エディトリアル   July 2007

加藤弘一 Jun 2007までのエディトリアル
Aug 2007からのエディトリアル
7月4日

「氷屋来たる」

 新国立劇場小劇場でユージン・オニール作、栗山民也演出の「氷屋来たる」を見た。3時間40分の大作の上に、思いがけず 1時間20分のシアター・トークがついた。7年間芸術総監督をつとめた栗山民也の最後の舞台のためか、シアター・トークには総勢17人の出演者全員が顔をそろえた。見ているだけでも大変だったのに、出演者は本当にご苦労なことである。

 「氷屋来たる」とは奇妙な題名だが、開演1時間ほどしてヒッキーの冗談から妻の浮気相手という意味だったとわかる。ビデオ普及期に「洗濯屋ケンちゃん」という有名な裏ビデオがあったが、あの洗濯屋のようなものか。後半、「氷」のイメージが効いてくるけれども。

 舞台は1912年のニューヨークの安ホテルのロビーで、正面奥の上手側は一段高くなったバー、下手側は階上に通じる階段になっている。ロビーのテーブルにはみすぼらしい身なりの男たちが酔いつぶれて寝ているが、その中にはホテルの主人のハリー(中嶋しゅう)もいる。ハリーは妻を亡くして以来、20年間、一歩もホテルの外に出ずに飲んだくれている。ホテルは市場の男たちが食事にくるので一定の収益があり、ハリーは酔いどれ仲間に居候を許している。

 酔いどれたちにはみな栄光の過去があり、その気になればいつでも今の境遇から抜けだせると称している。収賄で馘になった元警部補のパット(小田豊)は仲間に復職の意志があるとほのめかせばすぐに復帰できるとうそぶいているし、ハーバード出の弁護士のウィリー(大鷹明良)、黒人専門の賭場の元胴元のジョー(二瓶鮫一)、ハリーの義弟でサーカス芸人だったエド(宮島健)も大口をたたいている。元アナキスト雑誌の編集長のヒューゴー(花王おさむ)は独裁者志向を隠さない。しかし、彼らはホテルのロビーを出ようとしない。明日になったら、明日になったらと、一日伸ばしにするだけだ。

 元組合活動家だったラリー(木場勝巳)を訪ねてドン(岡本健一)が西海岸からやって来た話からはじまる。ドンはラリーが依然同棲していた女の息子で、ラリーを父親のように慕っているが、ラリーは迷惑だと突きはなしている。ドンは母親が密告されて警察に逮捕されたと相談するが、ラリーは運動なんか何の意味もないととりつく島がない。

 酔いどれはラリーとドンのやりとりには興味がなく、ハリーの誕生日が近いので、そろそろヒッキー(市村正親)があらわれる頃だと、ヒッキーの話で持ちきりだ。ヒッキーはこのホテルを常宿にする旅まわりのセールスマンで、年に二回、あらわれては気前よく酒をおごってくれるのである。

 ヒッキーは開演から50分後にやっと登場するが、気のいい酔いどれではなく、ロビーの酔いどれたちに伝道師のように説教をたれ、明日が、明日がと一日伸ばしにして自堕落な毎日をつづけている彼らを奮い立たせようとする。

 酔いどれたちは反発するが、ヒッキーの強引な指導とシャンパンの威力で、ラリーとバーテンのロッキー以外、生活の立て直しを約束させられてしまう。ラリーとロッキーがヒッキーに丸めこまれなかったのは、誇るべき過去も、明日の希望もないからだ。ラリーは組合活動をしたことを後悔しているし、ロッキー(たかお鷹)は3人の娼婦をかかえるしがないバーテンだ。ラリーはヒッキーに隠し事があるだろうと逆襲するが、ヒッキーが妻を亡くしたと告白したためにラリーは詫びる。

 二幕前半は酔いどれたちがヒッキーに背中を押され、おっかなびっくり新生活をはじめる姿が見ものだ。もちろんうまくいくはずはなく、夜には現実を思い知らされてホテルにもどってきている。ラリーはヒッキーの妻の死因に疑問をもち、再度逆襲を試みるが、思いがけない真相が明らかになり、物語は急展開する。

 一癖も二癖もある芸達者のオヤジ俳優をそろただけに、酔いどれたち一人一人の背負っている人生が重苦しくわだかまる。すべては元の木阿弥で終わるが、こういうオヤジたちを一人で振りまわすのだから、市村の力業はすごい。

 ヒッキーにシニカルに距離をとりつづけるラリーの木場は一方の極として存在感を発揮するが、ラリーとからむドンの岡本が見劣りする。これはもしかしたら上演台本のせいかもしれない。二幕にはいってからのドンの台詞は不自然なものが多い。完全上演すると6時間近くなるそうで、それを3時間40分に縮めたのだから、つながりがおかしくなっても不思議ではない。

 細部に課題が残ったが、全体としては得がたい演劇体験をさせてくれた。こういう重厚長大な芝居は新国立以外では無理だろう。

 シアタートークはNHKの堀尾アナウンサー(文学座養成所出身だそうな)が司会した。最初の30分ほどは栗山民也のインタビューで、この芝居は登場人物が2人づつペアになっているので、短縮する際、2人削ったと言っていた。なお、1912年はオニール自身が自殺未遂した年だそうである。出演者が多いので○×で答えるという新機軸を試みていた。

7月5日

「パフューム」

 すごい映画だ。ジュースキントの原作もすごいらしい。

 人間離れした鋭敏な嗅覚をもって生まれたジャン=バティスト・グルヌイユという男の一代記で、彼に係わった人間は母親にはじまり、乳児院の院長、皮なめし職人の親方、香水店の主人……と、みな不慮の死をとげている。

 一人前の調香師になったグルヌイユは香水の都、グラースにおもむくが、彼はここで究極の香りを作りだすために連続殺人を犯す。女体から香りを抽出するために蒸留塔で煮たり、冷浸法で動物の油脂を塗りたくったりして、最高の美女13人を犠牲にする。

 観念に取り憑かれるのはホモ・サピエンスの雄の性で、グルヌイユは「ゾディアック」の男たちに通ずるものがある。「ゾディアック」の男たちは幸か不幸か犯人を捕らえることができなかったが、グルヌイユは究極の香りを我がものにしてしまう。

 究極に到達できたのはグルヌイユが無だったからだ。彼は生まれ落ちた時に母親に殺されかけたし、長じて調香師になってからは自分には体臭が欠けていることに気づく。すべてを臭いというチャンネルで認識するグルヌイユにとっては、自分自身は存在しないも同じなのだ。彼は彼にふさわしい最期をむかえる。

 ダスティン・ホフマン、アラン・リックマンといった曲者の中で、グルヌイユ役のベン・ウィショーは健闘している。グルヌイユのミューズとなるレイチェル・ハード=ウッドは清潔感のある美人だが、存在感が薄く、ジュリア・オーモンに似た印象がある。オーモンのように消えなければいいが。

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7月6日

「女は二度生まれる」

 富田常雄の『小えん日記」を川島雄三が若尾文子で映画化したもの。前半は浮草稼業の女を描いた辛口のコメディだが、後半は女の自立というテーマが表に出てくる。

 小えんは神楽坂の芸者で、明るく生活力旺盛なところは「ぼんち」のぽん太と重なるが、ぽん太が芸を売るまっとうな芸者だったのに対し、小えんは体しか売物のない不見転芸者だ。いきなり建築士の筒井(山村聰)と同衾する場面からはじまるが、その後も売春防止法を気にしながら次々と客をとっている。客として知りあった寿司職人の矢島(フランキー堺)の勤める店に自分から堂々と出かけていくあたり、娼婦ではなく芸者なのだが、売物買物であることに違いはない。

