アードマン・アニメーションズによる長編クレイアニメ。「ウォレスとグルミット」のようなスラップスティックではなく、ちゃんと劇映画している。
ニワトリが養鶏場から集団脱走する話で、「大脱走」と「第17捕虜収容所」を下敷きにしている。養鶏場は鉄条網に囲まれ、サーチライトをそなえた監視塔がそびえており、捕虜収容所そのまま。
ヒロインはジンジャー(サワラ)という若い雌鶏で、毛糸の帽子がトレードマーク。彼女は何度失敗しても、不屈のニワトリ魂で脱走を試み、番人に目をつけられている。
ほかのニワトリたちは老後の不安はあるものの、卵さえ産めば餌が保証された養鶏場の暮らしに満足しており、脱走にそれほど熱心ではないが、女主人のミセス・トゥイーディー(リチャードソン)が経営方針を転換し、チキンパイ自動製造機を入れたことから状況が一変する。
逃げなければパイにされてしまうが、考えつく限りの手は試していて、万事休する。
そこへ空から牡鶏のロッキー(ギブソン)が落ちてくる。空を飛んでサーカスから逃げだしてきたというのだ。ジンジャーはロッキーの言葉を信じて、彼の指導のもと、みんなに空を飛ぶためのトレーニングをはじめさせる。
しかし、ニワトリに空が飛べるのか。ロッキーは疑いの目で見られていたが、稼働寸前のチキンパイ自動製造機を命懸けで故障させた働きで、一躍英雄になる。こうなると逆に良心が痛むのか、彼は空を飛んだように見えたのは大砲で発射される芸である証拠を残して、こっそり養鶏場を去っていく。
不屈のジンジャーはそれでも諦めず、老牡鶏のファウラー(ウィットロウ)が英国空軍(RAF)の隊員だったことを自慢しているのを当てにして、飛行機の建造を思いつき、ネズミのニック(スポール)&フェッチャー(フィル・ダニエルズ)に材料を調達してきてもらって、飛行機を作りはじめる。
チキンパイ自動製造機の修理が早いか、飛行機の完成が早いかのサスペンスはお約束だが、人形に愛敬があるので、感情移入できる。
飛行機はなんとか完成するが、ファウラーは爆撃隊のマスコット・チキンにすぎず、飛行機の操縦はできないことがわかり、ニワトリたちは最大の危機をむかえる。そこへロッキーがもどってくる……。
クレイ・アニメで長編を作るということ自体が冒険なので、ストーリー、キャラクター、演出ともに無難にまとめている。クレイ人形どうしがぶつかって一つの塊になるというようなメタ場面は避けていて、オーソドックスな劇映画に徹している。
その意味では「トイ・ストーリー」と似たポジションにあるが、人間をニワトリと同列に登場させられる点と(ニワトリも人間も下ぶくれの同じ顔をしている)、動きのないショットでもリアリティが維持される点で、ローテクの勝ちである。
アードマン・アニメーションズの初期作品を集めていて、影絵アニメなどもある。武器商人を諷刺したもの、ホームレスのための救護所を描いたもの、映画に押されて落ちぶれていく犬のサーカスを舞台にしたものなど、シリアスな社会派ネタが多い。ドタバタ宇宙ものもあるが、2/3は大人向けである。
雑多な短編の寄せ集めというだけでもつらいものがあるが、話が地味すぎて、途中居眠りをした。
ポスターに「倒錯の迷宮」とあり、シュミットだし、期待するものがあったが、エロティシズムという面ではがっかり。老人が床に仰向けに寝て、顔の上にヒロインのイリーナ(パノーヴァ)が立つとか、ボンデージ・ファッションで猿ぐつわをはめるといった程度。第一、シュミットらしくなく、画面が野暮ったい(わざと野暮ったくしたのだろうが)。思わせぶりなポスターとは裏腹に、イリーナはリンゴほっぺの健康優良児で、この田舎娘を主人公にした艶笑コメディなのである。
イリーナはロシアからスイスに出稼ぎに来ていて、市民権をとったら、家族を呼びよせるつもりでいる。稼ぐといっても、何の能もない田舎娘にできるのは体を売ることだけだ。幸い、政財界の大物を客にする売春組織にもぐりこみ、天性の無邪気さが受けて、オジサンたちの人気者になる。大物のコネで市民権をとろうというのが彼女の目論見だ。市民権獲得の進展具合を書きおくる手紙に、故郷の子だくさんの家族は一喜一憂する。
