エディトリアル   December 2008

加藤弘一 Oct 2008までのエディトリアル
最新へ
12月 1日

 本年度から立教大学文学部の思想・文芸専修で後期の演習を担当させてもらうことになった。演習は経験がないのでどうなるものかと思ったが、幸い、意欲のある学生が集まってくれたおかげで、これこそ大学の授業という充実した時間がもてている。信じられないだろうが、単位にならないのに、聴講生として出席している学生までいるのである。

 授業では『石川淳短編小説選』をテキストに、毎回学生に発表してもらい、それをもとに議論している。発表を担当した学生には教室での議論をもとにレポートを書いてもらうようにしているが、それが驚くほどレベルが高いのである。一人か二人、レベルの高い人がいることはないわけではないが、三人つづけてレベルが高いというのは尋常ではない。わたしが読むだけではもったいないので、専修の許可をもらって拙サイトの「石川淳を読む」に既提出分を掲載することにした。

 ただ、公開にあたっては、演習の成果であることを明示するとともに、レポートが他大学の学生にコピーされないように配慮してほしいという条件がついた。どこの大学でもWWWからまるまるコピーしてくるレポートに頭を悩ませているが、はじめからレポートとして書かれた文章はよけい被害にあいやすいだろう。

 どこまで効果があるかはわからないが、サーチエンジンから飛んでこれないようにアクセス制限をかけるとともに、コピー・印刷不可の PDFにしてみた。気休めといえば気休めだが、文系の学生にはこの程度の制限でも効果があるかもしれない。

 演習のために久しぶりに石川淳の小説を読み直したが、これはこれで刺激的だった。石川淳はやはり凄いのである。グノーシス文献の暗黙の引用を見つけるなど発見がいくつかあったので、近々、石川淳の作品論を何本か書くつもりである。

12月 5日

 泥棒猫のように国民の油断につけこんだ国籍法改悪が参議院を通過してしまった。偽装認知の罰金がわずか20万円だったり、付帯決議がついたもののDNA鑑定は明記されず、父親との写真の確認に「出来るだけ」がつくなど、後世に対するアリバイ作りでしかない。

 こんな破滅的な法案を閣議決定した麻生首相には幻滅した。漢字が読めない等々のマスコミの印象操作はどうかだと思うが、国籍法改悪推進の側に回った責任は重大である。

 今回、新党日本の田中康夫代表が認知を隠れ蓑にした人身売買の危険性を指摘し、国会議員としての責務を果たした(新党日本)。田中氏の懸念はまったくその通りであって、人権を商売にする人たちは国籍法によってかえって人権が侵害される事例が出てきたらどう言い逃れするのか。

 改悪されたとはいえ、国籍法が変わった事実さえ知らない人の方が圧倒的に多い。マスコミは改悪案成立が確実になってからぼちぼち報道するようになったが、多くの国民が知るようになれば、DNA鑑定の義務化が現実になるかもしれない。

「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」

 ソ連のアフガン侵攻を破綻させるためにアメリカが部族勢力に秘かに武器を援助していたことはよく知られているが、その意外な内幕を描いた映画である。原作はジョージ・クライルの同題のノンフィクション

 トム・ハンクス、ジュリア・ロバーツ、フィリップ・シーモア・ホフマンと大所が出演しているが、映画そのものは大味だった。しかし、事実は小説より奇なりというか、元になった史実はおもしろい。あんな莫大な金額が動いていたことも驚きだったが、それ以上に無名の一下院議員がちょっと動きまわるだけで、ソ連崩壊の一因となった大作戦が始動したことに驚いた。国防歳出小委員会という目立たないが、場合によっては大変な権限を持つ委員会にたまたまチャーリー・ウィルソンが属していたために可能になったわけだが、これはもう天の配剤としか言いようがない。チャーリーはが国防歳出小委員会の委員でなかったなら、ソ連の崩壊は十年は遅れていたはずである。

 ソ連軍を撤退に追いこんだ後、チャーリーは教育援助の予算をとろうとするが、今度はあっさり否決されてしまう。ソ連の大虐殺でアフガニスタンの国民の半数は14歳以下だから、教育をほどこさないと大変なことになると力説するが、同僚議員は聞く耳もたずだった。武器援助の数千分の一でよかったのに、その援助をおこなわなかったばかりに、アメリカは今そのつけを払わされている。これも天の意志なのか。