 客をとるのは靖国神社の近くの旅館で、朝五時に神社から大砲の音のような太鼓の音が聞こえきて驚くというコミカルな場面があるが、これは脚色だそうである。

 小えんは靖国神社でよくすれ違う牧という学生(藤巻潤)に恋心をいだき、ある日、ついに名前を名乗りあうが、牧はもう卒業で、九段会館のアルバイトをやめるので、会うことはないといわれる。

 置屋が営業停止になったのを機に新宿のクラブに移るが、そこで筒井と再会し、二号になる。山村聰は温厚で気前のいい紳士の役が多いが、筒井は口うるさく吝嗇な中小企業のオヤジで、いつもとイメージが違う。

 小えんは映画館(テアトル東京!)で年下の純朴な工員(高見国一)と知りあい、彼を弟のようにかわいがるが、自分から旅館に誘ってしまう。彼女は体をあたえる以外、男と親しくなる術を知らないのだろう。

 筒井は手に職をつけろが口癖で、小唄の稽古をはじめるが、意外にも小唄の才能があったことがわかるが、筒井は胃潰瘍で入院し、あっけなく死んでしまう。小えんは元の置屋にもどる。

 小えんはエリート社員になった牧から外人を接待する座敷に呼ばれるが、夜の接待もするようにいわれて傷つく。

 小えんは若い工員と久しぶりにあい、彼が行きたがっていた信州の山に誘うが、列車の中で家族を連れた矢島を見かける。矢島はワサビ問屋の婿にはいっていたが、小えんに言葉をかけることもならず、物欲しげで、卑屈な感じである。

 登山口の駅で降りるが、小えんは育ててくれた叔父のところへいくと言って、工員と別れ一人駅の待合室に残る。一瞬、矢島を訪ねるのかと思ったが、しっかりした表情をしているので、男に頼らぬ生き方をしようと心を決めたということか。

 全盛期の若尾文子の美しさもさることながら、揺るぎのない映画スタイルに背筋が伸びた。これはまさに人間喜劇である。

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7月7日

 かねて予告されていた「Google ブック検索」が日本でもはじまった(ITmediz)。データを提供しているパートナー出版社はごくすくないが、慶応大学が参加しており、慶応大学図書館の蔵書のうち、著作権保護期間の終了している12万冊が検索対象にはいったそうである(ITmedia)。

 「安部公房」で検索したところ、18点がひっかかった。第12位以降は中国で発行されている中国語の書籍なので、実質11点である。第1位はドキュメンタリー作家の佐藤真氏の映画論、第3位は安原顕氏の読書論、第4位は木田元氏と竹内敏晴氏の対談本だったが、他は未知の著者だ。出版元が最近話題の新風社などとなっているところを見ると、まっとうな出版社は様子見で、自費出版の会社ぐらいしか参加していないのかもしれない。第2位の山田雄一郎氏は大学の先生らしいが、『第間氷期』になっていた。

 電子テキストはもっているはずだが、画面に表示されるのはAmazonと同様、スキャンした書影画像である。書店であるAmazonが書影画像を使うのは当然としても、Googleまで書影を使うのは問題ではないかと思う。書影のネット公開が慣行化していくと、版面権がなしくずし的に成立してしまう可能性があるからだ。

 著作権保護期間の死後70年延長は99.9%の物書きにとってはどうでもいいことだが、版面権は違う。版面権は物書きの活動に直接影響してくる。文藝家協会はGoogleにただちに書影の使用中止と、電子テキストによる検索結果の公開を申しいれるべきではないか。

7月8日

「アルゼンチンババア」

 吉本ばななの小説を「鉄塔武蔵野線」の長尾直樹が映画化したもの。

 アルゼンチンビルと呼ばれる変なビルが野原の真ん中に立つ田舎町が舞台である。アルゼンチンビルには、アルゼンチンババアと呼ばれる謎の女性(鈴木京香)が住んでいる。

 母(手塚理美)が亡くなった日、石屋をいとなむ父(役所広司)が行方不明になる。一人残されたみつこ(堀北真希)はマッサージ店でアルバイトしながら、けなげに生きている。

 半年後、父はアルゼンチンビルにいるところを発見される。みつこはすぐにむかえにいくが、父はアルゼンチンババアといい仲になっており、ビルの屋上に石でマンダラを作るのだと言いはり、とりつく島がない。叔母(森下愛子)も乗りこんでいくが、あえなく撃退される。

 妻を失い、壊れてしまった中年男がアルゼンチンババアという異人に癒される話だが、娘の視点から描いているのが成功している。ばなな作品的なひねりはあるが、あくまで正統派のコメディであり、豊かな余韻が残る。

 堀北真希の作品ははじめて見たが、今の頽廃した日本に、こんな背筋のシャンとした女優がいたとは驚きである。過去の作品も見たくなった。

 鈴木京香をアルゼンチンババアに配したのはきわどいところで成功している。夏木マリだったら、妊娠という結末が呑みこみにくい異物になってしまっただろう。役所広司はヒッピー風の格好が案外似合っている。森下愛子はいつもながらうまいが、役所広司の妹=堀北真希の叔母にちゃんと見えるところがいい。

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「僕は妹に恋をする」

 青木琴美のコミックの映画化であるが、原作は中学生の近親相姦ものだそうである。現物は読んでいないが、アマゾンの読者評によると近親相姦を讃美している上に、リアルな性描写を売りにしているらしい。世も末である。

 映画版では設定を高校生に移している。双子の兄妹でべったり仲がよかったが、兄の頼(松本潤)は思春期をむかえ、の友華(小松彩夏)に関心を移している。妹の郁(榮倉奈々)は冷たくなった兄に戸惑い、悶々と悩む。ベッドシーンは一応あるが、友華とのイメージ・ビデオ的な描写にとどまっている。

 何の予備知識もなく見たが、郁の榮倉がうじうじ悩む場面が延々とつづき、途中で帰りたくなかった。二本立ての一本目でなかったら、帰っていただろう。

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7月10日

「雁の寺」

 水上勉の直木賞受賞作を川島雄三が若尾文子主演で映画化したもので、川島作品の中でもベスト三の一つにあげられることが多いが、確かにこれは傑作である。

 原作は禅寺の内情を描いた怨念ドロドロの話でいい印象がなかったが、映像になってみると、突きはなして描かれた生臭坊主の生態がおのずと滑稽感を生んでおり、世界が一回りも二回りも広がっている。行方不明になった住職を「托鉢に出た」で片づける結末は原作では納得できなかったが、映画版でとぼけた顔の老管長が「ほっとけ、ほっとけ」と言うのを見て、これが禅寺かと思った。

 物語は孤峰庵の一室を借りて画室にしている日本画家の岸本南嶽(中村鴈治郎)のもとに里子(若尾文子)が通い、世話をしている場面からはじまる。やがて南嶽は死に、線香をあげに訪れた里子を住職の慈海(三島雅夫)が手籠めにして、そのまま内妻にしてしまう。手籠めにする場面の前に、便所の汲みとりを延々見せるリアリズムが効いている。

