エディトリアル   August 2006

加藤弘一 Jul 2006までのエディトリアル
Oct 2006からのエディトリアル
Aug01

 製造業の空洞化が起きて久しいが、なんと出版業界でも編集業務の中国シフトが起こっているという(産經新聞iza)。

 当初は簡単なレイアウトをまかせるだけだったが、今では全体のレイアウトの統括と記事の執筆を除くほとんどの編集業務を中国のスタッフにまかせるようになった。日本人編集者を一人馘にすれば、中国人編集者を八人雇えるなどという物騒なことまで書いてある。

 もちろん、日本と中国で平行して作業を進めるにはIT技術を駆使しなければならないので、今のところ、こんなことをやっているのはコンピュータ関係の雑誌だけだそうである。コンピュータ関係以外の出版社では、ゲラのやりとりさえ、いまだにFAXでやっている現状を考えると、当分ないかなとは思う。

 しかし、1990年代後半に編集プロダクションや小さな出版社にDTPのシステムがどんどんはいり、プリプレス直前まで社内でやりだすところが急増したことを考えると、コンピュータ雑誌以外にも波及する可能性がないとはいえないだろう。

 しかし、そこまで日本語に堪能な中国人が増えているなら、日本語書籍の電子化を中国でやるというのはどうだろう。国会図書館では書籍の電子化が難しい理由として、校正にコストがかかりすぎるという理由を上げていたが(「電子図書館の胎動」)、中国なら数分の一の費用でできるはずである。実際、Amazonは「なか見検索!」のための書籍の電子化をフィリピンでやっているのである。

「トランスアメリカ」

 性転換の手術を受ける男が息子とともにアメリカ大陸を横断する破目になるロードムービー。アメリカの現在を凝縮した、滑稽で悲しい傑作である。

 ブリー(ハフマン)は性同一性障害で、西海岸で女のふりをして生活していたが、セラピストのマーガレット(ペーニャ)からようやく性転換手術の許可が出る。ところがニューヨークの警察から、いるはずのない息子のトビー(ゼガーズ)が麻薬の不法所持で逮捕されたと連絡が来て驚く。彼は大学時代、一度だけ女性と関係したが、その時に子供ができて、彼の知らないところで産んでいたのだ。

 マーガレットから息子と面会してこなければ手術の許可をとりけすと言われ、彼は仕方なくニューヨークに飛ぶ。慈善団体から派遣されてきた女相談員ということにして保釈金を払い、小遣いをわたして胡麻化そうとするが、マーガレットは納得せず、ロサンゼルスでポルノ男優になりたいという息子を連れてアメリカ横断の旅をすることになる。ブリーは自分が父親であることはもちろん、男であることも隠しているいるので、笑いのネタはいくらでもある。

 母親は死んでいるので、養父の家に無理矢理連れていき、厄介払いしようとするが、養父はトビーを虐待していたばかりか、レイプしていたことがわかり、いよいよ手離せなくなる。

 しかも、金と車をヒッチハイカーに持ち逃げされ、中西部に住む両親を頼らざるをえなくなる。母親(フラナガン)は女装してあらわれたブリーに愕然とし、追いかえそうとするが、トビーが孫だとわかった途端、いそいそと世話を焼きはじめる。この豹変ぶりはいかにもありそうで、笑える。

 しかし、一家団欒ですむはずはなく、いよいよブリーが父親だとわかる瞬間が来る……。

 ブリーは常に周囲を欺いているという不安定さがにじみ出ていて、痛々しく、性転換手術はなるほど必要なのだとわかる。てっきり男が演じているのだと思っていたが、ラストでそうではなかったとわかる。あのオカマっぷりはみごとだ

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Aug08

 朝鮮日報が社説で「漢字の読み書きができないことは自慢ではない」と嘆いている。

 漢字を知ろうとする努力が、美しい韓国語を捨てることを意味するわけではない。

 漢字や漢語、漢文をよく知っていることは、古くさいことでも、恥ずかしいことでもなく、自慢に思うべきことなのだ。

 韓国はハングルをナショナリズムの象徴にしたために、漢字を知らないことが誇らしいことになっているが、実は戦前の日本でも同様の動きがあった。

 敗戦後、進駐してきたアメリカ軍が漢字廃止政策を後押ししたために、漢字は軍国主義とナショナリズムの象徴のように喧伝されたが、実際は逆であって、中国人を蔑視し、アジアに日本の覇を唱えようという勢力が漢字廃止を推進していたのだ。

