昨今、「パラダイムシフト」という言葉が安易に使われるきらいがあるが、本書は正真正銘のパラダイムシフトをもたらす本である。
1972年、ローマクラブが「成長の限界」というレポートで、石油はあと15年で枯渇すると予言し、衝撃をあたえた。その直後、石油ショックが起こり、原油価格が高騰、世界経済は混乱した。石油は海洋プランクトンの死骸が変成した化石燃料であるから、資源量に限界があると説明されれば、誰しもそれは大変だと思ったものである。
ところが、その後、石油埋蔵量はあと15年、あと15年と先延ばしにされ、もちろん、1987年になっても石油も天然ガスも枯渇することはなかった。今もって枯渇する心配はないらしく、最近では石油の燃やしすぎによる地球温暖化の方が懸念されている。
それどころではない。最近、深海底にメタンハイドレートという氷結したメタンが膨大に堆積していることがわかった。天然ガスに換算して、すくなくとも、数百年分のエネルギーをまかなえるほどだという。
そんな大量の炭化水素はいったいどこから来たのか? 石油や天然ガスは本当に化石燃料なのだろうか?
本書の答は明快である。星間物質には大量の炭化水素が含まれていることが知られている。木星や土星のような外惑星には星間物質起源の大量の炭化水素が残り、深い海と大気で覆われているが、地球にも惑星誕生時にとりこまれた炭化水素を地底深く蔵していて、それがじわじわと染みだしてきて、石油や天然ガス、メタンハイドレートになったというのだ。これを地球深層ガス説という。
石油無機起源説は1870年代からあったというが、細菌の痕跡と思われる有機物が含まれていたり、光学活性(偏光)を示したりすることから、「欧米で有力な見解
」は生物起源説一辺倒になっている。
著者は地下に地表とは別の生物圏を想定することで、この難点を一挙に解決する。地下の生物圏など、空想の産物に思えるが、そうではない。近年、メタンや硫化水素のような高エネルギーガスを餌にする好熱性細菌や100度を越える環境で繁殖する超好熱性細菌、古細菌が発見されているが、地下数キロのところから、そうした生物が続々と発見されているのである。
著者は地下5〜10kmに地底高熱生物圏があり、その下に星間物質起源の炭化水素が埋蔵されていると考えている。
地下生命説の核心は、上昇する炭化水素の根源が、地下生命のくらす最深部の領域よりもさらにずっと深いところにあるという点である。地底高熱生物圏は地下の深部にあるとしても、深すぎてもいけない。それはなぜか。どの生命も同様だが、微生物が代々子孫を残せる(幾何級数的増加率が得られる)のは、生命の存在するどこでも、それをささえるエネルギー源が「少しづつたえず」供給されていなければならないからである。いちばん初期の地下生命は食物供給量にそういった制約があって、それが増殖を抑えていなかったらどうだろう。その数の増加で、地質時代にすれば一瞬のことだが、すべてのエネルギー源があっとい間に食いつくされ、徐々に進む漸進進化の起こることもなかっただろう。
著者は生命の揺籃となったのは海の浅瀬ではなく、地底の岩の隙間だったろうとしている。驚くべき説である。
著者の説はスウェーデンで注目され、シルヤン環状地で試掘がおこなわれた。スウェーデンはバルト楯状地という花崗岩を基盤としており、生物起源説からすれば、絶対に石油がでない地域だが、シルヤン環状地は3億6千万年前に隕石が衝突した跡で、地殻に亀裂がはいっており、タールがにじみだしているという。
1987年6月、ついに石油成分をふくんだヘドロが地下6kmから出た(通常、油層は深くても5Kmまで)。このくだりは本書の中でもひときわ熱がこもっていて、著者は分析結果の出るのが待ちきれず、宿舎の備品を工夫して即席の分析をおこない、磁鉄鉱の結晶を確認する。好熱性細菌や超好熱性細菌は酸化鉄を還元して酸素を奪い、その酸素でメタンを酸化させてエネルギー源にする。磁鉄鉱は地下高熱生物圏の住人の排泄物らしいのである。
1990年4月には掘削泥水を循環させるポンプを稼働させ、地下6Kmから12トンの原油を取りだすことに成功する。この原油は大量の磁鉄鉱結晶を含み、粘度が著しく高かったので、商業化にはいたらなかったが、絶対にあるはずのない場所から石油を発見したわけで、著者の説はもはや無視できないところまで来ている。
『未知なる地底高熱生物圏』の12年前に発表された本で、主流の石油生物起源説に対し、無機起源説を主張した論争的な内容である。
論争であるから、どうしても話が細かくなる上に、地底高熱生物圏説にたどりつく前なので、石油に含まれる大量のホパノイド(細菌起源の有機物)の説明に苦慮している風がうかがえる。古細菌の発見は石油無機起源説にとって決定的な重要性をもっていたのである。
資本主義圏では石油生物起源説が圧勝していたが、ロシアではメンデレーエフ以来、石油無機起源説の学統が連綿とつづいていたという。ソコロフは1880年代にいちはやく瀝青宇宙起源説を提唱し、1933年代にはヴェルナドスキーは地下深部では、高圧のために炭化水素が安定に存在することを発見した。1970年代にはいるとポルフィレフ、クラフツォフ、クロポトキン、ヴァルヤエフといった学者が高温高圧下のメタンのふるまいを研究し、無機起源説を補強した。マルクス主義にも功はあったわけだ。
メタンは一気圧では800度で分解するが、一万気圧(地下30km)では1500度まで安定するという(ほとんどの地域では、地下30kmはこの温度以下)。
ここで考えているような高圧環境の下では、メタンは物理的には気体でありながら化学的には液体のようにふるまう。三〇キロメートル程度の深さの気体メタンの密度は、低温・低気圧における液体メタンの密度と等しくなる。高圧の気体メタンは良質の有機触媒となり、すべての液体炭化水素と多くの個体炭化水素を溶かし込む。メタンの比率が高ければ、粘性の小さい流体となって岩石の割れ目を通って容易に浸透していくことができる。
液体と同じ密度をもつ高圧ガス"超臨界ガス"は、すぐれた溶媒となることが多いことがこれでわかった。このガスの溶解力は圧力に大きく依存するという面白い性質をもっている。このため、このような流体が溶かし込んで運搬している物質は、圧力が低下する場所で突如として沈積されることになる(今日、超臨界ガスのこの便利な物性を利用して化学処理を行なう各種の方法が工業生産に応用されている)。
金属鉱床は熱水によって形成されたとされているが、超臨界状態のメタンのしわざかもしれない。
石油・天然ガスは地底深層ガス起源と考える人でも、石炭まで無機起源という説は受けいれにくいだろう。第一、石炭には化石が発見されているではないか。
ところが、著者はこう問いかける。
第一に、化石が完全に組織を残しているのに、化石と共存していたはずの、はるかに大量の植物の遺骸が組織をいっさい残さないまでに完全に破壊されたのはなぜか。一枚の葉、一本の小枝がその形態を完全に保持していながら、同じ堆積体に含まれていた他の葉や枝がのこらず均質な物体に改変されてしまうというのは奇妙すぎないか。
第二は、石炭物質は化石の組織を破壊することなく、いかにしてその中に入り込んだのであろうか。固体の石炭として入り込むことは無理であろう。黄鉄鉱化した化石と同様、石炭中の化石は注入作用の産物なのである。化石中の石炭物質は、ある段階で非常に希薄な液体となって植物の遺骸の組織の中に浸透することができたのにちがいない。ちょうど、珪化木が注入作用を経て珪化したのと同様に、炭化した植物遺骸も注入作用を受けたのである。