 孤峰庵には慈念(高見国一)という小僧がいて、慈海にこき使われていたが、里子は彼を不憫がり親切にしてくれる。里子は慈念を孤峰庵に世話した若狭の僧から彼の不幸な生い立ちを知り、いよいよ同情を深くする。慈海が留守の夜、里子は慈念の部屋にゆき、拒もうとする慈念と強引に関係を結んでしまう。里子は淫乱なのではなく、体をあたえることでしか男と親しくなる術を知らないのだ。その直後、同輩の寺に碁を打ちに行くといって出た慈海は行方不明になる……。

 モノクロームの緊張した画面の中で、全盛期の若尾文子のエロティシズムが馥郁と薫る。誤って紐を引いたために寝室に駆けつけた慈念を追いかえした後、若尾が寝乱れたダブルベッドの上で身体の前を隠し、「うち、見られてしもた……」と呟く場面は日本映画史上屈指のエロチックな場面だろう。

 すばらしい作品だが、最後の観光寺院化した現在の孤峰庵をカラーで出したのは蛇足だったと思う。

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7月11日

「花影」

 大岡昇平名作を川島雄三が池内淳子主演で映画化したもの。ほぼ原作通りで、ヒロインの葉子(池内)が勤め先のバーを出た後、自殺するまでの一日の間に過去を回想するという構成である。一瞬も気が抜けない。

 葉子は深情けの昔気質の女で、「最後の女給」と呼ばれている。彼女は男に尽くしぬくが、ことごとく裏切られ捨てられてしまう。女盛りをすぎかけていたが、たくわえはなく、最後に選んだのは自殺だった。

 大昔、原作を読んだ時は、舞台が銀座だし、有名人をモデルにしたとおぼしい人物がちらほら出てきて豪勢な印象だったが、今、映像で見ると、ひどく貧乏くさい。銀座のバーとはいっても、湿気がよどんでいて、トイレの臭いがしてきそうなのである。

 セットがしょぼいだけではなく、登場人物たちはみないじましい。TV局のディレクターとか、美術評論家とか、酒造会社のオーナー社長とか、銀座にバーを二軒持っているやり手のママとか、それなりの肩書きがあるが、どうしてああセコいのか。

 うろ覚えだが、原作は美学的な自殺だったように記憶している。映画では美学的な色彩は薄く、将来を悲観したありきたりの自殺のような印象を受けた。華やかな原作がしぼんでしまったような気がする。

7月12日

「Love Letter」

 岩井俊二作品の中でも評価が高く、早稲田松竹が今回の特集上映のためにとったアンケートでは「花とアリス」についで第二位につけている。ずっと見たいと思っていたが、今回、ようやく映画館で見ることができた。早稲田松竹に感謝する。

 「ふたりのヴェロニカ」に触発されて作ったというだけに、中山美穂が一人二役で演じる神戸と小樽の二人の女性が登場する。

 「ふたりのヴェロニカ」ではフランスとポーランドのヴェロニカは天の配剤というか、神の気まぐれというか、なんだかわからないのにそこにいるのであるが、「Love Letter」の場合は合理的にきれいに説明がつく。

 二人を結ぶのは神戸の渡辺博子(中山美穂)の婚約者で、山で遭難して死んだ藤井樹(柏原崇)である。

 樹の三周忌の後、博子は樹の中学の卒業アルバムを見つけ、巻末の名簿の住所に手紙を出してみる。樹は中学時代は小樽に住んでいたが、その家はすでにとりこわされ、道路になっていると聞かされていた。

 博子にすれば天国に手紙を出すような気まぐれだったが、なぜか藤井樹(中山美穂)という人物から返事が来てしまう。はじめはからかわれているのかと思ったが、その藤井樹は博子の知っている藤井樹の同姓同名のクラスメートだった。博子は小樽の樹に中学時代の彼の思い出を教えてくれと頼みこみ、二人の文通がはじまる。

 小樽というハイカラな街を背景に幼い恋がみずみずしく語られ、その記憶の一つ一つに、現代の二人の女性の心が微妙に揺れる。蜘蛛の糸の震えのような心の微細な動きを描いていく岩井の手際は冴えに冴えていて、彼の最高傑作といってもいいかもしれない。

 唯一引っかかるのは中学時代の樹を酒井美紀が演じていることだが、タイムマシンがない以上、しかたのないことである。

 懐かしいモノがたくさん出てくるが、中でも図書の貸出カードと手紙が重要な小道具として登場している。貸出カードも手紙もIT革命で絶滅してしまったが、ついこの間まではメディアとして現役だったのだ。

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7月13日

 これまでペンクラブの電子メディア委員会が今年度から言論表現委員会に吸収合併されることになり、旧電子メディア委員会からの流れで、言論表現委員会の委員を委嘱された。今日、第一回の会合があり、元からの言論表現委員会の委員のみなさんと顔合わせをしてきた。

 会合では旧電子メディア委員会のメンバーから吸収合併に対する疑問の声が上がった。ペンクラブの会員は年齢が比較的高く、電子メディアに関する理解が深いとはとてもいえない。旧電子メディア委員会は電子メディアの現状と未来を研究し、会員に還元することを目指していた。昨年は会合があまり開かれなかったが、今年になってからは活動が再開する方向だった。

 一方、言論表現委員会は昨年度まで猪瀬直樹氏が委員長をつとめていたペンクラブの顔といっていいような委員会であり、言論の自由のために戦う実戦部隊である。会社でいえば、営業部が研究開発部門を吸収したようなもので、どちらの側にも戸惑いがある。

 わたしは電子メディア委員会は将来的にいくつかの委員会に発展的に吸収されるべきだと思うが、今、言論表現委員会に吸収されるのは十年早いのではないかと申しあげた。

 事務局の話では会長が阿刀田氏に変わってから大規模な機構改革がおこなわれ、合併された委員会は電子メディア委員会だけではないということだったが、どういう議論があって合併が決まったのかは担当の吉岡理事が欠席したのでわからずじまいだった。なんと、山田新委員長も合併決定の経緯を知らされていないとのことだった。一体どうなっているのか。

 ただ、制定に向かいはじめた情報通信法のように、言論表現委員会と旧電子メディア委員会が協力して事に当たらなければならない緊急の課題があるのも確かだ。今回の合併がどうなるのかはまだわからないが、両方のメンバーが顔合わせできたことは有意義だったと思う。

7月15日

 NHKの三回シリーズの「失なわれた文明」の最終回、「密林が生んだ二千年の王国」を見た。「第1集 アンデス ミイラと生きる」と「第2集 マチュピチュ 天空に続く道」はプレ・インカとインカをとりあげていたが、今回はマヤである。

 マヤは日本の本州ほどの限られた地域に、同一の言語と文字をもちいる都市国家群が二千年間、一度も統一されることなく共存しつづけたとして、多様な価値観の共存というNHK流のメッセージを暗に訴えていた。

 番組は帝国を作ろうとした反面教師としてティカルをとりあげていた。ティカルは都市全体を漆喰で舗装することによって、降った雨水を貯水池に集め、飛躍的に生産力を高めて周辺都市国家の征服に乗りだした。マヤには明けの明星の出ている期間しか戦争をしないとか、戦争には庶民を巻きこまないとか、王を捕らえたら終わりにするとかいったルールがあったが、ティカルは戦争のルールを踏みにじって敵の都市国家を殲滅した。しかし、ティカルの覇権は百年もつづかず、内紛が起こって自滅してしまったというわけである。

