坂口安吾さかぐちあんご

加藤弘一

生涯

 小説家、エッセイスト。1906年10月20日、新潟市に坂口仁一郎の五男として生まれる。本名炳五。坂口家は阿賀野川一帯に勢力をはる大地主だった。父は石川淳『近世畸人伝』にあるように、五峰と号して漢詩をよくし、市島春城、会津八一と親交があったが、政界に乗りだし、政友会の金主となったために家財を傾けた。

 子供の頃は忍術に夢中になるガキ大将で、新潟中学にはいってからは文学とスポーツに熱中し、四年目に放校となる。東京の真言宗系の豊山中学転校するが、勉強嫌いは相変わらずで、インターハイでハイジャンプで優勝し、仏教に関心をもつ。

 1923年、父が死去する。1925年、豊山中学を卒業。勉強嫌いから大学受験をあきらめ、下北沢で代用教員になるが、仏教への憧れが高じ、翌年、東洋大学印度哲学科に入学。一転して猛勉強をはじめる。サンスクリット語の辞書はフランスのものしかなかったので、アテネフランセにも通いだすが、勉強のしすぎで神経衰弱になる。1930年、東洋大を卒業。江口清ら、アテネフランセの友人たちと同人誌をはじめる。

 1931年、「風博士」を発表、牧野信一に激賞される。第二作の「黒谷村」も島崎藤村、宇野浩二に支持され、ファルスの旗手として注目を集めた。創作の一方、フランス現代作家の翻訳も進める。不器用な恋愛の痛手から、1937年、長編『吹雪物語』を書きあげ、翌年刊行。日中戦争の激化で発表の場がすくなくなっていくが、宇野千代に認められ、彼女が経営するスタイル社を主な活躍の場とする。

 1946年、「堕落論」を発表。敗戦で虚脱状態におちいっていたインテリ層を堕落が足りないと叱る論調は熱狂的な支持を集め、文壇の寵児となる。この年と翌年、「白痴」、「桜の森の満開の下」、「教祖の文学」、「散る日本」などの代表作を一気に書く。もっとも稔りの多い二年間だった。1948年、ミステリにも筆を染め、いきなり『不連続殺人事件』という傑作をものするが、多忙からヒロポン(覚醒剤)と睡眠薬の中毒になり、翌年、神経科に入院し、伊東に転居する。

 1950年、「安吾巷談」と題したルポルタージュで好評を博す。「安吾捕物帖」を書きつぐかたわら、「安吾新日本地理」では紀行から歴史の新解釈に進み、『信長』などで独自の史観を披瀝する。

 健康の悪化とともに精神の平衡が失われ、競輪の不正の告発に夢中になったり、国税庁と喧嘩したり、理解できない行動が多くなった。1952年、終焉の地となる桐生に転居する。

 1955年2月17日、脳出血で死去。49歳だった。

Copyright 1999 Kato Koiti
This page was created on Nov01 1999.
作家事典
ほら貝目次