安部ねりさんは作家安部公房の一人娘で、三児の母であるとともに、産婦人科医として活躍されている。真知夫人のなくなった今、安部公房をもっともよく知る人である。「ねり」というお名前は、真知夫人の命名で、「グスコーブドリの伝記」からとったとのことである。
──今、初期の安部先生の周辺を勉強中なんですが、埴谷雄高や花田清輝、岡本太郎といった人たちがいろいろな試みをしていて、すごくおもしろいです。日本にこんなはつらつとした時代があったのかと驚いているのですが、ねりさんは当時のことをおぼえていらっしゃいますか?
安部ねり わたしはその頃のことは知らないんです。昭和29年の生まれですから。
──あ、そうでしたね。でも、埴谷さん宅のダンスパーティーで、ねりさんが踊っていらしたというような文章を読んだ記憶があるのですが。
ねり わたしではなく、安部公房のことです。それも断片的にしかわからなくて、今、安部公房の伝記を準備しているんですが、昨年、埴谷さんから話を聞きに来いと言っていただき、取材にうかがった時に、ああ、この部屋でダンスパーティーをやったのかと見にいったという感じなんですね。わたしが小学生以前くらいだったと思うんですが。
──小さい頃だったんですね。ダンスパーティーというから、『アメリカン・グラフィティ』みたいなものを想像していました。どんな部屋だったんですか?
ねり 六畳とか八畳の小さい部屋で、八畳くらいだったかしらね。あれは驚きました。
──それじゃ、ダンスパーティーという感じじゃないですね。
ねり でもね、あれはダンスパーティーだったと思いますよ。きっと蓄音機かなんかまわしながら、踊ったんでしょう。
──蓄音機ですか! 埴谷さんという方はモダンボーイだったみたいですからね。どんな曲をかけたんですか?
ねり インタビューはテープにとってあるんですが、まだ起こしていなくて。ずさんな性格なもので、遅々として進まないんですが。
──伝記はいつごろ出されるんですか?
ねり すぐにも書けと言われているんですが、わたしはゆっくりやっていて、次々と新しい話が出てくるので、まだ書かなくてよかったなといつも思うんです。勘違いしているところもあったし、やはりだんだん見えてくるから、ボチボチがいいなぁと……
──しかし、そんなことを言っていたら、当時を知っている方がいなくなってしまいますよ。石川活さんもなくなってしまいましたし、ほら貝の創刊一周年で埴谷さんにお話をうかがおうとしたんですが、お加減がよくなくて、この一年、インタビューは受けていないということでした。
ねり 去年、おじゃました時も、ベッドの埴谷さんにお話をうかがうという状態でした。短時間の時間制限つきで。ご自分の方から「早く来い」ということで、ずいぶん催促されていて、行ったんですけれども。
──今、講談社の方で全集を作っているそうです。
ねり そのようですね。編集に使っうのか、パソコンが二台ありましたよ。
──花田清輝はどうですか?
ねり 花田清輝も面識ありませんが、今、全集の原稿をすこし削らなければならないので、花田さんなんかとの対談を読んでいるんですが、すごくおもしろくて、笑っちゃって、笑っちゃって。
──ねりさんの話が出てくるんですか?
ねり そうじゃなくて、花田清輝はおもしろいですよね。とにかく、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うですから。とにかく、もう、言うことが滅茶苦茶でしょ(笑)。
──そうですね。花田清輝の座談は有名だったみたいです。じゃ、岡本太郎さんなんかは?
ねり わたしはその時代にはまったく首をつっこんでいないんです。29年生まれなんです。
──ああ、そうでしたね。「夜の会」なんかはねりさんの生まれる前でした。
ねり それはもう、安部公房が死んだ後、調べていってはじめて知りました。「あ、そんなことやってたの、この人」という感じで。
──ぼくも最近知ったのですが、とにかくおもしろい時代だったようです。
ねり すごいおもしろいですよ。今の評論なんか、読む気おきないものばかりだけど、「なんだ、こんなおもしろいものがあったんじゃない」という感じで。
──ねりさんから見ると、どのへんが一番おもしろいですか?
