわかりにくくなった。文章もくどくてダサイ。もっと普通に書いてほしかった。

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July 1998

治部眞理保江邦夫 『1リットルの宇宙論』 海鳴社

 1991年に出た本だが、『脳と心の量子論』でどうしても読みたくなり、三省堂でやっと見つけた。脳科学のコーナーではなく天文学のコーナーにあった。表紙にも背表紙にも「量子脳力学への誘い」と大きく書いてあるのだが。

 著者の一人の保江氏はプリブラムのホログラフィー脳論を研究していた人で、プリブラムから教えられて梅沢博臣と高橋康の場の量子論による記憶仮説を知ったのだという。記憶はホログラムに似ているというプリブラムの直観に裏づけをあたえてくれるほとんど唯一の理論がこの二人の仮説だという。

 「記憶は真空状態だ」という言葉が出てくるが、この場合の「真空状態」とは場の最小エネルギー状態のことだそうで、真空ポンプで作る真空とは関係がない。

 残念ながら、この本も文章がくどいし、宗教がかった印象もある。「真空」といっても、普通の「真空」とは違うのだから、その上にたとえ話をされるとわけがわからなくなる。

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グリビン 『シュレーディンガーの子猫たち』 シュプリンガー・フェアラーク東京

 『量子論の宿題は解けるか』で紹介されていた英国の科学ライターでSF作家のグリビンによる解説書である。ヨーロッパでベストセラーになったらしいが、ジョン・クレイマーの交流解釈という最新の理論を推している。

 メインの交流解釈はプロローグとエピローグで語られているが、真ん中の部分はどこかで読んだ話ばかりで新味に欠ける。マクスウェルの方程式の部分では時間を逆にしてもなりたつことが強調されるなど、交流解釈の前提が説明してあるが、ちょっとくどすぎる。。

 コペンハーゲン解釈では量子は複数の状態が重ねあわされた宙ぶらりん状態におかれ、観測がおこなわれてはじめて、どれか一つの状態に収束するとされる。量子の世界だけだとピンと来ないが、観測者がいないと状態が定まらないというのは実はとんでもない話で、それはシュレーディンガーが考えた猫のパラドックスを考えてもわかる。

 観測者も量子でできているのだから、観測者自身、誰かに観測され、量子状態が確定しなければ観測はできない。こうして観測の連鎖をたどっていくと宇宙の外に全能の観測者を想定しなければならなくなる。

 このあたりは従来形而上学あつかいされていたが、最近のハイテクで量子一個一個を操作できるようになると、現実のものとなり、物理学者はパラドックスに直面せざるをえなくなった(『量子論の宿題は解けるか』に詳しい)。

 交流解釈によれば、量子は他の量子と相互作用をすると、超高速の量子(タキオン?)を発生する。光よりも速く動く量子は相対性理論では時間に逆行して動くと考えられる。粒子は相互作用した量子が発生した時点の過去にもどり、未来の情報を伝え、原因と結果の間に交流が成立するのだという。量子はあらかじめ結果を知った状態で誕生するというわけだ。

 著者はこれこそ決定版と自信たっぷりだが、コペンハーゲン解釈や多世界解釈と五十歩百歩のような気がする。こういうSFもどきの理論を考えださなければならないほど量子のパラドックスは深刻らしい。

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ペンローズ竹内薫茂木健一郎 『ペンローズの量子脳理論』 徳間書店

 意識の謎を量子重力理論で解こうというペンローズのインタビューと二本の論文を中心に、宇宙論を研究している竹内薫氏と、脳を研究している茂木健一郎氏が長い解説を書いて一冊にまとめた本である。

 なぜ脳に量子力学が出てこなければいけないかは『皇帝の新しい心』を参照。分厚い本で、読みかけで三年ほどほうってあるが、人間の意識は計算不可能だということがみっちりと書かれていて、計算不可能なプロセスは古典論の世界には存在しないから意識現象には量子論がかかわっていると結論しているらしい。

 ペンローズはその後ハメロフの示唆で量子現象の起こる場所がマイクロチューブル(細胞骨格)だという説をとなえ、『心の影』を書くが、こちらは未訳である。本書のインタビューは『心の影』刊行時のもの、ハメロフとの共同名義の「意識は、マイクロチューブルにおける波動関数の収縮として起こる」は『心の影』の説を要約したもの、「影への疑いを越えて」は「Psyche」に投稿された反論に再反論したもので、本書には『心の影』以降の考え方が略述されている。

