ヌーヴォーロマン風のわかりにくい話。ドヌーヴ演じるマリアンヌはパリのヴァンドーム広場に本店をかまえる老舗宝石店マリヴェールの社長夫人だが、なぜかアル中で、夫は映画がはじまってすぐに交通事故を装った自殺をとげる。マリヴェールの内情は火の車で、原因は夫が盗品のダイヤモンドをだまされてつかまされ、シンジケートから干されたためらしい。夫の弟はマリヴェールの身売を画策しているが、元やり手ディーラーだったマリアンヌは店を立て直すために、シンジケートの秘密に挑戦し、ロシア・マフィアがらみの真相に近づく……という筋らしい。
マリヴェールの若く美しいトップディーラーのナタリー(セニエ)を背後であやつるバティステリ(デュトロン)という男はマリアンヌとも関係があるらしく、思わせぶりな回想場面がしきりに挿入される。ラストで彼女はバティステリと対決し、彼との愛に破れたことがアル中の原因だと明示されるが、そんなことはすぐにわかっている。
ヌーヴォーロマンの悪しき影響か、謎解きが謎解きになっていず、まったく引きこまれない。
ただし、ドヌーヴは絶品。パーティの隅のテーブルで飲み残しの酒を集めて酔っ払ったり、食堂車で煙草をふかしながら若い男たちとトランプに興じたりする場面の崩れた美しさは息をのむ。
ジャン=ピエール・レオ演じるニコラは妻で弁護士のアリス(ムーティ)に養われている。家事をこなす他は、禅道場に通うぐらいしかやることがない。
アリスは夫の不倫に悩む弁護士仲間のジュリエット(マーシャル)の相談にのってやるが、スポーツ・カメラマンのガスパール(シャピー)と知りあい、しだいに引かれていき、浮気が本気になっていく。
ニコラは妻の不倫に気がつき、オートバイで颯爽と走っていく二人を原付で追いかける(なんとも情けない)。彼は絶望し、あてつけがましくガスパールの目の前でセーヌに飛びこむが、ガスパールに助けられる。ガスパールは気のいい男で、ニコラをアリスの夫と知らず、自宅に連れていく。ニコラは二人を別れさせるべく、策略をめぐらし、うまくいきかけるが、アリスは結局、ガスパールを選ぶ。ニコラは破れかぶれになり、二人がいっしょにいるところにあらわれる。
三角関係ものなのだが、夫が主夫業をしているところが味噌。ニコラも弁護士だったが、死刑囚の女性に恋し、接見中にヤスリをわたしたことから弁護士資格を失う。彼のロマンチックな行動にあこがれたアリスに拾われ、同棲から結婚にすすむが、無為な生活がつづくうちに人間としての誇りを失っていき、愛していなかったアリスにしがみつくようになる。社会的に終わってしまったニコラの鬱々とした表情の陰惨さはジャン=ピエール・レオの長い不遇生活と重なり、見ていていて辛いものがある。
工藤夕貴主演のハリウッド映画ということでマスコミで取りあげられたので、混んでいるのを覚悟して出かけたが、てがらがらだった。
出来が悪いわけではない。それどころか完璧な出来で、名作といていい。しかし、暗すぎる、のだ。
第二次対戦が終わって間もない頃のアメリカ西海岸の北の漁港が舞台で、霧の夜、漁師のカールが一人で漁に出て不審死をとげ、同じ夜に出漁していた日系人のカズオが殺人罪で告発される。
強制収用時にからむ土地問題がカール一家とカズオ一家の間にあったこと、事件の夜、カズオはカールと洋上で出会って、バッテリーを融通しているのに、疑われると思い、黙っていたことが容疑を深くした。
裁判がはじまるが、ローカル紙の記者のイシュマエルは灯台の記録から、タンカーに衝突したための事故という確信を得る。しかし、彼はその事実をすぐには公にしようとしない。
戦時中、彼の父親(シェパード)は紙面で日系人排撃をいさめたために、新聞の経営が傾いてしまった。日系人に対する偏見が残る中、JAP贔屓と見られかねない報道にひるむのは当然だろう。
もう一つ、被告の妻のハツエに対する確執があった。イシュマエルとハツエは幼なじみで、ハイスクール時代には恋人どうしだったが、戦争に向かう世相で人種を越えた恋が実るはずはなく、ハツエは「愛していない」といって彼を振る。それは彼女の本心ではなかったが、イシュマエルには心の傷として残った。
