谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう

加藤弘一

生涯

1886年7月24日、日本橋蛎殻町に生まれる。祖父久衛門は印刷所を経営する事業家で、家業は息子の継がせたが、娘の関には婿をとらせ、同居させた。父倉五郎は谷崎家の援助で事業を起すが、失敗をくりかえす。

 1892年、阪本小学校に入学するが、乳母の付添なしでは通学を嫌がり、一年で落第する。翌年の教師とは相性がよく、たちまち首席となる。1901年、高等科を卒業。家業の没落で進学は難しかったが、成績優秀なことと教師の助言、親戚の援助で府立一中(後の日比谷高校)に入学。同学年に吉井勇、一年上に辰野隆がいた。1903年、家計はいよいよ逼迫し、築地精養軒の北村家の住みこみ書生となって勉学をつづける。一年飛び級をして、1905年、一高に入学。文学に進みたかったが、生活を考え、英法科を選ぶ。三年の時、小間使に出した恋文が発覚し、四年間世話になった北村家を出され、一高寮に移る。これを機に、文学志望の決意をあらたにし、英文科に転じる。翌年、東京帝大に入学。創作に集中するために、英文科より楽な国文科を選ぶ。

 1910年、第2次「新思潮」を小山内薫、和辻哲郎らと創刊。11月、「刺青」を発表し、注目される。翌年7月、学費未納のために除籍となる。「三田文学」に掲載した「風」は発禁となったものの、永井荷風に絶賛される。同年、刊行した第一短編集『刺青』は、当時の主流だった自然主義文学にあきたらない人々の歓呼して迎えるところとなった。

 1915年、なじみの芸者、初子の妹の石川千代と結婚し、翌年には娘、鮎子が生れるが、千代は鉄火肌の初子と違って、家庭的な女性だったので、愛情が冷める。1917年、母が亡くなると、父の世話をさせるという口実で千代と娘を実家に預け、自分は千代の妹で15歳のせい子と同棲生活をはじめる。この頃、谷崎は大正活映という映画会社に関係しており、『アマチュア倶楽部』、『雛祭りの夜』などにせい子を出演させた。彼女は葉山三千子の芸名で大正活映の看板女優になったが、『痴人の愛』のナオミのモデルとも言われている。

 この頃、六歳下の佐藤春夫と知りあい、肝胆相照す仲となるが、佐藤は千代の境涯に同情し、愛しあうようになる。1921年、佐藤が千代への愛を告白したために絶交。翌年、千代との関係を修復するために横浜に転居する。

 1923年、関東大震災に遭い、関西に移るが、その直後、後に夫人となる根津松子と出会っている。1927年、芥川龍之介と通俗小説について論争するが、この時期、『黒白』、『卍』、『蓼喰う虫』と、中期の代表作を立てつづけに執筆している。

 1930年、佐藤春夫が離婚したのを機に、千代を譲り、前代未聞の三名連名の挨拶状を友人知己に送る。文学史上有名な「夫人譲渡事件」である。

 親子ほど年齢の違う古川丁未子と結婚するが、裏表のない性格の新妻が気にいらなくなり、二年で別居。1933年、最高傑作『春琴抄』と『陰影礼賛』を発表。

 1934年、根津松子と同棲をはじめ、翌年、離婚のなった松子と正式に結婚。身代の傾いた根津家に住んでいた、松子の妹の重子を引きとる。松子は『細雪』の幸子、重子は雪子のモデルと言われている。

 1937年、『猫と庄造と二人の女』と『吉野葛』を刊行。1939年1月から『潤一郎訳源氏物語』の刊行を開始(1941年7月まで)。『源氏物語』は1951年と1964年に訳を改め、終生の事業となった。

 1943年、『細雪』の連載をはじめるが、時節柄、すぐに発禁となる。

 1946年、『細雪』上巻、翌年中巻を刊行し、毎日文化賞を受ける。下巻は1948年に刊行。完結後に朝日文化賞も受賞する。1950年、後期の代表作、『少将滋幹の母』を刊行。

 1956年の『鍵』、1957年の『幼少時代』、1960年の『夢の浮橋』、1962年の『瘋癲老人日記』と晩年になっても創作欲は衰えなかった。

 1965年7月30日、心不全で死去。79歳だった。

参考文献

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