永井荷風ながいかふう

加藤弘一

生涯

 小説家、随筆家、フランス文学者。1879年12月3日、東京市小石川区金富町に、永井久一郎の長男として生まれる。本名、壮吉。父はプリンストン大学に留学後、文部省・内務省で官歴を重ねてから実業界に転じたが、もともと尾張藩士の家に生まれ、鷲津毅堂門下に学んだ人で、『來靑閣集』十巻を残し、漢詩人としても著名である。母、恆は毅堂の次女。

 一高の入試に失敗し、東京高等商業学校付属外国語学校清語科に入学するが、ほとんど学校にいかず、清元、尺八、日本舞踊、落語の稽古にふけり、除籍になる。落語は夢之助の名で高座をつとめるほどだったが、家族にわかってやめさせられる。福地桜痴の弟子となり、歌舞伎座や新聞社で見習をしたこともある。荷風の号で投稿をはじめ、新聞に作品が載るようになり、巌谷小波の知遇を得る。

 22歳になって暁星学校の夜間部にはいり、フランス語の勉強をはじめるが、将来を心配した父親は1903年9月、荷風をアメリカに留学させる。シアトルのハイスクールで英語を習得後、カマラズ大学でフランス文学を学ぶ。1905年、従兄の斡旋でワシントンの日本公使館でアルバイトをはじめる。日露戦争講和後、公使館の仕事がすくなくなったので、父親が横浜正金銀行(現在の東京三菱銀行)の頭取に頼みこみ、ニューヨーク支店の臨時雇となる。

 荷風は銀行の仕事があわず、フランスへの憧れをつのらせる。この間の心境は後に発表される『西遊日記抄』につまびらかである。父親は息子に銀行勤めをつづけさせるために、またしても頭取に頼みこみ、1907年、リヨン支店転勤が実現するが、半年後に辞職。パリで上田敏と親交を結んだ後、帰国するが、その間、アメリカ時代に書いた短編や随筆をまとめた『アメリカ物語』が巌谷小波の尽力で博文館から刊行される。

 フランス象徴詩を精力的に紹介する一方、『フランス物語』を上梓するが、発売禁止となる。『歓楽』も発売禁止になるが、夏目漱石の推薦で朝日新聞に『冷笑』を連載する。

 1910年、慶應義塾大学文学科刷新のために、森鷗外と上田敏の推輓で教授に就任。5月、「三田文学」を創刊し、初代編集長となる。花街で女性遍歴をつづけていたが、講義と編集はきちんとおこない、学生に大きな影響をあえた。学生には久保田万太郎佐藤春夫がいた。

 1912年、父親の強い勧めで齋藤ヨネと結婚するが、なじみの芸者八重次との仲は切れなかった。この年の暮れ、父親が脳溢血で倒れ、間もなく死去。翌月、ヨネと離婚する。

 1914年、芸者八重次を引かせ、入籍。市川左団次夫妻の媒酌で披露宴をおこなうが、翌年、早くも離婚する。以後も荷風の女性遍歴はつづくが、籍にいれることはなかった。

 1916年、慶應義塾を退職、「三田文学」からも退く。「文明」を創刊し、『腕くらべ』を連載。この作品は翌年、単行本となるが、たびたび発禁にあってきた荷風は私家版『腕くらべ』として、改稿版を50部限定で知人に配る。この前後、変名で「四畳半襖の下張」を発表。1920年、父から受け継いだ邸を処分し、麻布区市兵衛町にペンキ塗りの洋館、偏奇館を建てて移る。この年、『おかめ笹』を刊行する。

 関東大震災後、花街はさびれ、カフェーが繁盛した。荷風もカフェーにいりびたるようになり、その中から1931年の『つゆのあとさき』が生まれる。昭和不況の深刻化とともに、私娼窟が増えるようになると、荷風も浅草から玉の井界隈に足をのばすようになり、1936年、傑作「濹東綺譚」が誕生した。

 戦争の激化とともに荷風の活躍の場はなくなっていくが、その間も日記『斷腸亭日乘』と発表のあてのない作品を書きついだ。1945年3月9日の東京大空襲で偏奇館が焼亡する。都内を転々とした後、岡山に疎開して敗戦をむかえる。

 1946年、千葉県市川市に移る。この頃から浅草通いをはじめ、フランス座、ロック座など、ストリップ劇場に通う。戦中に書きためた作品が払底した後も、もとめに応じて量産するが、見るべきものはない。

 1952年、文化勲章受賞。翌年、芸術院会員となる。

 1959年3月、浅草を散歩中に転倒し、自宅から出られなくなる。4月30日、布団の中で吐血して死亡しているところを発見される。79歳だった。

作品

参考文献

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This page was created on Feb22 2000; Updated on Nov082000.
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