批評家、俳人、歌人、ジャーナリスト。1867年(慶応3年)9月17日、伊予の温泉郡藤原新町(現在の松山市花園町)で、松山藩士正岡常尚の長男として生まれる。本名常規、幼名処之介、後に升(のぼる)。5才の時、病弱だった父の隠居で家督を継ぐが、その直後、父は死去。
勝山学校をへて、松山中学に入学。漢詩を楽しむ五友の会を結成し、河東静渓(碧梧桐の父)に指導を受ける。
1883年(明治16年)、東京に遊学。受験準備に共立学校に通い、翌年、大学予備門に合格。同級に夏目漱石、南方熊楠がいた。この頃、ベースボールに夢中になり、通称の「
1889年、漱石との交友が深まる。5月、喀血。血を吐いて歌うホトトギスになぞらえて「子規」と号す。夏、帰省時に河東碧梧桐にベースボールを教える。 小説『月の都』を書くが、幸田露伴の批評を受けて、小説家を断念。陸羯南の主宰する新聞「日本」に原稿が載るようになる。郷里から家族を呼び寄せ、1892年、『日本』に入社。翌年、俳句欄をはじめ、大学を正式に退学。
1894年、根岸の子規庵に転居。根岸短歌会、根岸俳句会の拠点である。新しく創刊した「小日本」の編集責任者となるが、編集に参加した中村不折を通じて、写生の重要性に気づく。
1895年、日清戦争従軍記者として遼東半島にわたるが、帰路、大喀血。神戸、須磨で療養した後、郷里の松山におもむく。漱石の下宿にやっかいになり、松風会で俳句を指導するが(漱石も参加)、激しい腰痛に悩まされる。 1896年、新年の句会に漱石・鷗外が参加。腰椎カリエスと判明し、以後、寝たきりの生活がつづく。
1898年、「歌詠みに与ふる書」を「日本」に連載。「日本」の俳句欄の選者の他、散発的に原稿を発表するが、病状はいよいよ悪化し、1900年には枕頭で開いていた短歌会と俳句会を中止する。1901年、1月から『墨汁一滴』、9月から『仰臥漫録』を連載。
1902年、5月から『病牀六尺』を連載をはじめる(死の二日前まで書きつづける)。9月18日、絶筆三句を書き、翌日、死去。35歳だった。
子規の写生説は西欧リアリズムを日本の土壌に根づかせた。その影響は短詩形文学のみならず、小説・評論を含め、次代の日本文学全般におよぶ。丸谷才一が指摘したように、子規こそは、この百年の日本文学の指導的批評家だった。