稲垣足穂いながきたるほ

加藤弘一

生涯

 1900年12月26日、大阪船場に生まれる。祖父、父ともに歯科医。小学校入学直後、明石の祖父母の家に移る。早くから謡曲と仕舞を習うが、博物学や天文学にも熱中する。12歳の時、須磨天神浜でアメリカ人飛行家の水上飛行を見て、飛行家になることを夢見る。1914年、関西学院普通部に入学。友人と「飛行画報」という同人誌を発行し、創作をはじめる一方、ホモセクシャルに目覚める。

 1919年、関西学院卒業後、飛行家になるために上京するが、果たせず、羽田穴守稲荷の日本自動車学校に入学、自動車免許を取得する(当時、自動車免許は珍らしかった)。

 1921年、ふたたび上京し、佐藤春夫の家の離れに仮寓する。翌年、「チョコレット」「星を造る人」「婦人公論」に発表。1923年、佐藤春夫の序文をえて、『一千一秒物語』金星堂からイナガキ・タルホ名義で上木する。同年、関東大震災にあい、西巣鴨の舞踏教習所に転がりこみ、十年近く世話になる。

 プロレタリア文学全盛時代にあって、稲垣の軽妙洒脱な作風は孤立していたが、おりから勃興した新感覚派の最前衛と目されるようになり、「文藝時代」の同人にむかえられる。文壇とのつきあいはなかったが、新感覚派に好意的な「文藝春秋」「新潮」、ハイカラ趣味の「新青年」を主な発表の場とし、1926年、『星を売る店』、1928年、『天体嗜好症』を刊行。男色という共通の趣味をもつ江戸川乱歩との交友がはじまる。

 1930年代にはいると酒と煙草に溺れ、中毒症状のために創作が滞る。生活は荒れ、居候先を転々とする。この頃、石川淳伊藤整と親しくなる。

 1940年、ホモセクシャル傾向を告白した自伝小説「弥勒」の一部を発表。翌年、チフスで大塚病院に入院。二ヶ月におよぶ隔離生活は後に「死の館にて」に書かれることになる。

 敗戦後、『弥勒』をかわきりに、『宇宙論入門』『悪魔の魅力』『彼等』を次々と上梓。1950年、京都府の児童相談所に勤める女性と遅い結婚をし、京都に移る。文壇からはいよいよ遠くなるが、「群像」、「作家」に「A感覚とV感覚」、「ライト兄弟に始まる」、「東京遁走曲」などを発表。1958年から全16巻予定の『稲垣足穂全集』を書肆ユリイカから出しはじめるが、7巻で中絶。

 1960年代後半、全共闘運動で世の中が騒然としてくると、再評価の気運が生じ、1968年の『少年愛の美学』『僕の"ユリーカ"』の上梓で、一躍注目される。翌年、『少年愛の美学』が第一回日本文学大賞の選ばれ、『稲垣足穂大全』(全六巻)の刊行がはじまる。

 1971年、自分カタログというべき『タルホ=コスモロジー』を刊行。同時に、大阪と東京で「タルホピクチュア展」を開く。長年書きためた本が次々と本になり、70歳を越して、社会現象となる。

 1977年、最後の本、『男色大鑑』を刊行。同年10月25日、結腸癌で死去。77歳だった。

作品

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This page was created on May11 2001.
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