頭がくらくらしてくるが、炭層にメタンが充満していて、採掘の大きな障害になっているのは、たびかさなる炭鉱事故が示すとおりだ。著者は地下深くから湧いてきたメタンが炭層を形成したと主張する。
固体の炭素は炭化水素を解離させる触媒であり、温度・圧力など他の条件が炭素の解離と集積を起こさせるに近い状態となっている時には、ちょっとした固体の炭素の集合体が存在していれば、炭素が沈積してこれに付加していくため、炭素集合体がどんどん大きく成長していくことにある。おそらく、堆積層中に含まれ、ごく普通の量の鉱物を含む、正真正銘の"まっとうな"生物堆積物が出発物質となるのであろう。上昇するメタンの一部が、この出発物質にとらえられて解離し、化石は炭素によって充塡される。
石炭無機起源説のもう一つの根拠は炭田と油田・ガス田の分布が重なり、多くの場合、石炭層の下に油田・ガス田が眠っていることである。しかも、同一産地の石炭と石油には同種のホパノイドが含まれているという。生物起源説によれば、石炭は太古の植物起源、石油・天然ガスは海洋プランクトン起源だから、同じ場所に産するのは偶然でかたづけるにしても、同種のホパノイドを含んでいる事実は説明できない。
地下深層ガス説からは、温室効果が二酸化炭素よりも大きいメタンが従来の想定以上に地球に存在するという想定が出てくるから、地球温暖化にも大きな影響をおよぼすはずである。異端説などと片づけずに、真剣に検討すべきではあるまいか。
中国古代史の根本的な書き換えを提起した本である。
『史記』の年代に矛盾が多いのは古来から知られていたが、著者によれば年代を記載した2900ヶ所中、830ヶ所がおかしいという(実に1/3近く!)。矛盾点の多さもさることながら、2100年間、放置されていたことの方が驚きだった。
多分、歴史家が労を惜しんだということではあるまい。年代の矛盾を数えようとした人はすくなからずいたろうし、数えつくした人がまったくいなかったとも考えにくい。なんといっても『史記』なのである。おそらく、数える途中でやめたか、数えたものの、公表をはばかったということではないか。
なぜか? 『史記』の年代の矛盾をつきつめると、『史記』の権威のみならず、『春秋』の権威をも疑うことにつながるからである。
日本では新しい天皇が践祚すると、その日から元号が改まるが(立年称元法)、中国では新帝が即位しても、年内は同じ元号を使いつづけ、新年をむかえてから改元する。これを踰年称元法といい、五帝の昔から踰年称元法がおこなわれていたとされてきた。
著者によれば、中国でも戦国時代中期までは、日本同様、立年称元法がおこなわれていた。踰年称元法をはじめたのはBC338年、斉で称王した威宣王で、『春秋』とその三伝はその前後に書かれた。『史記』の年代に矛盾が多いのは、踰年称元法で書き直した『春秋』の年代と、立年称元法で数えられていた古記録の年代を混同し、矛盾を弥縫するために、人物や年代の取り違えを重ねたためだとする。
このあたりの話は著者の前著、『中国古代の予言書』に詳しいので、そちらにゆずるが、著者は『新編史記東周年表』で年代の復元を終えており、これまでうまく年代にはまらなかった金文資料がほぼ矛盾なくおさまったということである。
門外漢の悲しさで、こういう大変な仕事が同時代の日本でおこなわれていたことをはじめて知った。
ここまでは議論の前提部分で、本書の主題はその先にある。
『史記』を読んでいると、殷周時代と春秋戦国時代の違いが見えないが、鉄器の普及によって、社会構造が根本から変化している。都市国家はより大きな王国に併呑され、氏族による支配から、官僚による支配に移行していった。それにともなって、呪術的支配の道具だった漢字は、官僚支配の道具に変質していく。著者は文字の視点から、春秋戦国時代の社会構造の変化を追求している。
すこし長いが、最後の部分からキモを引いておく。
漢字を用いる場は殷の祭祀の場であって、これに従属する諸侯・諸族の側は、文字の世界には組み込まれていない。殷の意識としては、呪術を使って諸侯・諸族に威圧をかけ、漢字を交えて神と交信するのだから、文字と呪術の帝国でいいのだが、諸侯の側からすると、文字はまだ副次的な意味しかなく、呪術の帝国に従属しているにすぎない。呪術の帝国ということなら、漢字を用いていない大国と周囲の諸族の間で、すでに構築されていたものである。
その意味からすると、周王朝は、漢字を諸侯との関わりにおいて、より機能的に用いたと言えるだろう。青銅器を諸侯に分与することは、一方において殷から継承したはずの王都付近における霊的威圧儀礼とともに、周王を中心とする国家秩序の維持に寄与したはずである。しかし、一方において忘れてならないのは、周は銘文を青銅器に鋳込む技術を独占していたから、諸侯の側からすると、漢字はなかなか自分たちのものにならなかったことである。だから、実質的には殷代の諸侯・諸族の場合と似たような状況にあったとも言えるのである。
ところが、春秋時代になると、諸侯の側が青銅器に銘文を鋳込む技術をみずからのものとして漢字を主体的に用いるようになった。だから、この時点において、諸侯の側からいっても、文字が機能しはじめたのである。
これだけ斬新な説を立てると、風当たりも相当らしく、本書には随所にポレミックで挑発的な書き方が見られるが、雑音は気にせず、研究を進めてほしいと思う。
予言書というから緯書の話かと思ったら、そうではなかった。本書のいう「中国古代の予言書」とは『春秋』と、その改作版(!)である『左伝』と『穀梁伝』なのである。
通説では『春秋』は歴史書、『左伝』、『公羊伝』、『穀梁伝』はその伝(注釈書)ということになっている。『春秋』を孔子が編纂したと考える歴史学者はいないだろうが、それでも記事の終わるBC481年からほどない時期に成立したという見方が一般的だろう。『左伝』と『公羊伝』の成立はその一世紀後、『穀梁伝』にいたっては漢代までくだるという見方が有力のようだ。時間がたって意味がわかりにくくなったから、注釈が書かれたと考えられてきたのである。
ところが、著者は『春秋』の成立を百年以上下げ、BC4世紀後半――『左伝』と『公羊伝』が書かれるすこし前――に比定する。『春秋』に記載された年代は踰年称元法で一貫しているが、著者が『新編史記東周年表』で復元したところによれば、踰年称元法のはじまりは斉の威宣王の即位(BC338年)である。斉が踰年称元法を採用した後、いくつかの国が追随したが、旧来の立年称元法で通した国もあった(周もその一つ)。『春秋』のために古来から踰年称元法がおこなわれていたような錯覚が生まれたが、実際はBC3世紀の段階でも、決して普遍的な制度ではなかったのだという。
なぜ威宣王は踰年称元法を採用したのだろうか。威宣王は斉の一諸侯にすぎなかった田氏の出だった。田氏は下克上でのし上がっていき、ついに王を称するまでになったが、裏づけとなる権威がない。威宣王は自己の正統性を周囲に納得させる必要に迫られた。そこで注目されたのが、周の成王の故事である。
『春秋』によれば、成王は伐殷をなしとげた武王の嫡子だったが、武王が早く亡くなったために、周公旦が一時、政治をあずかり、成王が成人し、王としての德を見極めてから、即位させたとされている。成王は血筋によってだけでなく、德によっても正統だったというわけで、血筋の正統性を語るエピソードの中に、德による正統性という観念が巧みにすべりこませてある。
