ボリス・ヴィアン全集第一巻。没後に出版されたヴィアンの最初の小説で、妻を楽しませるために書いたのだという。日本語になっていない滅茶苦茶な訳文がつづくのだが、『うたかたの日々』の伊東守男が訳したのだから、原文がこうなのだろう。
階段の擬宝珠に隠された謎の秘密兵器をめぐって、スラップスティックな追跡劇がくりひろげられるということはかろうじてわかる。パーティーの喧噪と、地面の下で押しつぶされる強迫観念はまさにヴィアンだが、翻訳ではわからないところが多すぎる。原文を読んでもわからないのかもしれないが。
伊東氏による「すり切れた人生」という評伝がついているので、買って損はない。
ボリス・ヴィアン全集第十巻。「アメリカの三文作家が書いたバイオレンス小説の翻訳」というふれこみで出した戯作である。フランスで50万部を売り、映画にまでなったが、その後発禁処分になったいわくつきの作品である。
今回はじめて読んだが、本当に三文小説だった。幼児姦のくだりもあるから、当時としては発禁もやむをえなかったかもしれない。
白人に近い肌の色に生まれついた黒人が弟の仇をとるために、白人になりすまして裕福な姉妹に近づき、自分の肉体の魅力のとりこにし惨殺するという復讐譚だが、どろどろした印象はなく、軽快なパーティー小説になっている。三文小説を書いても、ヴィアンはヴィアンだなと思う。
わざわざ読むほどの作品ではないが、ヴィアンが試写中に急死したという映画版は気になる。
ボリス・ヴィアン全集第二巻。ヴィアンが本名で出した最初の作品である。前半は、『アンダンの騒乱』で披露されたパーティで女の子をものにする方法を地でいく話で、『墓に唾をかけろ』に通じるものがある。後半はお役所仕事をからかった話になるが、「カフカ的」とあえて言うほどではない。そんなことを言われたら、ヴィアンだってこそばゆいだろう。
役所の幹部が長電話をしていたら、三ヶ月たってしまい、その間に独仏戦争が勃発して終わっていたなんていうエピソードもある。軽快に疾走していく快さと狂騒的な高揚感は若さの特権か。
ボリス・ヴィアン全集第三巻は最高傑作『うたかたの日々』をおさめる。これは何度読んでもいい。傑作である。
執筆年代順に読んでみると、クロエと結婚した後の暗転がいっそう不可解に見えてくる。ヴィアンは「すり切れる」usureという語を多用したが、すり切れるよりも、押しつぶされ、身動きできなくなってくる怖さの方が切実である。
新潮文庫から『日々の泡』と題した曽根元吉訳も出ている。ずいぶん印象が違うので、ファンなら両方読んでいい。
ボリス・ヴィアン全集第四巻。ヴィアンの傑作というより世界文学の傑作といった方がいいが、執筆順に読んでみると突然変異的な作品という印象が強い。舞台となるエグゾポタミーという沙漠同様、この小説は謎めいており、ヴィアン世界の中でも孤絶している。
安部公房の解説は読みごたえあり。読むべし。
ボリス・ヴィアン全集第十一巻。ヴァーノン・サリバン名義の第二作で、やはり白人になりすました黒人を主人公にしている。黒人であることを隠すために殺人まで犯すのだが、結末で実は白人だったことを示す書類が出てくる。どんでん返しというような気のきいたものではなく、支離滅裂である。前作が裁判沙汰になり、人種差別主義者よばわりされたので、日和ったということか。
前作よりはハードボイルドが板についてきているが、その分、ヴィアンらしさはうすれている。
「犬たちと、欲望、そして死」という短編が併録されている。車で犬をはねとばすことに快感をおぼえる女性の話で、『北京の秋』の世捨て人のエピソードを思わせる。
ボリス・ヴィアン全集第七巻。ヴィアンの生前に出た『蟻』と、死後にまとめられた『人狼』から12篇を選んだ日本版独自の短編集である。
冒頭におかれた「蟻」でいきなりノックアウトされる。戦争文学というとおしつけがましく、臭い話が多いが、この短編の突きはなし方、突きぬけ方は尋常ではない。
「ホノストロフへの旅」、「良い生徒」など、『蟻』からとられた作品は毒がきつい。ブラック・ユーモアと呼ぶにはあまりにもヘビーである。
『人狼』の作品は軽妙洒脱で、フレドリック・ブラウンやシェクリイを思わせる遊び心があるが、「恋と盲目」、「のぞき魔」は口当たりのよさの裏側に狂気を秘めていて、エンターティメントの域を越えている。モーツアルトのディヴェルティメントに通じるかもしれない。
