菊池寛きくちかん

加藤弘一

生涯

 出版人、劇作家、小説家。1888年12月26日、高松市に生まれる。本名、ひろし。父の武脩は高松藩の儒家の出だが、維新で没落し、小学校の庶務係になっていた。幼い頃から本好きで、投稿少年だった。学資がなかったために、15歳で中学に入る。卒業後、授業料免除の東京高等師範学校に入学するが、授業に出ずに芝居がよい、テニス三昧をしていたことがわかり、除籍。義理の伯父の養子になるという約束で学資をえて明治大学法科にはいるが、文学者を目指して一高に入学。養子縁組は解消。帝大に進学する学資がなかったこともあって、後に日本共産党委員長となる佐野文夫のマント窃盗事件の罪をかぶって退学。同情した親友の成瀬正一が親を説得し、学資援助を受けることになり、京都帝大に入学。図書館の演劇関係の蔵書を耽読し、劇作家の基礎をかためる。

 1914年、芥川龍之介らに第3次「新思潮」に誘われて加入。草田杜太郎の筆名で戯曲を書く。この頃、シングに傾倒する。1916年、少人数で第4次「新思潮」を創刊。初期の代表作「藤十郎の恋」の原型になる戯曲を書くが、没に(先日、原稿が発見された)。本名で戯曲を次々と発表。卒業後、上京し、成瀬家の縁故で時事新報社に入社。「父帰る」、「恩讐の彼方に」などの代表作を次々と発表するが、それほど注目はされなかった。時事新報社を辞め、芥川とともに大阪毎日新聞社に客員として入社。同紙と東京日日新聞に『真珠夫人』などの新聞小説を矢つぎ早に書き、一躍人気作家となる。

 1923年、自ら発行人となって「文藝春秋」を創刊。学制改革で誕生した知識層を対象に都会的な誌面を目指す。途中、関東大震災にあって打撃を受けるが、しだいに部数が伸び、日本を代表する総合誌に成長していく。

 1926年、小説家協会と劇作家協会の合併に奔走し、文芸家協会を発足させる。この頃、児童文学全集の企画のプライオリティをめぐって、北原白秋の実弟と裁判沙汰になる(芥川の自殺は、一説には、両者の間にはいった心労のためという)。1935年、「文藝春秋」の部数の下がる二月・八月対策として、芥川賞・直木賞を設ける。川端康成を庇護し、時評家として辣腕をふるわせたことも重要である。

 1942年、文芸家協会を発展的に解消させた日本文學報國會の議長となる。大東亞文学者会議に日本代表として出席し、議長をつとめる。戦争がはじまると従軍記者として前線を回り、「西住戦車長伝」などを発表。1946年、文藝春秋社を解散し、文藝春秋新社を設立。翌年、戦争協力を理由に、GHQから公職追放処分を受ける。

 1948年3月、狭心症で急死。60歳だった。

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加藤弘一
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