ねり 花田さんはいろんな芸術運動を起こされたんですが、「芸術アクティブ」がおもしろいですよ。芸術は作品を作るっていうことじゃなくて、芸術アクティブだというんです。安部公房につながる一つの思想なんだけれども、かなり重要なことを言ってるんですよ。安部公房も花田清輝も思想的にそれがなにかということをはっきり考えているんだけれども、けっして口に出さないんですよね。
わたしは本当に考えがあって言っているんだということを知らなかったので、難しそうなことを言って、韜晦しているんだろうぐらいにとらえていました。
──また、シビアな見方ですね(笑)。
ねり なんでも疑う性格なもので(笑)。
──それはどんなものなんですか?
ねり ひじょうに本質的なものなので、今日のところは疑問をもっていただくということで。
──どのへんを読むとわかるか、ヒントをくれませんか?
ねり そういう問題意識をもって読むと、すべてがそうだともいえます。認識論の一番大元にあるものですよね。
──当時の芸術家の間では、唯物論が芸術革新のインスピレーション源になっていたように思います。花田清輝は「有機物から無機物へ」とか、鉱物主義とか、さまざまなことを言っていますが、核になるのは唯物論による価値転換で、それが軍国主義の神がかりがおわった時代の芸術家に指針をあたえたようです。
定説によると、安部公房の初期作品は、花田流の唯物論の忠実な小説化ということになっているんですが、ぼくは花田清輝が安部公房から影響を受けた面もあったのではないかと考えているんです。つまり、師弟の関係じゃなくて、共同作業者だったんじゃないかと思っているんですが。
ねり 今、わたしが受けている印象では、花田清輝は安部公房の師ですよ。対談を読むとわかるけれども、ごく初期に作家として育っていく過程が手にとるようにわかります。
それから、ものすごいと思ったのは、対談するでしょ。完全に吸収しちゃうんですよ。花田清輝も、三島由紀夫も、対談している相手のいいところを全部とっちゃうの。泥棒して(笑)。後の作品や論点なんか、ここからもらったなというのがいっぱいありますよ。最後にやりたかったクレオール論とか、アメリカ文化論とか、初期のこの対談から出ているんじゃないかとかという部分があります。ただ議論しようというのじゃなくて、ものすごくアンテナが発達していたんだと思います。
──クレオール文化論の萌芽が昭和20年代にあったのですか!
ねり おそらく、この時のやりとりで、そういう考えをいだいたんだろうという対談があります。だから、もう、おもしろくて。
──そういう資料がもうすぐ出てくるんですか! わくわくします。
ねり 今、困っているのは、これもそうだ、あれもそうだというのが多くて、対談をなかなか削れないことですね。
──安部先生も共産党にはいっていましたよね。ちょっと大げさに言うと、当時の若い作家は、三島由紀夫以外は、ほとんどが共産党にはいって、後で除名という形でやめている。安部先生も花田清輝とともに入党して、いっしょに党中央と戦い、1960年頃に除名になっています。
安部先生の場合、石川淳と埴谷雄高という、アナーキズムを奉ずる両大家に師事していたわけですが、アナーキズムに親近感をいだく人は、マルクス=レーニン主義の強権体質というか、党中央の指令のもとに軍隊組織で動くという体質を徹底して嫌います。だから、いくら花田清輝の引きがあったにしても、共産党に入党したというのは不思議な感じがしていました。
安部先生たちが除名になる前後の党内事情や、作家たちがなぜ党中央と戦ったのかというあたりは、中野重治の『甲乙丙丁』が詳しく書いていますが、なぜ作家たちが入党したかを書いた本というのはあまりないと思うんです。戦前に転向して、その罪悪感から党に献身したという場合をのぞくと。安部先生は年齢的に転向世代よりもかなりしたですが、共産党というのはなんだったんでしょうか?
ねり やめた時の経緯とかありますから、以前は別な風に考えていたんですが、全集の仕事で初期のものとか読んでみると、入党していたポジティブな面がすごくよく見えてきました。今は、安部公房のドキュメンタリーな部分は共産党から来ていると考えています。
──花田清輝が「新日本文学」の編集長をやめさせられた後、「記録芸術の会」をつくったことですか?