右翼の元陸軍少尉の老人に案内されて、絵葉書的な風景の中の隠し扉から、第二次大戦時に政府がこもったという地下大本営に潜りこむ場面がある。岩山の中腹の隠し扉が開いて、高射砲が空を睨む。スイスという国は服の下に鎧がちらついている国らしい。
おりから、マフィアのマネーロンダリングがらみのスキャンダルがもちあがり、脛に傷もつ大物たちは戦々恐々とする。イリーナは名誉市民権をやるといわれて、渦中の人物の居場所を喋ってしまう。彼は自殺に見せかけて殺され、大物たちは胸をなで下ろす。
市民権の約束は反古にされ、イリーナは名誉市民になるどころか、国外退去を言いわたされる。彼女は結婚すると約束してくれたが、実は妻のいる元少尉の家で自殺をはかるが、酔っ払って電話で「ベレジーナ」指令を出してしまう。元陸軍少尉はコブラ団という秘密組織のリーダーで、「ベレジーナ」は要人を暗殺し、クーデタを起こせという暗号だったのだ。
指令を受けたコブラ団の老人たち(車椅子までいる)は政財界の大物(多くはイリーナの客)を次々と暗殺し、あれよあれよという間にクーデタは成功してしまう。指令を発したコブラ0であるイリーナは、新政府の元首になる。映画は花火を盛大に打ちあげる戴冠式の場面で終わる。
ベレジーナとはナポレオンのロシア退却時に、スイス人傭兵が奮戦した河の名前だそうで、ドイツ語圏スイスでは神聖視され、フランス語圏スイスでは災難の代名詞になっているという。日本でいえば二〇三高地のようなものか。
「二〇三高地」という題名で、フィリピン人娼婦を主人公にしたコメディを公開するようなもので、それに似た悪意がこめられているのだろう。
ニックの生い立ちからはじまる。
ニックは母親がラスベガスのショー・ガールだったので、楽屋で育ち、踊り子たちみんなから可愛がられる。当然、女性観が歪む。
画面は一転して、現在のリビングルーム。長椅子に中年になったニック(ギブソン)がにんまりしながら寝ている。
ニックはやり手広告マンで、念願のクリエイティブ・ディレクターに出世できるものと胸算用している。ところが、会社の方針が女性市場重視に転換したために、クリエイティブ・ディレクターの座は、ライバルが医者からヘッドハントされてきたダーシー・マグワイヤ(ハント)に奪われる。ニックの男尊女卑のマッチョ路線は時代遅れというわけだ。
マグワイヤは就任早々、女の気持ちになれと訓示をたれ、女性用品をネタにアイデアを考えてこいと指示をあたえる。
ニック役のメル・ギブソンが酔っ払って、女性の下着を身につけ、化粧してピエロのような顔になるシーンは笑えるが、ここで変事が起こって、ニックは女性の内心の声が聞こえるようになってしまう。
ニックは狼狽して、結婚カウンセラー(なぜか長椅子を使う)に相談するが、女性の心が読めれば、宇宙を支配できるといわれて、俄然、その気になる。
女性の心が読めるようになったニックは、憎きマグワイヤのアイデアや情報をいただき、みごと復讐を果たすのだが、その頃には女性の気持ちのわかる男に成長していて、マグワイヤと結ばれ、めでたしめでたし。
シルベスタ・スタローンはコメディ進出に失敗したが、メル・ギブソンは役者が二枚も三枚も上手で、愛すべき女たらしをみごとに演じている。「チキン・ラン」のロッキーの声もよかったが、この映画でも演技派のヘレン・ハントをリードするまでになっている。
コーヒー・ショップのローラ(トメイ)とのエピソードや、元妻が再婚し、新婚旅行に出たために、15歳の娘を二週間あずかることになったエピソードもうまく決まっている。久々に後味のいい映画を見た。
アンジェリーナ・ジョリー目当てで見にいったが、すべてに期待はずれ。
