横光利一よこみつりいち

加藤弘一

生涯

 小説家。1898年3月17日、福島県北会津郡東山温泉で生まれる。父梅次郎は鉄道敷設に従事する測量技師だったために、小学校を十数回かわったという。1904年、父が朝鮮にわたったのを機に、母姉とともに母の実家のあった三重県東柘植に移る。中学も近くの県立上野中学で、父親の仕事場が姫路に変わると、一人下宿して、上野中学に通いつづけた。伊賀が横光の故郷で、芭蕉の流れをくむという母の家系を誇りにした。

 1916年、早稲田大学高等予科文科に入学するが、雑誌投稿に夢中になって、除籍になる。復学するも、1921年退学。同級で詩人の佐藤一英の紹介で菊池寛に師事するようになり、川端康成と生涯の友となる。1922年、再び朝鮮にわたった父が客死する。

 1923年、菊池の推輓で、川端とともに、創刊間もない「文藝春秋」の同人にくわえられ、5月、「文藝春秋」に「蠅」を、「新小説」に「日輪」を発表する。「蠅」は田舎の風景を鮮かに切りとった短編、「日輪」は邪馬台国の卑弥呼を主人公にした官能的な古代幻想譚であり、9月に関東大震災があったことから、震後文学の旗手と目される。

 翌1924年、『御身』と『日輪』を刊行。川端康成とともに、今東光、中河与一、稲垣足穂ら新進作家を糾合して「文藝時代」を創刊する。プロレタリア文学全盛の中、この雑誌は新感覚派の拠点となる。

 1926年、妻キミが結核で亡くなる。看病の経験は「春は馬車に乗って」と「花園の思想」に結実するが、フランスのダダイスムやドイツ表現主義の影響を自家薬籠中にした作品で、私小説的な病妻ものとは一線を画する。

 プロレタリア派との論争がつづき、スターリンによって弾圧されたロシア・フォルマリズムの是非にまでおよぶが、唯物史観を認めている点で時代的限界はまぬがれない。1930年、町工場の人間模様を実験的な手法で描いた「機械」を発表する。

 1932年、新感覚派の集大成というべき『上海』と心理小説の傑作『寝園』を、1934年には最高傑作といわれる『紋章』を刊行。翌年、「純文学にして通俗小説、このこと以外に、文藝復興は絶對に有り得ない」と説く「純粋小説論」を発表する。論法はぎこちないが、要は『罪と罰』や『パルムの僧院』のような本格小説が必要という主張で、横光にはそう書く資格がある。

 1936年、半年間、ヨーロッパを旅行する。この経験をもとに、翌年から『旅愁』の連載をはじめる。1938年、『家族会議』と『春園』を刊行。世相が戦争に向かう中、国粋主義的傾向を強めてゆき、文芸銃後運動にくわわる。

 1945年6月、山形に疎開。農村で飢えのうちにすごし、健康を害する。敗戦後、帰京。翌年、『旅愁』全四篇を刊行する。

 1947年、疎開中の日記を『夜の靴』として刊行。初期の素朴な心情にもどったとして評価が高い。12月30日、胃潰瘍から急性腹膜炎を併発し、49歳で急逝。川端は「君は終始頭を上げて正面に立ち、鋭角を進んだ」と、友の早過ぎる死を悼んだ。

作品

舞台

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