1896年8月27日、岩手県花巻町に宮澤政次郎の長男として生まれる。父政次郎は熱心な真宗門徒だったが、商才にめぐまれ、質屋で財をなした。10歳の頃から、父が肝煎となっている夏期仏教講習会に出席し、暁烏敏らの講話を聴く。16歳の時には静座法を修する。
1914年、盛岡中学を卒業するが、貧乏人から利息をとる質屋を嫌い、化学技師を志望する。この年、はじめて法華経を読み、感激する。翌年、盛岡高等農林学校(現在の岩手大農学部)に入学、土壌学を専攻。1918年4月から研究生となる。その冬、日本女子大に遊学中だった妹トシの看病のために母親と上京、翌年までとどまり、見聞を広げる。
1920年、研究生を終了。母校の助教授の話があったが辞退し、家業を手伝う。10月、日蓮宗系の国粋主義団体、国柱会に入会。父親を折伏しようとしてしばしば口論になる。翌年1月、東京に出奔。ガリ版切りのアルバイトをしながら、国柱会で奉仕活動と折伏活動に明け暮れる。高知尾智耀と出会い、彼の示唆で童話を書きはじめるが、夏、トシの入院の報に帰郷。花巻農学校で教壇に立つ。この頃から『春と修羅』の諸編を書きはじめるが、翌年11月、トシの死にあう。
1924年4月、『春と修羅』を自費出版するが、辻潤が注目した以外は反響なし。同年12月、12冊シリーズの第一冊として『注文の多い料理店』を刊行するが、まったく売れず、シリーズ化の話は立ち消えになる。
1926年、花巻農学校を退職し、父親の援助を受けながら下根子桜で一人暮らしをはじめる。農民芸術運動と農業技術普及のために羅須地人協会を設立するが、ひとりよがりな面は否めない。この年と翌年、天候不良がつづき、農業指導のために東奔西走すし、ついに肺炎で倒れる。
1931年2月、病の小康をえて、東北採石工場に技師嘱託として勤務するが、9月、またも病床に就く。その直後、手帳に「雨ニモマケズ」の詩をしたためる。
1933年9月21日、結核で死去。37歳だった。