尾崎おさきみどり

加藤弘一

生涯

 小説家。1896年12月20日、鳥取県岩井郡岩井村(現在の岩井温泉町)に尾崎長太郎の長女として生まれる。父、長太郎は漢学の素養があり、翠は三人の兄たちとともに漢文の素読を授けられた。三番目の兄は東大農科にすすんで肥料を研究し、「第七官界彷徨」のヒントをあたえる。

 1909年、鳥取県立高等女学校に入学するが、同年小学校校長として人望の厚かった父が急死。任地であたえられていた屋敷を出て鳥取市内に移る。

 1914年、鳥取高女補習科を終えると、隣村の大谷小学校に代用教員として勤務。網代に独居するようになる。同年11月、「文章世界」に「漁村の新生活より」が掲載されたのを最初に投稿が次々と入選する。1916年、「新潮」に「素木しず子氏に就いて」を発表。

 1918年、日本女子大国文科に入学。寮で生涯の友となる松下文子と同室になる。夏休みに書いた「無風地帯から」が「新潮」に掲載されるが、小説発表が学校当局の忌避にふれ、退学。松下も同情して中退。家産のない尾崎は郷里にもどるしかなかったが、松下は実家から潤沢な仕送りを受けていたので、家を借りて東京にとどまり、上京の拠点を提供した。

 1921年、東京の松下の家に居を定め出版社勤めをはじめるが、人見知りでつづかず、島根と東京を往復する生活にもどる。1927年、松下とともに落合で女二人の共同生活をはじめる。二人の家には無名時代の林芙美子がたびたび訪れた。松下につきそわれて原稿を持ちこんだ「婦人公論」に執筆するようになったり、翌年、創刊された「女人芸術」には林芙美子の紹介で定期的に寄稿するようになり、すこしづつ活躍の場が広がるが、松下が婿養子をむかえて結婚したために孤独感から頭痛薬を常用するようになる。

 1929年、「女人芸術」に戯曲風の短編「アップルパイの午後」を発表。1931年、「文学党員」に「第七官界彷徨」の前半を掲載したところ評判となり、『新興芸術研究2』に完全版を出す。しかし、これからという時に頭痛薬の中毒で故郷に連れもどされる。健康はすぐにとりもどしたものの、再び創作の筆をとることはなく、独身のままひっそりと晩年をむかえる。

 1960年、花田清輝は筑摩書房「新鋭文学叢書」の『安部公房集』解説(後に「ブラームスはお好き」として『恥部の思想』に収録)で、長らく忘れられていた尾崎翠に光をあてた。1969年、花田清輝と平野謙の編集になる學藝書林版『黒いユーモア』に「第七官界彷徨」が収録され、36年ぶりに光があたる。作品集『アップルパイの午後』の出版を準備していた1971年7月8日、老衰で死去。74歳だった。

 死の四ヶ月後、『アップルパイの午後』が本となった。1979年に創樹社から『尾崎翠全集』(一巻本)が、1998年には筑摩書房から『定本 尾崎翠全集』(二巻本)が刊行されている。

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