エディトリアル   June 2007

加藤弘一 May 2007までのエディトリアル
Jul 2007からのエディトリアル
6月1日

「ドレスデン、運命の日」

 150分の長尺だが、IMDbによると、もとはドイツのTVムービーで180分ある。劇場公開したのは今のところ日本だけらしい。

 ドレスデン空襲は30万人の非戦闘員を一夜にして殺し、街全体が美術品といえるような古都を瓦礫の山に変えてしまった。ヒロシマに匹敵する無差別大量虐殺であり、旧連合国側にとっては歴史の汚点であり、タブーだった。詳しくは『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』を読んでほしい。題名は日本空襲だが、ドレスデン空襲もとりあげている。

 ヴォネガットはアメリカ人捕虜としてドレスデン空爆に巻きこまれ、その体験を『スローターハウス5』に書いている。祖国のおこなった戦争犯罪を自ら被害者として経験したことはヴォネガットの原点だった。小説はもちろん、映画もすばらしかった。

 あのドレスデン空襲を、最近好調のドイツ映画界がついに映像にしたわけである。期待しないわけがないだろう。

 ところが、期待は裏切られた。失望したというより、唖然とした。

 ヒロインは看護士だが、病院長のお嬢様で、苦学して医者になったエリート医師と婚約している。ヒーローは英空軍の撃墜された爆撃機の飛行士で、腹部に貫通銃創を受けているのに、ドレスデンの街を走りまわって大活躍する。

 前半ではヒロインの父親の腐敗が執拗に描かれる。彼はナチスの上層部にコネがあり、ドイツの敗戦を見越して、モルヒネを横流しした金でスイスに病院を手にいれている。婚約者はモルヒネ不足で治療ができないと嘆いていたが、結局、義父となる病院長の犯罪を黙認してしまう。ヒロインは婚約者に愛想をつかし、英空軍パイロットの方を愛するようになる。傷病兵の寝かされている大部屋でベッドシーンを演じさせなくてもいいだろうに。

 病院長がいよいよ女たちをドイツから脱出させようとした夜、運命の空襲がはじまる。

 これではまるでドイツ人に対する天罰として、空から爆弾が降りそそいだかのようではないか。事実、爆撃機の照準手はそんな意味の聖書の文句を暗唱しながら爆弾を落としていくが、病院長一家は自業自得だとしても、一般のドイツ人の死まで天罰というのか。

 ドレスデンというタブーを映像化するには、ここまでアメリカに気を使わなければならないということか。

 空襲の場面はさすがにリアルだ。石造りの街は日本の木造の街とは違う燃え方をし、人々は違う死に方をする。ここだけは見る価値がある。

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6月2日

「慈覚大師円仁とその名宝」展

 栃木県立博物館で「慈覚大師円仁とその名宝」展を閉幕ぎりぎりで見てきた。

 第三代天台座主円仁はライシャワーが「世界三大旅行記の一つ」と絶賛した『入唐求法巡礼行記』で知られるが、今年は下野を離れ比叡山に入山してから1200年目にあたり、生まれ故郷の栃木県で大規模な展覧会が開かれた。

 胎蔵金剛両界に蘇悉地をくわえた最新の密教を請来して台密の基礎を固めた人だけに、曼荼羅関係が多い。台密独自の熾盛光曼荼羅は明るくてモダンアートを思わせる。チベットっぽい印象もあるが、熾盛光は意識を頭頂部から離脱させ、光り輝かせるという行法だから(オウムのために悪い意味になってしまったあれに似ている)、チベット密教の影響を受けているのかもしれない。

 一番充実していたのは写経関係の展示だった。平安期から室町期にわたる装飾経はどれも保存状態がよく、バラエティに富んでいる。紺紙に金字と銀字を一行おきに配する様式は円仁が伝えたものだそうである。贅を凝らした経筥や経筒、円仁を偲んで写経する法然を描いた画幅もあった。

 天台宗は法華経を柱とする宗派で、経巻を神格化する傾向をもともと秘めていたが、円仁は写経の作法を確立し、写経信仰を弘める上で大きな役割を果たしたようだ。

 キリスト教でも聖書のきらびやかな写本がつくられたが、書写するのはもっぱら修道士だった。インドやチベットでも筆写は専門の僧侶がおこなった。中国がどうなのかはわからないが、ひょっとしたら在家信者が経典を筆写して功徳を積むという文化は日本仏教独自のものかもしれない。