 それを最初に指摘したのは、イ・ヨンスク氏の『「国語」という思想』で、当時、衝撃をもってうけとめられたものだった。イ・ヨンスク氏は韓国から日本に留学し、そのまま日本にとどまって研究をつづけている人なので、戦後日本の「常識」に囚われずに、漢字廃止がナショナリズムの表現であるという中国周辺国の共通の条件が日本でも働いていることに気がついたのだと思う。

 残念なことに、イ・ヨンスク氏の発見はまだ一部の人にしか知られていない。漢字廃止がナショナリズムの表現だという当たり前のことが、なぜ広まらないのだろう。それくらい戦後左翼の呪縛は深いということか。

「嫌われ松子の一生」

 山田宗樹の同名の小説を『下妻物語』の中島哲也監督が映画化した作品。『下妻物語』の勢いにのったのか、キャストが凄いし、端役にいたるまで大物のゲスト出演で固めている。

 東京でバンドをやろうとしている青年(瑛太)が、父親(香川照之)から松子という死んだ伯母の借りていたアパートの後始末を頼まれる。伯母は高校で教師をやっていたが、不祥事を起こして馘になり、ソープ嬢になったり、愛人を殺して服役したり、転落の一途をたどった。最後は荒川の端のボロアパートに住み、引きこもり同然の暮らしをしていたが、河原で何者かに殺されるという悲惨な一生だった。そういう伯母がいることすら知らなかった青年は、松子の生涯を知ろうとする。

 松子は境界性人格障害の傾向があり、周囲に気にいられようと頑張るが、その頑張りがことごとく裏目に出て、悲惨な境遇に陥っていく。こういう役は深田恭子には絶対無理で、中谷美紀を選んだのは正解だった。

 CGを駆使したミュージカル仕立てになっていて、悲惨な場面になると歌がはじまるが、この趣向は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のパクリだろう。

 これだけを見ていたら傑作と思ったろうが、『下妻』と較べると、ちんまりとまとまりすぎている。『下妻』の二番煎じにならないように気を配っているのはわかるが、それが逆に作品を小さくしてしまったのではないか。

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Aug11

「息子のまなざし」

 ダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」の次の作品。主人公の肩越しに接写で押していく手法は「ロゼッタ」と同じで、最後まで息を詰めて見いる。

 主人公のオリヴィエ(グルメ)は触法少年のための職業訓練校で木工を教えている。水曜の朝、フランシス(マリンヌ)という生徒が入所し木工を希望するが、定員いっぱいだと断ってしまう。オリヴィエはもともと仏頂面の男だが、なにかおかしい。彼は事務室にいき、さっきの生徒を引き受けると伝える。なぜ、気が変わったのか。

 昼休みに別れた妻があらわれ、オリヴィエに再婚すると告げるが、何も言わない。二人はなぜ別れたのか。

 学校が終わった後、状況が飲みこめてくる。オリヴィエは元の妻がつとめている売店にいき、彼らの子供を殺した犯人の少年が入所してきたと告げたのだ。元妻は半狂乱になり、泣き崩れる。

 オリヴィエは仏頂面をつづけながら、フランシスに対し密かにストーカー的な関心を示しつづける。フランシスを車で送ってやり、一人暮らしの住居をつきとめると、授業時間中に抜けだして住居にはいりこんだりしている。前科のある15歳の少年が一人で暮らしていることに驚いたが、寒々とした室内も見ていて辛くなる。

 クライマックスは金曜朝に訪れる。オリヴィエは新入りのフランシスを連れて材木置き場に木材をとりにいく。オリヴィエは自分が殺された子供の父親だと告げる。フランシスは復讐されると思いこんで逃げだし、材木置き場に隠れる。オリヴィエは復習するつもりはないと叫んで、フランシスを探す。それでも逃げつづけるフランシス。オリヴィエは探しつづける。

 なぜオリヴィエはフランシスを許したのか、その理由は一切説明されないが、重い罪を背負って生きているフランシスの孤絶した姿を彼とともに見つめてきた観客には十分わかる。

 宗教はまったく出てこないが、これはプロテスタント文化の生んだ宗教映画だと思う。

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「ある子供」

 「ロゼッタ」と同じく若者の失業を背景にした作品。

 最初の場面からして痛い。18歳のソニアは子供を産んで自宅に帰ってくるが、自宅には同棲相手のブリュノの友人が女を連れこんでいて、明日まで借りていると言いはり、入れてくれない。ブリュノの携帯に電話すると、簡易宿泊所に泊まればいいなどと暢気なことを言っている。簡易宿泊所というのは一種の福祉施設らしく門限があり、遅すぎると断られるが、生まれたばかりの赤ん坊がいるということで特別に泊めてもらえることになる。

