エディトリアル   August 2008

加藤弘一 Jul 2008までのエディトリアル
8月22日

「蟹工船」

 新文芸座で一日だけかかるというので見にいったところ、大変な行列になっていた。30分前に着いたが、すでにロビーにははいれず階段に並ばされた。どんどん客が来て、列が二列になり、立見がでる盛況。切符を買っていなかったら、別の映画にいったところだ。

 昨今は「蟹工船」が若者にブームだそうで、マンガ版まで出ている。若者はいつもよりは多かったが、新文芸座なので2/3は老人客である。

 原作は読んだことがあるが、小説以前というか、あまりに稚拙だった。ただ、若者に受けるというのはわかる。ケータイ小説と同じで粗筋だけだからだ(最近はちゃんとした小説を読みとおす根気のない学生が増えている)。「蟹工船」ブームをワーキングプア問題と結びつけている向きが多いが、実際はホラー風味のケータイ小説のノリで楽しんでいるのではないか。

 映画は面白かった。原作では説明で終わっていたオホーツクの荒れる海や船上での作業、作業員たちの群像がモノクロームの重厚な映像になり、人間ドラマとして立ちあがってきた。粗筋がようやく作品になった。

 山村聰の初監督作品で脚本も書いている。演出の難しい群像劇を初監督でここまでまとめあげた手腕はみごとといっていい。原作に添いながら厚みを出した脚本も見事だ。他の作品も見たくなった。

 山村は主演も兼ねているが、浮気癖のおさまらない内縁の妻を殺して逃げている男で、未確認だが原作にはいなかったと思う。偽名で船に乗るが、上役にスパイにならないと警察に突きだすと脅される。主演なのでスパイの苦悩が描かれるのかと思ったら、クライマックスのストライキの前にあっさり自殺してしまった。主演は形だけで、見せ場の演出に専念したかったということか。群衆の中で一番目立つのは監督の浅川(平田未喜三)だが、もっと憎々しい方がよかった。

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「太陽のない街」

 大正15年の共同印刷争議を描いた徳永直原作を山本薩夫監督で映画化した。共同印刷の労組が後援している。製作は争議から30年目にあたる1954年だから、記念の意味あいがあったのかもしれない。

 工場の前に建てこんだ工員たちの住む長屋を舞台に、二ヶ月つづいたストライキの後半の一ヶ月にしぼって、じっくり描いている。

 ヒロインのヒロインの春木高枝(日高澄子)は争議団幹部の萩村(二本柳寛)に思いを寄せている。高枝の妹の加代(桂通子)は特務班の宮地(原保美)の子を宿している。姉妹はストライキ側だが、父親(薄田研二)は元工員で、指を裁断機で失って退職させられたが、先々代の社長に可愛がられた恩で会社側に立っている。

 労働者側の群像は一癖も二癖もある役者を揃えている。飲んだくれ(宮口精二)の娘のおきみ(岸旗江)は五人の家族を養うためにカフェーで女給をしており、そのことが婦人部で問題になる。高枝と房(小田切みき)はおきみをかばい、婦人部長をブルジョワ的だと批判したために、婦人部は分裂しそうになる。結局、おきみは家族を食べさせるために玉ノ井に身売りする破目になるが、身売りする段になって、カフェーでは決して恥ずかしいことはしていないと高枝たちに必死で訴える。ブルジョワ道徳が労働者に浸透していたわけである。

 長屋の住民として原泉と北林谷栄が登場するが、息子たちより過激なストライキ派だ。ストライキ破りの暴力団の役で花沢徳衛が出ていたが、「蟹工船」ではストライキ側だった。

 ストライキをつづけるために女工たちが行商に出るとか、購買部が食料を調達して組合員に配給するとか、スト破りを妨害するために特務班が違法すれすれの荒っぽい活動をするとか、当時の争議のありようがわかりやすく描かれている。

 映画がはじまって1時間ほどで争議はいったん決着しかけるが、渋谷男爵(渋沢栄一だろう)が乗りだしてきたために政治問題化し、争議団が追いつめられていく。ちなみに共同印刷は大同印刷だが、講談社とキングはそのままだ。

 警視総監が出した斡旋案を争議団が拒否した夜、謀略の放火事件が起こり、幹部が一斉逮捕される。新幹部は屈辱的な斡旋案を飲むが、大会の開かれた寺では組合旗の取り合いになり、徹底抗戦派が旗を奪って待ちに飛びだし、長屋の町を旗をかざして疾走する。争議団の完全敗北だが、旗を奪ったことで希望を表現したわけである。