女性版インディー・ジョーンズで、イルミナティの陰謀がからんだり、カンボジアのジャングルから北極まで出てきたりと盛りだくさんだが、物量でドラマがかすんでしまった。ヒロインを強くしすぎたために、サスペンスがさっぱり盛りあがらないこともある。
ビデオクリップと割りきるにしても、あまりにも長すぎる(1時間40分なのだが)。
原作はOLの日常を描いた日記形式のコラムなので、ジェーン・オースティンの『自負と偏見』から借り、エッセイ風恋愛コメディになっている。
ブリジットは雑誌の広報担当の32歳のOLで、男前の編集長のダニエル・クリーヴァー(グラント)と、幼なじみだというが、鼻持ちならない弁護士のマーク・ダーシー(ファース)との間で揺れうごく。
クリーヴァーとダーシーは大学時代は親友だったが、ダーシーの離婚にからむ出来事で絶交したらしい。その事件の真相をめぐって、ブリジットは振りまわされることになる。
結婚にあせっていても、恋愛100%にならないところが、32歳という年齢の妙味なのだろう。その分、恋愛劇としては焦点がぼやけたが。
レニー・ゼルウィガーの愛すべきキャラクターがうまく出ていて、彼女以外のキャスティングは考えられない。役作りのために太ったということだが、お腹の肉がつきすぎている。ダイエットに励む姿には涙ぐましいものがあるが、御伽噺なのだから、そこまでリアルにしなくてもよかったのではないか。
評判通り、おもしろかった。
昨今の日本映画の中で卓越しているというわけではないのだが、野村萬斎の非日常的な存在感と技量が安倍清明に重なったり、伊藤英明の不器用さが源博雅の一途さに通じたり、元Speedの今井絵理子の大根ぶりが蜜虫の人形美にあっていたりと、傷になっていたかもしれない要素がことごとくいい方に転んでいる。平安朝ゴースト・バスターズというか、明朗ホラーというか、微妙なポジションの作品だということが大きいだろう。
クライマックスのこれから盛りあがるという時に、早良親王(萩原聖人)の怨霊が青音(小泉 ← 老けた!)の色仕掛けにあっさり籠絡されるのはいかがなものか。不老不死にした早良親王の恋人(推定年齢185歳)を平安京の守りにしたというアイデアはうまいけれども、あの作りではわかりにくい。
日本史上一、二を争う怨霊であるはずの早良親王が引っこんだ以上、出世競争で負けた右大臣(柄本明)がさっさと日和ってしまうのも仕方ない。
こうなると、怨念は道尊(真田)一人が引き受けることになる。なぜあそこまで恨みをもつのか説明がないのだけれども、真田の力演で考える暇をあたえないので、傷になっていない。
屋上から飛びおりようとしているヒロインのあおいと、妹をいじめた男たちを殺そうとするトシが携帯のメールで思いとどまる場面を交互に見せるオープニングで悪い予感がしたが、前半はどうにかもった。
孤児院の子供たちに札束をばらまき、拾わせるというアナーキーな「慈善家」(阿部)や、肝のすわったナンバー1キャパクラ嬢(野波)といった印象的なキャラクターがおもしろい。合間合間にトシとの「純文学」風メールのやりとりがあるが、文面は気持ち悪いが、一瞬で消えていくので、スパイス効果といえないことはない。
あおいとトシがずっとすれ違いをつづけていればよかったのだが、中盤で二人は出会い、同棲する。
ここからがいけない。
愛という名前でAV嬢をはじめたあおいに、トシはAVをやめろといい、「純文学」的すったもんだがはじまる(オエッ!)。
ラスト、トシは子供を救おうとして死ぬ。いやはや。「バウンスkoGALS」よりもさらに古い。原作は未読だが、飯島愛がこんな臭い話を書くとは思えないし、ベストセラーにもならなかっただろう。
客席は女子高生が多かったが、白けていた。
1980年代バブルの頃のニューヨークのヤッピー生活を描くが、疲れる映画である。
主人公のパトリック・ベイトマン(ベール)はブランドで完全武装し、予約で一杯の有名レストランに割りこめるかどうかで見栄を張りあうエリートの一人だが、名刺の紙質、書体の勝負でポール・アレン(レト)に負け、仕事でも一本とられてしまう。