映画はイシュマエルの回想と、ハツエを助けようと決断するにいたる心の曲折を描く。重く垂れこめた空と、雪にふりこめられた情景がつづくが、深い情念を秘めた工藤夕貴がすばらしく、一瞬も緊張が抜けない。幼いハツエを演じる鈴木杏もいい。
現代の養老院を額縁に、1930年代のアラバマの刑務所の死刑執行棟の物語が語られる。実によくできた話で、最後に養老院を額縁にした意味が明かされる。
脳腫瘍の刑務所長夫人を救うために、主人公が看守仲間とともに、ヒーリング能力をもつ黒人の死刑囚を連れだす場面は『スタンド・バイ・ミー』を彷彿とさせる。分別盛りでありながら、童心を忘れない男を演じさせたら、トム・ハンクスの右に出る者はいない。
あざといのは『ショーシャンクの空に』と同じだが、悪玉が嗜虐嗜好の正確異常者だということと、救世主メッセージを盛りこんだために、後味がよくない。『ショーシャンクの空に』には及ばない。
続篇が前作をしのいだ数少ない例の一つ。ドラマが大人の鑑賞に耐えるし、カウガールの歌うナンバーがすばらしい。
実はお宝人形だったウッディがバイヤーに盗まれ、日本のオモチャ博物館に恋人のカウガールと父親の金鉱堀の人形とワンセットで売られそうになるのを、バズ以下、オモチャ仲間たちが助けに来るが、アンディはお宝人形というポジションは悪くないと思っている。
ウッディはアンディのもとに帰るか、博物館で余生をすごすか、選択を迫られ、アンディを選ぶが、ずっと下積み生活をつづけていた金鉱堀人形はせっかくのチャンスを逃すまいと、ウッディの逃亡を妨害する。
傑作には違いないが、こういう微妙なドラマが子供たちにわかるのだろうか。わかるとしたら、寂しいことだ。
一面の星空のタイトルバックの後、老人ばかりの田舎町のだるい日常がはじまる。主人公のアルヴィンは糖尿病で眼と腰が弱っている老人で、中年になった知恵遅れの娘と暮らしている。10年前に行き来を絶った兄が倒れたと連絡がはいるが、見舞いに行こうにも視力が落ちているので自動車は使えず、兄の家はバスの路線からはずれているので、バスも駄目。彼は小型トラクターで手製のトレーラーハウスを引っぱって、アイオワからウィスコンシンまで旅をする決心をする。
年代物のトラクターにソーセージを積みこみ、あきれる町の住民を尻目に出発するが、すぐに故障。彼はそれでもめげず、三百ドルで中古トラクターを買い、再び出発。
ソーセージを齧りながら広大な農地のひろがる中西部をのろのろ進み、夜は狭いトレーラーの中で眠る。こんな旅を三週間つづけるが、下り坂で加速がつきすぎ、エンジンベルトが切れてしまう。
親切な元トラクター・セールスマンが裏庭を提供した上、兄の家まで送っていこうと申し出るが、彼はあくまでトラクターで行くと頑張る。
ヒッチハイクの妊娠娘や神父との会話、親切な元セールスマンの父親に戦争中の狙撃兵だった頃の失敗を打ちあける場面など、寡黙な彼がしぼりだす一言一言に叡智を感じた。ファーンズワースの枯れた表情は味がある。
実話だそうで、リンチがヒューマニストに転向したとか、あれこれ言われている。確かに暴力もなければ狂気もなく、雨も降っていないし、凝った映像表現もなく、全編、中西部の広大な農地と質朴な気風を描いているが、田舎の奇人変人シリーズの一環といえないこともない。変な爺さんと突きはなさずに、中古トラクターで旅をしなければならなかった事情を丁寧に描いたあたりは成熟という言い方が当たっているのかもしれない。
少女が絵を描いている姿を主人公のルネ(ガンブラン)がスケッチしている。場面は一転して、森の中。子供が少女の死体を発見して、大騒ぎになる。彼女は主人公がやっている絵の教室から家に帰る途中で乱暴され、殺されたので、当然、主人公が疑われる。