ボリス・ヴィアン全集第十二巻。ヴァーノン・サリバン名義の第三作。今回ははマッド・サイエンティストが登場するハチャメチャのSF活劇である。半分くらいまでは石川淳の『落花』に似ているかなと思ったが、それは誉めすぎで、後半は他愛のない艶笑譚になる。
美男美女を誘拐してきて、バイオテクノロジー(という言葉はまだなかったので使っていないが)で理想のクローン人間を作りだし、アメリカ乗っとりをたくらむ博士の陰謀をハンサムな学生が阻止しようとする(題名の『醜いやつらはみな殺し』は比喩ではない)。結末はまたしても支離滅裂。勧善懲悪にしないだけましか。
ボリス・ヴィアン全集第十三巻。ヴァーノン・サリバン名義の最後の作品。ワシントンの上流家庭の子女を食い物にする麻薬組織を、兄弟二人でやっつけるサスペンス小説だが、麻薬組織が女ばかりで、レスビアンを武器にしているとか、素人探偵の兄弟が女装して組織に近づくとか、ヴィアンらしい味つけがしてある。
四作の中ではこれが一番おもしろかったが、あいかわらず辻褄のあわないところが散見する(たとえば、兄の脛毛を処理しに来た中国人が、兄に会う前に襲われているのに、兄の脛毛が処理されていた、云々)。あまりうるさいことはいわずに、気楽に楽しめばいいのだろう。
ボリス・ヴィアン全集第九巻。詩集とジャズ評論集である。
詩集は翻訳で読む以上、隔靴掻痒はしょうがないのだが、さっぱりおもしろくなかった。「シャンソンとテキスト」というシャンソンの歌詞をあつめた詩集はまあまあ。
ジャズ評論はジャズを知らないので、ちんぷんかんぷん。ただ、ぶっきら棒な文体が快く、いつの間にか読み終わっていた。
ボリス・ヴィアン全集第五巻。記憶を消す機械の中にはいって、自分の人生を消していく主人公と、その友人たちのだるい日々を描く。記憶を消す際、記憶内容を一度思いだすので、はからずも自伝風になっている。『北京の秋』よりもさらに暗鬱。
機械は「ケージ」(「骨組と訳されているが、「檻」か「籠」の方がいいのでは)と呼ばれるだけで、どんな形かまったく説明がない。幻の人物にうながされて記憶をさかのぼるあたり、ジョディ・フォスターの『コンタクト』の機械に似ていなくもない。
ラズリーの消滅にいたる数章など、すばらしい部分もあるが、読みにくいのも事実だ。フランス語でも難物だそうだが、そのうち原文で読んでみたい。
ボリス・ヴィアン全集第六巻。ヴィアンの最後の小説だが、なんとも謎めいた作品である。詩人の自由が俗物や家族によって奪われていく話と要約しても、こぼれ落ちるものがあまりにも多すぎる。ヴァン・ヴォートの「非A」シリーズの影響もあるかもしれない(ヴィアンは「非A」シリーズを仏訳した)。
『赤い草』まではあった流露感がこの小説ではまったく見られない。文章はぶつぶつ切れ、砂を噛むような厭世観がにじみでている。一気に読みとおすのはつらい。つまらないわけではないが、袋小路にはいってしまったような閉塞感に気が滅入る。
ヴィアンはこの作品の後、三九歳で急死したが、長生きしたとしても次の小説は書かなかったのではないかという気がしてくる。
ヴィアン論は、この小説から出発しなければならないだろう。
ボリス・ヴィアン全集第八巻。晩年のヴィアンは劇作家として立つつもりだったらしい。小説は『心臓抜き』が最後だったが、その後も戯曲を精力的に書いている。しかし、生前上演された作品は『墓に唾をかけろ』の舞台化をふくめても二本だけだった。ここにもヴィアン伝説がある。
本書には三本の戯曲と二本のエチュードがおさめられている。
「最高の職業」は説教がうまいと人気のある神父がラジオ出演する舞台裏をからかって描いた短編で、カトリックの土壌のない日本では上演してもしょうがないだろう。
「メデューサの首」は抱腹絶倒の喜劇で、ウェル・メイド・プレイというべきだろう。妻が浮気をすることで創作意欲がかきたてられる作家が知る16年目の真実で、ヴァン・ヴォートの「非A」シリーズの影響が見られる。これは日本でも受けそうだ。
「帝国の建設者」は傑作である。ボルヘスの「バベルの図書館」のような無限につらなる建物の内部を逃げまわる一家の話で、腹にずしりとこたえるヘビーな作品である。