 本筋とは離れるが、なぜ政治家になったのかと聞かれ、愛犬を殺されたからと答える場面で厚生省元次官宅連続襲撃事件を連想した。

 チャーリーの愛犬は隣の町長の家の花壇をたびたび荒らした。町長はガラスの破片の混じった餌をチャーリーの愛犬に食べさせ殺した。チャーリーは町長に復讐するために選挙の日、黒人地区から投票所までトラクターで何度も往復して96人を運び、おろす時に「町長はぼくの犬を殺した」と言いそえた。町長は16票差で落選した。その結果を見て、チャーリーはアメリカはいい国だと思ったと語る。

 愛犬を失ったという点ではチャーリーも厚生省元次官宅連続襲撃事件の小泉容疑者も同じだが、チャーリーは国会議員になり、小泉容疑者は殺人犯になった。小泉容疑者の自供をそのまま受けとるのはもちろん危険だが、官僚独裁国家日本の閉塞感は決して事件と無関係ではないだろう。

公式サイト Amazon
12月 7日

 専修大でラカン協会の第八回シンポジュウムを聴講してきた。昨年は一般参加者から会費を徴収したので閑古鳥が鳴いていたが、今年は無料にもどした上に柄谷行人が登壇するのでほぼ満員の盛況だった。参加者も柄谷ファンとおぼしい若い人が多い。第一回から毎年聴講してきたが、用意したレジュメが足りなくなり、追加コピーをくりかえすなんていうことはじめてだ。

 柄谷氏は酒焼けからか赤ら顔になっていて見るからに老けたが、頭脳の冴えは健在である。

 シンポジュウムのテーマは柄谷氏の有名な論文と同じ「日本精神分析」だった。柄谷氏の「日本精神分析」は1991年に『批評空間』に連載された後、2002年に他の論文とあわせて単行本になり、現在は講談社学術文庫で読むことができる。わたしは雑誌掲載時に読んだが、単行本版は大幅に改稿されているらしいのである(改稿した理由を柄谷氏は嫌気がさしたからと語っていたが、長谷川美千子氏の『からごころ』の影響を云々されるのがいやだった可能性もある)。

 「日本精神分析」を発表した頃、柄谷氏はマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を盛んにとりあげ、ついには新訳の刊行に一枚噛むまでにいたったが、そこまで肩入れしたのは1990年代の日本にはにナポレオン三世のような男が出てくると予想したからだそうだ。

 柄谷氏がナポレオン三世の再来と目したのは細川護熙元首相である。これには当時柄谷氏が主張していた60年周期説もからんでいる。

 細川内閣は1993年に発足したが、その56年前、祖父の近衛文麿による第一次近衛内閣が発足している。近衛文麿は当時、国民のあらゆる階層から待望され、近衛内閣によって翼賛体制が成立したといってもいいくらいだった。柄谷氏は翼賛体制のでき方はナポレオン三世の登場の仕方と酷似していると指摘している。

 だが、細川元首相は独裁者になるどこか、あっさり政権を放りだし引退してしまった。細川=ナポレオン三世という見立てははずれたが、柄谷氏は小泉純一郎というナポレオン三世的な人物が出てきたので、まったくはずれたわけではないと頑張っていた。

 60年周期もははずれたが、120年周期なら成りたつと意気軒昂である。清朝とオスマン・トルコが割拠していた1880年代と似たような状況がうまれるというのだ。

 意外だったのは河合隼雄氏の日本論を高く評価していたことだ。河合氏の直観は認めるが、集合的無意識を前提にした説明は受けいれられないという立場だ。では何が日本的な特性を生みだすのか? それは 漢字仮名交じり文という日本の表記法だというのが「日本精神分析」の主張である(長谷川美千子氏も『からごころ』で近似した指摘をおこなっていた)。

 日本語は漢字に訓読みをあたえることでみごとに飼いならし、日本語の不可欠な一部にしてしまい、漢字が異国の文字だということすら意識しなくなっているが、中国の周辺民族でこんなことをやったのは日本だけだ。韓国やベトナムも漢字文化圏だったが、漢字は最後まで異国の文字であり、現在では母国語表記からはじき出している。

 韓国は大韓帝国時代と日本統治時代はハングル漢字交じり文を用いていたが、韓国の漢字表記には訓読みがなかったので定着しなかった。

 原理的な対立を曖昧化し、なんでも呑みこんでしまう日本の特性が 漢字仮名交じり文から生じているという洞察は魅力的である。欧米や中国と比較するより韓国と比較すべきだという指摘はその通りだと思うが、だから自分は韓流ドラマを見ていると言ったのはギャグだろう(実際にはまっているらしいが)。