彼は画家だが、事故で足を悪くして以来、仕事らしい仕事をしておらず、往診専門の医者である妻のビビアンヌ(ボネール)に養われている。ブルターニュの漁村という土地柄、主人公夫婦はまだ他所者にすぎず、村人の視線は冷たい。
ブルターニュの寒々とした風景もさることながらか、教会の骨董品専門の泥棒や故買組織がうごめいていたり、噂が噂を呼んで、ルネが完全に犯人あつかいされたりで、彼が心理的に追い詰められていくプロセスがびんびん伝わってくる。
少女殺しの捜査と平行して、カメラは妻に近づいてきた売れっ子ジャーナリストのデモ(ドゥ・コーヌ)とルネ夫妻との三角関係を追う。閉塞感と不安感をじわじわ高めていく手際はみごと。
ビビアンヌは持ち前の明るさで鬱状態におちいったルネを支えようとするが、やり手のデモの出現にいったんはよろめいてしまう。ルネはそれを知っても、内攻していくだけで、彼女の留守中、彼女が他の男に抱かれている画を自宅の壁に描くことしかできない。このあたりの夫の無力感は『男と女と男』に通ずるものがある。フランスではこういう三角関係が増えているのだろうか。
終幕でルネはデモ殺しに走るが、事件は自殺として処理され、少女殺しの真犯人も逮捕され、表面上、ハッピーエンドをむかえるが、重いものの残る作品である。
ポスターではエステサロンに勤める三人の女性の群像劇のような印象だが、実際は最年長のアンジェル(ナタリー・バイ)が主人公で、彼女と年下の恋人の物語の合間に元看護婦のサマンタ(セニエ)、老紳士と親密になるマリー(トトゥ)のエピソードがはさまり、若作りの婆さんオーナー(オジェ)が引き締めるという作り。
アンジェルは四十代のベテラン・エステティシャンで、客もついていて、オーナーから独立を勧められているが、気楽な立場がいいと勤めをつづけている。結婚歴があって、なにかと相談に出かける顔にヤケドの痕のある男が元の夫らしいが、ワケありの別れ方をした風である。
彼女は男をあさって気晴らしをしているが、男の方は行きずりの関係としか見ず、いつも傷ついている。ある晩、いっしょに旅行したフットボール・チームの選手にこれからも関係をつづけたいと駅の待合室で懇願するが、男はこんなオバサンはもうたくさんという態度で、彼女は悪態をついて去っていく。
たまたまその場にいあわせた彫刻家のアントワーヌ(ル・ビアン)はアンジェルに一目ぼれし、彼女の勤めている店を見つけ、客としてやってきて愛を打ちあける。アンジェルは最初は警戒するものの、彼の一途な愛にしだいに心を開いていくが、アントワーヌには若い婚約者がいた。思いつめた彼女は客を装って店にやってくるようになり、思い切った行動に出る。
ナタリー・バイの老け方がなんとも味がある。オーナー役のビュル・オジェは年齢不詳の怪物的な若作りで圧倒するが、アンジェル役の彼女は小皺や皮膚のたるみがはっきり出ていて、雇い人の立場の貧乏くささがにじんでいて、女としての決して幸せでなかった年輪を感じさせる。一口にいえば、海千山千の女なのだ。
その彼女が若い恋人の情熱にしだいにほだされていくのが見どころで、これぞフランス映画。
「AERA」の表紙に載った主演のエミリー・ドゥケンヌの横顔の印象で出かけたので、彼女が馘首を言いわたされ、暴れまわる冒頭のシーンで度肝を抜かれた。
とても「AERA」の表紙と同一人物とは思えなかったが、あの写真は斜めから撮ったから細面に写ったので、実物はえらの張ったがっしり顔、スタイルもずんぐりむっくり型……どう転んでも、美人の範疇にはいる女優さんではない。
接写で追いかける。彼女はキャンプ場のトレーラーハウスで、アル中の母親と二人で暮らしている。お金がないので、水道を止められるのは毎度のことだし、禁漁の池に空き瓶の仕掛を投げこんで、鱒を釣って栄養の足しにしている。
彼女は酒のためなら平気で男と寝てしまう母親の生き方を嫌っていて、なんとかまともな仕事につこうと、肩ひじ張って生きている。その息苦しいくらい懸命な姿をカメラは接写で追いかける。