德による正統性を重視するなら、血筋の正統性をもたない者でも、王たる資格があるのではないか。ここに踰年称元法が歓迎された理由がある。
新君主は、前君主の死去にともなって即位している。即位しているのに年代の方は新しくならない。その間、新しい君主には「徳があるかどうか」見定められるという試練が与えられる。見定めるのは賢人である。この賢人は伝統的血脈ではなく「徳の有無」によって新君主が正統なる存在たり得るかどうかを判断する。その賢人も伝統的血脈とは無縁であることになっている。
結果としては例外なく新君主には徳があるということになって、めでたく元年を迎えることになる。言ってみれば茶番劇なのであるが、やっている当人たちにはまじめな問題だった。政権を支える者たちの輿論が納得し得る制度を、可能なかぎり綿密に組み上げること、それが学者たちに要請されたことであり、学者たちもその要請に応えた。その学者たちの中に、孔子の弟子たちが進出していった。
戦国時代には王を名乗る新たな実力者が次々と台頭したが、彼らは自己の権力の正統性を主張するために、踰年称元法を採用した。逆に周や楚のような正統の血筋がつづいた国では、古来の立年称元法のままだった。
そもそも、『春秋』の語る成王の故事ははなはだ怪しい。周公旦から成王へという権力委譲はあったかもしれないが、すくなくとも成王に「德」があったからという説明は無理である。「德」は篆文を見ればわかるように、もとは呪飾をほどこした目の象形であり、呪術的威圧行為を意味していた。「道德」につながるような「德」の意味は戦国時代後期に生まれたものにすぎず、そのことからも、『春秋』の成立はBC4世紀以降でなければならない。
『春秋』はBC481年の「獲麟」の記事で終わる。『公羊伝』は麒麟を「仁獣」とし、王者がいたることを示す瑞兆としたが、果たしてこの年、斉では威宣王の祖にあたる田常が君主の簡公を弑逆している。『春秋』と『公羊伝』は威宣王の即位を正当化するために創作された「予言書」だったと著者は考えている。
一方、『左伝』は「獲麟」では終わらず、二年後の孔子の死まで記述がつづき、田常の弑逆に対しては批判的に言及しているばかりか、
とすると、『左伝』は、誰が何のために書いたのか。
このあたり、古本『竹書紀年』とからめた謎解きはスリリングで、なまじの推理小説よりおもしろいが、ショッキングなのは夏王朝以来、連綿とうけつがれてきたとされてきた、天文定数によって算出する高度な暦が、後世の捏造と断定されたことである。
戦国中期に始まったこの正統論争の中で、「昔はよかった」という議論が始まる。「昔は周王朝も正統なる暦を用いていたが、いまはそれも廃れてしまった」ということで、現実に進んでいた周王朝の権威低下を、制度に照らして明かにしようとしたのである。現実を否定するため意図されたことであるから、当の周王朝があずかり知らない事実が、過去の栄光として次々に創作されていった。その栄光の一つが正統なる周の暦、すなわち後に周の暦だとされた周正である。
このことは、1920年代に、日本の天文学者がすでに証明していたというが、一般にはまったく知られていない。暦を使った占いは全滅である。
史書に対するこうした読み方は、『史記』にも波及せずにはいない。『史記』では王にすぎない項羽と、皇后にすぎない呂后に本紀を立てたことが古来、論議されてきた。いくら項羽が実力者だったからといって、秦の二世・三世皇帝と楚の義帝をさしおくのはおかしいし、呂后本紀も二人の幼帝のみならず、恵帝まで無視している。
項羽と呂后を皇帝に等しいあつかいをしたことを司馬遷の現実主義のあらわれと見る人が多いようだが、著者によれば、そんななまやさしい話ではない。著者は『史記』は漢王室の事業として作られた史書で、司馬遷個人の著作ではないとする。考えてみれば、当たり前の話だが、それが見えにくくなったのは、『史記』の正統観に対して含むところのある『漢書』のしわざだという。
問題は『史記』の正統観であるが、武帝の正統性を確認するためという動機はわかりやすい。漢は秦の
項羽と劉邦は楚の懐王の呼びかけに応じて挙兵し、秦を滅ぼした。天下を握った懐王は楚の義帝として帝位につくが、すぐに項羽に敗れている。義帝の死後、劉邦が皇帝を称したのに対し、項羽は「覇王」ということになっているが、「楚帝」を称した可能性が高い。その頃、南越では趙佗が即位し、越帝を称していた。
つまり、義帝の天下は、漢の劉邦、楚の項羽、越の趙佗に三分され、三帝が鼎立したという見方もなりたつのである。南越は形式的には漢と同格であり、地方政権とはいえ、武帝時代までつづいたことを考えると、その意味は小さくない。漢が唯一の正統とはいえない状況が百年近くつづいていたことになるからである。
漢と南越の対立の間にあって、独自の存在感を示したのは長沙王呉苪の一族だった。実際、呉氏は黥布の反乱の鎮圧に決定的な役割を果たしている。異姓の王が次々と粛正される中、長沙王家だけは特別あつかいで、閩越に隠然たる勢力たくわえていった。文帝の時代、後嗣がないことを理由に廃絶されるが、その直後に起きた呉楚七国の乱でも、呉王濞は呉氏一族に働きかけているという。宗家が廃されたとはいえ、閩越では隠然たる勢力を保っていたのである。
興味深いのは、これだけ漢初の安定に貢献したにもかかわらず、『史記』に呉苪の伝がないことである。項羽本紀と呂后本紀を立てる一方、呉苪を無視することで、漢帝国の正統性を相対化する南の王権の存在を有象無象の中に埋没させようという意図が働いているのかもしれない。
笑ったのは、唐に対する国書に「天皇」と署名するわけにはいかないので、「
長谷川三千子氏の『からごころ』で紹介されていた本である。同書は中国周辺民族がつくりだしたさまざまな疑似漢字と比較して仮名文字を論じた本だが、疑似漢字に関する知識は全面的にこの本に拠っている。
本書は新書ながら、字喃系文字(ベトナム周辺の少数民族も字喃を使っていた)、西夏文字、契丹文字、女真文字、水書、さらには最近話題のトンパ文字や、岸壁画文字と巴蜀の古代文字、四川省(巴蜀)から雲南にいたる地域で現在も使われている彝文をとりあげている。
彝文については、大谷大の片岡氏から調査の苦労をうかがったことがあるが、知識がなかったので、ポカンと聞いていた。本書で遅ればせながら彝文がとんでもない文字であることを知った。
『よみがえる文字と呪術の帝国』では漢字のような体系的な文字が突然出現するはずはないから、漢字のもとになった文字があるのではないかという疑問が提出されていたが、岸壁画文字と巴蜀の古代文字はその最有力候補らしい。
長谷川氏は疑似漢字の政治性に注目していたが、宗教性も重要な動機になっていたようである。水書などは、占いと儀式専用の文字で、呪術師の間でだけ伝承されてきたというが、甲骨文の時代の漢字も似たような状況だったろう。
中国周辺で考案されたさまざまな文字をコンパクトに概観できる得難い本であるが、紙幅が限られているので、叙述はどうしても概念的にならざるをえない。新書の制約上、図版が小さいのも残念であるが、類書のない貴重な本であるから、どうか再刊してほしい。
『漢字文明圏の思考地図』の二年前に出た本で、字喃が抜けているだけで範囲はほぼ重なるが、こちらは専門書なので、枝葉にあたる話が多い。『漢字文明圏の思考地図』と併読するとおもしろい。
それ以上に魅力的なのは図版が大判で、数が多いことである。どの文字も迫力があるが、中でも西夏文字はみごとだ。これほど美しい文字があったのかと、しばらく見とれた。