 石澤誠一氏が2002年版には天皇制の根は浅いとあるが、1991年版では根が深いとある。どちらが真意かと突っこむと、根が深いと書くともう変えられないという諦めを生むので、2001年にはあえて根が浅いと書いたということである。

 石澤氏の提題は古沢平作と阿闍世コンプレックス再考で、これがすごい。第一回のシンポジュウムで石澤氏は古沢平作に注目していると語ったが、いよいよ今回、本格的に取りあげたのである。

 短い発表ながら内容は多岐にわたり、とてもここに書き尽くすことはできないが、一つだけ書くなら、日本人は普通考えられている以上に仏教の影響が強いということである。

12月12日

「幻の光」

 宮本輝の同題の小説の映画化で、是枝裕和監督の出世作である。まえから見たかったが、期待にたがわぬ名作である。

 大阪の下町で生まれたゆみ子(江角マキコ)は郁夫(浅野忠信)と結婚する。郁夫は飄々としていて、自転車を盗まれると別の自転車を盗んできて色を塗り直して使うような男だったが、ゆみ子とは馬があった。赤ん坊が生まれるが、その直後、郁夫は自転車の鍵だけを残して自殺してしまう。原因がわからない上に乳飲み子をかかえ、ゆみ子は茫然自失する。

 五年後、ゆみ子は大家の縫製工場の御内儀さんの世話で民雄(内藤剛志)と再婚することになる。民雄は漁師だったが、やはり死別していて娘が一人いた。ゆみ子は幼い息子を連れ、奥能登の小さな漁村に嫁いでいく。

 慣れない環境でぎこちない新生活がはじまるが、民雄が海で遭難しかけたのをきっかけに、ゆみ子はようやく心を開き、郁夫の自殺にこだわりつづけてきた内心を吐露する。

 モノクロではないが、主要人物はコム・デ・ギャルソンのような黒一色の禁欲的な衣装を着ているので、モノクロ映画のような印象が残る。大阪のアパートは生活臭のあるものはベビーベッドくらいで、だだっ広く、僧堂のようである。能登の家も同じだ。

 大阪のおばちゃんや能登の漁師があんなシックな格好をしているはずはないが、リアリズムではなく精神のドラマを抽出するのだという監督の宣言であって、この試みは成功している。

 江角マキコは技術は伴わないものの、主役の存在感は確かにあって、彼女にとっても代表作となった。

Amazon

「歩いても歩いても」

 子供のいる女性と結婚した主人公が兄の命日に里帰りする話である。引退した町医者の父親に原田芳雄、母親に樹木希林、実家を二世帯住宅に改築してもどってこようとしている姉にYOU、絵の修復をやっているが、失業中の主人公に阿部寛、その妻に夏川結衣。

 亡兄は医者で医院の後継者とも腐れていたが、自殺しようとした高校生を救おうとして溺死する。主人公は父親の期待に反して絵の道に進み、うだつがあがらないので実家では肩身が狭い。しかも両親の反対を押しきって、バツイチで子供までいる女性と結婚したのだから余計に気まずい。

 細部までよく作りこまれているが、予定調和すぎてすぐに忘れてしまいそうだ。YOUと夏川はあて書きしたのではないかと思うくらいぴったりの役だが、逆の方が意外性があって面白かったのではないだろうか。

公式サイト Amazon
12月15日

「飢餓海峡」

 水上勉のベストセラーを内田吐夢が映画化。戦後映画を代表する作品とされているが、評判にたがわぬ傑作だった。

 北海道岩幌町の早朝の駅。待合室で犬飼(三國連太郎)が待っているところに血相を変えた二人の仲間がやってきて列車に乗りこむ。二人は質屋の老夫婦を殺して放火して逃げてきたもの。声を潜めた会話から事情を察した犬飼はまずいなという顔をしている。本州に高飛びする計画だったが、函館は青函連絡船の転覆事故で大騒ぎ。三人は一刻も早く北海道を離れるために海岸に向かうが、そこは救助に向かう漁船や引きあげた遺体で混乱し、戦場のようだった。

 ドキュメンタリー調の冒頭部分につづいて、トロッコ鉄道での犬飼と杉戸八重(左幸子)の出会いが描かれる。函館では函館署の弓坂刑事(伴淳三郎)が身元不明の二体の遺体を刑事の勘で火葬ではなく土葬にするように指示を出し、それが長い捜査の発端となる。