 ブリュノは子分の少年たちにひったくりをやらせて暮らしているチンピラで、盗品を持ちこんだ故買屋で赤ん坊が金になると聞きつけると、自分の赤ん坊を売ってしまう。それを知ったソニアは卒倒し、入院する騒ぎに。ブリュノはさすがにまずいと思い、赤ん坊をとりもどしにいく。

 しかし、相変らず反省がなく、少年にひったくりをやらせ、バイクに乗せて逃げるが、警察に執拗に追跡され、ついに少年の一人が捕まってしまう。ブリュノは一度は逃げおおせるが、共犯の少年を助けるために警察に自首する。

 最後の最後で希望が暗示されるが、英国の貧乏映画のようなユーモアはなく、剥きだしの貧しさが容赦なく映しだされ、一瞬も息が抜けない。

 作品とは関係ないが、ソニアを演じた女優は能代市の幼児連続殺人事件の犯人の若い母親そっくりで、あの事件が二重写しになってしまった。ソニアは能代の母親のような人でなしではないが、あの環境にいたら、同じようなことをしてしまうのではないかと心配になった。

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Aug15

「若冲と江戸の画家展」

 長らく無名だった伊藤若冲にいちはやく注目し、収集したプライス氏のコレクションの展覧会である。若冲とプライス氏という時空を越えたどら息子の精神の交流がテレビで何度もとりあげられただけに、すごく混んでいた。

 最初の部屋は「正統派絵画」というお題がついていた。オーソドックスな作品がならんでいて、。

 二番目の部屋は「京の画家」だが、どの作品もモダンでマンガに通じるものがある。もちろん、いい意味でだが、これがプライス氏の好みなのだろう。

 三番目の部屋は「エキセントリック」と題され、若冲の作品が集められているが、がらりと空気が違う。現代的なのだ。江戸時代から平成にタイムスリップしたかのようで、くらくらしてきた。部屋のつきあたりにモザイクで描かれた「鳥獣花木図屏風」が鎮座していたが、これはもう現代アートである。

 ロビーを挟んだ四番目の部屋は「江戸の画家」。ここは見ごたえがあった。プライス・コレクションは若冲や京都画壇だけではない。

 五番目の部屋は今回の展覧会の呼び物の変化する照明による展示である。しかも、ガラスなし。金箔銀箔を使った画が多いが、暗くなっていく時の箔の妖しい輝きにはぞくぞくした。またとはない機会をあたえてくれたプライス氏に感謝したい。

「ダンス・オブ・ヴァンパイア」

 納涼ミュージカルの傑作! どこかで見たことあるなと思ったら、ポランスキーの「Amazon吸血鬼」のミュージカル版だった。オリジナルはポランスキー自身が演出。1997年にウィーンで幕を開け、4年間ロングランをつづけた後、ブロードウェイに進出したよし。日本版は山田和也演出で、市村正親をはじめとして、芸達者をそろえている。思いっ切りはじけていて、映画版より面白かった。

 ストーリーは大筋は映画版と同じ。冬のトランシルバニア地方にアブロンシウス教授(市村正親)と助手のアルフレート(泉見洋平)が吸血鬼の調査にやってくるが、吹雪にあって教授は凍りついてしまい、シャガール(佐藤正宏)というユダヤ人のやっている宿屋兼酒場に担ぎこむ。

 教授は一命をとりとめるが、酒場の村人たちは皆ニンニクの首飾を首に下げている。教授は目的地は近いと直感して村人に吸血鬼のことを尋ねるが、タブーになっているらしく、わざとらしく胡麻化すだけ。佐藤はテナルディエもうまかったが、今回のシャガールも絶品。いかがわしい男をやらせたら、佐藤の右に出る者はいない。

 二人はシャガールの宿屋に泊まることにするが、アルフレートは風呂場でシャガールの娘のサラ(大塚ちひろ)と出くわし、一目惚れする。二人は宿屋の裏で逢い引きするが、アルフレートが風呂のスポンジをとりにいった隙にサラは吸血鬼に攫われてしまう。

 サラが攫われたことを知ったシャガールは一人でクロロック伯爵(山口祐一郎)の城に救出にいく。しかし、間もなく雪原で倒れているところを発見され、宿屋に運びこまれるが、一滴あまさず血を吸われ事切れていた。

