国文学者、民俗学者、歌人、批評家。1887年2月11日、大阪木津村(現在の浪速区)に折口秀太郎の四男として生まれる。折口家は石山合戦のおり、根来落ちする顕如上人を海岸の「降り口」に案内し、折口の姓をたまわったといういわれのある熱心な真宗門徒で、代々、薬屋をかねる医家をいとなんだが、祖父は大和の飛鳥坐神社の飛鳥直家から養子にはいった人で、神道とも縁があった。
天王寺中学入学にあたり、後に國學院で師事する三矢重松教諭から口頭試問をうけ感銘を受ける。16歳の時、父親が心臓麻痺で急死。この頃から学業がふるわなくなり、卒業が一年遅れる。
1905年、新設された國學院大学予科に入学。平田国学の学統につらなる三矢重松の薫陶をうける。新詩社に入門しようとするが、與謝野宅前で半日逡巡し、入門をはたせなかったという伝説が残っているが、歌風的に遠い根岸短歌会に出入するようになり、島木赤彦、伊藤左千夫の知遇をうる。
卒業後帰阪し、今宮中学の教員となる。柳田國男の『石神問答』、『遠野物語』に感銘を受け、柳田の主宰する「郷土研究」に報告を投稿しはじめる。後に『古代研究』の巻頭を飾る「髭籠の話」は同誌1915年4月号に掲載された。柳田は折口の「まれびと」論を決して認めなかったが、折口は終生柳田を師として仰ぎつづけた。
この前年、担任していた生徒の卒業とともに中学を辞めて上京。金澤庄三郎の国語教科書編纂を手伝うが、中学の教え子十数人が次々と折口を慕って上京し、下宿で集団生活をはじめる。折口は子供たちに作歌を教え、日本古来の魂の感染教育をめざした。
だが、仕送りのない教え子の生活費は折口が負担しなければならず、集団生活は一年半で頓挫する。帰阪を条件に実家から番頭が後始末にやってきたが、折口は東京にとどまり、教え子の一人の鈴木金太郎の下宿に移る。鈴木との同居生活は1934年まで20年以上におよんだ。
1915年、不如意を見かねた友人の勧めで『口訳万葉集』にとりかかり、わずか三ヶ月で万葉集全歌を口述で現代語に移す。同書は1916年三巻本で上梓され、折口の最初の業績となる。1917年に「アララギ」同人に推挙されるが、万葉集に詳しい歌論家として一目おかれたにすぎない。
国文学者としての折口の実力は國學院で早くから認められていたが、柳田國男の民俗学を標榜していたことから保守派にうとまれ、身分が安定しなかった。1919年、ようやく講師となり、三年後教授に昇進する。折口は終生國學院に在職し、多くの門弟を育てた。
1920年、柳田の勧めで中部山岳地帯を踏破し、山村の民俗を採集する。1921年と1923年には念願だった沖縄採訪旅行を敢行し、「まれびと」論を確立する。
1923年、島木と意見が対立して退会。翌年、『海やまのあいだ』を上梓し、歌人釈迢空の名を高める。同年には北原白秋の「日光」創刊に参加するが、同誌終刊後は、弟子を集めて「くぐひ」、「とりふね」を起こした。1930年、『春のことぶれ』を刊行。
この頃が折口の生涯でもっとも多産な時期だったが、コカイン中毒におちいり、同居していた鈴木と後に養嗣子とする藤井春洋が力づくでやめさせた。
1928年、慶応大学国文科の主任教授に招聘され、國學院と兼務する。慶応での弟子には山本健吉、池田彌三郎、戸板康二らがいる。1929年から『古代研究』三巻を刊行し、文学博士号をうる。
1939年、「日本評論」に『死者の書』を発表するが、まったく反響がなかった。
1944年、生活を共にしていた愛弟子、藤井春洋が再度の応召で、玉砕必至の硫黄島守備隊に配属されたのを知ると、柳田國男と鈴木金太郎を保証人に、藤井を養嗣子にする手続をとる。翌年、藤井は戦死する。この年、『古代感愛集』がなり、後に芸術院賞を受ける。
1953年9月3日、胃癌で死去。66歳だった。没後、その業績は全集と全集ノート編にまとめられ、目下、全集改訂版の刊行が進んでいる。