ねり というより、党の活動をしていましたから、現実を見ているんですよ。川崎で労働者の文学サークルを指導したりとか、米軍の兵器工場の組合の集会で司会をしたとか、いろんな活動をしていたんです。そういう活動の中で、情報収集をきちんとしている。共産党は今でもそういう傾向があるけれども、いろんなことを知っているというか、客観的なデータ収集能力はすごいです。
安部公房にとって、事実に密着していくというジャーナリスティックな側面はとても重要だったんですが、そういうところは共産党の活動を通過することでえたんじゃないかと考えています。
──共産党からさえ、いいところを盗んだ(笑)。
ねり 集めた情報をどう活用していくかはまた話が別で、ある時、はっきりと小説家としての方法論を確立していくんだけれども、それは『第四間氷期』の前、『東欧を行く』の時期で、そこから中期安部公房に突入していくと考えています。
──なるほど。なにをもって「中期」とするかは難しいけれども、一般的には『砂の女』以前と以後でわけると思うんですが、ジャーナリスティックな手法の確立という視点をもってくると、新しい展望が開けますね。
──先日、小田切秀雄さんとお話しする機会があったので、なぜ敗戦直後の作家たちはみんな共産党にはいったのだろうか、共産主義革命がくると本当に信じていたのだろうかとうかがったところ、信じている作家もいたが、大部分の作家は、軍国主義が倒れて日本は自由になったが、いずれ支配階級が復活し、またもとにもどる。だから、自由があるうちに、後戻りできないところまで、思いっきりやりたいことをやっておこうとして入党したんだとおっしゃっていました。
共産党が自由の象徴だったというのでヘェーと思ったんですが、作家が除名されるにいたる過程を考えると、確かに自由を守るために入党したというのもあるのかなと思いました。安部先生はどうだったんでしょうか?
ねり ソ連の現実の情報がはいってくるまでは、党中央の権力に対する危機感はそれほどなかったと思います。ソ連の情報がはいってくると、新たな権力機構としての共産党という面が目についてきたでしょうが。
──それでは、最初の頃は楽観的に革命を信じていた?
ねり そういう時期はあったと思います。革命をもっとアナーキーなものだと考えていたと思いますし。
──アナーキーという話しが出ましたが、石川淳についてはどうでしょうか?
ねり わたしは直接は存じあげないんですが、うちではよく話題にのぼる人物でした。恩人という位置にありました。あと、「先生」というような雰囲気でしたね。
──ほかに「先生」という雰囲気の方はいましたか?
ねり 石川さんだけでしたね、「先生」は。
──どんなところで恩人だったんでしょうか?
ねり やはり、食べ物がない時に、家に行って恵んでもらったりとか(笑)。
──年譜にはかならずその話が出てきてますね(笑)。
ねり それから、評価してくれたということですね。敵が多かったですから。
──評価したという点では、花田清輝、埴谷雄高も同じじゃないんですか?
ねり 花田さんの場合は、評価というよりも、師ですよね。安部公房は花田清輝を完全に吸収しています。ごくごく初期の頃は、一般に知られている安部公房とは感じが違います。それがだんだん花田清輝化してくる。文章も対談も、一捻りしてきますよね。最初は純朴な感じで喋っていたんですが、ひねくれ者のスタンスをとってくるでしょ。
──わかります、わかります。
ねり それから人に対してほめてあげるというような教養主義的な態度はいっさいとらなくなってきますよね。わりあい反撃する時に人間が出てくるという雰囲気が生まれる。精神に対してゆさぶりをかけるという方法論は、花田さんからもらったんじゃないかなと、今のところ、思ってますけど。
花田清輝の芸術アクティブという理念を安部公房は完全に理解し、実践したと思うんです。花田さんは安部を自分の弟子として、すごいかわいかったんじゃないか。自分の思想をそこまで理解し、じっさいにやったということで。
──花田清輝が「沙漠について」とか、安部公房的テーマの文章を書きだすんですが、これは安部公房の影響を受けたとは考えられないですか? (注1)
ねり わざと受けてあげたんじゃないでしょうか。影響を受けたよと見せることで、励ますというような。花田清輝は馬鹿じゃないですからね。安部公房の方もちゃんとそれがわかっていたと思う。そういうコミュニケーションのとり方ってありますからね。
──ああ、そうか。花田清輝だけあって、ほめ方も変化球でくるんだ。そういえば、あれほど親しい間柄なのに、花田清輝が安部公房について書いた文章は三篇しかないので、不思議に思っていましたが、今のお話で得心がいきました。
花田清輝とは14才違い、石川淳とは25才違いなんですが、すると、石川淳の場合は吸収するという関係ではなかったわけですね。
ねり 距離感がありましたから。とても偉い人に認めてもらったという感じじゃなかったかしら。
──花田清輝の場合は完全に吸収して、越えてしまったといえるかもしれない。すると、その後が微妙になりますよね。
ねり 二人の関係で見ることは意味がないんじゃないでしょうか。ある思想が受け継がれて、花が開いたということが重要なんで、そういうポジティブな面に目を向ければいいんじゃないでしょうか。花田清輝はそれがとってもうれしかっただろうし、花田清輝がよろこぶということは、安部公房にとってもうれしかったでしょう。どっちが偉いというようなものの見方は意味がないじゃないですか。
──まったくその通りです。批評の怠慢です。
ねり これから『安部公房全集』や『埴谷雄高全集』が出てくると、戦後のあれだけ多くの人たちが見ていたものが、今の人にも見えてくるんじゃないかしら。
──来年、安部公房スタジオが活動を再開するということなんですが、安部先生と演劇の関係については、どうお考えですか?