 教授はシャガールが吸血鬼にならないように死体に心臓に杭を打ちこもうとするが、女房(阿知波悟美)に邪魔され、部屋から追いだされてしまう。その間にシャガールは復活し、体の関係のあった女中(宮本裕子)の血を吸って殺してしまう。宮本は歌も芝居も官能的だ。いつの間にこんなに色っぽくなったのだろう。教授とアルフレートはシャガールを捕まえて杭を打ちこもうとするが、伯爵の城に案内するといわれて、見逃してやる。

 教授とアルフレートは伯爵の城へ。ギーガーの風の門が左右に開くと、いよいよ伯爵との登場。伯爵は教授のコウモリの研究書を読んでいると持ちあげ、城に泊まるように勧める。教授は申し出を受けいれるが、声は震え、膝はガクガク。市村は役者である。ここで一幕は終わり。

 二幕は城のベッドで寝る教授とアルフレートが吸血鬼の夢にうなされるところから。天蓋やベッドの下から吸血鬼が次々と飛びだしてきて、これでは寝ていられまい。

 太陽が出て吸血鬼たちは棺桶の中に引っこみ、教授とアルフレートは吸血鬼退治をはじめようとするが、ドジの連続でそのまま夜へ。サラはまだ血を吸われていないことがわかるが、憧れの舞踏会に出られるというので舞いあがっており、いっしょに逃げようというアルフレートの説得に耳を貸そうとしない。

 ここからは歌あり、ドタバタあり、怪奇な趣向ありで、ミュージカルの醍醐味を満喫させてくれる。

 役者がみんなすばらしい。際限のない欲望の恐ろしさを歌いあげる伯爵の山本のアリアは耳に残る。アルフレートの泉見は金子貴俊的なキャラクターで通していたが、最後の最後で悪党の顔を見せて、ぎょっとさせる。サラの大塚は蓮っ葉なキャラクターに似合わぬ愛らしい声が魅力的だ。

 カーテンコールはスタンディングオベーションで、大変な盛り上がりだ。補助席の出る盛況だったから、再来年あたり、再演されるのではないか。

Aug18

 中国の北朝鮮侵略の動きが露骨になってきている。朝鮮民族の象徴とされる白頭山(中国名「長白山」)は金日成時代に北半分が中国領となったが、ここにきて原生林を伐採して空港を作ったり、北朝鮮国境に鉄条網を張ったり、夜間にミサイル演習をやったり、中国側からの韓国人の登山を制限したりしているのである。朝鮮日報の「白頭山の開発急ぐ中国の狙いとは」という解説記事によると、白頭山の管理権は延辺朝鮮族自治区がもっていたたが、昨年8月に吉林省直属の長白山保護開発管理委員会に移管したという。

 日本でいえば富士山の管理権が外国に盗られ、勝手に開発され、日本人を締めだす鉄条網を張られるようなものである。竹島のようなちっぽけな島で大騒ぎする韓国・朝鮮人がこれまで黙っていたのが不思議である。

 中国と北朝鮮は仲がいいはずはないと思っていたが、果たして北朝鮮ミサイル発射に対する国連安全保障理事会決議が採択された直後、北京に駐剳するチェ・ジンス北朝鮮大使は大使館員10人を引きつれて中国外務省に押しかけ、同省前で3時間以上にわたり「裏切り者」などと喚きちらしたという(goo)。

 中国が北朝鮮を援助する理由を示す公式文書も出てきた。このほど中国共産党が出版した『江沢民文選』には、1998年8月、在外大使らを集めた会議で、江沢民がおこなった演説が収録されているが、江沢民は「韓半島の平和と安定は中国東北地方の国境の安定と関係している。今後も引き続き、韓半島問題において積極的な役割を果たしていかなければならない」と強調したという。朝鮮日報から引く。

 「東北地方の国境」とは中朝国境を意味し、この地域の「安定」とは北朝鮮政権の急激な崩壊や経済難による脱北者の大量流入などで東北3省に混乱が生じるのを防止することを意味していると中国問題の専門家らは指摘している。江氏のこのような発言は中国の対北経済支援とも無関係ではないものとみられる。

 これが正直なところだろう。北京オリンピック前に騒動を起こしたくないので、しかたなく援助しているだけと見た方がいい。中国は北朝鮮をわざと暴れさせているという説が根強くあるが、中国の経済成長は外資によって支えられた自転車操業であって、北京オリンピックの投資が回収できなくなったら中国共産党政権はもたない。