 番組を見ていると、ティカルとティカルに滅ぼされた都市国家以外の都市国家は二千年間ずっと平和的につづいていたような印象を受けるが、実際はそうではない。どの都市国家も数百年で放棄されているのだ。原因は環境破壊である。マヤの都市国家は、都市国家自体が焼き畑農業的に転々としていたのである。

 また、ティカルの滅亡の原因を帝国主義的野望にとりつかれた支配層の内紛に帰するのはおかしい。実はティカル滅亡の前後、マヤの都市国家の多くが衰退している。

 番組ではマヤの都市国家群が域内ネットワークを作って交易で繁栄していたと語っていたが、実際はそのネットワークはテオティワカン帝国を介して北米のネットワークとつながっていた。テオティワカン帝国は北米と中南米を結ぶハブの役割を果たしていたが、そのテオティワカン帝国が滅びたために、マヤだけではネットワークが機能しなくなり、都市国家群は干あがっていった。ティカルの内紛はテオティワカン帝国滅亡の余波と考えるべきだ。

 「失われた文明」というシリーズは国立科学博物館で開かれる「インカ・マヤ・アステカ展」の宣伝のために製作されたといっていいだろう。副題に「世界遺産の宝庫 中南米三大文明」とあるのに、プレ・インカ、インカ、マヤをとりあげただけで、アステカを無視している。アステカ帝国はテオティワカン帝国の故地に築かれた。アステカ帝国やテオティワカン帝国の存在を出してしまうとまずいことでもあるのだろうか。

 アステカをとりあげるとなると、滅亡の原因にもふれざるをえなくなる。直接の原因はスペインの征服だが、コルテスがわずか600の寡兵でアステカ帝国を滅ぼすことができたのはコルテスに協力した部族がいたからだ。彼らはアステカ族憎しに凝り固まってコルテスに協力したのはいいが、最後はスペインの奴隷にされてしまった。狭い了見で外部勢力に協力するとどうなるかという見本である。

 NHKはティカルを邪悪な帝国主義国家に仕立てあげ、マヤを多様な価値観の共存する都市国家の理想郷のように描きだしたが、実のところ考古学を装った反米プロパガンダにすぎない。NHKの番組は眉に唾をつけてみた方がいい。

付記:新大陸に関する本については「アメリカ先住民」参照。
7月17日

「しとやかな獣」

 詐欺師同然の暮らしをつづける一家を描いたブラック・コメディ。川島雄三の最高傑作という人が多いが、今見ると微妙である。ギャグが古くなってしまっているのである。

 公団住宅をベランダ側正面からとらえた映像ではじまる。前田家の父親(伊藤雄之助)と母親(山岡久乃)が居間から隣の部屋にガラクタを運んでいる。いや、ガラクタではない。今の感覚ではガラクタだが、1962年当時は憧れの贅沢品で、公団住宅には似つかわしくないものばかりだ。

 前田夫妻が贅沢品を隠したのは息子の稔(川畑愛光)がつとめる芸能プロダクションの香取社長(高松英郎)が家に来るからだ。貧乏しているように見せかけるために、わざわざみすぼらしい格好に着替えている。

 稔は会社の金の横領し、姿をくらましていた。香取社長は歌手のピノ作(小沢昭一)と経理の由紀江(若尾文子)をつれてあらわれ、告訴も辞さないと脅しをかけるが、元海軍中佐だったという父親と、山の手の奥さま然ととした母親はのらりくらい言い抜けて、三人を追いかえしてしまう。

 三人と入れ違いに稔が帰ってきて、横領した金の半分を家に入れていたことがわかる。そこにさらに娘の知子(浜田ゆう子)が帰ってくる。彼女は流行作家の吉沢(山茶花究)の愛人で、喧嘩をして出てきたが、両親は知子に吉沢の所へ帰れとしきりに勧める。実はこの公団住宅は吉沢が彼女を住まわせるために借りたものだったが、前田一家が勝手に住みついていた。しかも、吉沢の出すお手当ての一部が一家の生活費になっていた。

 稔は吉沢からもたかっていた。銀座のバーを吉沢のツケで飲み歩いただけではなく、吉沢の代理と称して出版社から原稿料を横領していたのだ。芳澤は怒鳴りこんでくるが、稔はモデル料だと称して平気な顔をしている。

 しかし、稔の横領した金の半分はどこに消えたのか? 謎は経理の由紀江が一人で訪ねてきたことで解ける。彼女は横領の黒幕は自分であること、会社は脱税をしているので事件を公にできないこと、税務署職員(船越英二)も共犯なので、自殺者が出ない限り心配ないことを告げる。由紀江は帳簿操作もやっていて、相当な金額を横領していた。彼女は旅館が完成したので会社を辞め、稔とも縁切りだといって、虫も殺さぬ顔で帰っていく。さしもの前田夫妻もあっけにとられる。

 由紀江の計画はすべてうまくいくかに思われたが、最後の最後にどんでん返しがある。

 前田一家と由紀江のしたたかなワルぶりの背後には敗戦による崩壊感覚がある。前田の父は海軍のエリートだったし、由紀江も戦前はいい暮らしをしていたらしい。しかし、敗戦ですべてを失い、どん底の生活を経験した。どん底からはいあがるために、高度経済成長であぶく銭のはいりだした芸能プロダクションと流行作家から上前をはねたのだ。それを痛快と感じた人が多かったようだが、悲惨なのは子供に悪事をさせたことを正当化する父のせりふだ。彼は自分の世代が悪事をはたらくと世間から袋叩きにあうが、アプレゲール世代の子供たちなら、世間は大目に見てくれると言っているのである。由紀江の泰然自若ぶりもそうだが、この映画は光クラブ事件にも通ずる敗戦ニヒリズムの産物である。

 中産階級の残骸をしゃらっと演じた伊藤雄之助と山岡久乃の演技は絶妙だが、いかんせんギャグがくどく、辟易する。笑いの感覚はすぐに古びてしまうらしい。

 その中で、唯一、新鮮だったのは若尾文子の登場場面だ。ファンということを抜きにしても、彼女のあでやかな悪女ぶりは普遍性をもっており、今見ても惚れ惚れする。

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7月18日

 ITmediaに「「機能」でなく「音」で選ぶプレーヤーソフトのススメ」という記事が出ている。プレーヤーソフトで音が変わるという内容で、Windowsに標準ではいっている WMP を絶賛している。

 CreativeのZen Nano Plusというメモリプレイヤーを使っている関係で、普段 CreativeMediaSouce で聞いている。WMPは使ったことがなかったが、試しにiTunesとともに聞き比べてみた。

 びっくりした。本当に音が違うのだ。しかも、WMP の方が格段に音質がいい。ITmediaは

 解像度がほかの2つと大違い。きめが細かく、まるでビットレートを変えたファイルを聴いているかのよう。しかも空間表現が素晴らしく、打ち込みの効果音が左右だけでなく上下や前後まで移動。「traveling」がこんなにまでイリュージョンな曲だったことを新発見させてもらった。

と手離しに褒めているが、これは過褒ではない。宇多田ヒカルの「traveling」はたまたまもっていたが、わたしも同じように感じた。CreativeやiTunesでは中央に固まっていた宇多田とバックコーラスが分離し、位置関係がリアルにわかるのである。「Can you keep a Secret」では派手に音が飛びまわるのがちゃんと再生できた。聞き較べた曲すべてでWMPは情報量が多かったが、特にクラシックではWMPが段違いにいい。