自尊心を傷つけられたベイトマンはアレンを自宅に招いて斬殺するが、殺し方が神経症的である。部屋が汚れないように床に新聞紙を敷きつめ、スーツの上にビニールのレインコートを着こんで、銀色に光る斧(ブランドものなのだろう)で頭をたたき割るのだ。
表面はヤッピー生活をつづけるものの、ベイトマンの狂気はさらに進行し、アレン名義で部屋を借りると、娼婦を連れこんでは斧や肉切包丁で殺し、死骸をためこんでいく。
二重生活の乖離がさらにすすみ、ベイトマンは錯乱して警官を射殺し、パトカーを炎上させ、会社のビルに逃げこんで、夜間受付を殺し、顧問弁護士に電話をかけて、犯行を告白する。
翌朝、クラブで弁護士に会い、おそるおそる確かめると、冗談だと受けとっている。必死になって事実だと訴えるが、アレンは生きていると知らされる。
幻覚落ちだが、結構怖い。後味悪し。
ウィレム・デフォーは行方不明になったアレンを探すために傭われた私立探偵役で出番はすくない。
題名ではハリーだが、フランス語の映画なので、アリーと発音している。
バカンスで借りた農家にいくために、しがない国語教師ミシェル(リュカ)は妻(セニエ)と三人の娘を車に乗せて高速道路をひた走っている。車は小さい上にエアコンがなく、娘たちが騒ぎだし、夫婦の口喧嘩がはじまる。赤ん坊がむずかりだし、一家はサービスエリアで休むが、ミシェルがトイレの洗面台で手を洗っていると、鏡ごしに裕福そうな男が見つめてくる。彼はリセ時代の同級生のハリー(ロペス)だと名乗る。
ミシェルは記憶がないが、ハリーは細かいことまで憶えていて、20年ぶりに再会したのだから予定を変えてつきあうと言いだす。ハリーは新車のジープに乗っていて、若く肉感的なブリュンヌ(ギルマン)を連れている。親の遺産があるので、時間はいくらでも自由になるのだという(実際、お城に住んでいる)。
ハリーは食事の席でリセ時代、ミシェルの書いた作品の大ファンだったと告白する。「空飛ぶ猫」という詩を暗唱し、作品を書けとはげまし、「君の才能のためなら援助は惜しまない」とまで言う。
ミシェルはまんざらでもなく、プリュンヌの胸の谷間に触発されて「卵」というコントを書くが、妻子は家庭サービスを要求してうるさいし、父親からは孫を見せに来いといってくるしで、それどころではない。
ここでハリーは親切心を発揮し、ついには創作の妨げになる家族皆殺しまでエスカレートする……。まったくの善意なので、始末が悪い。
ハリーはミシェルにナイフをわたし、手わけをして殺そうというが、ためらっていると全部自分でやると申しでる。ミシェルはハリーの胸にナイフを突き立て、裏庭に埋める。一家はハリーの車でパリにもどる。一種のハッピーエンドか。
サスペンス映画のようだが、はらはらはしない。マルグリットの絵のようなハリーのたたずまいは印象的だが、もやもやした重苦しい雰囲気がずっとつづき、鬱陶しい。
おのぼりさん的なイタリア・ロケが売物の映画で、美術と撮影は立派だが、所詮、洋画コンプレックスの産物。後半はあくびで涙が出てきた。
人物の類型性をとやかくいってもしょうがないが、主人公の順正(竹野内)はただただ純真、ヒロインのあおい(チャン)はただただ意地っぱり、同棲相手の芽実(篠原)はただのヒステリー女、父親(大和田伸也)はどこまでも卑劣で、友人の崇(ユースケ)は馬鹿な盛りあげ役。なぜこんなゴミがヒットするのか。
原作はアイリッシュの『暗闇へのワルツ』で、舞台をキューバのサンチャゴに移している。贋の花嫁に振りまわされ、破滅していく実業家の話で、トリュフォーが『暗くなるまでこの恋を』として映画化しているが未見。
ハバナの牢獄で処刑前に聴聞僧に語るという額縁つきがついており、アンジェリーナ・ジョリーのぶ厚い唇のアップからはじまる。黄系統の勝ったこってりした絵で、アンジェリーナ・ジョリーとバンデラスという濃厚系俳優の激突ということもあって、ステーキにバターの塊がのって出てきた感じ。