ワッフルのスタンドをまかされている青年と知りあい、彼の紹介でワッフルの工場に勤めるようになる。はじめて友達が出来たと喜ぶ姿がいじらしいが、店主の息子がアルバイトをしたいと言いだしたために、彼女はまた職を失ってしまう。
ここでロゼッタは許されない行為に走る。ワッフル工場を紹介してくれたばかりか、なにくれとなく親切にしてくれた青年が、自分で焼いたワッフルをスタンドで売っていることを店主に密告してしまったのだ。
ロゼッタは青年に代わってスタンドをまかされるようになるが、はじめてできた友達も失ってしまう。ロゼッタはせっかく得た仕事を放りだし、死を決意する。最後の贅沢が茹卵一つだというのはわびしいが、その後にさらにわびしい落ちがつく。
たった一時間半の映画だが、恐ろしく見ごたえがあった。
ロビン・ウィリアムス主演という触れこみだったので気がつかなかったが、アシモフの「二百周年の男」の映画化だった。発表当時に読んだので、陽電子頭脳(!)に異常が生じ、人格をもってしまったロボットが人間になろうとする話だくらいしかおぼえていなかったのだが、見ているうちにすこしづつディティールを思いだした。おそらく原作にかなり忠実なのではないか。
ロビン・ウィリアムスを主演にすえたのはやや疑問だが、彼にしては抑制した演技だったから、原作を尊重する気持ちはあったと思う。
200年におよぶ盛りだくさんのエピソードを絵として見せているので、どうしても中だるみがあるし、全体にメリハリがなく、平板だが、悠久の年月を感じさせるセンス・オブ・ワンダーは確かに出ていたから、SF映画として宣伝した方が客が入ったと思う(かわいそうなくらいガラガラだった)。
アシモフのロボットものは黒人問題を下敷きにした印象が否めなかったが、死をテーマにしたこの作品で、ようやく新しい地平を切り開けたのだと思う。それだけに、この映画は意義があるのだが、ここまでこけてしまったのは余計残念だ。
豪壮な邸宅や別荘がたちならび、F1レースがくりひろげられる華やかなコートダジュールの別の面を描いた一種のメルヘンで、結晶度の高いリリックな傑作である。まったく背景は違うが、『恐るべき子供たち』の硬質な美しさを思いだした。
真っ青な海の岩場で少年が少年を射殺するというショッキングなシーンからはじまるが、次の画面では射殺した方の少年、オルソ(マルグラ)が鉄道でニースにやってくる時点にさかのぼる。
ニースに「天使の入江」と呼ばれる二つならんだ小島があって、その近くの港町が舞台。紺碧の海を背景にした公園で、地元の少女のマリー(ジョカンテ)に最後に殺すことになる少年、ゴラン(ヴェルベール)がいるかと声をかける。
オルソはロマの少年で、盗んだ金で銃を買おうとゴランに金を預けるが、ゴランは金の一部で酒を買って、友達にふるまってしまい、銃を買うことができない。しかも帰りに残りの金を地元の若者たちに奪われてしまう。
しだいにわかってくるのだが、金網や塀で仕切られた高級住宅地と海岸の間には、東欧などから流れてきたロマが定住していて、観光客をカモにするロマと、観光で食べている地元住民との間には対立がある。
ロマの子供と地元民の子供の間のいさかいが起こり、逃げ遅れたオルソは警察につかまり、少年院に入れられる。野外作業中に集団脱走がおこり、彼はなんとか逃げおおせ、港町にもどってくるが、居場所はなくなっている。
一方、マリーは駐留米軍のアメリカ人水兵を挑発して、水兵のたまり場に入り浸るようになって、子供たちの間で浮いてしまう。水兵にちやほやされているうちは強気だったが、いったん相手にされなくなると、彼女はひとりぼっちになってしまう。
孤立した二人は結ばれ、マリーはオルソに言われて、水兵とホテルに泊まり、ピストルを盗みだす。オルソは彼女を突堤で踊らせ、その隙に漁師の舟を奪って、「天使の入江」の小島へわたり、二人だけの生活をはじめるが、いつまでも楽園はつづかない。
紺碧の海とまばゆい陽光のもとに、最上流の生活と最下層の生活が同居し、若い生命があっけなく失われていく。神話の世界をのぞき見たような眩暈に似た感覚が残った。