 イスラム教徒を虐殺し、イスラム・テロリストに脅かされているのは中国も同じであって、北朝鮮とイスラム圏の接近は中国も脅威に感じているはずだ。アメリカ当局者は、中国が北朝鮮のミサイル輸送機の領空通過を阻止した事実を明かにしたが、当然の行動である。

 中国は北朝鮮問題をどう決着させるつもりだろうか。それをうかがわせる記事が香港の時事月刊誌『争鳴』の最新号に載った。朝鮮日報から引く。

 中国共産党の中央外交工作領導小組は昨年12月、北朝鮮問題をめぐるセミナーで「中長期的な見解として、南北の平和統一は拘束力のある連邦式統一となる可能性が高い」とし、「この案が北朝鮮や中国にも政治や経済、軍事安保面でも有利だ」という結論を下したという。

 要するに中国は韓国による北朝鮮の吸収を認めないということだ。中国は金正日政権崩壊後も北朝鮮を国家として維持しつつ、連邦の「拘束力」によって韓国を遠隔操縦しようとするだろう。アメリカから見限られた韓国は中国の属国にもどるしかなくなる。朝鮮半島は将来的に中国に併合されるのは間違いあるまい。日本はそれを見越して戦略を立てなければならない。

「佐賀のがばいばあちゃん」

 島田洋七氏の自伝的エッセイの映画化で、「がばい」とは佐賀弁で「すごい」という意味とのこと。

 広島で飲屋をやっている母親(工藤夕貴)が育てきれなくなり、佐賀の祖母(吉行和子)のもとに預けられた主人公の小学校から中学までの成長を描いている。昭和30年代の日本が貧しかった頃の話だが、主人公の祖母は当時としてもひどい貧乏をしていて、大道を磁石を引きずって歩き、集めた屑鉄を売って生活の足しにしたり、家の裏の掘割に綱を張り、上流の市場から流れてきた屑野菜を食べたりしている。主人公が剣道や柔道を習いたいといっても、金がかかるから駄目だとはっきり言う。

 かなり悲惨な生活だと思うが、祖母はすこしも卑屈になることなく、胸を張ってたくましく生きていく。吉行和子がかっこよく、この映画は彼女の代表作になったといっていいだろう。工藤夕貴は貧乏役がうまく、吉行と実の母娘に見える。

 この映画が明るいのは原作と吉行の力によるところが大きいが、そこここに残っている裕福だった頃の痕跡も無視できない。

 広島に主人公をむかえに来る伯母の浅田美代子は昭和30年代ファッションがみごとに似合っていて、広島の飲屋街の貧乏暮らしに彼女があらわれると、ユリの花が咲いたようである。独身で働いているという設定らしいが、絶対に貧乏には見えない浅田美代子を佐賀からの使者にキャスティングしたことは大きかった。

 祖母の暮らす家もちゃんとした門と塀があり、掘割を挟んで別棟が建っていて、あの貧乏暮らしとはつりあわない。祖父は自転車屋を経営していたということだが、相当手広く商売をしていたのだろう。

 もし祖母がオンボロアパートに住み、広島にむかえに来たのが杉田かおるあたりだったら映画の色あいはまったく変わっていたと思う。

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Aug26

 総務省はネット情報の真偽を自動的に判定するネット版「ウソ発見器」の開発に乗りだすという(asahi.com)。

 見出しを見た時はセマンティックWebの信頼性の検証の話かと思ったが、そうではないらしい。asahi.comから引く。

 完成すれば、ある情報のデマ率を調べたり、ネットで検索するときに信頼性のある順番に表示したりできるという。「この情報はデマ率95%ですが表示しますか」などという注意表示もできるようになる。

 「デマ率」とは恐れいったが、検索に併用するとは日の丸検索エンジンがらみだろうか(別の部署が独立に進めている可能性もあるが)。

 扱う対象は、株式情報から国際情勢の解説、商品情報などさまざま。「この企業分析は適切か」「レバノン内政のこの記述は自然か」「オークションに出品されているこの外国電化製品の性能表示は本当か」などの疑問に答えられるようにするのが目標。

 単純な事実関係の検証と甘く見るなかれ。同じ概念でも呼び方はさまざまであって、用語と用語の関連を決定するだけでもオントロジーという技術が必要になり、さらにオントロジーにもとづいたマークアップがなされていなければ、コンピュータに処理することができない。セマンティックWebが普及していなければ、こんなことは無理である。