ねり 最近、すごくうれしい発見をしました。わたしは『終わりし道の標べに』を読んでいて、演劇的な情景の描き方に注目していたんです。たとえば、冒頭の場面の部屋にはいってきてランプをつけて、床がキシキシと鳴るところ。あれはそのまま舞台にのせられるでしょ。この間、『サクラのサクラ 原体験』をシアターXでやりましたが、あれも長編小説がそのまま舞台にのっていたでしょ。わたしはそれがすごく特徴的だと思っていたんだけど、批評家でそういうことを言っている人はいないと思っていました。。
そしたら、対談の中で「最初に出てきた時に、ぼくは演劇的だといわれた」と喋っているところがあったんです。安部公房は中学を4年で卒業して、高校にはいったんですが、その年に肺浸潤で一年間休学しました。その時、家にある本をすべて読んだというんですが、その中に演劇全集があって、想像の中で演出していたそうです。もちろん、実際の舞台をみたら違うんだけれども、演劇から発想して『終わりし道の標べに』を書いていて、それを見抜いた批評家がいたわけです。「えー、じゃ、そういう風に言われたんだ」と驚きました。
後になると、そう言われなくなったんですが、当時の批評家はちょっと程度が高いんじゃないかな。
──ううむ。いよいよ『安部公房全集』は安部公房研究の宝庫ですね。
ねり ほかにもヒントがたくさんあるんですが、小説とは別に演劇サイドの活動をやっていて、演劇論の発展が小説に影響をおよぼしていくということがあると思います。それがきわまって安部スタジオをやるんですが、わたしはスタジオの7年というのは長編一作と考えているんだけれども、『仔像は死んだ』が完結というか、長編小説だと思っているんです。
──演劇論が小説に影響するというのを、もうすこし教えてください。
ねり 『終わりし道の標べに』なんかでは「物自体」というような難解な哲学用語で書いていたのが、演劇論が深まってくると、誰が読んでもわかる方向にむかったということです。
──身体感覚で表現する?