 MP3は圧縮しているのだから音は悪いものだと思いこんでいたが、プレーヤーソフトしだいでこんなにするとは。一円も使わずに音がよくなったのだから、こんな結構な話はないが、メモリプレイヤーではもっと違うかもしれない。

 Zen Nano Plusは充電式でないことと、曲の出し入れが専用ソフトなしでできることに注目して選んだ。音質は最初から期待していなかったが、標準のイヤホンの音はあまりにもしょぼかったので、安くて評判のいいゼンハイザーのMX550に取りかえ、まあまあになった。

 Kenwoodから M512A3 というZen Nano Plusの音質改良版が出ているが、プレイヤーソフトがCreative製だとしたら(未確認)、それほどは期待できないだろう。最近の機種ではどれがいいのだろうか。

 マイクロソフトが出しているZuneは日本未発売だが、Zuneの製造元である東芝の gigabeat U というメモリプレイヤーが WMP を使っている。メモリプレイヤーでは東芝はマイナーだが、中味は Zune に限りなく近いはずなので、選択肢にくわえていいかもしれない。

 頭が痛いのは CreativeMediaSouceで曲を取りこんできたことである。リッピングは演算でおこなわれるはずで、違いは出にくいとは思うが、オーディオというのは何が影響するかわからない。

7月20日

「トリノ、24時からの恋人たち」

 トリノはイタリア映画発祥の地だそうで、立派な国立の映画博物館モーレ・アントネッリアーナ(日本のフィルムセンターとは大違い)がある。本作はこの映画博物館を舞台にしたファンタジーである。

 マルティーノ(ジョルジョ・バゾッティ)は映画博物館に住みこんで夜警をしている孤独な青年で、深夜、好きなフィルムを勝手に上映したり、倉庫にしまわれている古いカメラを修理して、無声映画風の映画を撮るのが生き甲斐だ。

 ある夜、ハンバーガー・ショップで夜勤をしているアマンダ(フランチェスカ・イナウディ)が上司に火傷をさせて逃げてきて、マルティーノは彼女を映画博物館に匿う。マルティーノは秘かに彼女にあこがれ、隠し撮りしていた。彼は林檎が好物なのに、彼女に会いたいばかりに、毎晩、ハンバーガーを買いに彼女のつとめる店に寄っていた。

 彼女は映画博物館で楽しい日々をすごすが、博物館の外はで警察が彼女の部屋を家宅捜査に来たり、包囲網がじわじわと迫る。

 彼女にはアンジェロ(ファビオ・トロイアーノ)という恋人がいた。アンジェロは自動車泥棒団のボスだったが、アマンダを救うために子分を使って上司を脅し、告訴をとりさげさせる。

 アマンダはやっと自由の身になり、映画博物館を出て部屋にもどるが、彼女はマルティーノを愛しはじめていた。三人の関係はどうなるのか。

 愛すべき小品だが、ちょっと都合がよすぎるところがあって、願望充足映画の臭みがつきまとう。映画への愛を口にすれば許されるとでも思っているのだろうか。

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「ダニエラという女」

 オヤジの願望充足映画。寂しい生活を送っていた独身の初老のフランソワ(ベルナール・カンパン)がロトで賞金5億円を手にいれ、飾り窓にすわるダニエラ(モニカ・ベルッチ)に月1500万円で同棲しようともちかける。期限は金がなくなるまでというのが泣かせるが、ダニエラにはシャルリー(ジェラール・ド・パルデュー)というヒモがいてフランソワは恐喝される。

 モニカ・ベルッチがセクシーな衣装をとっかえひっかえするだけの映画だが、崩れた体を見せられても。5年前に撮っていればと思う。

 フランソワ役のカンパンは耳がスポックのように尖っているので、善良な役なのに悪魔っぽい。あれはメーキャップか。

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7月21日

 共産党元議長の宮本顕治氏が18日亡くなった(YOMIURI ONLINE赤旗)。老衰死だそうだが、政治家としてはとっくに過去の人になっていて、赤旗がトップで報じなかったことがニュースになったくらいだ(朝日新聞「宮本氏死去、「赤旗」は1面2番手の扱い」)。

 政治家としての宮本顕治氏については多くの人が語ると思うので、ここでは文芸批評家としての宮本氏についてふれようと思う。

 宮本顕治氏が「改造」の懸賞論文に「敗北の文学」で応募し、小林秀雄の「様々なる意匠」をおさえて一等で当選をはたしたことはよく知られている。宮本氏を紹介した文章には必ず出てくるエピソードだし、小林秀雄を紹介した文章でもよく言及される。

 この機会を逃すと一生読むことはないので、読んでみることにした。テキストは筑摩書房の『現代日本文學大系』54巻を図書館から借りてきた。この巻には青野季吉、蔵原惟人、片山伸ら、左翼評論家の文章が集められており、宮本氏の文学上の位置をはかる上で便利である。なお、書店で入手可能な本としては岩波文庫の『日本近代文学評論選 昭和篇』があるが、「敗北の文学」は前半だけの抄録である。

 芥川龍之介の自殺に触発されて書かれた文章だということは知っていたが、唯物史観の観点から芥川を過去の遺物と決めつけている。こんな具合だ。

 やがて「実践的自己否定」に到達せずには居られない後悔に満ちた自己批判が、末期の氏の中に磅礴している。その批判の中にもインテリゲンチャに課せられた重荷である懐疑や、自尊心から脱することが出来なく、それを決裂に至るまで神経の先に凍らしている。氏こそ、ブルジョア文芸史に類稀な内面的苦悶の紅血を滲ませた悲劇的な高峰であると言えるだろう。それこそ、市民的社会の開花期から凋落期に及ぶ文化的環境に育まれた記念碑的な存在の一つであろう。こうした芥川氏の文学を批判の対象とすることは、単に私の個人的なインテレストのみではなく客観的にも無意味でないことを信じている。

 「実践的自己否定」とは自殺のことだ。悪趣味な言い方だが、これが唯物史観流である。

 「市民社会の凋落期」という言い方に時代を感じる。当時のインテリの間では明日にも社会主義革命が起こってプロレタリアートの時代がはじまると本気で信じられていたのである。今となってはノストラダムスの大予言のようなものだが、唯物史観は科学的な絶対の真理ということになっていたので、インテリの中には保険の意味で共産党にカンパする人が多かった(立花隆の『日本共産党の研究』に抱腹絶倒の話がいろいろ出てくる)。宮本氏が小林秀雄をおさえて一等に選ばれた背景にはこういう風潮があったのである。

 ただし、「敗北の文学」は唯物史観を機械的に適用して終わりというわけではない。宮本氏は青野季吉の「私達は芥川氏を批判することは出来る。だが、芥川氏を捨てて顧みないことは出来ない。自分の中にも芥川氏があり、芥川氏の死があるからである」という言葉を引き、「この作家の中をかけめぐった末期の嵐の中に、自分の古傷の呻きを聞く故に、それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があろう」と、芥川批判の動機を吐露している。宮本氏は唯物史観を信じながらも実践に踏みきれない自分の弱さを、芥川を鏡として剔抉しようとしたのだ。