ルイス・バーガス(バンデラス)は堅実な結婚をするために、ボルチモアの新聞に結婚募集広告を出してジュリアを選び、港に迎えにいったところ、待っていたのは写真とは似ても似つかぬセクシーな美女(ジョリー)で、「美人でも我慢する?」と挑発的に聞いてくる。
すり代わっているのは見え見えだが、巨額の財産を持ち逃げしてからがおもしろくなる。欺かれたのにバーガスは彼女が忘れられず、行方を探さずにはいられない。彼女は何者か、黒幕は誰か、本物のジュリアはどうなったのかと、引きこまれるし、ジュリアの姉が傭った私立探偵ダウンズの使い方もうまい。
結末の二重のどんでん返しは、この二人だから説得力がある。バンデラスは悪党の方が似合う。
ジェニファー・ジェイソン・リーとアラン・カミング夫妻が監督・主演した楽屋落ち的映画で、ハリウッドのスター夫婦のホーム・パーティに俳優仲間が集まるという設定。グゥイネス・パルトロゥやジェニファー・ビールスが友情出演していて、お手軽な映画かと思ったが、意外によかった。
昼過ぎから晩のパーティをはさみ、翌朝まで、まる一日の話だが、夜中になって愛犬が庭の外へ出てしまい、日本の提灯のような照明器具を手に総出で探すくらいしか事件が起こらず、だらだらとつづいていくが、だらだら感が快いのだ。
愛犬の鳴き声に苦情を言ってきて、険悪な関係にある隣家の弁護士夫妻を招待したところ、本当に来てしまう。映画界の人間の中に堅気が混じれば目立つわけで、弁護士夫妻が自己紹介するたびに友人たちは「あのお隣さん!?」と驚く。
これがスパイスになっている程度で、本当に何もない。アルトマンなら職人芸的にメリハリをつけるのだろうが、素人監督にそんな技はなく、それでも皮膚感覚的なおもしろさで見せてしまう。
リーは猫科女優の本性を発揮し、邪悪な目となまめかしい普段着姿で視線を引きつける。
おもしろかった。今村作品にしては脂っこいところが落ちて、お茶漬けに近いが(それでも鯛茶漬けくらいのボリュームがある)、老境の傑作である。
原作は首都圏近郊の営業所に勤める20代のサラリーマンが不思議な体験をするというだけの話だが、映画ではリストラされ、妻子に捨てられた中年サラリーマンの笹野陽介(役所)がホームレスのタロウさん(北村)と知りあい、北陸の赤い橋のたもとの家にお宝を隠したと吹きこまれるという額縁がついていて、味わいが格段に深くなっている。脚色はすごいとしかいいようがない。
タロウさんの死後、陽介は宝探しに出かけ、氷見市のはずれに問題の家を見つける。赤い橋のたもとにちんまりと建ったしもた屋で、二階からノウゼンカズラが咲きこぼれている。道路に和菓子の看板が出してあるが、店の構えではない(このセットは味がある。氷見市のページによると、元は水色の橋だったそうだが)。
訪ねるきっかけをつかみかねていると、若い女(清水)が出てきて、車でどこかに去る。
彼は弁当を買うためにスーパーに行くが、チーズの棚の前で先程の女を見かける。足もとにはなぜか水たまりができていて、感に堪えぬように足踏みしている姿がエロチックだが、輸入チーズを万引きしていく。後にはイヤリングが落ちていて、彼はとどけようと追いかけるが、見失う。
陽介は赤い橋のたもとの家に引きかえし、中にはいると、老婆(倍賞)になにもいわずに二階に案内され、女と再会する。彼女はサエコといい、水がたまってくると悪いことをしたくなるのだと打ち明け、二人はいきなり男女の関係になるが、行為の頂点で盛大に水が噴きだす。半端な量ではなくて、笑ってしまうくらい大量に噴きだすのだが、窓の外に広がる日本海と立山連峰を背景にすると、すこしも不思議ではない。
陽介は網元のどら息子(北村有起哉)に声をかけられ、漁師のアルバイトをすることになり、汚い民宿に宿をとる。サエコは水がたまってくると、陽介の船がもどってくるころを見計らって物干に出て、合図する。そんな時は陽介は大急ぎで赤い橋のたもとの家に駆けつけ、サエコの水を抜いてやる。