 傑作とまではいえないが、なかなかの作品である。来月の山本薩夫特集が楽しみだ。

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8月24日

 テレビ東京の「みゅーじん」がNOKKOを特集した。うっかりしていたが、彼女は2000年から活動を休止し、2002年に日系サウンドエンジニアの GOH HOTODA氏と再婚していたのだった。2004年には女の子を出産していた。

 最初に「フレンズ」を歌ったが、ありゃありゃである。

 声が出なくなったとか、下手になったということではない。高音はレベッカの頃より楽に出ていて、音域はむしろ広がったかもしれない。要は今のNOKKOは「フレンズ」を歌っていた頃のNOKKOではないということである。そのことを挨拶がわりに、まずファンに示したのだろう。

 レベッカ時代のNOKKOはタイの奥地から売られてきた少数民族の少女のような痛々しさがあったが、今の彼女はインディアンのおばさんのようにどっしり大地に足をつけている。

 中ほどで地元の絵本美術館で開いた童謡を歌うコンサートを映していたが、ソロになってからの彼女が目指していたのはこういう音楽だったのだなと納得した。

 母親になって童謡を歌いはじめたのはUAも同じで、「月の砂漠」や「椰子の実」は立派なUAサウンドになっている。UAの場合は現役中に出産しているということもあってか、とんがったままだけれども、NOKKOは肉体的にも音楽的にも丸くなっているようだ。

 NOKKOは 2003年からGOH氏とともに活動を再会していて、「宇宙ノコモリウタ」と「home sweet home」という二枚のCDを出していた。さあて、どんな世界を歌っているのだろう。

8月27日

 産経新聞で岡本薫氏が「地球温暖化を歓迎する」という痛快な暴論を書いている。マスコミは痩せ細った白熊の映像などを流して地球の危機であるかのような印象を作り上げているが、地球の気温は昔から激しく変化しており、北極の氷はなかった時期の方が長い。現在、予想されている程度の温暖化なら、5000年前(日本では縄文時代)の気候にもどるだけのことだというのである。

 つまりこれは「地球の問題」ではない。では悲鳴を上げているのは誰か。

 岡本氏は悲鳴を上げているのはヨーロッパ人だと断ずる。気候が5000年前にもどると降雨帯が南にずれ、ヨーロッパは乾燥した寒冷地になってしまう。逆にサハラ砂漠やエジプト、イラク、イランあたりはメソポタミア文明やエジプト文明が発祥した頃の湿潤な気候にもどる。ヨーロッパ人があわてるのはわかるが、日本人がそれに同調することはないというわけだ。

 もちろん、これは暴論である。5000年前の気候にそのままもどるかどうかはともかくとして、大変な混乱が起こることは間違いない。1500年前の寒冷化ではゲルマン民族の大移動でローマ帝国が滅亡しているが、そんなものではすまないだろう。日本だって縄文時代にもどったら、関東平野をはじめとする大半の平野は海没してしまう。

 暴論は暴論だが、CO2削減の大合唱がやかましい現在、こういう暴論で頭を冷やす必要があるのではないか。

 最近、温暖化に疑問を呈する本があいついで出版されている。そうした本には二種類あって、温暖化そのものが起こっていないとする立場で書かれたものと、温暖化は起こっているがCO2が主因ではないとする立場で書かれたものにわかれる。

 安井至氏の「IPCCは温暖化を断言したのか」によると、観測精度の向上でCO2の影響は低いという研究が出てきているそうである。CO2主因説がひっくりかえる可能性はないわけではない。

 もしCO2が温暖化の主因でないとしたら、排出規制のために費やされる莫大な費用は別の対策に使った方がいいという結論になる。太陽活動の活発化が主因なら、軌道上に巨大な反射膜を打ち上げるとか、やることはあるだろう。

「4ヶ月、3週と2日」

 凄い映画だ。今年のベスト3にはいるかもしれない。1時間40分間、一瞬も気が抜けなかった。

 ネタバレになるのではっきりとは書けないが、一言でいうとこういう話である。実質的な登場人物は3人で、半分以上はホテルの一室で展開する。しかし、演劇的かというとそうではない。この映画は演劇にはならない。登場人物の一人がチャウシェスク体制下のブカレストの街を東奔西走する部分が重要だからだ。あの寒々とした街路を一人で歩きまわる不安感と孤立感が圧倒的に迫ってくる。きわめて映画的な映画である。