 『レ・ミゼラブル』を大枠にしていて、犬飼がジャン・バルジャン、弓坂がジャベールという見立てだが、作品の中心部分は温泉町で娼婦をやっていた杉戸八重が犬飼からもらった金で上京し、彼一人を思いつづけながら焼け跡闇市時代の東京の陋巷を生きぬく部分である。一番の見どころもここで、彼女が殺された後は緊張感がやや緩む。

 左幸子の熱演が圧倒的だが、捜査にいれこみすぎたあまり詰腹を切らされた弓坂刑事を演じた伴淳三郎もいい味を出している。ジャベールは憎々しい悪役だったが、伴淳の弓坂は東北人の哀しさがじわじわとしみだしてくる。

 今週は野上照代氏のセレクションということで、三國連太郎氏をゲストに迎えたトークショーがおこなわれた。三國氏は六社協定を破って干されていたはずだったが、どうしても三國でないと駄目だという監督が多かったので仕事に不自由はしなかったそうだ。内田吐夢監督もその一人で、会社の反対を押し切って主役に抜擢したという。

 伴淳三郎ははじめてのシリアスな役だったので、イジメとはいかないまでも周囲から軽く見られていたらしい。本人も慣れない役に緊張していたそうだが、とてもそうは見えない。

Amazon
12月17日

 東洋大でICPFの周波数オークションのシンポジュウム。満員の盛況で、まず『さらば財務省!』の官僚批判で注目された高橋洋一氏が「周波数埋蔵金」というお題で登壇。周波数こそ埋蔵金の最たるものだと思うが、電波行政を専門にしている人ではないので、霞ヶ関埋蔵金の全般的な説明だった。内容はともかく、本人の口から埋蔵金の話を聞くことができたのはよかった。

 次いで池田信夫氏。これまでの電波行政批判の集大成というべき内容だったが、オークションをどう行うべきかまで踏みこんでいた。オークションはただやればいいというものではなく、きちんと制度設計してから行うべきだということをアメリカやヨーロッパの例をあげて解説していた。価格の高騰がおこらないように使用条件に縛りをかけるとか、電波枠が三つ程度だとNTTが他社の参入を阻むために法外な値段に吊り上げて独占する恐れがあるので最初から枠を多くすべきだとか、なるほどという提言である。

 このあとの質疑が面白かった。質問者はソフトバンク・モバイル副社長の松本徹三氏、民主党の参院議員、『電波資源のエコノミクス』の鬼木甫氏という顔ぶれだった。政治家の質問はさっぱり要領をえなかったが、ソフトバンクの松本氏は既存事業者はこれまで既得権益を受けてきたのだから、過去に遡ってオークションをしないと不公平になると本音の発言をしていた。鬼木氏は温厚そうなご老人だったが、池田氏より過激だった。

12月19日

 江戸東京博物館の「珠玉の輿展」を見た。「珠玉の輿」と書いて「タマノコシ」と読ませるが、輿・駕籠だけでなく江戸時代の乗り物一般を集めた展示だ。

 昨年所在がわかった天璋院篤姫の輿がスミソニアン博物館から里帰りするのが呼び物で、会場は「篤姫」ファンとおぼしいオバサンでこみあっていたが、入口にいきなり篤姫の輿があるではないか。

 しかし、よくよく見ると、大河ドラマ「篤姫」のために作ったレプリカだった。そう思って見直すと、塗装がプラスチックっぽい。

 展示はまず徳川家康の出世で乗物がどう変わっていったかを任官状とともに示す。乗物は服同様、官位を示す記号であって、勝手に使うことは許されていなかったのだ。

 次は大名行列関係で、格式にしたがったマニュアルがあり、細部まで決まっていたことがわかる。

 三番目は女乗物で、いよいよ天璋院と本壽院の本物の輿の登場である。どちらも保存がよく、まさに「動く宮殿」である。天璋院の輿は三葉葵、本壽院の方は生家の御幣のような家紋だが、それ以前に作りこみが違う。本壽院の輿も単独で見れば迫力だったろうが、天璋院のと並ぶと影が薄い。TVでは本壽院が天璋院にため口をきいていていたが、側室は所詮使用人だから、そんなことはありえない。性質と側室の核の違いは乗物でも歴然としている。

 町人の女が乗った駕籠を写した幕末の彩色写真が展示されていたが、棒にハンモックを下げたような駕籠で、横になった姿勢で運ばれる。時代劇に出てくるような箱形の駕籠は武家しか使えかったのだ。