 次の条などは宮本氏は明らかに芥川に自分自身を重ねており、リアリティがある。

 学校も彼には薄暗い記憶のみ残すものだった。まことの学校は彼にとって貧困を脱出する救命袋に過ぎなかった。

 彼は本を愛した。智的貪欲を知らない青年は、彼には路傍の人であった。実際、彼の友情はいつも幾分かの愛の中に憎悪を孕んだ情熱だった。けれど友情の標準は智的才能のみではなかった。上層階級に育った青年と握手をする時、いつも針のように彼を刺す階級的差別を感じていた。

 前半部分は心の揺れが出ていて、なかなか読ませる。執筆当時、宮本氏は21歳だったが、若書きにしては達者なものだ。21歳にしか書けない文章かもしれない。

 だが、後半部分になると唯物史観の機械的な適用が多くなり、急につまらなくなる。

 「或阿呆の一生」は親の精神病が自分に遺伝しているのではないかという強迫観念から書かれているが、宮本氏は不眠症の条に「しかし彼は彼自身彼の病源を承知してゐた。それは彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。彼等を、――彼の軽蔑してゐた社会を!」とあるのに目をとめ、芥川の自殺の原因が社会的なものだったと断定する。

 この「社会」に対する恐れは、具体的に二つのものに分析出来るのである。一つは、いやおうなしに氏を「晴朗の人」に祭り上げて、氏に鎖をかけた古い道徳的雰囲気であり、一つは資本主義の悪をみとめてその中に安住する自身を恥じる心であろう。

 しかし、問題の箇所の「病源」とは不眠症の原因のことであって、芥川は世間の目が気になって眠れないと書いているにすぎない。そこに唯物史観を読みこみ、資本主義の悪に安住する自己欺瞞にまで話を広げるのは無理である。

 宮本氏は芥川の自殺の原因を「「自己」への絶望をもって、社会全般への絶望におくかえる小ブルジョアジイの致命的論理」にもとめる。自殺する少し前に書き、仲間に回覧した「娑婆苦を娑婆苦だけにしたいものは/コムミュニストの棍棒をふりまわせ」という詩を引き、次のように決めつけている。

 この詩は明らかに次のことを意味する。史的な必然として到来する新社会が、今日の社会より幸福ではあるが、そこにもまだ不幸が残っている。

 こう云う世界観が到達する一定点こそ、芥川氏自身が身をもって示した悲劇であった。氏の「娑婆苦」は現代社会におけるあらゆる闘いの抛棄に氏をおもむかしめるものであった。氏の文学はこの自己否定の漸次的上昇を具体的に表現しているものだ。虚無的精神も階級社会の発展期においては、ある程度の進歩的意義を持つものであるが、今の我々はそうした役割を氏の文学に尋ねることは出来ない。そう云う意味で、我々は氏の文学に捺された階級的烙印を明確に認識しなければならぬ。

 宮本氏のこうした断定こそ、小林秀雄が「様々なる意匠」で批判した「一意匠」のさいたるものだろう。『日本近代文学評論選 昭和篇』には「敗北の文学」の次に「様々なる意匠」が全文収録されていて、久しぶりに読みかえしてみたが、こちらは現在でも十分読みごたえがあった。

 「敗北の文学」の直後に書かれた「過渡時代の道標」という片山伸論に目を通そうとしたが、こちらは唯物史観の機械的適用の見本で途中で放りだした。

 政治家となった後の回想類は平明でおもしろく読めた。肩から力が抜けた印象なのは余技として書いているからか。

7月23日

「ダーウィンの悪夢」

 アフリカンシクリッドと呼ばれる一群の熱帯魚がいる。ビクトリア湖やタンガニーカ湖、マラウイ湖などアフリカの大地溝帯の湖に生息する固有種の総称で、淡水魚なのに海水魚のようにメタリックで色鮮やかな色彩に輝く美しい魚たちで、飼育が難しいことでも有名である。

 普通の湖は数十万年で埋まってしまうが、大地溝帯の湖は常に両側から引っぱられており、数百万年間も独自の環境を保ったので、多種多様な固有種が進化し、「ダーウィンの箱庭」と呼ばれている。

 そのアフリカンシクリッドが今、危機に直面している。最大の生息地であるビクトリア湖にナイルパーチという外来魚が大繁殖したからだ。「ダーウィンの箱庭」はナイルパーチという闖入者のために弱肉強食の場となってしまった。

 ナイルパーチは最大2mにもなる大型の肉食魚で、白身で味がよいことから高値で取引されている。ビクトリア湖には多くの加工工場ができ、切身をEUや日本に輸出して外貨を稼いでいる。ナイルパーチ産業は多くの雇用をつくりだした反面、矛盾も生んでいる。

 この映画はビクトリア湖周辺に取材したドキュメンタリーで、すさまじい映像が次から次へと登場する。

 ナイルパーチ漁のために周辺の農村から多数の人が集まってきて、漁師村ができているが、その稼ぎをあてこんで売春が横行し、エイズが蔓延している。エイズが発症した漁師は歩けるうちに故郷に追いかえす。死んでからでは死体の運搬費がかかるからだ。エイズで夫を失った寡婦は食べていくために売春婦になり、ますますエイズを広めていく。

 魚の加工工場では大量のアラや骨が出るが、そうした廃棄物は「骨場」と呼ばれる場所に運ばれ、「再利用」される。どう「再利用」されるかは映画を見ていただくしかないが、目を覆いたくなる光景である。

 切身は大型輸送機でEUや日本に輸出されるが、運ぶのはロシアの航空会社である。ロシア人パイロットやパイロット専門らしい高級娼婦のインタビューもある。

 輸送機はヨーロッパからなにも載せずに飛んでくることになっているが、武器を運んでいるという噂が絶えない。しつこく武器輸送について聞かれたパイロットがついに認めてしまう場面もある。

 本作は湖の中だけでなく周辺も弱肉強食の「ダーウィンの悪夢」と化している現状を描いていて、多くの賞を受賞しているが、現地のタンザニアでは批判が出ているという。タンザニア在住やタンザニアに住んだことのある日本人も批判のページを公開している。吉田昌夫氏の2006年10月6日付の記事、根本利通氏の「ダルエスサラーム通り」の第47回第49回(これが一番詳しい)などである。

 まず、フーベルト・ザウパー監督がドキュメンタリーであることを隠して撮影したことが批判されている。魚加工工場はEUの検査員と身分を偽って取材したそうだし、漁師村には教会関係者という触れこみではいりこんだそうだ。

 第二にナイルパーチが多くの雇用を生んでいる点を無視して、一方的に悪玉に仕立てている点。魚加工工場は外国資本がはいっていると誤解させるような描き方をしているが、インド系やギリシャ系のタンザニア人が経営しているだけで、あくまで現地資本だそうである。

 第三に切身はすべて輸出されているかのようなナレーションがついていたが、実際は現地でも消費されている点。第四にことさら暗黒面ばかり強調して、現地の実情を誤解させる点。第五にアフリカンシクリッドは絶滅したわけではなく、最近は増える徴候が見えていることを伝えていない点など。

 現地の人にとって不本意なのはその通りだろうが、どれも決定的な批判とはいいにくい。誇張があるのは確かだろうが、それを割り引いたとしても、すさまじい事態が進行している事実は動かないのではないか。