縮小の強迫観念は『うたかたの日々』につながり、シュミュルツという abjectは『心臓抜き』の延長だろう。この芝居はぜひ舞台を見てみたい。
中村真一郎の残した最後のまとまった小説論である。物語の祖である「竹取物語」から室町期の擬古物語「姫百合」まで50編以上の物語をとりあげるが、副題に「小説の未来に向けて」とあるように、小説の未知なる可能性を探るという視点から論じられている。『源氏物語』と『失われた時を求めて』の比較は中村がはじめたのだが(この比較は今では当たり前になっているが、国文学の世界ではずっと噴飯物あつかいされていたらしい)、本書ではさらに視野がひろげられていて、頽唐期ローマ帝国のギリシア語物語や中世ヨーロッパの騎士物語、近世の俗語物語まで縦横に引かれ、目の覚めるような議論がくりひろげられている。
晩年の中村にこういう本を書かせたのは、現代小説が行き詰まっているという危機感である。老人の繰り言と思う人がいるかもしれないが、中村がものを書きはじめたのは『失われた時を求めて』、『ユリシーズ』、『贋金使い』、『ファウスト博士』等々、20世紀を代表する小説が陸続と発表された時期にあたり、当時の熱っぽい雰囲気からすれば、確かに現在は鉄の時代どころか、粘土の時代、いやゴミの時代に見えて当然である。
鎌倉・室町期の擬古物語は、これまでの文学史では等閑に付され、専門的な研究者かよほどの好事家(晩年の澁澤龍彦も言及していたけれども)しか読まなかったのだが、中村の紹介によればよほど面白いものらしい。遺作となった「老木に花を」の元になった「苔の衣」も、もちろん、とりあげられている。一般向けの刊本がないのが苦しいが、読んでみたくなった。
付記 本書は1998年4月新潮文庫にはいった。増刷はありえないから、あるうちに買っておいた方がいい。
ありがちな謎解き本かと思って読みだしたが、『ヴェニスの商人』のシャイロックはピューリタンをモデルにしているという指摘が出てきて、おおっと思った。16世紀の英国ではユダヤ人は入国を禁止されていて、おおっぴらに金貸しなどできなかった。ユダヤ人の代わりに金融業を牛耳り、情け容赦のない取り立てをおこなっていたのはピューリタンだったというのだ。『ヴェニスの商人』はヴェニスが舞台だが、当時の観客はロンドンのこととして見たはずで、とすればユダヤ人にことよせてピューリタンをあてこすったことになる。『十二夜』のマルヴォーリオもピューリタンがモデルだというが、こちらは間違いなくそうだろう。
ピューリタンは英国の中でも浮いた存在だったが、問題は英国国教会である。カトリックは英国国教会と抜き差しならぬ対立関係にあった。
英国国教会というと、ヘンリー八世が自分の離婚のために作ったいい加減な宗派という印象があるし、カトリックの儀式をかなり残していて純粋なプロテスタントとはいえないと思いこんでいたが、すくなくとも16世紀から17世紀にかけてはカトリックと激しく対立し、カトリックに対して大変な弾圧を行なわっていたという。シェークスピアが17歳の時にはイエズス会のロバート・キャンピオンが処刑され、『十二夜』と『リチャード二世』が書かれた年にはカトリックのエセックス伯が反乱を起こし、『リア王』初演の年には国会議事堂を爆破しようというセシルの火薬陰謀事件があったという。カトリックはIRAなみの過激派だったのだ。カトリックは「国教忌避主義者」とか「教皇主義者」と呼ばれていたそうだから、宗教的異端者というより非国民というニュアンスが強かったのだろうか。
記録によると、シェークスピア一族には父親をはじめとして「国教忌避主義者」が何人もいて、17世紀後半に書きとめられた口碑ではシェークスピア自身も「教皇主義者」として死んだという(あくまで口碑にすぎないが)。
シェークスピアは王室の庇護を受けて興行している一座の座付き作者だったわけだから、本書の論証も牽強付会というか、苦しい部分が多い。すべてを鵜呑みにするわけにはいかないが、知っておいていい仮説だと思う。
十代で読んだ時はよくわからないままおもしろがっていたが、ヴィアン(ヴォートを仏訳している)をまとめて読んだついでに読みかえしてみた。