著者は西夏文字研究の第一人者で、『敦煌』の映画化では、西夏文字の監修にあたり、作中、趙行徳が編纂する漢語西夏語辞書を小道具として製作したそうである。
というようなエピソードもあるにはあるが、基本的に専門書であって、門外漢が読んでおもしろい本ではない。ラフな組み方で160頁ほどの小著なのだから、西夏の歴史や社会についての記述があってもよかったのではないか。
一度に六千字もの体系だった文字を制定できた舞台裏では、趙行徳のような志をえなかった漢人インテリの活躍があったと思われるが、部首の組み合わせや連合関係はあくまで西夏人の生活意識にもとづいているようである。金属関係の文字は金冠を含む会意文字になっていて、金冠に赤で「銅」、柔らかいで「錫」、作るで「真鍮」、優れるで「鋼」、細いで「針」、二つに切るで「鋸」、沸かすで「釜」、温めるで「鍋」だそうである。甲が「苗」の意味、乙が「芽」の意味だというのは、あのあたりでは樹木が育たないからだろうか。
西夏文字は1036年に六千字余が一挙に制定された人工文字体系であるが、その時点ですでに文語的な語彙群があったことを著者は発見したという。文字ができる前から文語があったというのはおかしな言い方で、正確には雅語というべきだろうが、原初の漢字が呪術的道具だったことを考えると、「文字以前の文語」という着想は想像力を刺激する。
最後に西夏人の生活を髣髴とさせる格言を引いておこう。
高い地に鷲が坐れば、矢の羽は邪魔になる
深い水に魚があれば、釣り糸は短い乾いた砂は、絞ってみても、水は出ない
澄んだ水は、濾してみても、滓は出ない昼は皆昼ならず、馬が馳せる昼は善し
夜は皆夜ならず、嫁が来る夜は善し担わずとも二つは重し、借財と死人の二つ
身につけずとも二つは暖かし、家柄と家畜の二つ狼は老いこみ、泣きたくとも、涙は出ず
鳥は大きくなり、咬みたくても、歯をもたず
これはもう砂漠の詩である。
西田氏と言語学者の河野氏の対談本である。三部にわかれていて、第一部は西田氏の著作に登場した話柄のおさらいである。第二部の最初でハングルの起源について、河野氏がつっこんだ話をしていて、ここから面白くなる。
ハングルは李朝朝鮮の第四代世宗が作ったことになっているが、実際に作業をしたのは世宗をとりまく若い知識人たちだったらしい。中でも中心人物と目されるのは、後に宰相となる申叔舟で、彼は漢語・女真語に通じていただけでなく、使節として足利時代の日本を訪れ(京都では苔寺を宿舎にした)、『海東諸国記』という報告書を書いているという。そういう国際的な知識人でないと、ハングルのような考え抜かれた文字体系は作れなかっただろう。
もっとも、同時代の貴族はハングル制定に強硬に反対し、独自の文字をもつなど、日本や女真のような野蛮国のやることで、小中華たる朝鮮のやるべきことではないと主張したという。
『西夏文字の話』にすこしだけ出てきた「文字以前の文語」論が、河野という聞き手をえて、本格的に展開されているのは、対話の醍醐味である。
西田 甲骨文は、当時の口語からずいぶん掛け離れたものだと思います。しかしその掛け離れたものを書き表すときにその字形を創ったわけであって、その当時はたぶん口語を書き表そうなんてつもりは全くなかったと思います。つまりなにか概念的にこういうものを並べて書き残さないといけない。とくに占いが多いですから、占いのための基本的な事柄を書かないといけない。そのために、話し言葉からかなり遊離した、そういう文章語がそこで出てきたのではないか。
そのときには、文章語といういい方があたっているかどうかわかりませんけれども、口語から離れた別の概念だけ、書き表したいエッセンスだけを書いているという、そういうことが出てきたのではないか。あるいは、その字形に言葉を当てはめていったのかもしれません。
河野 なるほど、言語は介在しないわけですね。
西田 言語は介在するんですけれども、具体的に話し言葉と文字の間がずっと離れている。その離れたところに書き言葉というのが成立しているわけですね。
この後、ロシア語やチェコ語の二重文語を河野氏が持ちだし、平安朝の真名と仮名は二重文語にあたるのではないかと語っている。文字は、すくなくとも起源においては、音声をあらわす記号ではなかったかもしれないのである。
言語学の重鎮として知られる著者が、文字を論じた論文を集めた本である。
文字というと表意文字 vs 表音文字という対立を連想し、またかと感じる方もおられるだろうが、著者は表語文字という概念を打ちだし、表意文字 vs 表音文字という対立が錯覚に過ぎず、文字の本来の役割は語をあらわすことにあることをさまざまな表記体系で実証し、文字論の根柢を据えることに成功している。これからの文字論は表語の観点から論じられなければならないだろう。
表語文字という語は『電脳社会の日本語』の取材で片岡裕氏から教えていただき、これだと思ったのだが、にわか勉強の悲しさで、多分、こうではないかと思っていても、はっきり書くことができなかった。執筆中にもやもや考えていたことが、本書ではずばり、ずばりと指摘されていて、読みすすむにつれ、頭の中がきれいに整理されていく快感をおぼえた。やはりそうだったのかと胸をなで下ろす一方、もっと早く本書を読んでいればと地団駄踏んだ。
これだけの透徹した論文を一冊に集め、世に出してくれたことに感謝するが、『文字贔屓』の転注の説明で図の番号だけ出てきて、肝心の図がなかったが、本書58ページの図版だとわかった。同じ編集者が担当したのだろうと思うが、こういう手抜きは困る。
甘ったるいだけで、炭酸の抜けたコーラみたいな本。粗筋の紹介に、若干の伝記情報(新情報なし)と、「わたしはファンなのよ」式の感想をまぜただけで、およそ中味がない。尾崎翠は作品がすくなく、伝記情報が限られているので、もともと本にしにくいのはわかるが、それにしてもお粗末だ。
出来の悪い批評のことを「読書感想文」と貶すが、この本は読書感想文以下だ。時間を無駄にした。
折口信夫とは因縁浅からぬ著者が、折口と先の戦争との係わりを批判した本である。
誤解のないように断っておくと、折口は決して戦争に協力したわけではないし、天皇個人崇拝のお先棒かつぎをやったわけでもない。しかし、著者によれば、天皇個人崇拝の基盤作りに手を貸してしまったというのである。
目次を見る限り、書き下ろしのようだが、実際はいろいろなおりに書かれた短文をつぎはぎしてあって、一様には読めないが、柱となるのは第一部では『古代感愛集』と『近代悲傷集』を戦争詩として読み直した第一章の後半。第二部では天皇非即神論だったはずの折口が「大嘗祭の本義」で天皇即神論に転向したと断罪した第四章の前半で、ひときわ力がこもっており、残りの部分とは文章からして違う。
第一章後半では、『古代感愛集』の敗戦をはさんでの改作を問題にし、折口といえども、天皇個人崇拝にとりこまれていたことを批判し、敗戦後の『近代悲傷集』で素戔嗚が復権されるにいたった必然性を説く。
第四章前半は本書で一番読みごたえがある。著者は「「大嘗祭の本義」にはまさに「鋭い洞察」が各所にちりばめられて、私には宝石箱だと思える
」と認めながらも、実証性の見地から、大嘗宮の寝具を、天孫降臨の時にニニギを包んだ
著者は新嘗祭祀の儀礼と、スサノヲの高天原追放が逐一対応することを指摘し、折口がそれに気づかなかったのは不可解だと断ずる。
一貫してとりしきるのが、天照大神であることはうごかぬとして、新嘗を冒瀆して天上世界から追放されるまでのスサノヲの存在は、いわば祭祀における遠心力のはたらく客神にあたる。これが原始大嘗祭のいつわらぬ劇的な構造の実質であったろう。
