ノエの映画の人を食った味が好きだったのだが、「アレックス」は駄目だ。
冒頭に妄想オヤジ(ナオン)をちらりと出すとか、ゴシック体の大きな文字を使うとか、「カルネ」、「カノン」とのつながりを強調しているが、筋もつながらないし、作風としてもまったく異質の映画である。
恋人のアレックス(ベルッチ)をレイプされた男(カッセル)が地回りに金を払って、犯人に復讐するという単純な話なのだが、場面を逆順でつなぎ、手持カメラをぐるぐるまわしたりして、ことさらわかりにくくしている。
わかりにくくなって、何が生まれたのか? なにも。強いていえば、疲労感か。
「カルネ」と「カノン」では、社会的敗者の腹の中にわだかまる妄想の内部にはいりこみ、反社会的な世界観をぬけぬけと描くところに、人を食ったユーモアが生まれたのだが、アレックスを暴行し、顔を滅茶苦茶にする男(デュポンテル)がもっているはずの妄想はこれでもかと繰りかえされる単純な暴力としてしか描かれていない。これでは不快なだけだ。
モニカ・ベルッチが「マトリックス」の撮影にはいるまでの隙間に、急遽撮影した映画だそうだが、準備不足を小手先の前衛手法と、暴力の反復で胡麻化したということではないか。
うんざりする映画だが、最後の30分間は、輝くばかりに美しくゴージャスなモニカ・ベルッチの姿態が拝める。
パンフはよくできている。
ワルシャワでナチスのユダヤ人狩りを生きのびたピアニストの実話である。ワルシャワでは第二次大戦中に2/3の市民が死に、生き残った人々を「ワルシャワ・ロビンソン」と呼んだというが、その上にユダヤ人となると希有な上でも希有な例だ。原作者と監督の両方がワルシャワ・ユダヤ人の生き残りというのは奇跡というしかない。
ポランスキー自身の体験もはいっているのだろうが、下層ドイツ兵の小意地の悪さが赤裸々に描かれている。ユダヤ人ものの映画では悪いのはナチス幹部で、ドイツ庶民も被害者だったといわんばかりの描き方をしていたが、実際はこうだったのだろう。
むしろ主人公を助けるのは、これまで悪者のレッテルを貼りつけられてきたユダヤ警官とナチス将校で、どちらも芸術に対する敬意をもったインテリである。善良な庶民、腐敗したインテリという暗黙の前提をひっくり返したという意味でも、この映画は画期的だが、身も蓋もない描き方は後味が悪い。嘘であっても、「この素晴らしき世界」はカタルシスがあった。
ラストの瓦礫の山と化したワルシャワの街の光景には息を呑んだ。旧ソ連軍の駐屯地跡を使ったそうだが、この映画は今でしか作れなかったわけだ。
英国に亡命し、ナチスと戦ったチェコ人パイロット部隊の話である。いい題材なのだが、構成が不器用だ。
強制収容所の場面からはじまる。てっきりナチスかと思ったら、元SSの医師もはいっていて、社会主義政権の収容所だとわかる。本当なら故国に英雄としてむかえられるはずだったが、資本主義国に協力したということで、政治犯にされてしまったのだ。チェコ人パイロットが大量に亡命した話は「カフカの恋人、ミレナ」にちらと出てきたが、戦後はやはりこういう末路をむかえたわけである。
次いで1939年の回想に移る。進駐してきたドイツ軍に飛行機を引きわたす屈辱を晴らすために、パイロットたちは次々と英国に亡命する。
英空軍はチェコ人だけの部隊をつくる。自転車に翼をつけて、編隊飛行の訓練らしきことをやらさればかりで腐っていたが、バトル・オブ・ブリテンがはじまり、パイロットの戦死が増えると、チェコ人パイロットにも出番がまわってくる。
スピットファイアーを本当に飛ばした空戦場面は美しいが、問題はロマンスがからんでくることだ。友愛で結ばれていた教官のフランタ(ヴェトヒー)と教え子のカレル(ハーディック)が、海軍未亡人のスーザン(フィッツジェラルド)をめぐって三角関係になるのだが、これが中だるみを生む。英国での三角関係よりも、帰国後の葛藤を描いた方がよかったのではないか。
朝鮮族がまだ中国風の名前に創氏改名する以前の時代を舞台にした剣と魔法ものなのだが、お粗末としかいいようがない。「シュリ」のスタッフが作ったそうだが、すべてが安っぽい上に、怒鳴りちらし、泣きわめく「熱演」の連続で白けた。二本立てでなかったら、途中で出ていたところだ。