 円仁は東北で布教を行なったことでも知られているが、立石寺に身体の骨とともに葬られたという頭部像は前期のみの展示で、写真でしか見ることができなかった。早く行っておけばよかった。

6月5日

 国立博物館の特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ――天才の実像」を見た。

 本館と平成館にわかれるが、本館には今回の呼び物の「受胎告知」だけが展示してある。人類の至宝だけに鞄の中味を見られ、金属探知機をくぐらされる。展示室は真っ暗で、「受胎告知」の前で列が三重に折れ曲がっている。

 最初の列は左向きだが、ここは遠すぎる。二番目の列は右向きで、全体として見るにはちょうどいい。列が動かないので、5分くらいじっくりと見ることができた。見ていて飽きない。

 TVの特集番組でさんざん紹介されていたように、この絵は右手前から斜めに見た時に自然に見えるように構図が決められているが、二番目の列から三番目の列に移る曲がり角がその地点に当たっていた。ところが、曲がり角なので、一瞬で通過させられてしまった。

 三番目の列は1mほどの至近距離で右向き。二番目の列からは十分見ることのできなかったディティールがはっきり見え、描きこみの精緻さに驚いた。しかし、列の動きが速く、細かく見ることはできなかった。

 デジタル技術が進歩したといっても、オリジナルにはかなわないと再認識した。

 平成館の方はレオナルドの科学者としての側面に光をあてた展示で、手稿をもとに製作した模型やCGによる解説映像が主体だった。それなりにおもしろかったが、ガラスケースの中に麗々しく納まっている手稿はすべてファクシミリ版だった。「受胎告知」のオリジナルに圧倒された後だけに、ファクシミリ版はないだろうと思った。

6月6日

「悪夢探偵」

 塚本晋也監督が松田龍平とhitomiで撮ったエンターテイメント(!)である。もちろん、塚本本人も重要な役で出演している。

 塚本監督のエンターテイメントとはどんな代物かという興味で見たが、ちゃんとエンターテイメントになっていた。クローネンバーグの「ザ・フライ」まではいかないが、「イグジステンズ」のレベルには達している。

 悪夢にうなされ自分自身をめった刺しにして死ぬ事故がつづいて起る。間違いなく自殺だが、自殺者は眠る直前に同じ番号の携帯電話にかけていることがわかり、警察が捜査をはじめる。

 キャリアながら自ら現場を志願した霧島慶子(hitomi)が意気ごんで捜査にくわわるが、古手の刑事に敬遠され、「別の線」からの捜査にまわされる。

 「別の線」とはオカルトだ。警視庁には怪しげな霊能力者とコンタクトする部署があり、他人の夢の中にはいれるという影沼京一(松田龍平)を紹介される。

 霧島は落胆するが、コンビを組んだ若宮刑事(安藤政信)が問題の番号に電話をかけ、同じように無残な死に方をしたのを目のあたりにし、彼女自身も電話をしてしまう。眠ったらお終いなので、それまでに犯人を検挙しなければならない。

 悪夢の描写もなかなかだが、電話を通した会話で無意識に潜む自殺願望が活性化されていく条りがリアルで、ここが一番怖い。

 よくできた映画だが、欠点はヒロインのhitomi。大根足をつっぱるだけのウドの大木。演技が拙いのはともかくとして、あの程度の器量でホラー映画のヒロインを張ろうというのはおこがましい。

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6月9日

 台湾の李登輝前総統が7日、実兄の李登欽氏が合祀されている靖国神社を参拝された。李登欽氏は陸軍特別志願兵として出征し、昭和20年2月15日、ルソン島で戦死されたという(SankeiWeb)。

 マスコミは中国外務部の不満会見をメインに、李氏の参拝が日本にとってさも迷惑なことのように伝えたところが多かったが、ネットのおかげで当日の靖国神社の模様を知ることができる(東アジア黙示録)。

 また、1日におこなわれた後藤新平賞受賞記念スピーチは宮崎正弘氏のレポート2007年6月1日で、7日におこなわれた「2007年とその後の世界情勢」という講演の要旨は宮崎正弘レポート2007年6月8日大紀元で読むことができる。9日には日本外国特派員協会の講演で「靖国問題は中韓が作り上げたもの」と明言されたとのこと(大紀元)。

 「2007年とその後の世界情勢」という講演は示唆に富む。イラク失敗によるアメリカの影響力低下は新政権が軌道に乗る2009年までつづき、その空隙をついてロシアが失地回復をはかり、ベネズエラなど反米勢力が挑発的な行動に出ている。