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7月24日

 2000年になくなった仙波龍英氏を偲んで『仙波龍英歌集』が六花書林から出ていた。

 まだ現物を見ていないが、生前刊行された『わたしは可愛い三月兎』と『路地裏の花屋』に若干の拾遺歌とインタビュー、藤原龍一郎氏の「メモワール」がはいっているという。2100円という定価は歌集としては異例に安い。一人でも多くの読者に読んでもらおうということだろう。大手書店のサイトを調べたが、どこも在庫がなかった。六花書林に注文するのが一番確実だと思う。

 仙波龍英氏とは学生時代に親しくしていただいた。わたしにとっては仙波さんというより氷神さんである。

 あれは大学にはいった年の夏休み明けだったと思う。ワセダ・ミステリ・クラブのたまり場だったモン・シェリの扉を開けると、クラブ員のたむろする一角の端にペイズリ模様のシャツを着たルー大柴のような新入会員がすわっていて、法学部三年の氷神琴支郎と名乗った。それが氷神さんこと、仙波龍英氏との出会いだった。

 ワセダ・ミステリ・クラブはミステリを千冊、二千冊以上読んでいるのは当たり前で、ポケミス全巻読破という強者もいたから、ミステリをろくに読んでいないわたしは肩身が狭く、読書傾向の重なる氷神さんと話すことが多かった。そのうちに学生時代からSF俳句で名をなしていた藤原龍一郎氏を師匠に「WMC詩人会議」を作ったりした。

 氷神さんは「短歌人」という結社に入会したが、投稿した歌を見せてもらうと仙波龍英名義だった。仙波龍英は師匠の藤原龍一郎さんから一字もらったペンネームだといっていたが、それが本名とわかるのはずっと後のことである。

 ワセダ・ミステリ・クラブのOBにはアルコール依存症になる人がすくなくなかった。直接知っている範囲でも三人がアルコール依存症で入院している。氷神さんもその一人だった。わたしは酒飲みが苦手なので、氷神さんとは疎遠になっていった。逃げたといった方が正確かもしれない。逃げておいて、今さら偲ぶふりなんてと、氷神さんは笑っているに違いない。

 ネットを検索すると、氷神さんを偲ぶページがたくさん見つかった。毎日新聞のサイトにも紹介があった。氷神さんはこんなに多くの読者をもっていたのである。これくらい物書き冥利につきることはない。

 氷神さんの訃報はOB会筋からすぐに知らされたが、SF関係の訃報は数ヶ月から数年遅れで知ることが多く、不義理を重ねている。矢野徹さんと深見弾さんは半年以上たってから知った。先日は野口幸夫さんが二年前に亡くなっていたことを知り驚いた。

 タイミングを逸したのでサイトには書かなかったが、矢野さんの座談は滅法おもしろかった。屋久島だったか、奄美大島だったか、南の島に旅行した話は今でも思い出す。まったくのほら話なのだが、あれくらいポンポン発想が出てこないと小説は書けないのだなと思った。右翼の矢野さんとソ連KGBの手先の深見さんのかけあい漫才も懐かしい。

 深見さんはナウカに長く勤務されていたが、取締役にされそうになったので辞めたと言っておられた。ロシア・東欧圏のSFの紹介者としてかけがえのない人だった。レムについては沼野充義氏が精力的に紹介をつづけておられるが、ロシア語のSFに関してはまだ後継者はあらわれていないようである。

 野口さんは「NW SF」でデビューしたのでNW系の人と見られているようだが、伊藤典夫を尊敬して翻訳家になった人で、伊藤組の若衆頭格だった。

 伊藤氏の影響からか、野口さんは1980年代の後半には翻訳論の迷路にはいりこんでおられた。佐久間さんも仕事をやめて翻訳専業になられた頃から、翻訳論というか、日本語論の迷路にはいりこんでおられた。家に閉じこもって文字に向かいあう生活をしていると、迷路に迷いこむ誘惑に身をさらすことになる。酒の誘惑といい、迷路の誘惑といい、物書きの生活は本当に不健康だ。

7月25日

 第20回ICPFセミナー「著作者は著作権をどのように捉えているか」を聴講してきた。ゲストは三田誠広氏。いつもは40人の教室を使っていたが、今回は参加者が多く100人以上はいる白山ホールが会場だった。ITmediaに「「100年後も作品を本で残すために」――三田誠広氏の著作権保護期間延長論」という記事が出ており、池田信夫氏のblogにもエントリーがある。

 吊るし上げ大会になるだろうと予想して出かけたが、吊るし上げは不発に終わった。三田氏はさすがに喧嘩慣れしていて、アウェーの試合と見切り、逃げに徹したからだ。のらりくらりとかわされた池田氏は憮然たる表情で会場から出ていった。その憤懣はblogからも読みとれる。

 逃げきるかどうかだけが焦点のやりとりだったから、議論の細部に立ちいっても意味がない。ここでは三田氏の提唱する著作権者データベース構想だけを紹介し、検討することにする。

 このデータベースは著作権者が不明の場合の調停の前提条件として作ろうというものだ。著作権者が不明で作品を流通させられないというケースは多い。人名事典に載っているような人や文藝家協会の会員だったような人なら、誰が著作権を継承しているかはすぐにわかるし、手続も簡単だが、一作か二作発表しただけで消えた人や、雑誌発表だけで消えた人などはいつ亡くなったかもわからず、著作権継承者を探しだすだけでも大変である。

 著作権法では「相当な努力」をはらっても著作権継承者が見つからない場合は保証金を寄託することによって著作を利用することができるとしているが、「相当な努力」はハードルがかなり高い。こういう現状のまま、保護期間を死後100年に延長すると、いよいよコンテンツの流通が阻害されることになる。

 そこで著作権管理団体が統一した著作権者データベースを作り、そのデータベースを検索して見つからなかったら「相当な努力」をはらったとみなし、調停にもちこめるようにしようというわけだ。

 ここまでは以前から言われていたことだが、三田氏の構想で目新しいのは調停制度を拡充することによって、実質的に登録制と同じことを可能にしようとしている点である。

 著作権者の中には保護期間が死後70年になっても、50年で十分という人もいるだろうし、死んだらすぐに全作品をフリーで公開したいという人もいるかもしれない。趣味で作品を公開している人の中には最初からフリーでかまわないという場合が多いだろう。

 そこで著作権者自身が保護の条件を宣言するクリエイティブ・コモンズや、著作権保護期間延長を登録制にし、一定の手数料を払いこんだ場合にだけ保護期間を延長するという方式が提案されている。登録や意志表示がなければ、フリーと見なすことになる。

 だが、こうした登録方式をとると登録や意志表示によって著作権が発生することになり、ベルヌ条約の無法式主義に抵触する。

 三田構想は著作財産権の放棄の登録なので、無法式主義とは共存可能のはずである。著作権者データベースにない場合は保証金を寄託しなければならないので、保証金の金額が問題になるが、ベルヌ条約の枠組で登録制が実質的に可能になるのは魅力的である。

 著作権に関する三田氏のこれまでの活動を見ていると、文化庁と密接な関係で動いていることは間違いなく、ある意味で文化庁の代弁者といえなくもない。三田構想は三田氏個人の構想というより、文化庁のアドバルーンの可能性があり、その意味でも看過できない。