 チャウシェスク体制が倒れる2年前に舞台が設定されているが、学生寮の中に西側の石鹸や煙草を小売りして小遣い稼ぎをしている学生がいるとか、ホテルの従業員の官僚主義とか、社会主義時代の生活がわかる。きわめて個人的なストーリーであるが、その背景には社会主義の圧迫感がある。

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「やわらかい手」

 伝説のミューズ、マリアンヌ・フェイスフルの38年ぶりの映画だという。マリアンヌ・フェイスフルは知らなかったが、ググってみると1960年代に活躍した歌手だった。「あの胸にもういちど」にアラン・ドロンの相手役で出演した時のレザー・ジャケット姿が峰不二子のモデルとなっていたので、アニメファンの間では知られていたようだ。歌手としては今でもベスト盤が何種類も出ている。

 伝説のミューズといっても、今は格幅のいい上品なお婆ちゃんである。難病の孫の治療費を工面するために、性風俗で働きはじめるという「フル・モンティ」的な展開で、英国得意の貧乏映画の一本といえよう。

 かつて歌舞伎町にラッキーホールという性風俗があった。壁に穴が開いていて、壁の向こう側で女性が手でサービスするというもので、壁があるのでお婆さんでもわからないのである。歌舞伎町でも伝説の手をもつというオバサンが山本晋也の番組などで紹介されていた。

 主人公のマギーはこのラッキーホールにつとめはじめ、手の感触が評判になり行列ができるほどになる。ラッキーホールのオーナーが東京で見た性風俗をロンドンにもってきたと言っていたことからすると、歌舞伎町の伝説の手のオバサンの話がヒントになっているのかもしれない。

 アイデアはよかったし、マリアンヌ・フェイスフルの鈍重なかわいらしさが役にあっていたと思うが、湿っぽい話にしたのは失敗だった。ラッキーホール自体が滑稽だし、「フル・モンティ」のようにコミカルにまとめた方がよかった。

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8月28日

「サラエボの花」

 先日、ボスニア内戦時のセルビア側指導者カラジッチが13年間の潜伏の末に逮捕された。ナチスの戦犯なみの追求だが、セルビアの「民族浄化」はナチスの人種政策とはずいぶん違う。ナチスの場合は悪い因子をもっていると見なした人間を能率的に除去しようとした悪しき合理主義だったが、セルビアの場合は宗教的・階級的な歴史的な因縁がからんでおり、悪い意味で人間的だった。

 千田善『ユーゴ紛争』などによると、旧ユーゴスラビアでは所属民族は自己申告だった。ボスニアの住民のほとんどはセルビア人、クロアチア人、どの民族にも属さないユーゴスラビア人という三つの民族のどれかを選んでいた。1971年の国勢調査時にムスリム人が独立の民族として認められると、ユーゴスラビア人の大半を占めるイスラム教徒は所属民族をムスリム人に変更した(ユーゴスラビア人にとどまったのは両親の民族が違う人など)。

 セルビア人、クロアチア人、ムスリム人というボスニアの三大の民族間に人種的・言語的な違いがあったわけではない。違ったのは宗教で、セルビア人がセルビア正教、クロアチア人がカトリック、ムスリム人がイスラム教だった。イスラム教徒といっても、内戦以前は酒も飲めば豚肉も食べるというように、信仰心の薄い者が多かったようだ。無心論者のはずの共産党員の中にも、家系のつながりでムスリム人に所属変更する者がいた。

 ムスリム人ももともとはキリスト教徒だったが、500年つづいたトルコ支配の時代、トルコ人に迎合してイスラム教に改宗した人々の子孫である。改宗すると免税などさまざまな特権があたえられた。ムスリム人は支配層に多かったが、セルビア人の大部分は小作農だった。

 ボスニアで内戦がはじまると、三つの民族はそれぞれ他民族の追いたてと虐殺をおこなったが、セルビア人はさらに女性専用収容所にムスリム人女性を監禁し、集団レイプをくりかえして妊娠させた。レイプで妊娠したムスリム人女性は国連の調査委員会が認めただけでも百数十人、実際には5000人以上いたらしい(ムスリム人社会ではレイプされるのは恥なので隠す)。中絶できなくなる月数まで監禁をつづけるようなことがおこなわれた上に、早期に釈放されてもイスラム教指導者が中絶を認めなかったので、産んだ女性が多かったらしい。セルビア=悪という国際世論が生まれたのは、このカラジッチの指導した組織的レイプが欧米で大々的に報じられたためだった。ちなみに、カラジッチの本業は精神分析医だそうである。

 この映画は収容所で妊娠した女性のその後の話である。その事実は最初は伏せられているが、ヨーロッパの観客には父親の遺影のない母子家庭という設定で、すぐにピンとくるはずである。