サエコの出した水は雨樋をつたって川に流れ、海に広がっていくが、すると魚が寄ってきて、大漁になるのだ。
陽介は東京の生活にも妻子にも未練を捨て、サエコと二人で暮らそうと心を決めるが、そこにタロウさんのホームレス仲間(不破万作)が転がりこんできて、あれこれちょっかいを出し、さらにはサエコの水がなぜかすくなくなってくる。二人が危機をどう乗り越えるかが山場になる。
原作では老婆はサエコの祖母だったが、映画では同じ体質を共有する赤の他人どうしになっていて、哀れが深い。老婆とタロウさんの悲恋という趣向もみごとだし、アフリカ人の双子を、駅弁大学が招聘したマラソン・ランナーにした発想にも舌を巻いた。なぜこの脚本に賞をあたえないのか。
10年ぶりくらいに中野武蔵野ホールにいった。切符売場は普通の映画館に近くなったが、相変わらずロビーはない。
近場から家出してきたらしい17歳の真理(松本)と20歳の敦(中泉)が池袋に出てくる。真理はデビュー直後の宮崎美子を思わせるぽっちゃり型の娘だが、頼りない敦をガミガミ怒鳴りつけ、二人は裏通りを別々に漂流することになる。
敦は撮影をすっぽかしたいAV女優の美樹(小室)にホテルに誘われたのが縁で、池袋のサンシャイン通りを縄張りにするスカウトマンの事務所にはいり、美樹のマネージャー兼スカウトマンをはじめる。女の子をだまして、素人AVで小遣い稼ぎしている社長の杉下(下元)と独立を狙っている二枚目の義弥(吉家)に仕こまれ、数日で猟犬のような目つきになっていく。
美樹はとうの立ったAVアイドルという設定で、AVを引退したばかりの小室を使うのはリアルすぎる。小室は全盛期よりずいぶん肉がつき、エラが張った感じで、1960年代風の鉄火肌だ。単に気が強いのを通りこして、肚のすわった存在感がある。
真理はパー券売りの可奈(藤本)に親切にされるが、利用されていることがわかっても、一文無しなのでついていくしかない。パー券をまとめ買いしてくれるオヤジがいるが、実はパー券を隠れ蓑にした援助交際なのだ。
最後に敦はスカウトマンとして、真理は風俗嬢として生きていくことを選ぶわけで、通過儀礼としての予定調和的青春映画にしなかった点はよかった
真理のピンクのダサいカーディガンから派手な服装に変わっていくが、似合わないところがリアルだし、敦の中泉も最後まで頼りない。この二人、主役を演じることは二度とないだろうが、この映画に関する限り、悪くない。
可奈はふてぶてしく落ちついているが、最後に15歳だとわかる。可奈の藤本は最初はぎこちなく、ちょい役風であるが、存在感を増してくる。
おもしろかったが、二時間は長い。20分くらい短かった方がいい
歌あり、踊りあり、笑いあり、涙ありのインドのマサラ・ムービーに近いミュージカル映画。物量と過剰な作りこみに圧倒される。20世紀フォックスのタイトルから凝っていて、1899年のパリを俯瞰するショットから、モンマルトルの丘の麓へなめらかに降下していく。ここでもうクラクラ。
『ラ・ボエーム』と『椿姫』をまぜこぜにしたような話で、英国からきた小説家志望の純朴な青年、クリスチャン(マクレガー)が、上の階に住んでいるロートレック(レグイザモ)にショー・ビジネスの世界に引っぱりこまれ、ムーラン・ルージュの売れっ子で女優になることを夢見ているサティーン(キッドマン)と恋に落ちる。
ムーラン・ルージュの経営者、ジドラー(ブロードベント)は店を一流の劇場にしようと考えていて、ウースター公爵(ロクスボロウ)から資金を引きだすためにサティーンを差しだすが、クリスチャンを愛するサティーンはあの手この手ではぐらかす。新作の初日が迫るが、思いを遂げられない侯爵は公演打ち切りを言いだす。サティーンはなぜか結核で(絶対そうは見えない)、突然、喀血。はたして初日をむかえられるか……と盛りあげる。