リスボンを舞台にした中年女性五人の群像劇で、監督もポルトガル人だが、台詞はフランス語。
テレビでファッション番組を持っているキャスターのリンダ(マウラ)。舞台女優で、いまだに男出入りの激しいブランカ。ヘアサロンを経営しているレスビアンのクロエ(ベレンソン)。若い女に走った夫に捨てられ、成人した息子と娘だけが生きがいのバーバラ。離婚して、幼い息子を一人で育てている大学教師のエヴァ(ミュウミュウ)という個性豊かな顔ぶれだが、それぞれに問題をかかえている。
リンダは恋人でプロデューサーのジジが若い女優に乗り換えようとしているので、気が気ではない。ブランカは別居中の娘が麻薬中毒らしいと気を揉み、自力で麻薬の禁断症状を克服したというクロエに助けを求める。バーバラは娘の結婚が決まったが、目まいにおそわれ、脳腫瘍を宣告される。エヴァは講義を聞きに来ているバーバラの息子と恋に落ち、肉体関係が出来てから本気で悩みはじめている。
友情もあれば、対抗意識もあって、助け合ったり、衝突したりしながら、五人は中年の危機を乗り越えていく。芸達者をそろえただけあって、実に見ごたえがある。
五人の女優はみんなすばらしいが、年下の恋人の情熱に不安になり、小娘のように悩むエヴァアのミュウミュウと、クールなようでいて情に篤いクロエのマリサ・ベレンソンが光っている。
今年のアカデミー賞を独占した作品だが、それほどのもんじゃないという声があちこちから聞こえてくる。確かにひねりすぎていて、小ぶりに見える点は否めないけれども、間違いなく傑作だと思う。
リストラにおびえる主人公は、娘の友達に気があるようなことをほのめかされて有頂天になり、オスであることに目覚めて、会社を自分から辞め、ハンバーガーショップでアルバイトをはじめる。不動産紹介業をやっている妻は、業界の大物と不倫関係におちいり、射撃に凝りだし、娘は隣家に越してきたビデオが趣味のヲタク青年と意気投合し、いっしょに駆け落ちしようという間柄になる。
一口に言えば、理想の家庭を演じることに疲れた一家が、近所のゲイのカップル、隣家に越してきた軍国主義オヤジ、男を挑発することが生きがいの娘の友達等々という一癖ある人物を巻きこんで、狂っていくという苦いコメディなのだが、ケビン・スペイシーとアネット・ベニングの軽妙な演技と、ソーラ・バーチの存在感、緩急自在な演出で奥行きの深いドラマに仕上がっている。主人公の死を予告する趣向もみごとに生きていて、サスペンスの生まれにくいドラマにサスペンスを生みだしている。
時間をおいてから、もう一度見たいと思う。
素人SFの典型。『2001年宇宙の旅』を相当意識しているようだが、月とすっぽんというか、比較にならない。
火星の第一次探検隊が金属反応のあった山にレーダー波をあてたところ、突然、巨大なエネルギーが放出され、全滅したらしい。第二次探検隊は生存者の救出のために、予定を早めて出発するが、火星到着直前に事故が起こり、貨物運搬用のロケットに乗り移って、かろうじて着陸する。
火星にはただ一人生存者がいて、山の土砂が吹き飛んで、人面の構造物があらわれ、謎の信号を発していることを知らされる。
この後に謎解きがあり、火星人の文明と遭遇するのだが、人類からかけ離れた高度な文明をもってきた、ドラマが作れず、生命賛歌のモノローグで終わってしまった。ラストははずかしい。
『2001年宇宙の旅』の場合、宇宙人対人間ではなく、人間対コンピュータという対立でドラマを作ることに成功した。キュブリックのアイデアか、クラークのアイデアかはわからないが、天才的な思いつきである。
この作品の場合、ドラマが成立しないので、夫婦愛をもってきたり、いろいろ余計なことをやっているが、余計なことをやればやるほど白けた。
ゴミ。ヘレン・ミレンがこんな映画に出るとは。
一応、彼女が主演ということになっているが、実際は学園コメディで、大学の奨学金を取るために総代の座をねらう優等生の女の子が主人公。
