小説家、批評家、フランス文学者。1909年3月6日、相場師、貞三郎の長男として、東京に生まれる。1921年、青山学院中等に入学、プロテスタントの影響を受ける。1925年、成城中学に編入、富永次郎と出会う。成城高校に進み、19歳で小林秀雄にフランス語の個人教授を受けたのをきっかけに、中原中也、河上徹太郎を知る。1929年、京大仏文科に入学。早くから翻訳に手を染め、京大卒業後、文学活動をはじめるが、父の破産により国民新聞社に入社するが、翌年、坂口安吾の推薦で『スタンダール選集』の編集に参加。
父の死後、神戸の帝国酸素に入社、サラリーマン生活をはじめる。1943年、川崎重工業にかわるが、翌年、教育召集を受け、そのままフィリピン戦線に送られる。中隊本部附きの暗号兵として、ミンドロ島(ルバング島の隣)に駐屯。米軍上陸後、山中にはいるが、マラリアに感染。米軍に捕らえられ、レイテ島の野戦病院と捕虜収容所で10ヶ月の俘虜生活を送る。1945年12月、日本に送還。小林秀雄の勧めで『俘虜記』第一章となる「捉るまで」を書くが、占領中のため、発表は1948年になる。この間、「中原中也詩集」の編纂、スタンダールの『赤と黒』『恋愛論』の翻訳を手がける。
1949年、四章までをまとめた『俘虜記』で、横光利一賞を受賞。1950年、『武蔵野夫人』を刊行、小説家としての評価を決定的とする。1952年、フィリピン体験をさらに深めた『野火』で読売文学賞受賞。1961年、『花影』で毎日出版文化賞受賞。
1967年から二年半かけて『レイテ戦記』を連載。フィリピン戦線を詳細に跡づけた記録文学の傑作で、単行本、文庫と版を改めるたびに改定をつづける。『幼年』、『少年』、『中原中也』で人生をふりかえる一方、1977年には『事件』を発表。芸術院会員は辞退するが、推理作家協会賞は受けるあたり、大岡の面目躍如である。
1988年12月、脳梗塞のため、79歳で死去。