この悲恋物語を縦糸に、レビューのカンカン踊りとボヘミアン仲間のお笑いが横糸となって、絢爛豪華な緞帳を織りあげていく。客席の上を空中ブランコで舞い、舞台の大階段を群舞を従えておりてくるサティーンは金糸の刺繍といったところか。ニコール・キッドマンのなんという美しさ。
歌もすばらしい。ニコール・キッドマンとユアン・マクレガー本人が歌っているが、歌手ではない強みからか、時代錯誤なくらい情感のこもったロマンチックな歌で、こってり色彩ののった映像とあいまって、ハリウッド製マサラ・ムービーを盛りあげている。
話は例によってしっちゃかめっちゃかで、ヒロインの「野良猫」こと皆月美有樹(江角)は殺し屋ギルドのランキング三位だが、代理人の上京小夜子(山口)から指定されターゲットは「生活指導の先生」も狙っていて、皆月は「生活指導の先生」を射殺する。仲間を殺して戸惑う皆月に、かつてのチャンプで、今は老醜をさらす花田(平)が殺し屋を同士討ちさせる陰謀をほのめす。何が真相かわからないまま、皆月は「百眼」と呼ばれるランキング一位の殺し屋と対決する破目になるが、「百眼」はそもそもどこにいるのか。ギルドの殺し屋が次々と死んでいき、皆月は「百眼」を名乗る黒服の男(永瀬)や、殺し屋志願の美少女(韓)につきまとわれる。唯一の安らぎの場所だった母親りん(樹木希林)の江戸時代の商家風の家も安全ではなくなる。
古い銭湯や廃工場、鉄橋、美少女ヌードが出てきて、清順美学健在だが、個々のイメージに拡がりが乏しい。全体にあっさりしすぎていて、映画を見たという手ごたえがない。鈴木清順も老いたか。
公開時、目を引いた白いワンピースにブロンドの鬘の田中麗奈に黄色いペンキを塗りたくったポスターを久しぶりに見た。フランス人形風だが、眼は夢見てはいない。
タイトル前に野球場の殺風景なロビーでエリコと男との別れ話、バイク便のアルバイトと場面がつづくが、エリコのアンニュイなもやもやした眼が強烈だ。外車のディーラーに就職し、ようやくタイトルが流れるが、新しい職場が決まっても、相変わらずつまらなそうにしている。
偶然再会した大学時代の宮下先輩(斉藤)からCM出演をもちかけられる。日本髪にレトロな衣装で、風呂屋の前で野球のボールを受けとり、別の方向に投げるというもの。どんなCMになるのか、見当がつかない。
エリコは絵描きの母親(樹木)と二人暮らしだ。風来坊の父親はスペインにいったきりらしい。
エリコは合コンで一人だけつまらなそうにしているタムラに関心をもつ。飲みつぶれたタムラを介抱したことから携帯の番号を交換する。
エリコの方から連絡し、デート。エリコははじめてなごんだ表情を浮かべるが、アメリカに留学中の恋人がいると打ちあけられ、
「じゃ、悪かったね」といった時の眼は怖い。
しかし、ずるずるとタムラとのつきあいがはじまる。タムラの部屋にはじめて泊まった日、「一年だけつきあおう」とエリコの方からいいだす。題名の「マリーゴールド」は一年草というところから来ているのだろう。
最初は恋人の写真を飾ったタムラの部屋で会っているが、タムラは親元を出て会うための部屋を借りろという。悪い男だが、ヌーボーとしたキャラクターで悪さにオブラートがかかってる。小澤征爾ジュニアだそうだが、眉の太い顔は石原良純に似ているものの、石原のような線の細さ(気持ち悪さにつながる)がないので、大成するかもしれない。
恋人が帰ってくる日が段々迫ってきて、エリコは荒れる。ついに自分を選んで欲しいと迫るが、タムラは拒絶する。エリコは落ちこむが、お蔵入りになっていたCMが一年ぶりにオンエアされ、会社や商店街で評判になり、気がまぎれる。
ようやく気持ちの整理がついた頃、叔母の一周忌があり、その帰りのバスでタムラの恋人らしい女性が、アメリカ人の夫とともに乗ってくる。妊娠中で、おなかが大きい。タムラの話も出るが、単なる友だちで、つきあいがまったくないことがわかる。
エリコはやっとなごんだ顔をするが、これからどうなるのだ?!