彼女は歴史担当のミセス・ティングルからうとまれていて、卒業研究にCをつけられてしまう。残るは卒業試験だけだが、彼女に気のある落ちこぼれ子生徒が試験問題を盗んできたことから、彼女に濡れ衣がかかってしまう。幸い、校長の耳に達していないので、女優志望の親友(落ちこぼれに気がある)と落ちこぼれと、三人でミセス・ティングルの家に押しかけ、もののはずみで監禁・脅迫に突っ走っていく。
脚本が雑で、演出は大げさ、役者が大根ぞろい。唯一の見せ場はミセス・ティングルが女優志望の嫉妬心を刺激し、三人組の離反をはかるところだが、受けの芝居ができていないので、ヘレン・ミレンの悪魔的な演技が宙に浮いてしまう。
野際陽子ならこういう役もはまったかもしれないが、ヘレン・ミレンはよくも悪くも重厚タイプなので、最初から最後まで浮いている。ちょっとは作品を選ぶべきだ。
オネーギンは叔父の財産を相続するために、田舎の領地に出かけ、田舎貴族と形ばかり交際する。当地の名家に娘が二人いて、姉のタチアーナ(リヴ・タイラー)と親しくなり、彼女は熱烈がラブレターを書くが、それを読んだ彼は気持が醒め、あてつけのように、友人になったばかりのウラジーミルと婚約している妹の方にちょっかいをだす。彼はウラジーミルに決闘を申しこまれるが、返り討ちにしてしまう。湖の桟橋で銃を向けあう決闘シーンはカメラの勝利だが、タチアーナがいかにも田舎くさいので、興ざめ。
六年後、外国旅行からペテルブルクに帰ると、彼は従兄のニコライエフ公爵の邸に招かれる。そこで美しく変身したタチアーナと再会するが、彼女は従兄の妻になっていた。彼女の面影に心を奪われた彼は、早朝、彼女を密かに私室に訪ね、愛を告白するが、タチアーナは苦しそうに諦めてくれと繰りかえす。彼は寂しく邸を去っていく。
前半とは打って変わったリヴ・タイラーの気品ある美しさが目を見張る。
田舎では傲岸不遜で、スターだったオネーギンが、ペテルブルクの社交界ではその他大勢的な存在で、今を時めく従兄とは財産的にも、政治的にも、足元にもおよばない。映画だとこのギャップが身も蓋もなくあらわになり、オネーギンがちんけな俗物に見えてくる。プーシキンはここまで描いていたわけだ。
粉雪の舞う底冷えのする日、ビリーは五年の刑期を終えて刑務所を出所する。長髪で髭もじゃ、ぴっちりしたパンツで、前こごみになると、パンツとジャケットの間から背中から尻にかけてがあらわになってしまう。貧相で虚勢をはってわめくだけの男だが、猥雑で怪しげなオーラが漂っているのも確かだ。
ビリーは尿意をもよおし、刑務官にトイレを貸してくれと頼むが、一度出所したら中には入れられないとにべもない。股間を押さえながら、バスに乗り、街にもどるが、発着ターミナルのトイレは清掃中、レストランは休業で、ビリーは股間を押さえながら、街を走りまわる。
やっとダンススタジオを見つけ、勝手にトイレに入るが、ビリーは見られることを異常に気にしていて、先客をどなりちらす。
廊下の公衆電話で両親の家に電話をかけ、仕事で久しぶりに妻ともどってきたので、会いにいきたいというが、母親は信用せず、家に来るなら、妻を一緒に連れてこいという。
ビリーはちょうど通りかかった丸ぽちゃのレイラを捕まえ、脅してスタジオから連れだす。レイラの車に乗りこむが、マニュアル車なので歯が立たず、レイラに運転させるという情けなさ。
レイラは母性愛が強い性格らしく、虚勢を張って怒鳴り散らすビリーがほっておけなくなり、妻の役を引きうける。
母親(アンジェリカ・ヒューストン)はフットボール狂で、久しぶりにバッファローが勝った日が、ビリーの出産と重なって試合を見ることができなかったといって、ビリーを憎んでいる困った女。父親(ベン・ギャザラ)は売れない元クラブ歌手で、一見穏やかだが、すぐに切れる。ビリーはこういう両親に気を使いながら育ったわけだ。