 五番目のコーナーは和宮の乗物だが、皇族となるとさらに格が違う。駕籠が二本棒なのである。京では牛車を使い、関東への輿入れの際も牛車で中山道を江戸まで来たという。江戸っ子は牛車を見たことがなかったので珍らしがったとか。

 乗物という切口から江戸時代がわかる好企画だった。

12月22日

「氷の女王」

 アンデルセンの『雪の女王』をレフ・アタマーノフ監督がアニメ化。アニメーター時代の宮崎駿が大きな影響を受けた縁で、今回、ジブリ配給でバイバル公開されたもの。フィルムの状態は悪くないが、色は赤味をおびている。

 大昔、見た記憶があるが、今見ても見ごたえがある。ディズニーのような可愛らしさ一辺倒のアニメと違って、人間の影の部分に目を向けている。直線を多用したシャープなタッチもいい。キャラクターが全体に無愛想で、愛敬を振りまかない。特に山賊の娘の野生的な姿は印象に残る。

 ディズニーの技術と完成度には及ばないが、ディズニー全盛時代にディズニーとはまったく別の世界を作りだしたのは立派である。

「チェブラーシカ」

 エドワード・ウスペンスキーの童話をロマン・カチャーノフ監督が1969年から83年にかけてパペット・アニメ化したもので、15分ほどの短編4本からなる。ロシアの国民的なキャラクターだそうで、ぬいぐるみなど関連商品もたくさん出ている。

 チェブラーシカは南国から送られてきたオレンジの箱にはいっていた謎の生きもので、発見した八百屋のおじさんが動物園に連れていくが、分類がわからないということで受けいれを断られてしまう。

 暫くは電話ボックスの中で暮らしていたが、ワニが出した友達募集の広告を見て、ワニの家に世話になるようになる。ワニは動物園のワニだが、この社会では動物園の動物は外に家を持っていて、閉園時間になると普段着に着替えて帰宅する。旧ソ連だけに、動物も公務員らしい。

 チェブラーシカの下がり眉の困ったような表情は親しみがもてる。ディズニーや日本のキャラクターとは違って、過剰に愛嬌をふりまかないのが好ましい。

 アニメもよかったが、原作もおもしろそうだ。

公式サイト Amazon
12月24日

「ノートルダムの傴僂男」

 ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』は何度か映画化され、ディズニー・アニメにもなっているが、これは1956年のジャン・ドラノワ監督版。初期のカラー作品だけに「総天然色」という感じのこってりした色調である。

 おなじみの話なので、ストーリーは説明するまでもないだろう。何回か見ているが、エスメラルダ役のジーナ・ロロブリジーダはいつ見てもほれぼれする。

Amazon

「ダンケルク」

 「イルカの日」の原作者として知られるロベール・メルルの自伝的小説『Weekend at Zuydcoote』をジャン=ポール・ベルモント主演で映画化した作品。

 大昔、カトリーヌ・スパーク目当てで見たことがある。変な戦争映画だなと思った記憶があるが、今回見て底無しの虚無感に気がついた。

 舞台は敗走した英仏軍が集まってきている1940年6月のダンケルク。「つぐない」でも描かれた英軍の撤退をフランス側の視点で描くが、悲惨で絶望的な「つぐない」と違って、こちらは妙に明るい。「つぐない」は故国にもどるという希望があるから絶望が生まれたが、フランス兵には帰る場所などなく、絶望さえできない。船を待つ英兵を尻目に、独機の機銃掃射をやりすごしながら、海岸でだらだら時間を空費するしかないのだ。

 原作者のメルルは英軍の船にもぐりこみ、ロンドンに逃れることができたが、ベルモント演じるマーヤ軍曹はやっと乗りこんだ船が爆撃にあい、脱出は果たせない。この映画は『気狂いピエロ』と地つづきのところで作られている。原作は読んでいないが、相当違う作品になっているのではないか。

 戦場になっているというのに、両親の残した家で戦争前の生活を頑なにつづけるジャンヌも底の抜けた虚無感を体現している。戦場にはありえないチャラチャラした格好で、最初に見た時はサービスカットかと思ったが、彼女は映画の核心にいたのだ。

 ジャンヌはマーヤーにプロポーズされ逃げる決心をするが、マーヤーは希望を持ったところで死をむかえる。スーツケースを両手に下げて待ちあわせ場所にあらわれたジャンヌの姿が目に残る。