市川凖おなじみの眠くなりそうなまったり路線だが、田中麗奈の強い眼がスパイスになって、けっこうおもしろかった。しかし、結末は唐突すぎる。
音大の卒業記念にカルテットを組んでコンクールに挑戦するが、アクシデントで失敗する。三年後、それぞれの道で行き詰まった四人が、担当教授(三浦)の勧めでもう一度カルテットを結成し、練習のために貧乏ツアーに出て、試練にあう。
音楽映画ということになっているが、作りはまったくスポ根ものである。キャラクターもみごとなくらい類型的で、自分勝手な天才肌の第一バイオリンの相葉明夫(袴田)、マネージャーで世話女房タイプの坂口智子(桜井)、気が弱く、技量もないビオラの山田大介(大森)、箱入り娘のチェロ、漆原愛(久木田)という顔ぶれ。相葉の死んだ父もバイオリニストだが、これが星一徹のような頑固親父で、相葉は愛憎なかばする感情をいだいている。音楽自体にスポ根の要素がないとはいわないが、星一徹はいかがなものか。
サービス精神満点の映画で、紋切型を次々と投入して興味をつなぐが、ラストは「走れメロス」で盛りあげようとする。
通俗的は通俗的なのだが、演奏シーンに気合がはいっていて、悪くない。チェロの久木田以外はゼロから楽器を特訓したそうで、敢闘賞もの。
全編英国で撮影し、すべて英国の俳優を使ったというだけに、画面は重厚だ。腐っても英国だ。
ハリーは魔法界のエリートで、みんな名前を知っているという設定だったのは意外だった。七部作の第一作だというのに、早々とハリーに優等賞をあたえてしまう。最初からハリーを飛び抜けたキャラクターにしてしまうのはどうなんだろう。
衝動的で出たとこまかせのジョー(ウィリス)と、インテリで健康オタクのテリー(ソーントン)の脱獄コンビが、夫に相手にされず、悶々としているケイト(ブランシェット)を仲間に入れ、三人で強盗ツアーをつづけるという、中年版「明日に向かって撃て」である。
ジョーとテリーはオレゴン刑務所をミキサー車を奪って脱獄する。テリーの発案で、二人は、夜、銀行の支店長宅に押しいり、翌朝、行員が出勤する前に金庫を開けさせて、現金をいただくという手口をくりかえすが、ダーレン・ヘッド(ストレーン)がMCをつとめるTVの犯罪番組がとりあげたことから、「泊まりこみ強盗」として有名になる。
最初、ジョーの従弟のスタントマン志望のハーヴィー(ガリティ)が仲間にはいっていたが、偶然見かけたピンクのジーンズのヒッチハイカーに夢中になり、金がたまったところで抜け、人質のはずだったケイトが新たに仲間になる。
ケイトのブランシェットの登場シーンはすごい。台所で料理を作りながら、「Hero」のあてぶりで踊りまくり、「エリザベス」のイメージが吹っ飛ぶ。
ケイトはジョーとねんごろになるが、テリーと一緒に逃げているうちに、テリーに引かれるようになり、三人の関係が微妙になる。このくだりが実にうまく(特にテリーのソーントン)、中年三人組の心の襞を描いて泣かせる。
ラストはまさかのハッピーエンド。一年の終りにすばらしい映画に出会った。