 セマンティックWeb以前の素のデータであることに目をつぶっても、真偽の判定の物差となる巨大データベースをどのように作り、メンテナンスするかだ。

 開発の焦点は、インターネットのなかから信頼できる関連情報を見つけ出せるかどうかだ。そのために、知識を関連づけて書かれた内容の意味を正確に判定する技術や高度な自動翻訳技術などを編み出す必要がある。

 なんとネット情報をソースにするらしい。当然、検索エンジンのように厖大なページを収集することになるが、集めたネット情報の真偽はどう判定するのだろうか。

 まさか多数決方式ではあるまい。サイトの信頼度格づけなど、いくつか思いつかないではないが、多くのネットワーカの目にふれているはずの Wikipediaの情報だって間違いが多いことを考えると無茶である。

 さらに難しいのは引用情報の識別である。デマ情報を告発しているページがあったとしよう。コンピュータには引用されたデマ情報とページ・オーナーの主張を区別することができないので、そのページ全体がデマ情報と判定されてしまいかねない。

 きちんとマークアップのしてあるページなら、引用を見わけることはできなくはないが、レイアウト本位のマークアップし化していない現状のWebページでは不可能である。

 総務省の役人に知恵をつけた人間がいるのだろうが、できもしないプロジェクトを立ちあげさせて仕事を請け負う新手の公共事業だろうか。

 こんな税金の無駄遣いをしなくても、国民一人一人がメディア・リテラシーの知識をもてば済むことだ。中学生からメディア・リテラシーを学ばせる方がよほど利口な解決法だと思う。

「ユナイテッド93」

 9.11事件5周年に製作されたドキュメンタリー調の作品。スターはおろか、顔を知っている俳優が一人も出ていないことがいい方に働いている。管制官の一部はモデル本人が出演しているそうだが、誰が本物かわからないくらいリアルである。アメリカでは早すぎると賛否両論があったが、これは見ておくべき映画である。

 事件の日の早朝から複数の視点を平行させて描いていく。前半はごちゃごちゃしてわかりにくいが、半ばくらいから事件の広がりがだんだんわかってくる。どうせ金目当てだから、大人しくしていれば解放されると多寡をくくっていた乗客の間に携帯電話でWTSビル突入のニュースが伝わり、自爆フライトだったという絶望的な事実が共有されていく条は圧巻だ。

 犯人グループの描き方も公平だ。テロリストと十把一からげにするのではなく、一人一人の個性を描きわけているし、葛藤にも目を向けている。

 ただし、ドキュメンタリー調であって、本当のドキュメンタリーではないことはおさえておきたい。地上部分は事実に即していると思われるが、機内の出来事はすべてフィクションだろう。映画では乗客は操縦席の中に突入したことになっているが、そういう事実はなかったらしいし、乗客が反乱を起こしたかどうかも本当のところはわからない。

 将来、よくできたプロパガンダ映画と言われるようになるかもしれないが、それを承知の上で見れば傑作といえるだろう。

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Aug31

『荒地』の画面

 Google Book Searchが古典作品のPDF公開をはじめた(ITmedia)。

 早速試してみたが、PDF公開とはいっても、実質的には画像による公開であり、国会図書館の「近代ライブラリ」と変わらない。「ハムレット」の"To be or not to be"という台詞を見つけようとしても、この方式では無理である。

 もう一つの問題点は本の書影をそのまま使っていることである。確かに書影を利用すればテキストの信頼性は保証されるが、いくら著作権の切れた古典だとはいっても、現に書店にならんでいる本もあるのだから、大半の本は「Limited preview」であり、閲覧に制限がある。「Full view」と書いてある本は自由に利用できるが、シェイクスピアに関しては読みやすい版は見当たらなかった。

 いくつか刊本をのぞいてみたが、ラインマーカーを引いた箇所や、蔵書印を消したとおぼしい箇所まであった。アメリカ人の感覚からすれば読めればいいということだろうが、日本人には引っかかる。

 現状ではこれでは使いにくいAmazon「中見!検索」であって、道は遠い。

「ゲド戦記」

 さんざん悪口を聞いていただけに、予想よりはおもしろかった。新人監督の処女作としては、まあまあといったところか。ただし、ジブリという大看板にふさわしいレベルには達していない。

 意外だったのはジブリとは思えないくらい、仕事が雑なことである。黒澤明没後も、黒澤組は小泉堯史監督を支えて『雨あがる』という名品を作りあげた。黒澤生前のレベルは維持された。

 宮崎駿はまだ健在だというのに、なぜここまでレベルが落ちてしまったのだろう。不可解である。

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