当時は、一般意味論という哲学を背景にした難解な作品ということになっていたが、今、読むと心理セラピーによって理想世界を作るという小説(最近でいえば『女王天使』あたりか)の元祖だった。コージブスキーの一般意味論は、すっかり化けの皮がはがれ、心理セラピーによる新興宗教の一種にすぎないことがわかったということもあるけれども、SFファンは単細胞だったので、ご大層な哲学があると買いかぶっていたのだ(S・I・ハヤカワなんてどうしているんだろう)。
作品としてはあらが目立つけれども、テンポの速さとオリジナリティはすごい。初期のディックはずいぶん影響を受けているし、トマス・ディッシュの『人類皆殺し』などこの小説の金星のエピソードのパクリだ。パクるというと聞こえは悪いが、腕に覚えのある作家なら上手に書き直してみたくなるようなアイデアがたくさん詰まっているのである。
これも十代の頃に読んだが、読みかえすとなかなかおもしろい。前作では夜の街でナンパしたパトリシア・ハーディーが大統領の娘だとわかって、あっと驚いたが、続編ではなんと銀河の支配者の妹だったとわかり、話が一挙に銀河系レベルに広がる。御都合主義もいいところだが、このいい加減なノリで最後まで読ませてしまうのだから立派である。
1940年代のSFはレンズマン・シリーズやスカイラーク・シリーズのように、話がどんどんどんどん膨んでいったものだった。スカイラーク号は最初はこぢんまりした宇宙船だったが、どんどん巨大になり、最後は惑星よりも大きくなってしまった。中学とか高校の頃はそれがおもしろかったが、大学にはいって読みかえすと単純に拡大再生産しただけなので、手の内が見え透いてしまい読むに耐えなかった。
『非A』シリーズもその伝だろうとたかをくくっていたが、単純な拡大再生産ではなく、小憎らしいひねりが効かせてあった。ヴァン・ヴォートは今でも読むに耐える。『非A3』という完結編があるらしいが、かなり気になっている。
この人の豊臣関係の小説はどれも今一だったが、これは傑作である。関ヶ原の合戦の一エピソードにすぎない田辺城の籠城戦から、古今伝授を手がかりに、スケールの大きな陰謀劇を作りだした手腕はみごととしか言いようがない。本能寺の変の推理や、大垣城で関ヶ原の勝敗が決まっていたなど、最近の研究をうまくとりこんでいる。細川幽斎と中院通勝の人物像も魅力的に描かれている。
出世作となった『彷徨える帝』では、京都の町衆が一揆軍の突入をはねかえす最後の部分がすごい迫力だったが、この作品でも細川ガラシャの自害にいたる大坂の細川屋敷の攻防と、田辺城の籠城戦が読ませる。籠城戦を描かせたら、この作家の右に出るものはあるまい。
『関ヶ原連判状』とほぼ同じ時期の黒田家の動きを、本多正純の視点から語ったもの。論功行賞にことよせ黒田如水の陰謀をさぐるという推理仕立てにして、偉すぎた父を持った息子たちを描いた野心作だが、理に走りすぎた。
関ヶ原以前と以後で、大名のスケールが目に見えて小粒になってしまったという着眼はいいが、推理仕立てにしたために予定調和でまとまってしまい、父子の葛藤に迫りきれなかった。
南北朝から室町期に材をとった短編集である。歴史小説ではあまり取りあげられない時期だが、後南朝をあつかった『彷徨える帝』で出た人だけに力作ぞろいだ。
大塔宮弑逆に追いこまれた足利直義の迷いを語った「兄の横顔」、高師直の皇室なにするものぞという心意気を活写した「狼藉なり」、皇室をしのぐ文化の主宰者としての足利義満の貫禄を一筆描きした「バサラ将軍」と読んでいくと、目下の中世史の話題である足利政権と王権のかかわりがくっきりと浮かびあがってくる。短編としてよく出来ているだけでなく、新しい中世像として興味深い。
最後におかれた「アーリアが来た」はパレンバンの太守から象が足利義持に献上された史実にもとづく作品で、象の運搬をとっかかりにのしあがろうとする男たちを豪快に語っている。アジアとの交易、日本海ルート、非農業民の活躍と網野史観を絵に描いたような作品だが、第一級のエンターテイメントになっているのがすごい。映像にしたらおもしろいだろう。
著者によれば、イスラム文化圏では乞食が大きな顔をしているそうである。『コーラン』に施しをすると天国にいけると書いてあるので、施される側は「お前が天国にいけるように、施しを受けてやっているんだ」と大きくかまえ、施す側も、慈善団体や政府機関を通すより、お金をじかに手渡しする方を好むので、いくら政府が乞食をとりしまってもなくならないらしい。
