江藤えとうじゅん

加藤弘一

生涯

 批評家、政治評論家。本名江頭淳夫。1932年12月25日、東京大久保に生まれる。父隆は銀行員だったが、海軍中将の祖父をはじめとして、一族には海軍の将官が多い。4歳の時、母親が結核で亡くなる。小学校に入学するが、教師と合わず、登校拒否におちいる。結核であることが判明し、鎌倉に転居。中学は湘南中学で、一年上に石原慎太郎がいた。日比谷高校に進むが、結核のために留年する。

 1953年、慶応大学に入学。同人誌に発表した「マンスフィールド覚書補遺」が山川方夫の目にとまり、「三田文学」夏目漱石論を連載。1956年、『夏目漱石』東京ライフ社から上梓する。それまで漱石の弟子たちが偶像化してきた漱石像をくつがえした画期的な批評で、その後の漱石研究の方向を決定した。

 1957年、卒業とともに同級生の三浦慶子と結婚。慶応大学大学院に進むが、指導教授の西脇順三郎と合わなかったといわれている。翌年刊行の評論集『奴隷の思想を排す』が評判になるが、文芸誌に執筆していることを教授会からとがめられ、退学を余儀なくされる。

 1959年、ニュークリティシズムとサルトルの想像力論を批判的に摂取した『作家は行動する』を刊行。日本で最初の本格的文体論の試みであり、『夏目漱石』とともに初期の最重要作品である。

 1961年、『小林秀雄』を刊行。マルクス主義者と論争をくりひろげた初期の仕事に光をあて、審美家的な小林秀雄像を転換したが、そこには60年安保に対する江藤自身のスタンスが投影されていたかもしれない。

 1962年、ロックフェラー財団の招きで渡米。翌年、プリンストン大で教鞭をとり、1964年に帰国。この体験から『アメリカと私』が生まれる。

 1966年、『成熟と喪失』を刊行。第三の新人を論じて、高度成長による日本社会の変質を解明し、治者としての父性像にゆきついた本作は、その後の江藤を予示するものとだった。

 1970年、『漱石とその時代』の最初の二巻を上梓、野間文芸賞と菊池寛賞を受賞する。この評伝は五巻まで書きつがれ、江藤のライフワークとなった。翌年、東京工業大学に招聘される。

 1975年、比較文学的視点から初期漱石を論じた『漱石とアーサー王伝説』を刊行。かつて退学を余儀なくされた慶応大学から文学博士号を受けるが、嫂の登世に思いを寄せていたとする新説をめぐって大岡昇平と論争になる。

 漱石研究を進める一方、治者の観点から戦後日本に対して批判を強めるようになる。『もう一つの戦後史』では降伏文書を子細に点検し、無条件降伏したのは日本陸海軍で、日本ではないと指摘。『自由と禁忌』では占領軍によって徹底した検閲が秘かにおこなわれ、マスコミが自主検閲を余儀なくされていった過程を明らかにし、戦後の言論は見えない檻に閉じこめられていると指摘して、いずれも大きな論争となる。

 1994年、文藝家協会理事長に選ばれ、再販問題および電子メディアについて積極的に発言し、国語審議会に文字コードに関する要望書を提出する。

 1998年、妻を亡くす。1999年7月7日、『妻と私』を上梓。7月8日、文藝家協会理事長を辞任。7月21日、自殺。66歳だった。遺書は以下の通り。

 心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳

作品

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This page was created on Aug31 2001.
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