ねり 身体感覚ということではなくて、右脳と左脳というわけ方がありますよね。左脳的な小説が、演劇論の発展とともに、右脳的になっていったということがあると思うんです。後期の安部公房の小説は完全に右脳型になっていくんですよね。そのために、読者ががらっと変わって、新しい読者たちは後期の作品にものすごく刺激を受けるんです。それで、昔の作品、『砂の女』なんかつまんないっていうんです。
──ううむ。
ねり それが典型的にあらわれたのが、今年の 2月にニューズウィークにのった記事をめぐる応酬です。ニューヨークタイムスの文芸記者を長くやっていた人が、ワープロ亡国論みたいな記事を寄稿し、あの偉大な安部公房ですら、ワープロを使うようになってから、想像力が枯渇したと書いたんですが、次の号に大学生の男の子のすばらしい反論がのったんです。文章がよくて、うまい。表現が婉曲でユーモアに満ちている。それだけで勝敗あったというか(笑)。
そういう若い人、けっこういるんですよ。全集を手伝いに来ていた若い子もそういう感じでした。
──そういう話を聞くと、左脳人間としてはあせります。
ねり フフフフフ。これから右脳型の人が増えてくるでしょ。子供たちを見ていても、完全右脳型って、けっこう多いんですよ。
うちの子に6年生のが一人いて、日本語が滅茶苦茶なのね。で、単語が変でも平気なんですよ。新しく作った言葉で喋るんだけど、日本語が崩れちゃっているんですよ。注意をあたえてるんですけど、本人は自然にやっていることなんで、治らないんです。それが友達がいっぱい来ていて、全員そうだったんで、ぶっとんじゃいました。「これはなんだ! この人たちはなんなんだ!」って。
──一人二人ならともかく、全員ですか! 日本語がクレオール語化しているのかな。晩年の安部先生は、そういう世界に近づいていたんですね。
ねり わたしはそう思う。その人たちはこれから限りなく神秘的な人間になっていくでしょう。そのあたりに関係するんだけれども、安部公房の最後の作品の『飛ぶ男』が『スプーン曲げ少年』に改題されていたということがわかって、今度、文庫で出し直すんですよ。
──『飛ぶ男』が『スプーン曲げ少年』になり、また『飛ぶ男』になって、その後、さらに『スプーン曲げ少年』にもどっていたということですか?
ねり そうです。来年の 2月に最終バージョンを出すことになったんです。『スプーン曲げ少年』という題名を最後に選んだというところに、新しい世代に対するメッセージがあったのかもしれません。
──かつて流行った「新人類」ではなく、本当の意味の新人類にむけて書いたということですね。
ねり そう、『第四間氷期』の水棲人間ですよ、鰓呼吸する。うちにも三匹くらいいるんですけどね(笑)。
──ぼくなんか鰓呼吸どころか、右脳さえ機能していないですよ。完全に取り残されちゃったんだな。
ねり おとなしく『砂の女』でも読んでいた方がいいかもしれませんよ(笑)。
今、思いだしたんですが、小学生の頃、家で安部公房のマーケティング・リサーチが話題になったことがあって、マンガと読者がだぶっているという話があったんですが、その話でピンときました。
──マーケティング・リサーチというと、出版社がやったんですか?
ねり そうです。三島由紀夫がまだ生きていた頃で、三島さんは大衆小説と一致していて、大江健三郎が週刊誌、安部公房がマンガなんですって。
──それはおもしろい! これからの若者は、ぼくらが想像もつかない安部公房を発見するのでしょうね。今日はお忙しいところ、ありがとうございました。
佐々木基一氏は『七/錯乱の論理』(講談社文芸文庫)解説で、「沙漠について」は、「戦争中の、見渡す限り砂、砂、砂ばかりで、どこにも脱出口の見いだせないような絶体絶命の砂漠の中で悪戦苦闘した果てに見いだした生き方の方法を砂漠という比喩を借りて」要約したもので、「花田思想のエッセンス」であり、安部はこれに影響を受けて『砂の女』を書いたと位置づけている。
『砂の女』が「沙漠について」に影響されたのは間違いないだろうが、砂というモチーフが花田の戦争体験から出てきたという見方にはいささか議論の余地がある。
というのは、花田は戦時中ずっと内地にいて、沙漠は文字を通してしか知らなかったということもあるが(出口なし状況の比喩が沙漠でなければならない必然性は、花田にはとぼしかったのではないか)、「沙漠について」の載った「思索」1948年秋季号が店頭にならんだのと同じ頃、花田自身が上梓決定に深くかかわった安部の最初の長編、『終わりし道の標べに』が刊行されているからだ。「沙漠について」の執筆時期と、満州の沙漠地帯を舞台にした『終りし……』の最終校正の時期はかさなっていたと見ていい。もちろん、花田は真善美社顧問として『終りし……』の進捗状況を詳しく知る立場にいた。
「沙漠について」は『終りし……』の刊行にあわせて、おそらくは新人作家の出発を応援するような形で書かれた公算が高いです。すくなくとも、無関係に書かれたということはあるまい。
全集編集の過程で、従来の刊行テキストは、安部の没後、真知夫人の手が大幅にくわわっていたことが判明したために、文庫化は延期された。
詳しくは「國文學」1997年 8月号の李貞煕「変貌するテキスト・『飛ぶ男』」を参照のこと。