 竹内・茂木両氏の解説でペンローズの言わんとすることは漠然とながらわかるが、「意識は、マイクロチューブルにおける波動関数の収縮として起こる」という説にはデカルトの松果体説に通ずるちぐはぐさを感じる。

 ペンローズは脳細胞のマイクロチューブルにだけ意識を生みだす量子収縮がおこり、肝臓などそれ以外の臓器の細胞ではおこらない理由を説明するのに苦労しているが、脳にしか意識がないと決めつけるのは西欧人の偏見ではないか。仙道やヨガでは内蔵にも、手、足にも、意識があると考える。

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ペンローズ 『心は量子で語れるか』 講談社

 『心の影』刊行の翌年、タナー講演としておこなった一連の講義を活字に起こし、ホーキングら、三人の科学者・哲学者の反論とその答えを本にまとめたものである。原題は『大・小・人間の心』で、第一章は宇宙論、第二章は量子論、第三章は量子脳理論をテーマにしている。

 出た直後、読みかけたのだが、一般向けの講演とはいっても、さっぱりわからず、ほうり投げた。『ペンローズの量子脳理論』を読みおえてから、もう一度チャレンジしたのだが、あいかわらずよくわからない(笑)。天才は困ったものである。

 ペンローズは観測がおこなわれなくても量子状態の重ね合わせが自動的に収束するという客観的収束(Objective Reduction)という説をとなえている。マイクロチューブルで起こる一連の客観的収束が意識の流れを形成するというわけだが、客観的収束理論で、アスペの実験などが本当に説明できるのだろうか。

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小島郁生加藤秀 『オウムガイの謎』 ちくまプリマーブックス

 1976年7月、よみうりランド水族館に、ニューカレドニアから、オオベソオウムガイが六匹やってきた。オウムガイはタコやイカの仲間だが、美しい貝殻をもっているので、最近はあちこちの水族館で飼育されている。だが、当時は生態がほとんどわかっておらず、世界でも飼育例は数例にすぎなかった。

 オウムガイは中生代に繁栄したアンモナイトの先輩にあたる生物で、現在はフィリピンからニューギニア、オーストラリアの200メートルから600メートルの比較的深い海底に棲息している。アンモナイトとの生存競争に敗れ、深海に追いやられたために、絶滅をまぬがれたらしい。

 よみうりランドは一回目の飼育で241日生存という世界記録をうちたてたが、この快挙に、アンモナイトや貝類学、生態学の研究者がジェコルンという支援グループをつくり、オウムガイの共同研究をはじめることになった。本書はその成果を紹介している。WWW上にもオウムガイのページがあるが、一冊の本にはかなわない。

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中村雄二郎 『述語的世界と制度』 岩波書店

 著者は15年ほど前から西田幾多郎の読み直しをすすめているが、本書はその成果をふまえた独自の哲学の展開で、すこぶる啓発される。

 「述語的世界」は聞き慣れない言葉だが、主語・主体のみをあつかってきた従来の哲学に対する反措定で、西田の「場所の論理」の現代版といえる。主語・主体中心の西洋哲学に対し、主語・主体をささえる「述語」・「場所」の哲学を構築しようというのである。質点中心の古典的力学から「場」中心の量子力学への転換を考えれば、わかりが早いかもしれない。

 西田は日本独特の精神世界を「場所の論理」として言語化したが、いきなり「絶対無の場所」へ飛躍したためになんでもありの神秘主義におちいってしまった。中村は「場所」が制度によって拘束されている点に注目し、制度の分析を通じて歴史的世界の具体的な姿に迫ろうというのである。

 『共振する世界』には不満が残ったが、本書は『共通感覚論』につづく著者の主著といっていい。ただし、道はまだ半ばのようである。

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中村雄二郎 『日本文化における悪と罪』 新潮社

 『述語的世界と制度』と同時期に書かれたり、口述された文章を集めた本である。題名に「悪」と「罪」がはいっているのはオウム真理教事件を意識してのことだ。中村はオウム事件は単なる詐欺師集団にできることではなく、日本文化の根柢に根さした問題と考えている。

 田原総一朗氏は「目が澄んでいるから、彼らがやったはずはない」とオウムをかばったが、銀行不祥事や厚生省のエイズ禍を考えればわかるように、組織のためなら「澄んだ目」で悪事を犯すのが日本のエリートである。この根は深く、中村は西田幾多郎の『善の研究』の「至誠」から江戸時代の日本化した儒学、さらに「場所的権力」としての天皇制にまでさかのぼって日本人の「誠」崇拝を批判している。天皇制の支配は独裁権力ではないだけに見えにくいが、空気を支配することで異質な存在を徹底的に排除する恐ろしさがある。