その"スサノヲ"を、"まれびと"論者の折口が、大嘗祭という新嘗祭祀で、遠来の招かれる神としては無視して、スサノヲならぬ、ニニギ(―ひいては天照大神)に大嘗祭の神を引き当てた。まったく不可解というほかはないことではあるまいか。
激烈な批判だが、著者は敗戦後、スサノヲ復権をはかった折口を再転向したとし、一定の評価をあたえているようである。折口直系の学者はこういう断定はしないだろうが、一種の批判的継承の試みといえるだろう。
著者は現代短歌の第一人者として知られているが、1947年から、その死までの七年間、折口信夫の家で起居して、身辺の世話を焼いた直弟子でもある(そういう弟子を折口は「家の子」と呼んだ)。著者にはすでに『折口信夫の晩年』があるが、本書は師の没年を越える年齢をむかえて、あらためて師を論じている。
学徒出陣する先輩を送る会で、折口の壮行歌の朗読を聞いた感動から語りおこし、自身の出征をひかえて国学の講義を受け、軍国主義的な国学観が一変した衝撃におよび、敗戦後へと筆を進めながら、折口の幼い日に思いをいたしていく。
そこに浮かびあがってくるのは折口の生涯における作歌の重要性である。釈迢空としての作品は現代短歌の一高峰であるが、学問の世界の業績があまりにも巨大であるために、ともすれば余技と見られがちな傾向があったことは否めない。
著者はそうした見方を否定し、折口学確立の重要な契機となった1920年の民俗採訪旅行が第一歌集『海やまのあひだ』の中核になる歌を生んでいる事実を指摘し、作歌による体験の凝縮がまれびと神の発見につながった機微を語る。
しかし何よりも大事なのは、こんな細々とした涯しもない山道を、山を越え山を越えしてたどり着いた奥にも、なお二、三軒の人の住む小さな字があって、しかもそういう人跡未踏のような地を周期的に訪れる旅人があるということを、折口が身をもって知ったことである。少年の日から、泣きべそをかき、死神の足音を背に感じながら、大和や河内の村の道をひたひたと歩きつづけて、古典と民俗の実感を育ててきた都会育ちの折口が、一層かすかな山の人生と、山の人生をおとずれるさらにひそかな、山のまれびとの旅の伝承せられていることを実感したのである。その実感を深め、表現の上に凝縮させてくるものに、和歌による日本人の情調のしらべと様式があったというわけだ。
この旅の間の手帖には「焼け土の道にはひたる葛の蔓こゆる道細くなりまさりたり
」という歌が書きつけられているという(「焼け土」とは焼畑耕作跡地)。
この歌を右の置く時、翌年の壱岐旅行の作とされてきた
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
というよく知られた歌は別の様相を見せてくる。短歌は折口学の核心だったかもしれないのである。
折口が「アララギ」同人になったのがよくわからなかったのだが、與謝野鐡幹宅の門前までいったが、半日逡巡した末に門をくぐれず、根岸短歌会に行ったという話が語りつがれているそうである。
当時の彼の歌柄から見れば、明星の門に入るのがもっともふさわしいのである。もし、学生時代に明星に加わって居れば、啄木とも会い、若き白秋とも接して、歌人としての活動がもっと自在に開けていたはずだが、その門の前まで行きながら、折口の中にあるもう一つの面のぎこちない潔癖性が、やがて短歌による鍛錬道をかかげて門弟にもその求道性を要求する、島木赤彦の方へ近づけてゆくのである。
これならよくわかる。
さて、「家の子」として、同じ家に起居していたとなると、あの方はどうだったのかという想像が浮かばざるをえない。著者が家に入った時には、折口はすでに晩年であり、直前に別の「家の子」と行き違いがあったので、その方面の欲求はなくなっていたということであるが、こういう一節を読むと、オイオイと言いたくなる。
あれはいつ頃からのことだったろう。はっきりと時を限って言えるものではないが、折口と同じ家に暮らしているうちに、もし先生がそれを求めるのならば、受け容れてあげてもよいという思いに、自然になってくるのであった。何度も逃げ出したいという、春洋さんもそういうここ頃の変化を持っていったに違いない。
折口は密教の相承伝授のように、弟子に写瓶しようとしたのではないかという山本健吉の言が引かれているが、げに恐ろしきは天才である。
「伝」とあるが、中味は「論」であって、いわゆる伝記ではない。
前著に、折口信夫が民俗学を選んだのは両親との葛藤が動機になっているという見方が示してあったが、本書ではそのテーマを本腰をいれて掘りさげている。すなわち、額に大きな青痣を負って生まれてきた自分を母の過ちの結果と思いこんだ折口は、母につながる自分を浄化しようとして、古代と民俗祭祀に向かったのではないかというのであるが、そこに時代がもたらした天皇個人崇拝と戦争の問題が重なってくる。
藤井貞和氏は『折口信夫の詩の成立』で、天皇非即神説だった折口が国家社会主義の奔流の中で天皇即神説に転向し、敗戦後、天皇非即神説に再転向したという明解な見方を示したが、著者によればそんな単純な話ではない。
人の扮した神だからまれひとといわれるのだとすれば、天皇非即神説であろうと、天皇が神になる瞬間があることは否定していないからである。まれびと論の観点からいえば、天皇非即神説と天皇即神説は、転向を云々するほどかけはなれたものではないのだ。
折口が日本人の神を「まれびと」の来訪に据えて見る考えと、まれびとをそれぞれの村へ時を定めて将来するために、人がまれびとに扮してまれびとの資格で、神話の時間、神話の空間をよみがえらせ、村人の篤い心のるつぼの中で発する呪言を、まれびと信仰の核に据える考えは、戦前も戦中も戦後も変わっていない。その都度まれびとに扮する資格を得るだけの試練を経る村の習わしと、特定の系譜の上にその資格者を限って、教義と儀礼と系図の裏づけによって論理化していった宮廷信仰とでは、大きな相違の姿が生じるのは当然のことだ。その宮廷信仰の様相にも折口は探求の心をとどかせたけれど、日本人の総体の「まれびと信仰」の上から見れば、天子もまた常には人であって、祭りの中枢の時に限って神としての資格を持つという考えに変わりは無いのである。
著者は折口の学説が天皇個人崇拝を相対化する、精神の拠点を提供したことを暗示する。すくなくとも、出陣学徒として軍隊にとられた著者自身にとってはそうだった。
著者は御師を兼ねた伊勢の神社に生まれたが、国家神道が蔓延するまでは、参籠して「大祓の祝詞」をとなえる氏子が多かったことを伝えている。「
」にはじまる罪を枚挙するくだりを声高にとなえていくことで、「身にまつわる罪・けがれのすべてが拭い去られてすがすがと
だが、日中戦争が長期化すると、内務省は天つ罪、国つ罪の条を省くように各神社を指導した。著者はこれは戦争遂行のためにおこなわれた思想統制の一環であり、「「生膚断ち・死膚断ち」などを己が身にふりあててとなえって省みる国民の永く深い宗教心を、国家の手をもって閉塞するための策であった
」と批判する。
その頃の夏休みに帰省していると、祖父の代から何十人かの講社の人を引きつれて参籠してゆく老人が父に向かって、「先代様はかならず、天つ罪・国つ罪の一つ一つをとなえてくださいました。あれを省かれては、祝詞の有り難さがなくなりますぞ」ときびしく迫って、養子に来た父を困らせているのを見た。思えばその頃から、日本人はみずからが久しく伝えて心を支えてきた信仰を、戦いに迎合させて変質させ、信じる力を閉ざしていったのであった。
