1886年2月20日、岩手県日戸村に生まれる。父、一禎は曹洞宗の僧侶で、同村の常光寺の住職。母工藤カツは旧南部藩士工藤条作常房の娘で、一禎の師僧である葛原対月の妹。翌年、父が宝徳寺の住職になったのにともない、一家は渋民村(現在の玉山村大字渋民)に移る。啄木が故郷と呼ぶのは渋民村である。
5歳の時、一年早く、渋民村尋常小学校に入学。9歳で卒業すると、盛岡市内にある母方の伯父の家に寄寓して盛岡高等小学校に進み、1898年、盛岡中学校入学をはたした。当時、岩手の寒村育ちの少年としては、エリートコースに乗ったといえるが、盛岡女学校に通っていた堀合節子と恋愛におちいる。先輩の金田一京助、野村長一(後の胡堂)の勧めで作歌をはじめ、いよいよ学業に身がはいらなくなる。地元の岩手日報に短歌を発表し、天才少年ぶりを発揮するが、五年の時、二度のカンニング事件を起こす。1902年10月、卒業がおぼつかなくなった啄木は退学し、文学で身を立てようと上京。與謝野鐡幹・晶子宅を訪れ、「文學界」編集部に職を得ようと運動するが、あまりにも甘かった。翌年、帰郷。「明星」に「啄木」の名で「愁調」を発表。中央詩壇で注目され、「帝國文學」、「太陽」などの一流誌に作品が載るようになる。
18歳で第一詩集『あこがれ』を上梓し、堀合節子と結婚するが、父が宗費滞納のために住職をやめさせられ、啄木が一家を支えなければならなくなる。渋民村の高等小学校の代用教員となるが、ストライキを指導したために、一年で免職。1907年5月、北海道にわたり、函館で代用教員や地元紙の記者をはじめる。家族を呼び寄せるが、8月15日の大火にあう。小樽、釧路など、道内を転々とした末、1908年、家族を北海道においたまま、単身上京。金田一京助の世話になる一方、芸者にいれあげて借金を重ねる。もちろん、仕送りなどはしない。まことに自然主義的日々だが、この頃からローマ字日記をつけはじめる。ローマ字にしたのは放蕩生活の赤裸々な告白を妻に読まれたくなかったからだ。本人は妻を愛しているからこそ、読ませたくないのだと書いてはいるが、没後、啄木の意に反して、日記を公刊したのは妻のせめてもの復讐だろう。
1909年、同郷の記者の世話で東京朝日新聞社に校正係として入社、二葉亭四迷の全集の校訂にあたる。鷗外の知遇を得て、「スバル」創刊に参加し、名義上の発行人となる。ようやく家族を呼びよせ、本郷の理髪店の二階で新生活をはじめるが、嫁姑関係がこじれ、妻は盛岡に帰る。
1910年、大逆事件が起こり、衝撃を受ける。直後に「時代閉塞の状況」を、つづいて「無政府主義者陰謀事件経過及び付帯現象」と「'V NARODO' SERIES」を書く。「時代閉塞の状況」はその後の時代の趨勢を洞察した最重要の評論である。12月、第一歌集『一握の砂』を出版。三行わかち書きの趣好は歌壇に新風を巻き起こす。1911年、長詩「はてしなき議論の後」を発表し、第二詩集『呼子と口笛』の準備にかかるが、肺患が悪化。
1911年3月、土岐哀果(善麿)の尽力で、第二歌集『悲しき玩具』出版の話がすすむ中、母が肺結核で逝き、4月13日、啄木も同じ病気で死去。26歳だった。『悲しき玩具』が刊行されたのは6月である。