 東アジアでも2009年までアメリカの影響力の低下した状態がつづく。2007年は主要国が内部固めに忙しいので平穏だろうが、2008年には日中の対立が表面化すると指摘している。

 中国は地域間格差や農民暴動、バブル崩壊の危機という国内問題から国民の目をそらすために、対外緊張を演出せざるをえない。日本はアメリカの援助がえられないまま、中国の圧力に立ち向かわなければならないことを覚悟しておく必要がある。

 中国経済が危ないという話は日本のマスコミもとりあげはじめているが、李氏はきわめて厳しい見通しを披瀝された。宮崎レポート2007年6月8日から引く。

 中国の問題は国内金融である。GDPの40−60%もの不良債権。これは96年の台湾における金融危機、97年からのアジア通貨危機を上回る規模の危険性を示してあまりあるもので、いずれ爆発は回避できまい。

 いまの中国経済は輸出拡大志向だが、利益の殆ど無い輸出に依存せざるを得ないのは、キャッシュ・フローの維持にこそ、その目標があるからだ。しかしこの経済金融政策は失敗している。輸出一途の拡大路線は、健全な経済運営とはいえず、むしろ問題を悪化させている。

 中国投資をあおる人たちは、EUが投資を拡大しているからまだ大丈夫だとか、グリーンスパン発言でも株価下落は一時的だったと言っているが、EUは中国から遠いし、グリーンスパン発言後の株価回復は一攫千金を夢見る中国人個人投資家が押し寄せた結果にすぎない(宮崎レポート2007年6月6日)。中国人個人投資家の平均株式保有期間は20日であり、投資というよりギャンブルである。1929年の大恐慌も、危ない危ないといわれながら、それまで株を買ったことのなかった庶民が怒濤のように株式市場に流れこみ、膨らみきったバブルをさらに支えつづける状況の中で起った。

 中国バブルがいずれはじけるが、その時は日本にも大波が押し寄せるだろう。まさかとは思うが、民主党政権だったらひどいことになる。

6月10日

「ゲゲゲの鬼太郎」

 期待していなかったので、そこそこ楽しめた。

 見ている間は退屈しなかったが、時間がたつにしたがい、不満が出てくる。脚本が雑だし、有名俳優を並べた分、CGがチャチになってしまった感がある。特に悪役の狐がお粗末。

 水木ワールドとのズレも目立つ。鬼太郎は左目も健在のため、目玉のオヤジは茶碗の風呂にはいっているばかりで、鬼太郎といっしょに行動する場面はない。目くじらを立てるほどの作品ではないが。

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「スパイダーマン3」

 スパイダーマンがダークサイドに落ちそうになるというストーリーで、トビー・マグワイアの真価がやっと発揮されたといっていい。しかし、あれもこれも詰めこみすぎて、せっかくのドラマ部分が埋もれてしまい、疲労感が残った。

 続篇をまだ作るのだろうか。

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6月13日

「流れる」

 幸田文の処女作『流れる』の成瀬巳喜男監督による映画化である。

 幸田本人とおぼしい住込の女中に田中絹代、置屋の女主人のおつたに山田五十鈴、その娘で芸者を嫌っている勝代に高峰秀子、古株芸者の染香に杉村春子、若い芸者のなゝ子に岡田茉莉子、おつたの強欲な姉に賀原夏子、料亭の女将でおつたの姉貴分のお浜に栗島すみ子と、大女優がずらりと顔をそろえていて、クラクラしてくる。男優陣は宮口精二、加東大介、仲谷昇となかなかの顔ぶれだが、女優たちの競演の引き立て役といったところ。

 原作は置屋の内側をリアルに描きだした辛口の人間喜劇だが、映画では原作以上にお金にこだわっていて、売れっ子のなみ江の給金をごまかした話を軸に、コロッケにかけるソースですら諍いの種になる。貧乏映画の巨匠、成瀬の面目躍如である。

 若い頃は柳橋を代表する売れっ子だったのに、男にだまされてばかりいる女主人のおつたの山田五十鈴の存在感が圧倒的だが、そのおつたをもしのぐのが栗原すみ子のお浜である。女優の格とはこういうものか。

 唯一不満なのは主人公のはずの田中絹代の影が薄いこと。原作ではだらしない女たちの中で、良家の奥さんだった主人公の折り目正しさと気骨が異彩を放っていたが、映画では芸者たちの野放図なエネルギーに押されっぱなしで、狂言回しにとどまっている。