社会主義の常であるが、天皇個人崇拝と国家社会主義は、日本古来の信仰を踏みにじり、圧殺したのである。
敗戦後の折口は日本古来の信仰を甦らせ、戦争で生まれた多くの未完成霊の心の鎮めをはかることにおかれるが、ここで問題になるのが、神道を人類教に昇華させようという最晩年の主張である。
当時、折口の身辺にあった著者自身にすら、真意をつかみかねるところがあるらしいから、その意義が彰かになるにはもうすこし時間が必要なのだろう。
この夏は太平洋高気圧にくわえて、靖国問題と歴史教科書問題が猛威をふるい、ひときわ暑苦しい夏だった。
もちろん、靖国神社は創建からして政治的な施設なのであるが、昨今の論議は、アジア諸国を巻きこんだ、元マルクス主義者の失業対策事業と意趣返しのようなもので、なんだかなぁと思うのだ。元マルクス主義者は社会主義総崩れで受けた屈辱で、たたり神と化している。心のケアを考えてやらないと、今後も悪さをしつづけるだろう。
アジアの指導者だって、国内事情から発言しているだけで、本気で日本の軍国主義復活を信じている人はいないだろう。東アジアで軍事的衝突が起こるとすれば、中国の台湾・ベトナム侵略か、第二次朝鮮戦争であって、日本が韓国や中国を軍事占領するなどありえない。
ただ、一連の靖国報道で、境内に大砲や潜水艇が陳列してあったりする奇怪な神社であることがわかったのはめっけものである。
好奇心がざわざわしていたところに、タイミングよく、本書が文庫化された。二年前の刊行時に話題になった本であるが、実に楽しい。
明治文化に造詣の深い著者だけに、いろいろ蒙を啓かれたが、まず、靖国神社の「合理性」に注目しているのは、問題の見通しを良くした。靖国神社はもともと明治維新の殉難者を慰霊するためにつくられた施設で、賊軍として死んだ西郷隆盛や旧会津藩士が祀られていないのは知っていたが、同じ会津藩士でも、まだ朝廷側だった蛤御門の変の時の戦死者は祀られているとか、日露戦争時に日本船に乗り組んで亡くなった英国人航海士まで祀られているという指摘には驚いた。国家のために死んだ人間はすべて合祀するという原則が、滑稽なほど杓子定規に貫かれているのである。
本書で一番の収穫は、ナショナリズムが庶民の猥雑なエネルギーに支えられていたということを、事実に即して教えられたことである。日露戦争講和に反対して、東京を焼討してまわった暴徒は、靖国神社で開催されるイカモノのイベントに熱狂したり、勧工場に群がったりする善男善女だった。
日本の人民は戦争指導者に騙されて、勝ち目のない戦争に突き進んだという神話は、田原総一朗の『日本の戦争』等々ですでに息の根をとめられている。庶民のエネルギーの恐ろしさをよくよく考えるべきだ。
靖国神社で奉納相撲というと由緒ありげだし、元マルクス主義者の面々はここぞとばかり声を荒げそうだが、著者はただ一回だけおこなわれた力道山の奉納プロレス(小人の試合まであった!)とからめて、相撲と靖国神社のイカモノ的からみあいを解きほぐしていく。もともとそういう見世物の場であれば、奉納相撲の結びの一番をハワイ出身の小錦がとっても、誰も不思議には思わないわけである。
文庫版のための「あとがき」では、首相の公式参拝の変質が指摘されていて、またも蒙を啓かれた。首相の靖国公式参拝が、占領時代の1951年以来、なんら批判を受けることなくおこなわれてきたというのは、公式参拝肯定派の言うとおりだったが、ただし、参拝したのは春秋の例大祭であって、8月15日ではなかった。靖国神社の側からいえば、8月15日は特別な日ではないというのも、本書で教わった新知識である(8月15日に参拝し、政治問題化させたのは、目立ちたがり屋の中曽根康弘だった)。
著者はメルロー=ポンティと現象学の紹介で著名な哲学者だが、象牙の塔型が多い哲学業界の中では異例の波瀾万丈の前半生をおくっている。
海軍兵学校出身というのも珍らしいが(作家にはいるが、哲学者ではこの人くらいか)、在学中に敗戦をむかえ、闇屋になって食いつなぎ、世情が落ちついたところで農業専門学校にはいるが、ハイデガーの『存在と時間』を読んで哲学が勉強したくなって東北大に入学しなおしたという。『ハイデガー『存在と時間』の構築』を読んでただ者ではないと思ったが、やはり横のものを縦にするだけの思想輸入業者ではなかった。
こういう数奇な生き方をしていれば、偶然とは思えないような「偶然」に出くわしたことも一度や二度ではないだろう。偶然と運命に関心をもつのは必然といえる。
ただし、本書は偶然が必然のように見えてくるのはなぜかという「運命」の現象学であって、オカルトすれすれのところを疾走するが、オカルトにはおちいらない。『偶然性と運命』という題からすると、ちょっと羊頭狗肉の感がなくはない。
本書の一番の読みどころは、ハイデガーを導きにしてドイツ観念論の肝の部分をつかみだした条である。なぜドイツ観念論かというと、近代にあってライプニッツ、カント、ショーペンハウアー、ニーチェ、ジンメルという系譜の哲学者だけが、「偶然」「運命」を問題にしたからである。
生 を根源的存在と見る<ドイツ形而上学>は、自然を生きて生成するものと見る。当然のこと、因果関係は認めるとしても、それを機械論的なものとは考えない。この系譜に属する思想家たちは、どうやら機械論的因果関係とは異なる因果関係、あるいは機械論的必然性とは異なる必然性を<運命>と呼び、その背後に<生>の意志を見ているように思われる。
思想輸入業者にはこんな思い切った見方はできまい。シェリングについての次のくだりもすごい。
シェリングは、事物の合理的な本質存在は神に由来するが、非合理な事実存在が神に由来することはありえず、それは神よりももっと根源的な「神の根底」に由来すると考える。そして彼は、この神の根底を「神の内なる自然」と呼んでいる。<神>というのが気に入らないのであれば、<理性>と言いかえてもよい。つまりシェリングは、神(理性)を究極的なものと考えるのではなく、その神(理性)がそこから立ち現れてくるもっと根源的な自然を想定し、それこそが究極的な存在だと考えるのである。自分の内から神(理性)を出現させる自然は死せる物質的自然などではありえない。それは生きた自然であり、その生の衝動、
意欲 こそが根源的存在 だと言いたいのである。
ハイデガーの時間論についても、みごとに一筆描きしている。
彼もまたいわゆる客観的時間の根底に<主観的>と言えそうな時間を据えるのではあるが、しかし彼はベルクソンの<純粋持続>やフッサールの<意識流>のようないわば自己閉鎖的な意識の流れに即して時間を考えるのではなく、<世界>を構成するような機能をもつ、いわば外に開かれたものとして時間を考えている。彼は時間のこうした性格を<脱自的>という妙な言葉で言い表す。この言葉は、<我を忘れる・忘我・恍惚>といった意味のギリシア語<エクスターシス>に由来するが、彼はこれを<外に-出で立つ>というこの言葉の原義にそって理解し、これによって、時間が自己閉鎖的な意識などとは無縁で、おのれを抜け出し世界の構成にあずかる存在構造だということを言わんとしているのである。
『ハイデガー『存在と時間』の構築』に難渋した人は、本書を読んでから読みかえすといいだろう。
出隆の『哲学以前』の向こうを張った哲学入門かと思ったら、雑文集だった。自伝的エッセイあり、書評あり、哲学概論あり、追悼文ありと盛りだくさんだが、原稿を量産している人ではないので、一つ一つの文章が充実していて、雑文集などといっては失礼にあたる。