 重複とくりかえしが多いのが気になるが、「誠という道徳的価値について」と「〈場所の論理〉と天皇制の深層」は広く読まれるべき論文だと思う。

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中村雄二郎 『悪の哲学ノート』 岩波書店

 悪は伝統的に存在の欠如とか、善にいたる途中段階とらえられてきたが、そんなことをいったら、シロアリやゴキブリを半端者と決めつけることになる。シロアリやゴキブリは人間から見て悪なのであって、自然の観点からいえば、分解という他にかえがたい役割をはたしているのである。

 スピノザは悪を関係の解体ととらえ、自分の生命力を弱めるものが悪だとした。このとらえ方なら、シロアリやゴキブリが人間にとって悪であることが説明できる。いろいろと応用もききそうである。しかし、悪の魅力は説明できない。

 中村は悪をヒュレー(材料)的なものと考えるグノーシス主義の考え方に接近していき、悪とは存在の過剰だという認識にいきつく。芝居好きの哲学者にして持ちえた洞察だろう。中村のいう述語的世界とはヒュレーの極であるから、本書によって『述語的世界と制度』の射程がより広がったといえよう。

 後半はドストエフスキー論になる。『悪霊』と『カラマーゾフの兄弟』を論じた部分は低調だが、最後の『白痴』論は読ませる。

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August 1998

岸田秀 『対話 起源論』 新書館

 『官僚病の起源』で岸田秀は復活をとげたが、ひきつづき「大航海」に連載されたこの対談集も快調である。以前の対談は岸田唯幻論で他流試合をいどむおもむきがあったが、この本では岸田は聞き役にまわって、おもしろい反応を引きだしている。もっとも、網野善彦との回では「あたらしい歴史教科書をつくる会」に名を連ねたことでとっちめられているが、これだけおもしろいと、それもご愛敬である。

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岡田英弘 『世界史の誕生』 筑摩書房

 岸田秀の『起源論』で一番おもしろかったのはモンゴル学者の岡田英弘氏との対談だった。

 遊牧民族の動向を中心に世界史を再構成しようという試みは今までもあったが、本書はまず歴史観の再検討からはじめる。著者によれば、歴史観には司馬遷が作った中国的歴史観(中華文明の正統が継承されていく)と、ヘロドトスが作った地中海型歴史観(ヨーロッパとアジアが闘争し、ヨーロッパが勝つ)の二つしかない。荒っぽいが、なかなか説得力がある。

 中国史は王朝が変わっても同じパターンのくりかえしで、アジア的停滞と言われているが、著者によれば、「漢文」と「正史」といいう歴史記述の枠組が踏襲された結果、「停滞」して見えるだけで、実際はヨーロッパ以上の変動があった。

 ヨーロッパでゲルマン民族が移動していた頃、中国は漢末の動乱で中原の人口が十分の一に激減し、その空白地域に鮮卑族が流入した。隋や唐の帝室が鮮卑族出身だくらいは大概の本に書いてあるが、支配される方も漢の時代の漢民族とは違っていたというのが岡田説の要点である。ゲルマン民族の大移動でヨーロッパの民族構成・言語構成が変わったように、「漢民族」と「中国語」の内実も変わったと断言する。

 南に逃れた正統漢民族の政権も実態はヴェトナム系やタイ系の民族の支配する地域に植民都市をいくつか確保した程度にすぎず、「漢民族」も「中華文明」も漢文と正史というエクリチュールの産物すぎないとする。これは十分ありうる話である。

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ハラー 『セブン・イヤーズ・イン・チベット』 角川文庫

 ブラッド・ピット主演の映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の原作である。白水社から同じ訳者による『チベットの七年』という翻訳が「全訳」として出ているが、中味は本書と同じようである。

 映画では高慢な男だったハラーが、脱走の試練とダライ・ラマの人間性にふれて成長し、最後に故国に帰って息子と和解するというセンチメンタルな作りになっていたが、この本にはプライベートな話はほとんど出てこないし、子供がいたことをうかがわせる記述もない。映画化にあたって独自に取材したのか、ドラマを盛り上げるための潤色かはわからないが、そういう要素がなくても本書は読ませる。

 ハラーとアウフシュタイナーはラサ滞在を許された数少ない西欧人だったので貴族の間でひっぱりだこになり、途中から政府の仕事をするようにもなり、いい待遇を受ける。それだけにチベット貴族の知性と洗練を哀惜をこめて美しく描き出しているが、改革を妨害した愚かさにまでは筆がおよんでいない。