500年間の怨念とか、ミ族とファアンサン族の対立とかいったって、コップの中の嵐ではないか。自己客観化ができずに、すぐにハイテンションになるあたり、朝鮮半島の南北対立と似ている。
台湾武力解放をほのめかしたプロパガンダ映画といわれていたが、意外におもしろかった。
「阿片戦争」の記憶が新しいせいか、衣装・セット・オランダ人俳優もふくめて、画面全体が安っぽく見えるが、娯楽作に徹したのが成功していて、安っぽさが傷になっていない。
鄭成功(趙)が南京から福建にもどり、平戸からやってきた母(島田)と再会する。迫りくる清軍の脅威に、鄭政権内部が割れ、鄭成功は窮地におちいるが、台湾から逃げだして母の船にひろわれた施良(蒋)が活躍して、なんとか逆転する。施良は鄭家の養女になる。
しかし、父の鄭芝龍(杜)は清に帰順し、鄭成功の奮闘むなしく福建が陥落し、母は自害する。母の島田は貫禄を示して好演。
後半は14年後、オランダの城を落し、台湾を解放するまで。台湾に潜入させたスパイと連絡をとるために、鄭成功に思いをよせる施良が潜入し、ラストで派手に死ぬ。
明朝=国民党、オランダ人=日本人という見立てだと、台湾を占領した国民党政府こそ正統の政権ということになってしまう。こんな映画を作っていいのかと思っていると、台湾攻略の直前に北京の宮廷の場面がはさまり、鄭軍の背後をつくべきと奏上するいう家臣に対し、康煕帝は鄭成功も中国人なのだから、台湾回復は中国が領土を回復したのと同じだとして、廈門攻撃をやめさせる。
平和的統一のメッセージだが、それでは終わらなかった。
台湾攻略の場面ではオランダ軍の圧倒的な火力の前に、青竜刀に籐を編んだ盾という貧弱な装備の鄭成功軍はバタバタ倒されるが、次から次と兵が押し寄せ、人海戦術で砦を陥落させる。台湾人が見たら、武力解放の脅しと受けとるのではないか。
日本では珍らしい台詞劇というか、ディスカッション・ドラマである。しかも成功している。
マゼンタの強い冷え冷えとした画面がヒロインの影山光子(森口)の性格を暗示する。彼女は筋金入りの現状肯定女で、そこそこ仕事ができるのに、昇進試験を受けようとせず、古い木造アパートでずっと暮らしている。
彼女の仕事ぶりに目をつけた野心満々の青年実業家の勝野(仲村)が言い寄り、つきあうようになるが、勝野が用意するゴージャスな生活にまったく関心をもたず、「わたしはこれがいいの」一点張りで関係が終わる。
勝野との関係は、光子の生活にまったく影響を残さなかったわけではなく、別れるとすぐ、下の階に越してきたばかりのフリーターの下川(松岡)に光子の方から言い寄り、関係を結ぶ。ずっと一人で暮らしてきたが、別れたばかりで人恋しかったということだろう。
光子は下川を自分と同じく、上昇志向と無縁の人間と買いかぶっていたが、下川は単に向上心がなかっただけなので、光子と暮しだして余裕ができてくると、将来を考えだし、あせりはじめる。彼は勝野に会いにいって就職を頼み、醜態をさらす(松岡はなさけなさがなんともうまい)。
今のままでいいと理路整然と語る光子は毅然としているが、いくら論理として一貫していても、もたいまさこが語るか、森口が語るかで、台詞のもつ意味はまったく違ってくるだろう。台詞が凛と立つには森口の美貌が必要だったのだ。
年上の男性と不倫をしている絹子(久野)を主人公にした映画で、いい味を出している。神楽坂が舞台だが、中央線沿線の臭いがプンプンしている。魅力的な町並が味をもう一段深くしている。もう一度見たくなった。
絹子は29歳で、プレイガイドに勤め、独り暮らしをしている。妻子持ちの恋人、公平(小日向)がいるが、火曜の夜にしか会えない。それでも絹子は満足している。
毘沙門天前でいつものように公平を待っていると、聖(中村)に声をかけられ、一緒に暮らしているという「路上の言葉職人」こと真鍋君(KEE)を紹介される。
聖と真鍋君とのつきあいがはじまったことから、それなりに安定していた絹子と公平の関係がぎくしゃくしはじめる。聖は絹子に恋していて、絹子の部屋に転がりこんで来る。絹子はレスビアンは無理と聖を突きはなすが、聖はあきらめず、公平の妻に不倫を密告する手紙を出したり、娘のありみ(はやさか)に近づいたりして、妨害しようとする。
