1896年5月4日、静岡県駿東郡揚原村で、芹沢常晴の次男として生れる。生家は代々の網元だったが、5歳の時、父が天理教に入信し、全財産を寄進して布教師になってしまったために、貧困のうちに育つ。成績優秀だったことから、特待生で中学を終え、知人の援助で一高、東大に進む。経済学部だったが、文學に興味をもち、有島武郎の「草の葉会」にはいる。高等文官試験に合格し、農商務省に入省。小作問題に取りくむが、名古屋鉄道社長の藍川清成の娘との結婚を期に退職。藍川家の援助でフランスに留学し、貨幣論を研究する。滞仏中に結核に罹患。フランスとスイスのサナトリウムで療養生活を送り、1929年に帰国。
一時、中央大で経済学を講ずるが、サナトリウムでの西欧体験を描いた「ブルジョワ」が「改造」の懸賞小説に入選したことから、執筆生活にはいる。第二作「明日を追うて」は短文を連ねたモダニズム風の作品だったが、しだいにヒューマニズム色を強める。
世のすね者の多い文壇からは距離をおいていたが、西欧経験と実務能力を島崎藤村にかわれて、日本ペンクラブの運営に参加する。戦争の激しくなる中、代表作『巴里に死す』を執筆。
戦後、生活のために作品を量産するが、天理教の機関誌の請いで中山みきの生涯を描いた『教祖様』を7年かけて完成する。
1951年、ローザンヌの世界ペン大会に参加。この期に『巴里に死す』が仏訳され、高い評価をうける。つづいて『一つの世界』、『巴里夫人』が訳される。1962年から13年かけて自伝的小説『人間の運命』14巻を書きあげる。
晩年、天理教の神と対話するという霊能者の青年との出会いに触発され、『神の微笑』三部作を発表する。オカルト小説的な面があるが、汎神論的な世界観を素直に披瀝した平明な文章は新しい読者を獲得した。
1993年3月23日、死去。96歳だった。