1871年12月23日、金澤に前田家の陪臣、德田雲平の三男として生まれる。本名、末雄。母タケは雲平の三人目の妻。病弱で、一年遅れて養成小学校に入学。一年下に、泉鏡花がいた。15歳で石川専門学校(後の第四高等学校)に入学するが、德田家の経済が逼迫しはじめる。1891年、父が死去。四高を退学し、長兄の応援をえて、翌年、作家を目指して上京する。
尾崎紅葉を訪ねるが、入門できず、アルバイトで食いつなぐ。大阪、金澤、長岡を転々とし、小説の新聞連載の機会をうるが、うまくいかない。1895年、泉鏡花の「義血侠血」に刺激を受けて、ふたたび上京。博文館で校正にたずさわるが、鏡花の紹介で紅葉門下にはいる。翻案もの、少年少女向け小説、雑文などを書きまくり、博文館を退社する。
1899年、紅葉の推薦で讀賣新聞社に入社。「つや種」「雲のゆくへ」でようやく文名があがり、紅葉門下の四天王に数えられるが、作品の量産は生涯つづけ、二千篇以上を残す。
1911年、一度だけ会った夏目漱石の推輓で朝日新聞に『黴』を連載。硯友社流の美文から脱して自然主義の潮流に身を投じる。1915年の『あらくれ』は秋聲のみならず、日本自然主義の代表作である。
1926年、妻と死別した直後、文学を志望して上京した人妻、山田順子と知りあい、彼女をモデルにした一連の私小説的作品を書く。同時期に『仮装人物』のモデルの柘植そよとも交際する。1930年、郷里で社会民衆党から衆議院選挙に立とうとして、次兄に諫められる。1931年、『縮図』のモデルの小林政子と知りあう。
1941年、『縮図』を都新聞に連載するが、軍部の干渉で中絶。『西の旅』も発禁となる。翌年、日本文学報国会が結成され、小説部会長に就任。
1943年11月18日、肋膜癌で死去。72歳だった。