久保田万太郎くぼたまんたろう

加藤弘一

生涯

 劇作家、小説家、俳人。1889年11月7日、浅草田原町に生まれる。父勘五郎、母ふさともに養子だったが、生家は曾祖父の代から袋物製造と販売をいとなむ商家。ほとんど祖母の手で育てられ、押さない頃から芝居についていった。府立三中(現在の両国高校)を落第。両親は家業を嗣ぐように迫ったが、祖母のとりなしで慶応義塾普通部に編入するも、ハイカラな級友になじめず、俳句に打ちこむ。

 祖母が両親を説得し、大学予科に進学するが、二年の時、「突然、”文科”の機構に大改革あり、、上田敏を顧問に、永井荷風、入って、事実上の主任教授になり、”三田文学”創刊さる。……作家たらんとするの志ようやくうごく」(自筆年譜)。在学中、「三田文学」に発表した「朝顔」が評判になり、小説、戯曲を次々に発表する。卒業後、理解者だった水上瀧太郎、小泉信三らが留学したために、俳句仲間と遊蕩にふける。家業が傾いたための転居、妹の夭逝、祖母の病気があいつぐが、1917年に『末枯』を発表。その年、祖母を失い、翌年、類焼にあい、焼けだされる。

 1919年から慶大講師となり、作文を教える。教え子に青柳瑞穂、石坂洋次郎、奥野信太郎がいる。芸妓をしていた京と結婚。1923年、関東大震災で焼けだされ、日暮里に転居。短い期間だが、田端に移ってきた芥川龍之介と交友を深める。

 1926年、慶大を辞め、日本放送協会に嘱託として勤務。後に演劇課長となる。小説はとだえ、戯曲、脚色、演出、劇評の仕事が多くなる。1935年、妻が急死し、放蕩をいさめていた水上瀧太郎から絶交される。1937年、文学座を岸田國士らとともに結成。1938年、日本放送協会を退職。1945年、文学座で「女の一生」初演を演出。同年、戦災にあい、焼けだされる。

 1950年、後期の代表作、「うしろかげ」を発表。1957年、会話体の短編「三の酉」で読売文学賞受賞。文化勲章を贈られる。1962年、長年連れ添った内縁の妻を喪う。1963年5月6日、梅原龍三郎邸の美食会で赤貝を喉に詰まらせて急逝。74歳だった。

Copyright 1999 Kato Koiti
This page was created on Nov011999.
作家事典
ほら貝目次