 映画は中年女性の集団セラピーの場面からはじまる。一人の女性が不安感を切々と語っているが、他の参加者はそっぽをむいている。参加すると補助金がもらえるので嫌々参加しているのだ。

 参加者の一人、エスマ(ミリャナ・カラノヴィッチ)はサラ(ルナ・ミヨヴィッチ)という娘と二人で暮らしている。サラは中学生で、男の子にも向かっていくような活発でボーイッシュな少女である。サラはサッカーの授業でサミルという乱暴者と張りあい、喧嘩しそうになって止められるが、お互い、父親が内戦で戦死した殉教者シャヒードだとわかり親友になる。

 エスマは酒場でウエイトレスとして働きはじめる。酒場で用心棒をやっているベルダ(レオン・ルチェフ)という男が好意を示すようになる。エスマは内戦時には医学生、ベルダは法学部の学生で、両方とも落ちぶれたエリートという共通点があった。

 エスマの一番の気がかりはサラの修学旅行の費用だった。親がシャヒードなら費用は免除されるので、サラは証明書をわたしてくれとエスマにせがむが、エスマは探してみると言葉を濁し、裏では費用の工面に奔走する。

 サラはシャヒードの証明書をわたしてくれないエスマを疑うようになる。学校でクラスメートからシャヒードの娘というのは嘘だといわれたのをきっかけに、ベルダから預った拳銃をエスマに向けて真実を教えてくれと迫る。エスマが娘に真実を語る場面がクライマックスである。

 重苦しい映画だが、サラ役のルナ・ミヨヴィッチのまぶしいほどの若さが救いになっている。

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「亀も空を飛ぶ」

 早稲田松竹は番組のカップリングに凝る名画座だが、今回もそうだった。「サラエボの花」との組み合せには深い意味があることが途中でわかった。

 イラン映画の王道である子供映画だが、クルド系監督バフマン・ゴバディがイラク戦争直後にクルド人地域にはいって撮影したという。

 イラク戦争間近のトルコとイラクの国境地域。主人公のサテライトは孤児だが、衛星放送のパラボラアンテナを立てる技術など最新情報に通じており、持ち前の押しの強さとはったりで、あちこちの村を回って便利屋的な仕事をしている。付属品のいっぱいついた多段ギアの自転車が彼の成功の証だ。

 映画の舞台となるのはトルコとの国境で二分されている村で、イラクに対する経済制裁以来、村人どうしの行き来もまままらなくなっている。サテライトは村のモスクにパラボラアンテナをたててやるが、英語の放送ばかりなので通訳も頼まれる。サテライトは英語は単語をいくつか知っている程度だったが、安請け合いし、ニュースを出鱈目に通訳する。

 サテライトは村の子供のリーダーになって、地主の依頼で地雷を掘り起こし、国連の出先機関ににもっていっては金を稼ぐ。地雷のいっぱいはいった籠を子供たちが背中に乗せて運んでいる光景にも驚くが、もっと驚いたのは市場で銃やRPGや弾薬が日用品のように売買されているところ。これが紛争地域なのか。

 村は難民の通り道になっていて、一時的に滞在する者もいる。最近、ハラジャブから孤児の三人兄弟がやってきた。一番上の兄は両腕がないが、勇気があり喧嘩が強い。妹は陰鬱な眼をしている。一番下の弟は年が離れていて、まだ幼い。サテライトは妹に好意をもつが、妹は心を開かない。

 イランから子供を探す男がやってくる。難民の中に予知能力をもつ子供がいるというのだ。男は三人兄弟の一番下の弟が予知能力があると思いこみ、融解騒ぎを起こすが、予知能力があったのは一番上の兄だった。サテライトはそのことを知ると、彼から効いた予言を英語のニュースでえた情報のように吹聴しはじめる。

 予言通りアメリカがイラク攻撃を開始する。興奮したサテライトは村を見下ろす高台に小さな陣地を作り、市場で地雷と交換に手にいれた機関銃をすえつける。

 一方、三人兄弟の妹は一番下の弟を荒野に置き去りにし、別の村に向かおうとする。一番下の弟は地雷原に迷いこんだところを発見され、大騒ぎになる。サテライトはいいところを見せようと、自慢の自転車で助けに行こうとするが地雷を踏んでしまい、負傷する。