 しかし「相当な努力」をはらったと誰もが納得するためには著作権者データベースは網羅的でなければならない。そんなデータベースが本当に作れるのだろうか。

 三田氏は最初二年でできるといい、突っこまれると二年ではできないかもしれないが、保護期間延長の改正著作権法が施行されるまでには間にあうはずと言いなおした。早くも絵に描いた餅に終わりそうな予感がする。

7月26日

「憑神」

 浅田次郎原作を降旗康男監督が妻夫木聡主演で映画化。

 降旗康男は大味だし、浅田次郎流の人情噺はおもしろいと思ったためしがなかったが、この映画はよかった。浅田原作らしくこぢんまりとまとまっているが、ほら話的な広がりがある点がこれまでとは違う。

 主人公の彦四郎を榎本武揚といっしょに英学を学んだ秀才にして、幕末の動乱につなげる程度はすぐに思いつくだろうが、先祖が大阪夏の陣で家康の盾になって死んだ足軽で、その功績から代々影鎧の番を仰せつかる家柄にしたのは秀逸。彦四郎というアナクロな存在の滑稽味と哀しみが一段と深くなった。

 彦四郎は榎本が祈って出世の糸口をつかんだというミメグリイナリに手をあわせるが、ミメグリはミメグリでも三囲稲荷ではなく、三稲荷という別の神様だった。

 間違った神に祈ったばかりに、彦四郎は貧乏神、疫病神、死神に次々ととりつかれる。最初の貧乏神が西田敏行、次の疫病神が赤井英和とベテランをもってきて、最後の死神に子役の森迫永依を使うキャスティングもみごとで、三人ともいい芝居をしている。

 彦四郎はボケ役で振りまわされる一方だが、神様たちに同情されるイノセントな人柄がよく出ていた。彦四郎の兄の左兵衛(佐々木蔵之介)はずいぶんふざけた侍だが、案外、江戸にはああいうタイプはいたかもしれない。

 愛すべき小品だが、残念なのはラスト。上野戦争が中途半端だったし、その後に現代編をくっつけて、浅田次郎本人を出したのは蛇足。

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7月29日

 来月はお盆があることでもあるし、『仙波龍英歌集』が出た機会に、生前存じあげていた方々の遺著特集を「書評空間」でやろうと思ったが、SF翻訳勉強会で親しくしていただいた矢野徹さん、黒丸尚さん、野口幸夫さんの御著書の大部分が入手不可になっていることがわかり呆然とした。

 ロシア東欧圏のSFという特殊な分野で活躍しておられた深見弾さんはレムの『天の声』、『ロシア・ソビエトSF傑作集』、『東欧SF傑作集』が生き残っている。山高昭さんはクラークというビッグ・ネームを訳しておられたので『楽園の泉』、『2061年宇宙の旅』、『天の向こう側』などが現役である。

 今、著作権の死後70年延長問題で侃々諤々の議論をやっているが、翻訳のなんとはかないことか。いや、はかないのは翻訳に限らないけれども。

 翻訳を後世に残すには、深見さんのように特殊な分野を訳すか、山高さんのように古典として読みつがれそうな作品をやるしかないらしい。

 ただし、あまりにも有名な作品だと、新訳がでて埋もれてしまう危険性がある。後世まで確実に自分の訳書を残すには、森鷗外や永井荷風のように、自分自身が古典を書くしかないのだろう。

7月30日
光市母子殺害事件と幼児神話

 山口県光市の母子殺害事件差戻審の三回目の集中公判が26日に終わった。

 前回は『魔界転生』が出てきて唖然とさせられたが、今回も被害者宅を訪問したのはピンポンダッシュだったとか、「ロールプレイングゲーム感覚だった」とか言いだし、証人の精神科医からは「死刑になって、来世で弥生さんの夫となる可能性がある」と拘置所で語っていた事実が明かされた。『サイコメトラーEIJI』や、アパートが怪物に見えるという話も出てきた。

 F被告と弁護団は被告の幼さを強調する方向で一貫している。幼さを強調することで、性的な色彩を薄めようというわけだ。

 被告「義母に昼休みだから戻った、とうそをついた後、後ろから抱きついて甘えた」

 弁護人「どうして抱きついたのか」

 被告「無性にさみしかったけえ、お母さんにいっしょにいてほしくて」

 弁護人「抱きつくのは性的な意味もあるのか」

 被告「義母には失礼だが、(中学1年のときに自殺した)実母に代わるものとして、母性を求めていた」

 この義母は20代のフィリピン人女性だそうである。そういう女性に抱きついておいて、性的な意味はまったくない、母性を求めていただけといっても説得力はない。

 いや、いくら性欲隠しをしようとしても、被害者をレイプしたという事実がある以上、下手な言い訳としか聞こえない。

 フロイトは幼児性欲を発見したが、幼児の性欲は口愛期や肛門期の多形倒錯の性欲であって、レイプをするような性器性欲ではない。

 もしF被告の精神的発達が著しく遅れていて幼児レベルだとしたら、被害者が脱糞した便を食べてしまうとか、被害者の肛門に異物を押しこむとか、正真正銘の変態行為におよんでいただろう。

 幼児性欲の理論を発展させたメラニー・クラインの『児童の精神分析』などを読むと、幼児の多形倒錯の世界がどんなに奇怪かわかる。幼児性を強調することで性欲隠しができると思っているのは、幼児が無垢だという幼児神話にとらわれているからだ。本当の幼児の心の世界はそんなものではないらしい。

 弁護団がF被告から遺族の神経を逆撫でするような発言を引きだしているのは(すくなくとも発言を止めていない)、精神鑑定に持ちこむためだという見方があるが、麻原彰晃のような状態であってもまだ佯狂を疑われ、死刑判決が出た。F被告の幼児性も異常性も中途半端である。あの程度で責任能力なしは無理である。

 弁護団は今回も逆手にこだわっていたが、絞殺という事実の前でどこまで意味があるのか。

 手の位置で犯行様態が大きく変わったというと、映画TVドラマになった大岡昇平の『事件』を思いだす。

 この事件は当初、姉と妹両方と関係した少年が痴情のもつれから姉をナイフで刺殺した単純な殺人事件と思われていたが、菊地弁護士の地道な調査の結果、事件の真相が明らかになり、少年の手の位置が決め手となり殺人ではなく、傷害致死であることが認められる。

 安田弁護士が菊池弁護士のような一発逆転をねらっているのかもしれないが、ナイフによる刺殺と、素手による絞殺ではまったく意味が違う。ナイフなら相手が倒れこんできた場合、殺すつもりがなくても絶命させてしまうことがありうるが、成人を絞殺するには六分以上、全力で首を締めつづけなければならない。絞殺は確定的な殺意がないと不可能なのである。特異体質であるとか、特別な事情がない限り、絞殺で傷害致死と認定されるのは無理だろう。

7月31日

「ダイハード4.0」

 テロリストに占拠された密室状況の中でブルース・ウィリスが孤軍奮闘するシリーズの四作目。第一作はビル、第二作は空港、第三作はマンハッタンと、密室の規模がだんだん大きくなってきたが、今回はアメリカ全土がダイハード状況になる。第五作が作られるとしたら、地球全体か。

 規模が大きくなるほど大味になっていったので期待しなかったが、わりにおもしろかった。ウソみたいなアクションの連続で、ここまでくると立派というしかない。二作目、三作目がつまらなかったのは中途半端だったからだろう。

 大画面と大音響が売りの映画なので、DVDで見たらつまないと思う。ロードショウで公開されているうちに見るべし。

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