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「浮雲」

 林芙美子後期の傑作の成瀬巳喜男監督による映画化である。

 成瀬の代表作とされていて、前から見たかったが、期待が大きすぎたようである。

 日本軍占領下のインドシナに赴任したタイピストの幸田ゆき子(高峰秀子)は農業技官の冨岡(森雅之)と出会い、不倫関係になる。敗戦後、引きあげてきたゆき子は冨岡の家を訪ね、関係を復活させるが、そこから二人の転落がはじまる。

 リアルに再現した焼け跡闇市時代で陰々滅々たるドラマが展開するわけだが、高峰のゆき子には原作のような生命感が乏しく、愚痴っぽい女になってしまった。森の冨岡はいいのだが、冨岡はもともと受け身の役なので、ゆき子の物足りなさをカバーすることはできない。よくできてはいるが、原作を一回りか二回り小さくしてしまったように感じた。

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6月19日

 ペンクラブの旧電子メディア委員会と電子文藝館編集委員会で総務省にいき、いわゆる「プロバイダ責任制限法」の担当者と懇談してきた。blogに書いていいという許可をもらうのを失念したので、官名はさしひかえておく。

 「プロバイダ責任制限法」は正式名称を「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律」といい、対象となる「特定電気通信役務提供者」とは「不特定の者によって受信されることを目的とする電気通信」を提供する者をさし、掲示板やWikiツールの管理者、コメント欄を許可しているblogのオーナーなども含まれる。

 この法律は有害情報の削除と、有害情報発信者の情報開示という二本の柱からできているが、個人情報の開示については慎重な対応をもとめているのに対し、有害情報については積極的に削除を誘導する内容になっている。思い切り単純化していうと、個人情報の開示請求は裁判所の令状が来るまで応じなくても大丈夫だが、有害情報の削除を遅らせると責任が問われる可能性がある。条文の上では義務とはされていないが、限りなく義務に近いのである。

 削除の条件は二つある。まず、公開されている書きこみやファイルが明らかに他人の権利を侵害していると信じるにたる材料があること。次に発信者に警告したのに、7日以内に反論がないこと。警告は現在のところ、ほとんどメールでおこなわれているようである。

 しかし、SPAMが横行する現在、メールは確実な連絡手段とはいえなくなっている。海外に出ていたり、病院に入院してメールをチェックできないというケースもあるだろう。そもそも他人の権利を侵害しているかについては微妙なケースがすくなくない。「著作権関係ガイドライン」には一応こうある。

 可能な限り誤った措置が講じられることのないよう、また、ガイドラインの信頼性担保のために、権利侵害があることを容易に判断できるものを対象とすることが好ましい。(下線、引用者)

 しかし、本当にこういう慎重な運用がおこなわれているだろうか。

 昨年、ペンクラブの会員のホームページが、プロバイダによってサイト全体が削除されるという事件が起きた。このケースはその後裁判になり、プロバイダに登録していたメールアドレスを定期的にチェックしていなかったのは原告側の過失とされ、プロバイダの削除は妥当という判決が出た。ただし、サイト全体を削除するのはゆきすぎであり、当該ページ以外のページは原状にもどすという条件がつけられた。ところがそのプロバイダはバックアップをとっておらず、原状回復ができなかったのである。

 こういう事例をお話したが、担当官は発信者側の声を聞くのははじめてということだった。

 目下、放送とインターネットを一元的に規制する「情報通信法」が準備されているが、この法律はすでに施行た実績のある「プロバイダ責任制限法」が雛形になるという見方が有力である。今の段階で発信者側が発言しておかないと、とりかえしがつかなくなるかもしれない。

6月20日

「あるスキャンダルの覚え書き」

 ゾーイ・ヘラーの小説の映画化で、ジュディ・デンチとケイト・ブランシェットという二大オスカー女優が競演している。

 デンチは「アイリス」ではケイト・ウィンスレットを横綱相撲で一蹴したが、ケイト・ブランシェットはデンチに跳ね飛ばされながらも、土俵際ぎりぎりで踏みとどまっている。同じケイトでも、ブランシェットの方が粘り腰だ。

 デンチ演じるバーバラはオールドミスの歴史教師で、学校のヌシ的存在だ。バーバラの勤務する学校は労働者階級が多いが、場違いのようなブルジョワ夫人のシーバが美術教師として赴任してくる。シーバの美貌と華やかな雰囲気に教員も生徒も魅了され、彼女の話題でもちきりになる。