Amazon
12月25日

「ラ・カージュ・オ・フォール」

 日生劇場で「ラ・カージュ・オ・フォール」のマチネを見た。市村正親、鹿賀丈史の共演だけに満員の盛況。リピーターが多いらしく、客席は最初からノリノリ。

 一幕はオカマ・ショーだが、市村演じるザザの出番はそんなに多くない。最初、ずっと背中を見せている真ん中のダンサーがザザかと思ったらそうではなかった。ザザの登場は舞台裏に場面が移ってからで、歌うのはもっと後である。

 二幕はドタバタ芝居。ジョルジュの息子のジャン(山崎育三郎)はアンヌ(島谷ひとみ)と婚約し、家に両親を招待するが、アンヌの父親がお堅い国会議員のために、オカマ・ショーを売物にするナイトクラブを経営していることは伏せておきたい。ザザの存在も隠したいところだが、それではジャンを母親のように可愛がってきたザザを傷つけることになる。そこでザザはアルバン叔父さんということにして、アンヌの両親を迎えるが……。

 予想通りの展開で、予想通りに笑わせてくれた。鹿賀は意図しているのかどうかは知らないが、息子に説教する場面ではジャン・バルジャンになってしまう。

 カーテンコールは異常に盛り上がっていた。リピーターの人たちはカーテンコールが目的で何度も来ている風だったが、ちょっとついていけない。

12月26日

「エヴァの匂い」

 ハドリー・チェイスの『悪女イヴ』をジョセフ・ロージー監督が映画化。主演はジャンヌ・モロー。

 1960年代のヴェネツィア。ティヴィアン・ジョーンズ(スタンリー・ベイカー)は飲んだくれては観光ガイドで食いつないでいるが、数年前までは流行作家として脚光を浴びていた。教育のない炭坑夫出身ながら、小説が映画化されて大ヒットし、ヴェネツィアに大邸宅をかまえ、映画プロデューサーの助手で献身的なフランチェスカ(ヴィルナ・リージ)と結婚し、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

 ところが雨の夜、エヴァが初老の男とともにボートが故障したためにティヴィアンの留守宅に勝手にはいりこみ、帰ってきた彼とであったことから彼の運命が狂いだす。アフリカでダムを作っているエンジニアの妻という触れこみのエヴァに夢中になり、いいように振りまわされる。

 人妻というのは嘘で、ローマとヴェネツィアの社交界で札付の高級娼婦であることがわかるが、ティヴィアンはエヴァが忘れられず、火に魅いられた蛾のように破滅へ一直線に突き進む。中だるみはあるが、ジャンヌ・モローの高慢でサディスティックな悪女ぶりはさすがだ。

Amazon

「めんどりの肉」

 ハドリー・チェイスの"Come Easy, Go Easy"をジュリアン・デュヴィヴィエ監督が映画化。「エヴァの匂い」は中だるみがしたが、こちらは最初から最後まで手に汗握りながら見た。フィルム・ノワールの傑作である。

 物語は失敗した金庫破りからはじまる。ダニエル(ロベール・オッセン)とポール(ジャン・ソレル)は金庫工場の工員で、自分が修理した金庫にダイヤがしまわれているのを知り、盗みにはいるが、家人が帰宅したためにダニエルが逮捕され懲役刑になる。ダニエルが口を割らなかったので、ポールはそのまま勤めをつづける

 一年後、ダニエルは脱走し、南仏に逃げる。ダニエルはトマ(ジョルジュ・ウィルソン)という老人の車を治してやったことから気にいられ、彼が経営する山の中のドライブインで働くことになる。

 トマは世話好きの好人物だったが、妻を亡くし、若いマリア(カトリーヌ・ルヴェル)と再婚していた。マリアはマルセイユ生まれで、山の中の暮らしにうんざりしていたが、トマが大金を貯めこんでいるのを知っているので、嫌々結婚生活をつづけていた。

 ダニエルが脱獄囚だと知ったマリアは、トマが留守の夜、ダニエルに金庫を開けろと脅迫する。ダニエルが仕方なく金庫を開けようとしていると、そこにトマが帰ってきて悲劇が起こる。

 ここからが本番で、意表を突く展開にはらはらしどおし。原作もおもしろそうだが、邦訳はあるのだろうか。

Amazon
Oct 2008までのエディトリアル
最上段へ
Copyright 2008 Kato Koiti
This page was created on Dec14 2008.
サロン ほら貝目次