自伝的エッセイでは『偶然性と運命』の発想のもとになるような記述がある。同書ではオカルト的な興味を抑制していたが、本音はオカルトすれすれのところにあったのだ。
書評では哲学以外の本の方おもしろい。二葉亭四迷が訳した「四人共産団」という滑稽小説、山田風太郎の明治もの、上山安敏のドイツ史もの等々、食指の動く本ばかりだ。笠井潔の探偵小説・伝奇小説を絶賛しているのも気になる。今度、読んでみようか。大塚博堂ファンクラブの話は楽しい。
後半は哲学の話題にもどるが、切口が新鮮で、哲学講談として一流である。「西欧的知と自然」ではデカルトからスピノザ、マールブランシュを経て、ライプニッツにいたる展開が、カントからフィヒテ、ヘーゲルを経てシェリングに向かうドイツ観念論の展開と、フッサールからサルトルを経てメルロ=ポンティに向かう現象学の展開で反復されていると指摘している。
正・反・合の図式と似ているが、ライプニッツ、シェリング、メルロ=ポンティのポジションが「原自然の復権」にあるという見方は透徹している。
ルカーチが『若きヘーゲル』のなかで、折にふれてですが、従来マテリアリスムスという名で呼ばれてきたものは、無機質的物質を究極の実在だと主張する立場であるよりはむしろ、単なる素材におとしめられてしまった原自然の復権の試みだというようなことを言っていましたし、ハイデガーも、どこかでマルクスの弁証法的唯物論という時のマテリアルは、物質というより労働の素材の意味に解すべきだ言っていましたが、そうしたかなり屈折したかたちでの原自然復権の試みは、歴史を通じてつねにあったわけですし、もっと率直なかたちでは、近代においてもルネサンスの生命的な自然観以来、いわば哲学史の裏街道とでもいった恰好で一貫した流れをなしています。
半村良の『産霊山秘録』の「ムスヒ」からギリシア的なフュシスをたぐりよせるという技も、哲学者離れしている。だてに波瀾万丈の前半生をおくったわけではない。
最後に追悼文がならぶが、斎藤忍随、細谷貞雄をしのぶ文章は読ませる。
20世紀の思想の動向を決めたといっていいフロイトの『夢判断』とフッサールの『論理哲学研究』は1900年という切りのいい年に出たが、実はどちらも1899年中に刷り上がっていたのに、1900年出版にするために、わざと配本を遅らせたのだそうである。フロイトならいかにもやりそうだが、フッサールまでゲンをかついでいたというのはおやおやである。昨年はたいした本がなかったが、21世紀最初の年である今年は中沢新一が『フィロソフィア・ヤポニカ』を出している。やはりゲンをかついだのだろうか。
大河ドラマ『時宗』は目下、文永の役に来ているが、TVの時宗は博多が陥落したら降伏するなどと無責任なことを言っていた。原作者は蒙古の属国になることが何を意味するかわかっているはずで(『風濤』ぐらいは読んでいるだろう)、わかっていながら、あのような左巻きの世迷いごとを時宗に語らせるとは無責任すぎる。戦後似而非平和主義の病弊は相変わらずである。
著者はどちらかというと左派に属する歴史学者らしいが(というか、戦後の日本史業界には左派しかいなかった)、『神風と悪党の世紀』という、新書ながら中味の詰まった歴史叙述をものしていて、ずっと気になっていた。
本書は元寇そのものよりも、元寇によってもたらされた日本社会の変質に焦点をあわせている。蒙古の侵略をはねかえすために得宗専制体制が強化されたというところまでは通説を踏襲しているが、従来、「悪」という先入見で語られることの多かった得宗専制に一定の評価をあたえている。
蒙古の脅威を前にして、朝廷は終始無責任な対応に明け暮れ、強い意志のもとに一貫した路線を選択したなどとは到底いえない。政策の相違ではなく、火中の栗を拾う意志の有無に帰していた。当時の朝廷には、外交権を幕府に奪われたという感覚はなく、やっかいごとを引き受けさせた安堵が広がっていた。もっとも、無責任集団という点では、幕府の内部も同様であった。大半の武家は戦争の選択をして後なお腰が引けていた。このとき、好むと好まざるとにかかわらず、断固として責任ある選択をした一群の人々は決して多くはなかったのである。これが後年、得宗勢力とか得宗専制などとして史上に名を残すことになる集団である。
この評価は安達泰盛(TVでは柳葉敏郎)の歴史的役割の見直しにもつながっていく。通説では安達氏は最後に残った有力御家人で、安達泰盛の死をもって合議制の時代が終わり得宗専制が完成したとされてきた。そこには、泰盛が失脚しなければ、得宗家への権力集中は阻止され幕府は滅亡せずにすんだろうという思いいれがある。
だが、近年の研究では泰盛こそが得宗勢力の中心で、蒙古の次の侵略に備え専制体制を強化しようとしたという見方が浮上してきているという。泰盛は古き良き合議制の代表者どころか急進的な武家一統政治の推進者で、中世的な重層した権利関係を一掃し法による一元的支配の確立を急いだために失脚したというわけだ。泰盛は早すぎた織田信長だったのかもしれない。
元寇は結果的に二回で終わったが、フビライ汗は三回目を計画していたし、日本側も「異国警備」をゆるめることなく戦々恐々としていた。武家一統の専制体制を緊急につくらなければならないという幕府首脳部の危機感には実体があったのだ。
泰盛の弘安新政は半ばでついえるが、法による公平な支配という理念は「徳政令」という形で中世日本に根づくことになる。
「徳政令」というと、現代人には超法規的措置のように見えるが、貨幣経済がまだ浸透していなかった中世では、財力は武力と五十歩百歩であり、借金のかたに領地をとるのは、武力で奪いとるのと変わらなかったことを考えるべきだ。
すこし長いが、本書のエッセンスというべき部分を引こう。
中世はじめより、自力救済による問題解決は広く公認(放置)されており、境相論では狼藉をともなう私合戦はごくふつうのことだった。それどころか、「当知行」といって、実力によってナワバリを維持しなければ、法的にも知行行為が認められない「不知行」とされる場合すらあったのである。その意味で、自力救済によるナワバリ維持の当知行行為こそが、悪党問題の温床だったといえるのである。これに対して、鎌倉幕府は、このような実力行使による問題解決を排除し、公権力として職権的に介入してきた。実力による解決の主役たち<地域の英雄>は、ここで一転して命令違反の罪人(「違勅」「下知違背」の輩)=悪党とされるようになり、幕府の指名手配をうけるようになる。弘安年間を境として、畿内近国・西国では悪党問題が頻出するようになる。その背景は、このころ人間が突如荒廃し暴力的になったわけでも、貨幣経済が急激に発達して欲望を刺激したためでもない。実は鎌倉幕府と朝廷の政治姿勢が、当知行の制限へと転換したためなのだ。徳政令という名で呼ばれる一連の幕府の法は、当知行をとどめて、法にもとづく裁許・保護に切り換える平和的秩序回復例(平和令)であった。財力にものをいわせ甲乙人が買い取った御家人旧領を御家人に返す徳政令、武力で奪われた神社仏閣の旧領を返却させた神領興行法などの徳政令は、すべて実力による知行の制限令という点で一致している。蒙古襲来に対する厳戒体制のもとで、幕府は平和的な秩序の維持を至上の価値・徳のある政として定着させたのである。徳政が従来の当知行の否定である以上、徳政の対極には当知行の世界に生きた人々の転落があった。悪党は、ここから生まれたのである。
外からの脅威によって国内生活が締めつけられ、万事に窮屈になるというのはいつの時代も同じらしい。困ったものである。