 シーバは子供が手を離れてから教員になったので、生徒たちが荒れだすとなすすべがない。バーバラが教室の騒ぎをおさめてやったことから、二人は急速に親しくなる。バーバラはシーバの夫が大学時代の恩師で、20歳以上も年が離れている老人であること、息子がダウン症で、気分転換のために教職を希望したことを知り、日記帳に書きつける。

 クリスマスの行事のあった日、バーバラはシーバが15歳の教え子と美術室で関係をもっていることを見てしまう。シーバは誰にも言わないでくれと懇願する。バーバラは秘密を守る代わりに、シーバを自分の思い通りに操縦しようとする。

 ここからが凄い。猫が鼠をいたぶるように、猫しか生き甲斐のない労働者階級出身の寂しく醜い老嬢が、ブルジョワ階級出身の夫と子供のいる美しい夫人をいいように振りまわし、その経過を日記に事細かに書きつけていくのだ。

 後半、事態は急展開し、最後まではらはらする。見るべし。

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6月22日

「にごりえ」

 樋口一葉の「十三夜」、「大つごもり」、「にごりえ」を今井正が映画化したオムニバス。文学座との共同制作なので、若い頃の北村和夫や岸田今日子がチョイ役で顔を出している。

 この映画の制作された1953年は日本映画が絶頂をむかえた年で、小津安二郎の「東京物語」と溝口健二の「雨月物語」も公開されているが、キネ旬ベスト10と毎日映画コンクールは両作品をおさえ、本作が一位をとった。  以下、三つのエピソードを紹介する。

「十三夜」

 名家に望まれて嫁いだお関(丹阿弥谷津子)は夫の横暴に耐えかねて実家にもどってくるが、父の主計(三津田健)に諭され婚家に帰る。その時乗った人力車の車夫はお関の幼なじみの録だった。録は煙草屋の跡取り息子だったが、関が嫁いだ後、生活が荒れ、今は車夫に身を落としていた。

 今の日本では失われてしまった会話の妙と立ち居振る舞いの美しさに息を呑む。明治の日本人がなぜ欧米人に一目置かれていたかがよくわかる。

 書割だろうが、仲秋の名月に浮かびあがる東京の夜景色が心に染みる。

「大つごもり」

 みね(久我美子)は親を喪ってから伯父の安兵衛に育てられ、今は資産家の山村の家で女中奉公をしている。山村家は強欲な後妻のあやが仕切るようになってから女中がいつかなかったが、みねはけなげに働いている。

 みねが伯父の家に里帰りすると、伯父は体をこわし借金で困っている。みねは御新造にお願いしてみるという。あやはいったんは貸すというが、大晦日になってみると、そんな約束をしたおぼえはないととぼける。みねは困り果て、つい主家の金に手を出すが……

 久我美子が輝いている。この作品の前後に公開された「あにいもうと」でもそうだったが、この人は本当はお姫様なのに、けなげに働く貧しい娘をやらせたら天下一品だ。

「にごりえ」

 「菊之井」の酌婦お力(淡島千景)は結城朝之助(山村聰)という気前のいい客もでき、陽気にふるまっていたが、内心、咎めるものがあった。かつて馴染みだった蒲団屋の源七(宮口精二)はお力にいれあげるあまり、身代をつぶしてしまい、今も執拗にお力につきまとってくるのだ。裏長屋に移った源七は女房(杉村春子)を離縁してしまい、悲劇的な結末に向かう。

 ドロドロしかねない話だが、淡島の涼やかな色気のおかげで哀れ深い作品になっている。暗示的な結末も余韻を深めた。

 三本に共通していえることだが、日本映画全盛期の女優には気品があった。今の日本の女優はどうしてこう品がなくなったのだろう。

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「ユメ十夜」

 夏目漱石の『夢十夜』を10人の監督が撮ったオムニバス。

 大半の作品が原作にこだわらず、自由勝手に映像化しているが、予算をかけた割りにはつまらない。

 唯一おもしろかったのは第二夜の市川崑で、これだけが原作通りで低予算なのは皮肉だ。

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6月25日

 産経新聞に「最新の脳科学にみる「日本人」」という記事が出ている。

 エディトリアルのMar04 2007で、欧米人や中国人、韓国人は虫の鳴き声や風音などの自然音を右脳で処理するのに対し、日本人は言語と同じ左脳で処理するというテレビ朝日の「素敵な宇宙船地球号」という番組を紹介したが、産経には正反対のことが書いてある。