中世には乞食が口八丁でまんまとお金をせしめる話をあつめた「マカーマート」という文学ジャンルまであったそうだから(スペインのピカレスク小説のようなものらしい)、こうなると文化の一部なのだろう。
乞食は「バヌー・サーサーン」(サーサーンの末裔)と呼ばれているが、サーサーンとは、ゾロアスター教を国教としたササン朝ペルシャのことだという。八世紀に栄えたイラン系のバグワク家や、アラブ系非イスラムのガッサーン王家の末裔を称する集団もあるが、わざわざ非イスラムの名家に由緒をもとめるところに、乞食の自由民としての性格があらわれていると著者は解読する。こんなところにも網野史観の余波があったのかと思った。
昔、『鳩の翼』に出会ってヘンリー・ジェイムズに夢中になっていた頃、別の訳で途中まで読んでそのままになっていた。訳が読みにくかったということもあるけれども、『鳩の翼』の未熟な下書きのように見えて興味がもてなかったのだと思う。
今回、行方昭夫の新訳を読み、こんな傑作を読みのがしていたのかと愕然とした。訳がいいということもあるが、ヨーロッパの頽廃の中でアメリカ生まれのイザベルが清新な風を吹きおこし、澱んだ水に波紋がひろがっていくさまに陶然となった。これが文明というものか。
昨年、ジェーン・カンピオンが監督した映画が公開されたが、あまりいい評判を聞かなかったし途中で放りだした小説の映画化だったので、見のがしてしまった。見ておくのだった!
DVDでようやくカンピオン版『ある貴婦人の肖像』を見ることができた。素晴らしかった。映画館で見逃したのが悔やまれる。
IVCから出ているBBCクラシックス版の『ある貴婦人の肖像』も見たが、こちらはゴミだった。
ヨーロッパ在住のアメリカ人の間で顰蹙をかう娘の話で、今風にいえば「イエローキャブ」呼ばわりされ、在留邦人の間で爪弾きされる娘という見立てになるが、百年以上前の話だから、奔放な行状といってもかわいらしいものである。
他愛のない若書きと思っていたが、意外におもしろかった。若書きは若書きだが、若い時にしか書けない簡勁な強さがあって、晩年の委曲を尽くした精緻な作品とは違う魅力に引きこまれた。栴檀は双葉より芳し、である。
アメリカ文化の中心地だったボストンと女権拡張運動を戯画化したために、ヘンリー・ジェイムズの長編の中でも毀誉褒貶のはなはだしい作品である。
傑作だとは思わないが、わりと好きな作品で、理想主義をふりまわす人種を滑稽に描くあたり、シンパシーを感じる。ジェイムズはフェミニズムの創始者、エリザベス・ピーボディをモデルにしたとされるミセス・バーズアイをからかいながらも、臨終の場面では彼女を救っている。
アメリカ文学ではじめてレスビアンを描いた作品としても有名だけれども、『ある婦人の肖像』の裏返しと読むこともできて、ヒロインのヴェリーナ・タラントが男性をうけいれたイザベル・アーチャーなら、主人公のバジル・ランサムは成功したマートン・デンシャーであろう。痛快なラストシーンはやはり楽しい。
『鳩の翼』で後期ヘンリー・ジェイムズのすごさを知った後、なんとかして残りの二作も読みたくて、図書館の世界文学全集でやっと見つけて読んだ思い出がある。その後、国書刊行会から『ヘンリー・ジェイムズ著作集』が出て、その一巻として自分の本にできたが、しまっておくだけで読み返す機会がなかった。
今回、読み直して、後期ジェイムズの芳醇な世界にどっぷりつかり、たまらなく幸福だった。
一口に言ってしまえば、都会に勉強にやった跡取り息子が帰郷しようとしないので、変な女に引っかかったのではないかと心配になり、親戚のおじさんが迎えにいくという筋で、戦前の早稲田の作家が書きそうな話だが、「都会」がパリで、「田舎」がニューイングランドとなると、こういう見立ては効力を失う。文明の厚みとはどういうものかがよくわかる作品である。
この小説については、「群像」の来月号(1998年6月号)に「翼の蔭に」という文章を書いた。
絶版の「世界文学全集」と、やはり入手困難な国書刊行会の『ヘンリー・ジェイムズ著作集』でしか読めなかったが、最近講談社文芸文庫にはいった。お勧めである。