両親との再会をはたした後、ビリーは刑務所にはいる原因になった八百長試合(と思いこんでいる)の落とし前をつけるために、かつてのスター選手を殺すという計画をレイラに打ち明ける。レイラを家に帰そうとするが、彼女はもっと一緒にいたいという。
ボーリング場ではじめてかっこいいところを見せた後、レストランで高校時代のガールフレンドといっていた女(ロザンナ・アークエット)に出くわし、単に一方的に熱を上げていただけとばれる場面がくる。
ホテルで時間をつぶす間、抱いてほしいそぶりを見せているレイラに背中を向け、丸くなって寝るシーンなど、ある種の女の子はぞくぞくするのだろう。
ラストはハッピーエンドで、めでたし、めでたし。
屋内プールの暗い水の中に、真紅のTシャツを着た細いネネットがずるずるとはいっていき、黒髪をたなびかせて、うっとりと沈んでいく映像からはじまる。その夜、彼女は友人たちに見送られて、寮の塀を乗り越えて学校を出ていく。
この思わせぶりなオープニングに、カットバックで、マルセイユで一人暮らすボニの生活がはさまれる。彼は19歳で、母が残してくれた唯一の遺産の家にウサギとともに住み、ライトバンのピザ売りで生計をたてているが、目下の関心は近所のパン屋の奥さんで、毎夜、彼女の豊満な姿を思いうかべている。
翌朝、ネネットはボニの家の前にあらわれるが、彼は彼女に気づいても、ことさら無視して、仕事に行ってしまう。その夜、ボニが家に帰ると、ネネットが押し入ってきて、二人が両親の離婚で別れ別れになった兄妹だとわかる。
ネネットは妊娠していて、相手が誰かは決して言おうとしない。彼女は堕胎するつもりでいて、移民が通院する福祉病院にいくが、紆余曲折の末に産むことになり、里子に出すという段取が決まる。
ボニは当初はネネットをさっさと厄介払いしようとするが、妹の腹がふくらんでいくにつれ、愛情が芽生えてきて、ついに出産すると、白百合の花束に銃を隠して、里子に出されようとしている甥をとりもどす。
ネネットのアリス・ウーリは『薔薇の名前』の少女を思わせる野性味のある少年のような姿態で、その彼女の腹が膨らんでくるのは妙にエロチックである。
倒錯のようで倒錯ではないという線をうろうろする映画で、じらされたあげく、マザコン男が父性愛にたどりつくという結末は、はぐらかされたような気がする。
全米リーグを制したことのあるアメリカン・フットボールの名門チーム、マイアミ・シャークスが低迷をいかに打開するかという話を軸に、30年間コーチをつとめたトニー・ダマト(パチーノ)、父親からオーナーの地位をひきついだ跳ねっ返りの娘のクリスティーナ(ディアス)、年齢的限界に直面したクォーターバックのキャップ・ルーニー(クエイド)、新進のクォーターバックのビーメン、脳の損傷を承知で試合をつづけるディフェンダーの要(LLクールJ)、良心的なパワーズ医師(モディーン)らの群像を描く。
ビーメンは三番手のクォーターバックで、緊張のあまり吐いてしまうが、ラッキープレイがつづき、たちまちマスコミの寵児になる。だが、天狗になりすぎてチームメイトの反発をかい、クライマックスの試合から外されるが、キャップの負傷で再びチャンスをあたえられる。
凝ったスタイリッシュが映像だが、話が単純なので、ストーリーテリングを妨げることなく、ダイナミックに物語が進んでいく。
オリバー・ストーンならではのビフテキ映画だが、アメリカン・フットボールという濃い世界を舞台にしているので、ぶ厚い脂身が美味に感じられる。ストーンははじめて『プラトゥーン』を越える作品を作ったのではないか。
戦前のフィレンツェに住んでいた英国の老婦人たちの話。サソリ族と呼ばれていて、元英国大使の未亡人のレディ・へスター(マギー・スミス)が仕切っている。
サソリ族の片隅にメアリーがいる。彼女は英国から布地を輸入しているパオロの秘書をしていて、パオロが愛人のお針子に産ませたルカの面倒をみている。
サソリ族から成金と馬鹿にされているアメリカ人のエルサ(シェール)は、ルカの母親に借りがあるといって、彼に巨額の贈与をする。