著者は海洋歴史小説で著名な人だそうだが、本書は小説ではなく、元寇をあつかった歴史読物で、蒙古帝国と鎌倉幕府の沿革からはじめ、二度の役と後日譚、両政権の瓦解におよんでいる。
通説をなぞった一般向けの読物としてはこんなものだろうが、海津一朗の同じ題名の本を読んだ後では大人と子供である。
クビライの海洋国家構想など、総花的ににぎやかだが、この程度ならNHKの歴史番組を見た方がはるかにおもしろい。
蒲原有明は1945年6月の空襲で罹災し、蔵書をすべてなくしてしまう。その後、川端康成に貸していた鎌倉の旧宅の一室に落ちつくが、川端のところに出入していた野田宇太郎が「藝林閒歩」 を創刊するにあたり、自伝の執筆を持ちかけた。本書は「黙子覚書」として十回にわたって連載した原稿をまとめたもので、巻末に焼けだされてから鎌倉に移るまでの経緯をのべた「野ざらしの夢」を併録し、解説は野田宇太郎が担当している。
自伝とはいっても、前半は身辺雑記と本の感想が延々とつづく。戦前、まったく無視されていた折口の『死者の書』を、この時点で評価したのは瞠目すべきだが、枕としてはあまりにも長すぎる。後半にはいって、ようやく過去に遡るが、本人をふくめて固有名詞は変え、三人称で記述している。景彦という架空の話し相手が登場して茶々をいれるなど、著者のシャイな性格のあらわれだろう。
敗戦直後のこととて、灰燼に帰した資料を新たに収集することはかなわず、71歳の老詩人が記憶だけで書いた作品なので、過去の場面のいくつかが点景として描かれるにすぎない。
性慾に衝き動かされていた若い日々の多くはない女性関係を淡々と、薄情なくらい突きはなして書いているが、晩年の回想だからというわけではなく、もともと情に乏しい性格だったかららしい。詩人なのに叙情の才能が欠けているという点は若い頃から気にしていて、「それを苦にして漸くにしてたどりついたのが言葉の修練ということである
」と書いている。
この種の自己分析をそのまま受けとっていいかどうかわからないが、欲望が叙情に流れず、作品の推敲に向かったというのは、この詩人らしい。
『草わかば』から『有明集』、その後の改作にいたるまでをたどった作家論である。
蒲原有明はマラルメのように、若い日に書いた作品を晩年にいたるまで、延々と推敲をつづけたことで悪名だかく、日本の詩人としては異例なくらい異文が多い。当然、本書では重要な異文を対比しながら論じているが、「概して言えば、『有明集』までの作の改作は改悪に終わっている場合が多く、それ以後の作の改作は大たいにおいて成功している」と判定し、
彼は一時期の迷いと弱気を脱したのちは、世に背を向けた孤独のうちに、次第にゆるぎのない信念をわがものとしていったようであり、同時に最晩年にいたるまでその明晰さを失うことがなかった。むしろその明晰さゆえの「
空虚 」の意識には最後まで苦しめられたようであるが、彼は彼の「妄執」をかかげてそれに対抗した。彼の「妄執」とは、その意味で、時流に取り残された老人の恨みがましい妄念などではなく、近代人に宿命的な虚無意識に対する、ぎりぎりまでの反措定だったのである。
と評しているのは卓見である。
作品に寄り添って語ろうとする姿勢は評価したいし、あちこちにすぐれた見解が披瀝されていて、すぐれた本だとは思う。しかし、日本の批評の通弊として、構成感覚が欠如しており、年代順にだらだら書いているので、読みとおすのがつらい。
著者はフランス文学者で、バシュラールの翻訳もあり、本書でもバシュラールを援用した条があるが、フランスの批評のように論が立体的に構成されることはなく、余計見通しが悪くなった。雑誌連載という発表形態も関係しているのだろうが、日本の批評はどうしてこう読みにくいのか。この著者にしてから、日本の批評の限界を越えていないというのは残念だ。
毎日新聞に昨年6月から12月まで、「蜷川幸雄の『劇』まんだら」という題で7ヶ月間連載された半生記に加筆したものだそうで、2頁から5頁の短章を110つらねている。
冒頭のエイヴォン河畔にたたずむ蜷川と白鳥の群という図はぞっとしないが、すぐに新聞らしいニュートラルな文章にもどり、すらすら読める。
対象に密着しすぎているので、伝記としては物足りないが、舞台の記録としては第一級の資料である。わたしがはじめて見た蜷川の舞台は、本書182頁に出てくる「雨の夜、三十人のジュリエットが還ってきた」(1982年5月)で、それ以降はめぼしいものはだいたい見ている(巻末のリストで数えたところ35本)。見ている範囲でいうと、記述のレベルは高く、信頼していい。
1976年以来、タイトルロールを演じつづけてきた平幹二朗が、1987年のロンドン公演を、突然、降板するという事件があった。エイズ説とか、心ない噂が乱れ飛んだ、実は肺ガンだったのだという。平は再発の危険がなくなってからはじめて関係者に病名を明かし、蜷川作品への復帰が実現した。「グリークス」で平は要となるアガメムノン役をみごとに演じきったが、こういう背景があったのである。
後書がないので出版の経緯がわからないが、数年前、教育TVの夜11時からの「人間大学」がもとになっているのではないかと思う。
あの番組は蜷川の話の間に稽古や実際の舞台の映像、関係者のインタビューをはさんで立体的に構成してあって、とてもおもしろかった。文庫サイズではなく、NHK特集の書籍化のように、画像をたくさんいれた単行本にしてほしかったが、NHK出版側はそこまで読者がいないと判断したということか(蜷川ファンは買うと思うのだが)。
はじめて出てくるエピソードや発言はなく、過去のインタビューや『蜷川幸雄伝説』で読んだことのあるものばかりだが、もとが講義なので、懇切丁寧に、しかも具体的・論理的に語っており、記事の中の断片的な発言という形で読むより、はるかに説得力がある。これなら我の強い役者も納得せざるをえないだろう。蜷川というと灰皿を投げる暴君というイメージが一人歩きしているが、実際は論理の人なのだ。
蜷川といえば群衆劇だが、舞台の上の群衆を三つの類型にわけ、明快に解析した後、最近の若い俳優は他人に関心をなくしているので、群衆劇が成立しにくくなったと語っている。
年若い俳優たちは、円形になったりするのがすごく下手なのである。なぜ下手かというと、それは本当の意味で他人に興味を持っていないからだと、僕は思っている。常に自分と他人との距離を測っていない限り(距離を測るとは関係を測ることでもある)、物理的な円もだが、集団作業としての演劇というもの自体、成立しない。群衆劇であればなおさらだ。
他人に対する無関心はおなじみの話柄だが、演劇の現場にいる人に具体的に指摘されると、リアリティが違う。
他人に対する無関心は群衆劇だけの危機ではない。他人との距離感にもとづいて成立している演劇がすべて危うくなっているという。
だから今は、集団劇、群衆劇をやろうと思えば、「他人がいて自分がいるんだ」などという、そのイロハを教えるところから入らなければならない。『昭和歌謡大全集』のようにリアルタイムの現代の物語なら、他者とぶつかったり他者との距離がとれなくてもいいが、特にシェイクスピアの場合は他者に対する認識がなければ成立しない空間を前提にしているわけだから、そもそも芝居として成立しない。
『タンゴ・冬の終わりに』を英国で英国の役者で上演した時の日英文化論も興味深い。日本の新劇はリアリズムを標榜していたが、本場のリアリズムとぶつかってみて、日本的リアリズムは「実は「リアルという様式」なのではないか
」と気がついたというのだ。日本人は江戸時代を経て、それほど深く様式に浸透されていたわけである。