林芙美子はやしふみこ

加藤弘一

生涯

 1904年12月31日、下関に林キクの私生児として生まれる。本名フミコ。母のキクは鹿児島の桜島で家庭をもっていたが、実家の宿屋に逗留していた若い行商人の宮田浅太郎とねんごろになり、下関に駆け落ちしたもの。7歳の時、事業に成功した宮田が家に芸者をいれたために、キクは芙美子をつれて出奔、宮田の店に出入りしていた20歳年下の沢井喜三郎と入籍する。一家は各地を行商して歩いたので、小学校は十以上変わった。

 一時、桜島の母親に実家にあずけられるが、尾道で小学校を終え、尾道高等女学校に入学。学資を稼ぐためにアルバイトの毎日だった。

 1922年、尾道高女を卒業。恋人の明大生をたよって上京し、同棲をはじめる。林は結婚するつもりだったが、卒業して郷里に帰った彼は家族の反対を理由に結婚を拒絶。この時のショックを癒すために日記を書きはじめる。

 関東大震災にあって、一時、関西にもどるが、すぐに東京にもどって、アルバイトのかたわら、童話と詩を書く。同棲した新劇俳優の紹介で萩原恭次郎、高橋新吉、辻潤ら、アナーキスト詩人と知りあい、「文芸戦線」などに作品が載るようになる。仲間の詩人と結婚するがすぐに別れる。平林たい子と知りあい、新宿のカフェーでいっしょに女給をやっていたのは有名。

 1926年、画学生の手塚緑敏と結婚。尾崎翠を慕って、落合に移る。生活は苦しかったが、大阪朝日に小説を発表した平林たい子に刺激されて、日記を元に「秋が来たんだ ―放浪記―」をまとめる。この原稿は三上於菟吉の推輓で「女人芸術」に連載され、尾崎翠の親友、松下文子の援助により、詩集『蒼馬を見たり』を刊行。プロレタリア文学隆盛のおりから、当初は好意的にむかえられたが、共産党の活動に距離をおいていたためにプチブル的と批判を受け、「秋が来たんだ」の連載も打ち切られる。

 だが、1930年に改造社から『放浪記』として上梓されると、貧窮をはね飛ばすような明るさとエネルギッシュな文章が注目され、当時としては破格のベストセラーとなる。この印税で一年近いヨーロッパ旅行に出るが、旅費がとぼしかったために、栄養失調におちいる。この前後、「風琴と魚の町」、「清貧の書」という初期を代表する自伝的短編を発表する。

 1935年、運送屋の男を主人公にした「牡蠣」を発表。自伝を脱したリアリズム小説に開眼する。以後、流行作家となり、次々と作品を量産する。日中戦争が激化すると、従軍作家として狩りだされる。大東亞戦争がはじまると仏領インドシナやジャワ、ボルネオにまで足を伸ばすが、作品の発表はとだえる。

 敗戦後、ジャーナリズムが復活すると、戦前にもまして作品を量産するようになる。女流作家の第一人者の地位を守るために、えげつない手段でライバルの執筆を妨害したために、文壇で顰蹙を買うが、それぐらいでひるむ人間ではない。

 林の最高傑作と衆目の一致する『浮雲』を刊行した翌月、心臓麻痺で急逝する。47歳だった。

作品

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