 幕末や元寇襲来時に大騒ぎした日本人の感覚からすると、すぐそこまで中国の侵略が迫っているのに能天気にかまえているラサ貴族にやきもきするが、欧米の侵略にさらされた清や李氏朝鮮も同じようなものだった。岸田秀が『官僚病の起源』で指摘したように、植民地にされるのではないかという不安で内乱までおこした日本の方が異常なのかもしれない。チベットは吐蕃王国時代、長安を占領しており、白村江で唐に敗れ、国家をにわか普請した日本とは違うのだ。

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木村肥佐生 『チベット潜行十年』 中公文庫

 ハラーと同時期にチベットに滞在した日本人の回想録である。ハラーは1946年1月にラサにはいるが、著者は前年の8月30日に到着している。著者がラサを追放されたのは1949年6月、ハラーは1950年11月にラサを出ている。ハラーは元大臣ツァロンの邸に寄宿するオーストリア人登山家として言及されているが、両者の間に面識はない。ハラーは最上層の貴族に歓待されていたのに対し、著者はもう一人の潜入日本人、西川一三氏同様、モンゴル人巡礼を装って入国したので、接点はあるはずもなかった。それだけに『セブン・イヤーズ・イン・チベット』とは異なる角度からラサやチベット社会が描かれており興味深い。

 中国占領前のチベットにはいった日本人はほとんどが僧侶だが、著者は内モンゴルの実験農場で羊の改良にあたっていた人で、1943年に張家口の日本大使館の調査部にはいる。モンゴル語の能力をかわれて、特務機関にスカウトされたのだ。著者は西北公路の調査を申請して、公務としてチベットに向かうが、本音はボルガ河流域から天山山脈にもどったカルムイック・モンゴル人(キプチャク汗国の末裔で、レーニンの父親はその末流)に会いたかったのだそうだ。逃げてきたカルムイック人だけでなく、かつて勇猛をうたわれたモンゴル人は銃の登場以降、コサック兵に略奪をほしいままにされて、惨憺たる境遇に陥っていることを著者は目撃する。

 ラサ到着以降の生活はつねに金の心配がついてまわる。特務機関から支給された旅費はラサに着くまでに使いきっていた。ビルマに出て、日本軍に合流するつもりだったが、日本はラサに到着する直前に降伏している。同じ敗戦国の国民とはいえ、ダライ・ラマの家庭教師になったハラーとは大違いである。著者はモンゴル人人脈にたよったり、国境のインド側の町、カリンポンでチベット語新聞を発行する顔役の援助を受けたり、密貿易に近いことをしたりしてやりくりしている。まさにアジアである。詳しくは書かれていないが、チベット改革をめざす下層貴族の運動にも係っていて、そのためにラサを追放される。この本を映画化すれば『セブン・イヤーズ・イン・チベット』よりもおもしろくなるだろう。

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ダライ・ラマ 『ダライ・ラマ、イエスを語る』 角川21世紀叢書

 カトリックの瞑想グループがダライ・ラマを招き、福音書について語ってもらった記録である。講義ならいくらでも準備できるが、質疑にはその場で答えなければならない。いやでも自分のすべてが出てしまう。こんなことを頼んだ方もすごいが、引き受けたダライ・ラマもすごい。

 当たり障りのないことでお茶を濁しているわけではない。思いがけない解釈を示していてはっとさせられる。イエスが母と兄弟を否認するくだりを無執着の説明に使うなど、みごとだ。質疑応答も臨機応変にさばいて、間然するところがない。

 ハラーの『セブン・イヤーズ・イン・チベット』にダライ・ラマがセラ寺とデプン寺で口頭試問を受ける場面がでてくる。ハラーによれば、これは儀式でもやらせでもなく、その代のダライ・ラマが側近の操り人形で終わるか真の支配者になれるかは口頭試問で決まるのだそうである。現在のダライ・ラマはこの試練をのりきり、セラ寺の学院長を逆にやりこめたという。

 ハラーは14世贔屓だから話半分に受けとっていたが、本書の質疑を読んでいるうちに、あの証言は信じてもいいのではないかと思うようになった。14世は傑出した人物のようである。

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ダライ・ラマ 『宇宙のダルマ』 角川書店

 ダライ・ラマが1988年にロンドンでおこなった連続講義をまとめた本である。リチャード・ギアの序文がついているのは彼の尽力で出版にこぎつけたかららしい。

 第一部は中観帰謬論証派の流れをくむゲルク派(ダライ・ラマ自身の宗派)の立場からする教相判釈で、大乗仏教の教えを簡潔にまとめている。第二部は慈悲心を宗教者として語り、第三部は密教のさまざまな面を修行者として紹介している。ゲルク派の説に限定せず、他の宗派の考え方や経典をも積極的にとりこんでいるのは意外だった。第二部はゲルク派が伝統的に排斥してきたニンマ派の考え方を中心にしているし、第三部でもニンマ派のゾクチェンを大きくとりあげている。