 「日本人だけが左脳で虫の音を聞いていることを証明した画像実験はありません」。取材に応じてくれた複数の脳科学者たちはそう断言する。

 一方、「地球号」では日本人だけが左脳で虫の音を聞いているという首都大学東京大学院の菊池吉晃氏の研究を紹介し、根拠となるPET画像も画面に映しだされた。「地球号」のホームページから引く。

 コオロギの鳴き声に、欧米人は他の音と同様、右脳が反応しますが、日本人は左脳が反応していました。菊池教授は、日本語が母音主体の言語だからだと考えています。虫の音や川のせせらぎなどの自然音と母音の音の成分がほぼ同じなのだそうです。この共通性から、日本人は自然の音を意味のある「言葉」、感情的な音として聞いているのです。

 いったいどちらが正しいのだ。両者とも断定的に語っているが、本当はまだ決着がついていないということなのか。

 産経新聞はぜひ菊池氏を取材してもらいたい。

6月26日

 第19回ICPFセミナー「政府の知的財産戦略」を聴講してきた。ゲストは内閣官房知的財産戦略推進事務局の大塚祐也氏。

 大塚氏は首相官邸サイトで公開されている「知的財産推進計画2007」のまとめにあたった人で、前半は立て板に水の講演だったが、これといった中味はなかった。レジュメが公開されているが、これに尽きている。

 後半、質疑に移ると、のっけから数字の詐術を指摘されて立ち往生。レジュメ15頁にGDPに対するコンテンツ産業の規模の比較があり、日本は2.66%で世界平均の3%より低いと大塚氏は危機感を煽っていたが、これは一国だけ突出したアメリカを含んだ平均である。アメリカを除いた世界平均は2.4%になり、日本は平均を上回っている。アメリカが突出しているのは英語によるところが大きい。

 大塚氏は音楽などは言語に関係ないと反論を試みるが、最近の音楽にはほとんど歌詞がついているという指摘を受けて、またも立ち往生。

 現行著作権法ではサーチエンジンの検索サーバーを日本国内に置けないので、検索サーバーを著作権法の例外にする話がもちあがっていて、「知的財産推進計画2007」の重点編にも挙げられているが(21頁)、これが間違いという指摘も出た。著作権法には日本国民(法人を含む)の国外犯の規定があるので、日本法人がある以上、検索サーバーを日本国外においても引っかかるというのだ。

 わたし自身、著作権法の壁のために日本では検索サービスがはじめられないという説を信じこんでいたが、いわれてみればその通りだ。著作権のあるCDやDVDを勝手に製造したら、国内でプレスしようと国外でプレスしようと、違法であることに変わりはない。検索サーバーも同じことである。ネットでは常識になっているとのことだったが、わたしは知らなかった。

 Yahooの検索サーバーは国内にあるという話も出たが、知財本部ではそのあたり、まったく把握していなかったそうで、大塚氏は呆然としていた。

 以上は枝葉の議論だが、この後、知財本部の認識は時代遅れだという根本的な批判があいつぎ、吊るし上げの様相を呈した。ICPFセミナーは糾弾集会になることが多いが、今回は特にひどかった。大塚氏はなにも言い返せず、最後は涙目状態だった。

 次回は文藝家協会の三田誠広氏がゲストだという。三田氏は著作権延長の先頭に立っているから、今回以上の一大糾弾集会になるのは間違いない。三角帽子をかぶせられ、ジェット式ぐらいはやらされるかもしれない。もちろん、見にいくつもりだ。

「燃えつきた地図」

 安部公房代表作の映画化である。監督は勅使河原宏、主演は勝新太郎。

 安部公房原作にしてはアクション的な要素のある作品なので、勝新太郎主演もありということになったのかもしれないが、この配役は逆効果だった。主人公の探偵がボコボコに殴られる場面がいくつかあるが、なにも反撃しないのである。勝新太郎がおとなしく殴られているだけなんて、見ていてイライラしてくる。

 しがない探偵なのでスバル360を足に使っているが、勝新太郎が小さなスバルでは格好がつかない。渥美清を助手席に乗せて走る場面があるが、小さな車に勝と渥美の巨大な顔が二つ正面向いて並ぶ図は悪い冗談だ。

