不謹慎な設問を一つ。
ファシズム(国家社会主義)とマルクス主義(科学的社会主義)、どちらが自国民をたくさん殺したか?
ファシズムについてはナチスのユダヤ人虐殺が有名であり、犠牲者は6百万人に上るとされている。この数字は多目のものらしいが、他にジプシー、身体障害者らを大量殺害しているし、はるかに小規模とはいえ、イタリア、スペインでも自国民殺しをやっているので、すべてあわせて六百万人という数字はほぼ実情に近いものだろう。
科学的社会主義は?
ブレジンスキーは五千万人という数字を上げている。ブレジンスキーはキッシンジャーとならぶ国際政治の専門家だが、ポーランド出身という経歴からもわかるように、ソ連・東欧やマルクス主義の実態について、単なる文献的理解以上の理解をもっている。
くわしくは同書を見てほしいが、これはごく控え目な数字を集めたものだということは注意しておいた方がいい。昨年一月の原著発表後、グラスノスチの進行で、西側の最も大胆な推計さえ上回る恐るべき数字が次々と明るみに出ている。科学的社会主義の名で殺された者はすくなくとも六千万人、おそらくは七千万人以上に上るだろう。存続期間が異なるとはいえ、ファシズムの十倍の犠牲者を出している事実は重い。
しかも、死者二千万人、連座者(家族)一億人とされる文化大革命のように、死者に数倍する人々が「人民の敵」として迫害を受けたことも忘れてはならない。ソ連では家族ぐるみ絶滅される例もすくなくなかった。ナチスの残虐性の例として、ユダヤ人を家族ごと収容所に送ったことが上げられるが、実はその手本は科学的社会主義の農業集団化政策にあった。
スターリンは重化学工業を発展させる資金として食糧輸出の外貨をあてたが、収穫を低価格で取りあげようとする政府に農民がやすやすと従うわけはなかった。そこで、効果的に収奪するために、農民をコルホーズ、ソホーズに囲いこむ農業集団化が強行された。その際、見せしめにされたのが、「
29年当時のソ連に「富農」という階級が存在したわけではない。本来の意味の「富農」は十月革命と農地解放、その後の穀物強制徴収時に皆殺しにされ、「公平な土地分配」がおこなわれていた。先祖代々の「富農」が消滅した後、たった十年で階級分化が起こるはずはない。裕福な農民はいたが、それは勤勉さと農業技術改良への熱意の結果であって、彼らこそ「ロシア農業の背骨」(ソルジェニーツイン)というべき人々だった。
科学的社会主義者は地域のリーダーになりそうな裕福で気骨のある農民には「富農」、貧しいがコルホーズ加入をしぶる農民には「富農支持者」というレッテルを貼りつけ、銃殺したり、家族もろとも収容所に送ったり、シベリアの密林の奥に「強制移住」させて皆殺しにした。手っとり早く、数千人単位で沼の中に沈められた農民もいる。
有害分子を一掃した後の農村は楽園になったのだろうか。
そうではない。天候不順もあったが、集団作業の不手際もひびいて、19032年、1933年には大飢饉が襲った。
科学的社会主義者は、五ヶ年計画達成のために種もみまでも農村から強奪し、食糧輸出を強行した。飢えた農民は駅を目指したが、都市へ移動することは許されなかった。駅周辺には餓死死体が累々と横たわった(国内旅券制度はこの時にはじまる)。
これがスターリンの飢餓輸出である。アガニョーク誌はウクライナの穀倉地帯だけで一日平均二万五千人、一年で七百万人以上の餓死者が出たという資料を公表している。
だが、農村収奪はスターリンが最初ではない。レーニンも食糧徴発隊を農村に送り、やはり種もみまで奪って飢饉を起こしている。バルト諸国に対しては、現地のソビエト政権の要請と称して侵略軍を送っているし(この時は撃退されたが)、最初の強制収容所を作ったのも、政敵を精神病院に監禁する手口を考えだしたのも、赤色テロによって反対派を虐殺する習慣を作ったのもレーニンである。スターリン主義はレーニン主義の延長線上に生まれたのだ。
単に国民を食べさせるためだけなら、あのような強権を発動する必要はなかった。科学的社会主義の科学性を証明するために無理を重ねた結果が、あの大虐殺と大飢饉であり、そのつけは慢性的な食糧不足として今日に暗い影を投げかけている。
