出版人、劇作家、小説家。1888年12月26日、高松市に生まれる。本名、
1914年、芥川龍之介らに第3次「新思潮」に誘われて加入。草田杜太郎の筆名で戯曲を書く。この頃、シングに傾倒する。1916年、少人数で第4次「新思潮」を創刊。初期の代表作「藤十郎の恋」の原型になる戯曲を書くが、没に(先日、原稿が発見された)。本名で戯曲を次々と発表。卒業後、上京し、成瀬家の縁故で時事新報社に入社。「父帰る」、「恩讐の彼方に」などの代表作を次々と発表するが、それほど注目はされなかった。時事新報社を辞め、芥川とともに大阪毎日新聞社に客員として入社。同紙と東京日日新聞に『真珠夫人』などの新聞小説を矢つぎ早に書き、一躍人気作家となる。
1923年、自ら発行人となって「文藝春秋」を創刊。学制改革で誕生した知識層を対象に都会的な誌面を目指す。途中、関東大震災にあって打撃を受けるが、しだいに部数が伸び、日本を代表する総合誌に成長していく。
1926年、小説家協会と劇作家協会の合併に奔走し、文芸家協会を発足させる。この頃、児童文学全集の企画のプライオリティをめぐって、北原白秋の実弟と裁判沙汰になる(芥川の自殺は、一説には、両者の間にはいった心労のためという)。1935年、「文藝春秋」の部数の下がる二月・八月対策として、芥川賞・直木賞を設ける。川端康成を庇護し、時評家として辣腕をふるわせたことも重要である。
1942年、文芸家協会を発展的に解消させた日本文學報國會の議長となる。大東亞文学者会議に日本代表として出席し、議長をつとめる。戦争がはじまると従軍記者として前線を回り、「西住戦車長伝」などを発表。1946年、文藝春秋社を解散し、文藝春秋新社を設立。翌年、戦争協力を理由に、GHQから公職追放処分を受ける。
1948年3月、狭心症で急死。60歳だった。