 市原悦子のエロチックな場面とか、イモっぽかった頃の吉田日出子とか、見てはいけない映像が出てくる。

 唯一格好いいのは探偵の妻役で出てくる中村玉緒。この頃はまだ松たか子と同じ美人路線を歩んでいた。ここで離婚していれば、バラエティ・オバサンにはなっていなかったかもしれない。

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「顔役」

 勝プロ作品で、勝新太郎が製作・脚本・監督・主演をかねている。豪華キャストだし、勝新太郎としては渾身の力をこめたのだろうが、意欲ばかりが空回りする結果となった。見ていてつらいものがある。

 主人公はマル暴の刑事。彼は外部の圧力に絶対屈しないという上司(大滝秀治)の言葉を信じて暴力団の壊滅作戦にとりかかるが、政治家から圧力がかかると上司は逃げだし、彼も警察を辞めなければならなくなる。民間人になった主人公は手打ちでいったん納まった抗争を謀略で再燃させ、最後に組長を車ごと砂に埋めてしまう。前半はリアルな刑事物だが、後半はファンタジーである。

 普通に撮れば前半は見るに耐えたと思うが、接写を多用しているためにストーリーにはいれず、肩が凝ってきた。接写は素人監督が藝術と勘違いしてよく使う手法だが、映画を知りつくした勝がなぜこんなアホなことをやるのか。安部公房作品に主演したがったのも痛いが、インテリ・コンプレックスがあったのだろうか。インテリなんかより勝新太郎の方が段違いに偉いのに。

 どうしようもない映画だが、太地喜和子が勝に誘惑される場面と、若山富三郎が仕切って手打ち式をする場面だけは光っていた。

6月27日

「鉄コン筋クリート」

 「ピンポン」の原作者でもある松本大洋が、バブル崩壊直後に連載した漫画のアニメ化である。スタッフと声優の顔ぶれがすごい。出来もすばらしい。よくぞここまで描きこんだものだ。

 しかし、今一つ面白くない。技術的にはすごいと思うが、昭和レトロをもとに生活感を強調しているのに、街にリアリティがないのだ。ストーリー展開はもったいつけすぎで、もっさりしている。

 再開発から街を守るためにアウトローの少年たちが戦うというストーリーだが、街の住民を置いてきぼりにしてしまっているのである。抽象的な「街」概念をネタにアクションをやっているだけという印象なのだ。

 街を愛したがために組織を裏切って殺されるネズミというヤクザが出てくるが、要となるキャラクターのはずなのに存在感ゼロ。上っ面のカッコウだけつけて死んでいくが、「街」にリアリティがないのだから、いくら田中泯を声優に使っても駄目である。

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6月29日

 山口県光市の母子殺人事件差し戻し審で、被告の元少年が三日間の陳述を終えた(Sankei WebMainichi-MSN)。殺人とその後の死姦行為をどう言いつくろうのか興味があったが、ドラモンや『魔界転生』まで登場するあきれた内容だった。本村氏は「聞くに堪えない3日間だった」と感想を述べたが、日本中がそう感じたのではないか。

 遺体に凌辱をくわえたのは復活のための儀式だったという被告側の言い分が伝えられていたが、今回、被告本人が意図を語った。izaから引く。

弁護人「亡くなっているのを分かった上でなぜ乱暴したのか」
被告「生き返ってほしいという思いだった」
弁護人「どういうことか」
被告「山田風太郎の『魔界転生』という本に、そういう復活の儀式が出ていた

 被告は『魔界転生』に影響されて、精子を注入すれば死んだ女性が生き返ると考えていたというのである。

 しかし、『魔界転生』のどこにそんな話が書いてあるのか。『魔界転生』で語られるのは、死にかけた男が女と交わって自分の妄念を注入すると、妄念が女の体内で成長し、一ヶ月後に女体を卵の殻のように破ってこの世に生まれでるという秘儀である。

「この世に出でよ、田宮坊太郎!」
「――おおっ」
と、如意斎はさけんだ。
 正雪は女を唐竹割りに斬ったのではない。――ただ、そのひたいから鼻ばしら、胸から腹へかけて、うすくすじを入れただけだ。(略)  一瞬、お類の顔からからだにかけて、赤い線が走った。そこから、顔にもからだにも八方に亀裂が散り、網の目を作ったかと思うと、その皮膚をおし破って、内部からべつの人間がニューと出現してきたのである。

 報道は被告が『魔界転生』を口実にしたと伝えるだけで、『魔界転生』が被告の言い分とは無関係だというところまではふれていない。

 それは検察官や裁判長も同じである。裁判長はF被告に単行本で読んだのか、文庫本で読んだのかと訊いてはいるが、『魔界転生』にはF被告のいうような場面はないという事実は指摘していない。

