夏目漱石なつめそうせき

加藤弘一

生涯

 小説家、俳人、漢詩人、英文学者。1867年2月9日(陰暦1月5日)、江戸牛込馬場下横町に、夏目小兵衛直克の五男として生まれる。この日生れた子供は大泥棒になるといわれていた庚申の日にあたっていたので、厄除のために金之助と命名される。夏目家は江戸草分の名主で、11ヶ町を支配していたが、幕末の混乱で家運は傾いていた。

 生後すぐに四谷の古道具屋に里子に出されるが、大道の夜店に品物と並べて寝かされているのを姉が見つけ、すぐに連れもどされる。翌年、四谷の名主、鹽原昌之助の妻、やすが夏目家に奉公していた縁で、鹽原家の正式の養子となる。養父母は金之助を溺愛したが、本当の父は誰か、本当の母は誰かと執拗に訊いたので、自分が何者かわからなくなったと後年述懐している。10歳の時、養父母が離婚したため、鹽原姓のまま生家に引きとられる。この少年期の不安定な位置が金之助を小説家漱石とした見方で、諸家はほぼ一致している。

 1879年、東京府立第一中学に入学するが、漢学に引かれ、三年になる時、二松學舎に転校する。漢文学は嗜好にあっていたが、立身して生家を盛りたてるためには大学予備門に進む必要があるので、受験準備のため、17歳で英学塾成立學舎に転ずる。翌年、大学予備門(後の第一高等学校)に合格し、入学。

 1887年、尊敬していた長兄大一が亡くなり、三ヶ月後、次兄も死去。三男の和三郎は遊び人だったので、父親は金之助を夏目家にもどす。この頃、同学年の正岡子規と親交を結び、俳句を作るようになる。子規の同人誌に書いた文章にはじめて漱石と署名する。

 1890年、帝国大学文科大学英文科に入学。翌年、兄和三郎の妻で金之助と同い年の登世が悪阻で亡くなる。登世を恋慕していたとする説もある。三年の時、兵役逃れのために分家し、北海道に籍を移す。「漱石」は「送籍」ではないかという説もあるが、さて、どうだろうか。

 1893年、帝大を卒業し、東京高等師範学校に奉職するが、英文学に異和感をおぼえるようになり、神経衰弱におちいる。鎌倉の圓覚寺で参禅するが、効果はなかった。1895年、高等師範を辞職。山口高等学校の招聘を断り、愛媛県立松山中学の英語教師になる。この年の暮れ、親族の強い勧めで、貴族院書記官中根重一の娘鏡子と見合し婚約。翌年、松山中学をやめ、熊本の第五高等学校に赴任後、鏡子と結婚するが、家庭は円満とはいえなかった。

 1900年、英国留学の辞令が下りる。9月、単身ロンドンに向かう。当初はシェイクスピアの専門家に個人教授を受けるなど、通常の研究に打ちこんでいたが、英文学への異和感がこうじ、神経衰弱がぶりかえす。ドイツ留学中の池田菊苗(後にグルタミン酸を発見)がロンドンを訪れたおり、二ヶ月間同居したのを契機に、文学を科学的に解明することを思いたつ。下宿に立てこもり、文学以外の本を濫読して、『文學論』のもとになる研究に没頭する。もともと留学生仲間とのつきあいを敬遠していたこともあって、邦人の間に「発狂」の噂が流れる。この噂は文部省にまで聞え、急遽、帰朝を命じられる。

 1903年1月、帰国。一時、妻の実家の離れにはいった後、本郷区千駄木が住んでいた家に移る。第一高等学校と東京帝大の講師に就任するが、『文學論』の講義は学生の評判が悪く、神経衰弱が再発する。俳句にふたたび打ちこむようになり。高濱虚子の「ホトトギス」に寄稿をはじめる。1905年、『吾輩は猫である』の冒頭部分を「ホトトギス」に発表したところ、大評判となり、継続して執筆するが、この連載と並行して、「倫敦塔」「幻影の盾」「薤露行」など、『樣虚集』に収録される暗鬱な短編を書いていたことは注目される。

 翌年、『坊ちゃん』と『草枕』を発表し、『樣虚集』と『吾輩は猫である』上巻を刊行。文名が一気に高まる。親友の狩野亨吉から京都帝大英文科教授就任を懇望されるが、創作に精神の平衡をかけていた漱石は固辞。1907年、朝日新聞社の招聘を受けると、第一高等学校と東京帝大を辞職して、小説記者として入社。ただちに『虞美人草』の準備にとりかかり、6月から10月まで連載。

 1908年、『坑夫』、『夢十夜』と『三四郎』を朝日新聞に連載。翌年、朝日新聞に文芸欄を開設し、弟子の森田草平と小宮豐隆に編集にあたらせる。おりからの自然主義流行の中、朝日文芸欄は反自然主義の拠点となる。自然主義派は漱石を「余裕派」と誹り、知識人向けの通俗作家と決めつける。1910年、『門』を連載中、胃潰瘍が悪化し、修善寺に転地。その直後喀血し、危篤におちいる。いわゆる修善寺の大患である。

 翌年、文部省から文学博士号を贈られるが、固辞したために批判にさらされる。1912年12月、『行人』の連載をはじめるが、神経衰弱のために途絶。翌年11月にようやく完結する。

 1914年、『こころ』、1915年、『道草』を連載。1916年5月から最後の小説『明暗』の連載をはじめるが、リューマチと胃潰瘍で途絶。12月9日、死去。49歳だった。

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