三角関係が四角関係になり、五画関係になるが、ドロドロすることなく、ふわふわ感を維持して、紆余曲折が濃やかに描いている。
久野真紀子という女優は初めて見たが、なんと味のある顔だろう。何時間でも眺めていたくなる。小日向もすばらしい。「非・バランス」とならぶ彼の代表作といっていい。中村麻美は不器用だが、役にははまっている。真鍋君のKEEは余人に代えがたい。
おふざけ映画で、一歩間違えれば悲惨な結果に終わるが、これは奇跡的におもしろい。
刑務所で死刑を待つ里美(中村)のところに修道尼が訪れ、懺悔を聞くという額縁。
子どもを誘拐されたと警視庁に訴えるが、夫(阿部サダヲ)は子供なんかいないという。捜査員は帰りかけるが、そこに霊能者の間宮悦子(由良)があらわれ、脅迫電話がかかってくると予言する。果たして電話がかかり、妄想とも現実ともつかない物語が展開していく。霊媒の由良の存在感は圧倒的である。亀山パンチ(上田耕一)は宇宙人が政治家に化けたという設定だが、自由民主党のたすきをかけたまま選挙カーの中でレイプしてしまう(いいのか!?)。FBIの成本(阿部寛)と、英語もどきの謎語を絶叫するルーシー(栗林知美)がからみ、MIBやらアブダクションやら、妄想が妄想を呼んでいく。
前作の「発狂する唇」が見たくなった。
シリーズものの完結編だそうである。
24世紀の横浜が舞台だが、広東語圏になっていて、まったく「ブレード・ランナー」化している(香港で撮影したのか、主役級以外はすべて広東語)。「ブレード・ランナー」ではペットが禁止だったが、こちらは子供を産むのが禁止されていて、全国民に避妊が義務づけられている。
禁を犯して妊娠した夫婦をめぐって、親衛隊を率いるホンダと、反政府組織のリョウが対決するという話。ホンダとリョウは幼なじみで、両方ともリーゼントにコート。ホンダは黒髪、リョウは金髪という違いだけだが、どんな意味があるのか。
「ブレード・ランナー」の安っぽい二番煎じ。パロディにするならともかく、シリアス・ドラマにしているだけに、応対のしようがない。シリーズの完結編だけ見てどうのこうのいうのもなんだが、最初から見ても評価は変わらないだろう。
原作は「てるくはのる」事件のモデルといわれたはずだが、切実な動機で殺人を犯す話(今どき珍らしい)で、快楽殺人の「てるくはのる」とはまたく違う。
高校生の主人公が家族を守るために義父(山本寛斎)殺しを計画する。ハムレットとは違い、殺しを決断し、実行するまでのプロセスはあっさりしている。殺してから悩むのが現代である。
導入部は荒っぽかったし、学校の場面は最後までリアリティがないが、孤独な心象風景は切ないくらい美しい。舞台の隠し味になっていた蜷川の繊細な部分が、映画というメディアで前面に出てきた。
モノローグ的な視点で終わっていたとしてもかなりのレベルだが、松浦亜弥との場面で、もう一回り大きな映画になった。
帰ったかと思った松浦が、主人公の指の動きをまねる場面。鳥肌が立った。駅に送っていき、乗客でごった返す改札口で殺人を告白するシーンも哀切。
ラストの松浦の目が脳裏に残る。
客席は高校生ばかりだった。前の回は授業で来ているんじゃないかと錯覚するくらい、ぞろぞろ出てきた。
期待せずに見たが、市川実和子の癖のある顔がだんだん美人に見えてきた。つまり、いい映画だということだ。
ストーリーは原作そのままだが、絵にするとえぐい。刺身にウジ虫がはいまわる場面、家庭内暴力で破壊された家の場面等々。原作では異常感覚者のネットワークの広がりがおもしろかったが、映画では主人公周辺の話にとどまっている。
原作ともっとも異なるのは沖縄をカットした点だが、これは正解だったと思う。絵にするとオカルト場面の印象が強く、これに沖縄ロケをいれたらリアリティがなくなるところだった。
市川実和子の演技はザツで、台詞が荒っぽいが、いったん波に乗ると「朝倉ユキはわたしよ!」と言わんばかりに圧倒してくる。彼女がヒロインでなかったら、小さくまとまった、つまらない映画で終わっていただろう。
透視バアサンのりりぃははまり役。短いシーンだが印象に残る。律子のつみきもぴったり。カウンセラー国貞(芥)のいかがわしさと、精神科医山岸(小市慢太郎 )のざっくばらんさは伊丹映画的な誇張だろう。
傑作。爆笑につぐ爆笑。