 単行本か文庫本かを訊いたのはF被告が本当に読んだのかどうかに疑問をもったからだろうが、その疑いは事件前の被告に山田風太郎を読みこなすだけに国語力があったかどうかを疑っただけであって、『魔界転生』にはF被告のいうような場面が存在しないことにはまだ気がついていないはずである。死姦という異常な行動の核心に係わるだけに、気がついていたら質問しないはずはないからだ。おそらく、裁判官も検察官も『魔界転生』が死姦の動機だという話は26日にはじめて聞いたのではないか。

 わたしはこれまで、精子を注入することによって被害者を生き返らせようとしたという詭弁を弁護士の創作と考えていたが、そうではないかもしれないと思うようになった。弁護士の創作だったら、『魔界転生』ではなく、辻褄のあう作品を選んだはずだからだ。

 といって、F被告に被害者を生き返らせる意図があったとも思わない。『魔界転生』はこの世に未練を残して死んだ男が女体を利用して生き返る話であって、女性を生き返らせるのとは正反対の発想で書かれているからだ。

 わたしは死姦の動機に『魔界転生』が関係しているのではないかと疑っている。次の条を読んでもらいたい。

 座っている彼の向こう側に、女がひとり仰むけに横たわっていた。腰のあたりは見えないが、全裸と見える。その女の顔――鼻のあたりに、坊太郎は白い手をあてている。そしてじぶんもからだを横に伏せて、顔に顔を重ねた。
「……く、く、くっ」
 女の声――いや、人間の声とも思われぬ凄惨なうめきがあがり、白い二本の足がくねった。弱々しい、しかしあきらかに断末魔を直感させる痙攣だ。その下から床にひろがっている血潮をふたりは見た。
 坊太郎の手はなお女の顔を覆っている。それは柔らかい海綿みたいにピタと鼻腔に吸着しているらしい。そして彼の口は女の口に、これまた蛭のように吸いついているらしかった。
「けくっ」
 耳を覆いたくなるうめきとともに、女の四肢はパタリと床におち、そしてうごかなくなった。それもなお数分、坊太郎は女の口からじぶんの口を離さなかった。

 強姦目的で誤って女性を殺してしまった場合、犯人は逃げるのが普通だそうである。F被告は絞殺という体力も時間もいる方法で殺した上に、苦悶の表情を浮かべ、脱糞までした被害者の死体を凌辱している。そういう状態の死体に対して性欲が起こること自体、異様である。

 F被告は強姦して、たまたま殺してしまったのではなく、最初から女性を苦悶死させ、死姦することが目的だったのではないか。そう考えるしかないのではないか。(Jul21 2007 加筆)

6月30日

「ゾディアック」

 ゾディアック事件を追う男たちを描いた実話で、本作の後半の主人公になるロバート・グレイスミスのノンフィクションを原作としている。

 ゾディアック事件とは1960年代末に起きた連続殺人事件で、犯人がゾディアック(12星座)と名乗り、新聞社に暗号の脅迫状を送りつけたことから全米の注目を集めた。犠牲者は37人も出たが、相当部分が模倣犯の犯行ではないかと見られている。犯人はいまだにつかまっていないが、「ダーティハリー」など、この事件をモデルにした映画が何本もつくられ、ドキュメンタリーまでDVDになっている。

 本作は2時間37分という長尺であるが、最初の40分ほどはゾディアックが次々と事件を起し、「セブン」を思わせるサイコスリラー的緊迫感があるものの、あとの2時間は出口のない迷路を延々さまよいつづける。

 追う側は死屍累々で、敏腕記者は酒に身を持ち崩して会社を追われるし、やり手の刑事は脅迫状の偽装という濡衣を着せられて担当からはずされる。最後にバトンを託されたグレイスミスも生活が破綻し、妻子に逃げられる。フィンチャー監督は犯人は誰かよりも、犯人を追う男たちがいかに壊れていくかに焦点をあわせている。

 ゾディアック探しは徳川埋蔵金のようなもので、こういう無限ループにはまりこむのは男の脳の構造的欠陥なのかもしれない。わたし自身、のめりこむ性格なので、彼らの恍惚と絶望はよくわかる。男たちがなぜ蠟燭に飛びこむ蛾のように事件に引きつけられるのかは、女性にはまずわからないだろう。

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