 中国の侵略のために高僧が殺されたり、亡命を余儀なくされている現状では宗派間の対立はいっていられないという事情もあるだろうが、訳者の解説によると19世紀にリ・メという宗派をこえる運動がすでにあって、現ダライ・ラマはその精神を継承しているという。

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河合隼雄中沢新一 『ブッダの夢』 朝日新聞社

 あっというまに読み終えたが内容は深い。

 一口でいえば、霊性とはなにかを語りあった本だと思う。河合氏は援助交際がなぜ悪いかと問われて「魂に悪い」という名言を吐いたが、その「魂」について語っているのである。

 「魂」といっても、天上の世界に飛躍するわけではない。中沢は巡礼を語りながら、その場所へ実際に身を置くことの意義を力説するが、それは中村雄二郎が『述語的世界と制度』で論じた場所の問題に直結している。「魂」は場所の影響を受ける脆弱な身体性と不可分なのである。

 文字ではにアクセスできない種類の情報があるということを知る上でも、この対話は重要である。

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田中公明 『性と死の密教』 春秋社

 怪しげな題名だが、後期密教の教理史を確立した画期的な研究書である。著者は以前にも『ハイパー密教 時輪乗』という題名の本を出している。内容はいいのだから、この手の題名はやめてほしい。

 本書は土着的な宗教の儀礼が仏教にとりいれられ、教理的に洗練されていくプロセスを、生起次第と究境次第の両面で詳細にあとづけていて、実におもしろい。大枠としては従来からいわれてきたことでも、具体的に示されると、ドラマチックである。

 細かい評価は専門家にまかせるとして、注目すべきは身体技法でひきおこされる神秘体験の存在は認めながらも、神秘体験=悟りではないことを初期仏教にまでさかのぼって明らかにしたことだ。ここがわかっていないと、オウムにはまりこんだ理系の優等生のようになる。

 もう一つはタントリズムの源流となったインドの土着宗教の具体的な姿を「尸林の宗教」として明らかにしたことである。想像はしていたが、ここまでとは思わなかった。山田風太郎もびっくりのまがまがしさである。

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立川武蔵 『マンダラ瞑想法』 角川選書

 著者は『日本仏教の思想』(講談社現代新書)というすぐれた概説書を書いた仏教学者だが、霊能者と出会って以来、自分でも瞑想をはじめ、密教をみずからの神秘体験から見直そうとしているそうである。

 試み自体は立派だと思うが、あまりにもナイーブというか応対に困る。真面目一筋の人が中年になって悪い遊びをおぼえると深入りするというが、それに似た危うさを感じる。

 多少、この世界をのぞいたことのある者としていうが、著者の体験は初歩的なもので、偏っている。いくらリアルであっても、自分の狭い体験をもとに、ツォンカパの文殊顕現を憑依と決めつけるのはいかがなものか。

 著者が出会ったのは拝み屋さん的な町の霊能者である。密教の源流にシャーマニズムがあるのは間違いないが、なんの手続きもなしに同一視するのは無理がある。生起次第と究境次第を区別しない理由にもふれるべきだった。

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ゲンドゥン・チュンペル 『チベットの愛の書』 春秋社

 木村肥佐生の『チベット潜行十年』に、改革運動に加担したために投獄され、発狂したゲンドン・チョインペという僧が登場するが、それが本書の著者、ゲンドゥン・チュンペルである。

 本書は前半がチュンペルの性の指南書の翻訳、後半は英訳者でチベット学者のジェフリー・ホプキンスの解説で、著者の波乱に満ちた生涯にもふれている。チュンペルは活仏として育てられながら、伝統への反逆者として、さらには破戒僧として生きた。もっと詳しい伝記が読みたくなった。

 前半は『カーマ・スートラ』を思わせる典雅な文章でつづられており、20世紀になって書かれた本とは思えない。ホプキンスの解説は究境次第の知識をもとに書かれていて、それはそれでおもしろい。ただ、チュンペルは性のハウツーを書いたのであって、タントラの技法を書いたわけではないだろうと思うが、どうだろうか。

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1998年 4月までの読書ファイル
1998年 9月からの読書ファイル
Copyright 1998 Kato Koiti
This page was created on May 15 1998; Updated on August 31 1998.
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