ゴルバチョフはペレストロイカの一環として、事実上の農地私有を認めようとしているが、いくら個人所有になったからといって、農業技術の伝承は途絶えたうえに、気骨のある農民は家族ぐるみ根だやしにされてしまっている。一部の商品作物の増産は可能かも知れないが、肝腎の穀物増産は望み薄だろう。
このようなスターリンの罪業が明らかになるたびに繰返される論法がある。いわく、五ヵ年計画の輝かしい成功のためには多少の犠牲はやむをえなかった。いわく、スターリン時代の重工業発展がなかったなら、ナチスの侵略によってさらに大きな犠牲が生まれただろう、云々。
ブレジンスキーはこうした弁護に決定的な反証をつきつける。
第一に、五ヵ年計画の成功は凡庸なものでしかなかったということ。20世紀初頭には同じようなレベルにあった日本やイタリアの方がはるかに少ない犠牲ではるかに高い経済成長を行なっているし、決定的なことは、「一八九〇年から一九一四年にかけての帝政ロシア時代の方が、あれだけ大きな犠牲をともなったスターリン時代よりも、高い経済成長を維持していた」。
第二に、ドイツに経済復興と再軍備の余裕をあたえたのは、他ならぬスターリンだったということ。ドイツの軍事技術の温存に重要な役割を果たしたラッパロ条約にはじまる両者の親密な関係は、ポーランド分割を決めた独ソ不可侵条約の締結にまで発展する。ヒトラーはレーニンやスターリンから多くの手法を学んでいるが、ソ連を事実上の協力者ともしていたのである。
だが、ソ連のナチス協力はスターリン一個人の気まぐれの結果ではない。本書の白眉は、マルクス主義(科学的社会主義)とファシズム(国家社会主義)の同質性を論証したくだりである。両者がともに全体主義の一形態であり、ドイツ観念論の系譜から生まれた双生児であることは、ハンナ・アレントや、最近ではグリュックスマンによって指摘されているが、ブレジンスキーはそうした研究の成果をこう要約する。
二十世紀における政治勢力としての共産主義の出現は、ファシズムとナチズムの台頭と切り離しては考えられない。実際、共産主義とファシズム、ナチズムは歴史的に関連があり、政治的にも類似している。いずれも、工業化時代の深刻な問題──何百万という根なし草のような労働者の出現、初期の資本主義がもたらす不公平、そこから生じた階級対立など──への答えとして生まれたものである。第一次大戦の結果、帝政ロシアとドイツ帝国の価値観と政治秩序が崩壊した。……こうした状況の下で、社会的な憎しみを社会正義という理念でくるみ、社会を救済する手段として、国家の組織された暴力を正当化するにいたるのである。
わたしなりに補足するなら、両者は疑似科学を最大限利用した点においても共通する。ファシズムは民族の純血性という過去の神話を人種遺伝学で補強したが、マルクス主義は共産社会という未来の神話に現実味を与えるために、マルクス経済学という疑似経済学を科学の位置に祠りあげた。普遍的な真理という含意を持つ「科学的社会主義」という名称は、共産党だけが正しく、他党派の意見は非科学的で劣ったものだという独善をまねく。
疑似科学による党派的主張の神秘化は、党中央が最高の頭脳を結集して導きだした結論は科学的真理で、下部組織はただ党中央の方針を忠実に実践すればよく、科学的真理に反対する人間は頭がおかしいのだから、矯正労働収容所で精神を鍛えなおすか、それでもたてつくなら精神病院で飼い殺しにしろという結論にいきつく。優生学であきらかなように、科学は残虐行為を正当化するのだ。
「科学的社会主義」という洗脳的な名称は、民主主義の多元的価値観とは絶対にあいいれない。そして、その迷妄を押し通そうとしたところにソ連型社会主義や中国型社会主義、カンボジア型社会主義、北朝鮮式社会主義の悲惨が生まれた。そして、「科学的社会主義」という妄想に固執する限り、これからも形を変えた悲劇がくりかえされるだろう。失敗したのはソ連型社会主義で、マルクス主義自体には可能性があるなどという感傷趣味は本書によって根本から否定されたのである。