映画はファシズムが排外主義的性格を帯びだす1934年前後と、第二次対戦が勃発し、英国婦人が強制収用される1940年からファシズム崩壊の1943年までを描く。ルカは1934年には父親の意向でオーストリアのナチス系の寄宿学校に入学するが、第二次大戦がはじまると徴兵を嫌い、フィレンツェにもどってくる。
ルカは、サンジャミニャーノという田舎町に敵性国民として隔離されたサソリ族を救うために、さまざまな工作をするエルサの手足となって働き、ユダヤ人をパルチザンにわたす手助けまでする。
クライマックスは愛人にだまされ、ゲシュタポに売られそうになったエルサを救うために、彼女を馬鹿にしていたレディ・へスターまでが一肌脱ぐところだが、なみいる大女優の中で、シェールはおいしい役を演じている。
離婚歴二回、子供三人、仕事なし、貯金16ドル、むち打ち症の女性が弁護士事務所に強引に就職し、大企業の六価クロム汚染に気がつき、徒手空拳、集団訴訟を組織して、史上最高の和解金を獲得するまでを描くシンデレラ・ストーリー。
ジュリア・ロバーツはケバい悩殺ドレスに身を包み、久しぶりに汚れ役に挑戦しているが、これが実にはまっている。こんなにキラキラ輝くジュリアは『プリティ・ウーマン』以来ではないか。この人は線が細いので、エレガントな役より、汚れ役の方が魅力を発揮しやすいのだと思う。
もう一つ、ボスの弁護士役のアルバート・フィニーのすばらしさを特筆したい。経費を自分で持つかわりに、勝訴したら和解金の半分をもらうというあこぎな商売をしていて、十分稼いだので、そろそろ楽隠居を考えていたところ、エリンの情熱に引きずられて、はからずも被害者たちのために一肌脱いでしまう。単純な正義派ではなく、一癖も二癖もある狸おやじだという点にリアリティを感じた。
緑したたるベトナムの農村風景からはじまる。農民の娘が花摘み女として蓮の池のある大家に奉公する。早朝、花摘み女たちは三角帽子をかぶり、籠のような小舟に乗って、蓮の池にこぎだし、蓮の蕾をつんでいく。このシーンでもう圧倒される。
蕾を摘みおわると、天秤棒をかついで、ホーチミン市に売りに出かける。雑踏の中で客待ちしているシクロのインテリ車夫、かつてベトナム娘に産ませた娘を探しに来ている元アメリカ兵、土産物売りの少年とすれちがい、四つのエピソードが動きはじめる。
シクロの車夫はヤクザに追われていた高級娼婦を助けてやるが、彼女に一目ぼれし、頼まれもしないのにホテルの外で彼女を待つようになる。娼婦は車夫の純愛を持て余し、避けるようになるが、男は一晩彼女を買うために、シクロのレースに挑戦し、賞金を獲得する。
土産物売りの少年は酒場から追いだされそうになった時、娘を探す元米兵に呼びとめられる。元米兵は少年の木箱にはいっていた米兵のイニシアルのはいったライターが気にいるが、値段が高いので、少年に酒をふるまって、値下げ交渉をする。少年は酒によって眠ってしまう。
目が覚めると、元米兵の姿はなく、商品を入れた木箱もなくなっている。元締めから木箱を見つけるまでは帰ってくるなと言いわたされた少年は、雨の降る雑踏の中を来る日も来る日も、元米兵を探しつづける。
花摘み娘は蓮の花を摘みながら、つい故郷の民謡を歌ってしまうが、その夜、池のほとりの崩れそうなお堂に逼塞する主人に呼ばれ、歌を披露するように言われる。
主人はかつては将来を嘱望された詩人だったが、ハンセン氏病でこの邸に隠棲するようになり、手が動かなくなってからは詩作もやめていた。花摘み娘は主人の詩に魅せられ、口述筆記を引き受けるようになる。
どれも大時代的なお話なのだが、高度成長のとば口にあるベトナム(1950年頃の日本!)を背景にするとドラマにリアリティが感じられる。監督はアメリカ生まれのベトナム人だそうだから、エキゾチシズムの視線で作っているのは間違いないが、エキゾチシズムの裏づけになる現実がありそうな気がする。生っ粋のベトナム人が見たら、どう感じるのか。