 不具の子供がたくさん出てくるが、すべて本当の障碍児である。元気でたくましいので救われるが、最後の方で子供たちが受ける傷は障碍だけではないとわかる。

 ラスト、待望のアメリカ軍を寂しそうに見送る障害児となったサテライトの姿が記憶に焼きつく。

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8月29日

 江戸東京博物館で「北京故宮書の名宝展」を見た。会期末が迫っているので混んでいるのを覚悟して出かけたが、比較的すいていた。さすがに蘭亭序の前には行列ができていたが。

 内容は凄いの一語につきる。歴代の皇帝の集めた書のお宝の中でも選りすぐりのお宝が並んでいるのである。欧陽詢、顔真卿、蘇軾、黄庭堅、趙孟頫、そして王羲之……。三希堂の判を捺したものが何点かある。福田首相の対中ゴマスリ外交のおかげかどうかはわからないが、よくぞこれだけのお宝を出したものだ。

 王羲之の生きた南北朝から清代まで時代順に展示されているが、驚いたのは朱元璋の書があったことだ。朱元璋は乞食坊主から身を起こして明朝を建てた。芸術とも教養とも縁遠い残忍刻薄な皇帝であり、馬の数を報告しろという実用本位の命令書だったが、果断な決断力をうかがわせるいい字を書いているのである。

 康煕帝と乾隆帝の作品もあった。康煕帝は人柄のよさが出ている。乾隆帝は上手すぎるが、まだ帝王ぶりでとどまっている。今年の4月まで国立博物館東洋館で蘭亭序の模本展をやっていた。宣統帝溥儀の作もあったが、あそこまでいくとプロの上手さだった。唐様で書く三代目といったところか。

「崖の上のポニョ」

 宮崎アニメ最大のヒットだそうだが、劇場はがらがらだった。『ハウルの動く城』がつまらなかったこともあって、期待せずに見たが、意外にも面白かった。

 『ハウル』はマンネリに陥っていたジブリ・スタイルを壊そうとしたものの、新しいスタイルを作れずに失敗したが、今回は手塚アニメのスタイルをとりこむことでマンネリを脱した。

 手塚アニメの影響はまず絵柄にあらわれている。冒頭の丸っこいクラゲは手塚調だし、フジモトは手塚キャラクターの客演といっていいくらいだ。海の母、グランマンマーレも手塚っぽい。

 フジモトとグランマンマーレが手塚調なのは偶然ではない。彼らはメタフィジックな世界につながるキャラクターだが、今回、メタフィジックな世界を手塚治虫に借りているからだ。

 『風の谷のナウシカ』と『天空の城ラピュタ』には宇宙的な広がりがあったが、『となりのトトロ』で環境保護のイデオロギーがなまじ受けたために、それ以後の作品は環境保護で小さくまとまってしまった。『もののけ姫』は網野理論を持ちこんで世界を広げようとしたが、最後は環境保護でまとめるしかなかった。

 『ポニョ』は環境保護思想を越えた宇宙的な広がりを垣間見せることに成功したが、それは手塚アニメを輸血したおかげである。手塚治虫は宮崎駿より一回りも二回りも大きな作家だった。

「スカイ・クロラ」

 押井守の注目の新作で、森博嗣のキルドレ・シリーズのアニメ化である。同じ題名の第一作以外のエピソードも入っているようなので、シリーズ全体が原作ということらしい。

 遺伝子操作で生まれた、子供のまま永遠に生きつづけるキルドレという新人類が、民衆の戦争本能を満足させるために戦争請負企業で空中戦をくりひろげる。空中戦の場面はリアルで激しいが、地上の場面は単調で絵柄はマンガ的である。

 激しい戦闘と退屈な日常という二重構造は「機動警察パトレイバー」や「ヱヴァンゲリヲン」などと共通であり、オタク的な生活スタイルの反映だろうと思われる。「ヱヴァンゲリヲン」が十代前半のオタクを反映しているとするなら、「パトレイバー」は十代後半、「スカイ・クロラ」は二十代前半か。

 空中戦は新聞やテレビのニュースで伝えられるだけで、実況中継がおこなわれるわけではないらしい。剣闘士やスポーツ選手のように熱烈なファンがついているわけでもない。現実の戦争はスポーツ以上に国民が熱狂するが、そんな昂揚はどこにもない。企業の出資者が基地に見学に来る場面があるが、基地の従業員はそっけない応対し、ヒロインの水素にいたっては基地の責任者という立場でありながら怒りだす始末だ。民衆の感情移入は最初から拒絶されているのだ。社会の安全弁としての戦争というのは口実で、実のところ兵器オタクが戦争ごっこをやっているにすぎない。

 押井守は原作の選択を間違えた。

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