昼間二回だけの変則的なロードショーなので、駄作を覚悟で見にいったが、導入部は快調。東宝は見る目がないなと思ったら、後半、ガタガタ。前半はきっちり作ってあるのに、どうしたことか。監督が途中でやる気をなくしたのか。台詞も変だ。クランクアップしてから、プロデューサーが書きかえさせたのだろうか。
貧乏画家の息子が生活のために贋作に手を染める。ばれにくいマイナーな画家専門で手がたく稼いでいたが、一山あてようとたくらむ画商にレンブラントの贋作を注文される。息子はいったんは断るが、父親をイタリアにつれていくために、引き受ける。
贋作を作るプロセスは引きこまれる。資料を探し、スペイン沖で行方不明になった作品の記録を見つけると、古い画材を集める。レンブラント当時使われていた鉛白を作るために、古い鉛人形を容器に入れて、数ヶ月かけて化学反応させる。自分の父親の面影を借りて、レンブラントの盲目の父親を描いていくくだりは見応えあり。
出来あがってからがいけない。支離滅裂。前半の出来が悲しくなるくらいひどい。ヒロインの機転で、あっけなく解決。とってつけたようなハッピーエンドがくる。
イレーヌ・ジャコブはポスターではブスに映っていたが、画面では以前どおりの美貌。
前半は「ムトゥ」の焼き直しで、退屈だったが、後半、マドラスに出てからがすごい。悪徳理事から父親の財産を守り、本当の慈善事業に使えるように、遺言にあった一ヶ月の浪費にとりかかるのだ。
普通の浪費ではたかがしれているので、ギャンブルをはじめたり、映画製作を手がけたりするが、悪徳理事が手を回して八百長を仕組み、逆に儲ってしまう。
最後に政治に手を染める。屋台のオヤジを候補者に、大々的に金をつぎこむが、当選してしまうと、議席が財産になってしまうので(どこも同じだ!)、わざと馬鹿な演説をさせて落選をはかる。
ギャグ満載で笑えるし、怒濤のような浪費にはポトラッチ的な快感がある。ダンスシーンはすくな目だが、たっぷり楽しんだ。
最後、悪徳理事をやっつけ、恋人との誤解も解けて、めでたしめでたしとなる。これだけ気持のいいハッピーエンドは久しぶり。
新人監督を抜擢したらしいが、インド映画は層が厚い。
「コキーユ」目当てで出かけたのだが、併映のこちらの方がおもしろかった。
老いらくの恋の川田順を描いた辻井喬の小説が原作。セゾン・グループが辻井作品を映画化できるのは、これが最後だろう。そのせいなのかどうなのか、力のこもった映像に仕上がっている。
川田が遺書を書き、剃刀を用意し、自殺の準備をする冷え冷えとした場面からはじまるが、一転して、初春の出会いの場面になる。戦時下、上流夫人の集りで川田が金塊和歌集を講義する。
妻と死別し、寺の一棟を借りて暮している川田は祥子が気に入り、仕事の助手を頼む。祥子の夫(夏八木)は苦学して、京大の経済学の教授になった男で、住友の理事を働き盛りで辞めて、和歌一筋に生きるようになった川田が理解できない。夫の猜疑心と暴力がいよいよ祥子の恋を燃えたたせる。
祥子は暴力に耐えかね、家を出る。川田は祥子と暮しはじめるが、子供を残してきた祥子の悲しみがわかるだけに、死への誘惑に負けて、自殺を思い立つ。
自殺は未遂で終るが、この騒動で老いらくの恋が新聞種になってしまい、二人は京都にいられなくなる。
祥子は川田に一目惚れという感じで、演ずる原田美枝子も本当にうれしそう。原田が一番美しく撮れている映画ではないか。
祥子の若い友人で、心中する娘を演じた若林しほが印象的。川田の三人の女性(母、恋人、先妻)に対する思いが、死への誘惑になるという部分が説明不足で、死のテーマがはっきりしなくなったが、前向きの話としてはまとまっている。
中学の同窓会で再会した男女が引かれあっていくという中年メルヘンだが、二人だけの場面はきれいに、きれいに撮ろうとしていて、リアリティがなくなった。
最初と最後の同窓会の場面は、猥雑でおぞましく、オヤジ臭さ、オバサン臭さが横溢し、圧倒的にリアリティがある。次郎(益岡がはまり役)のいやみったらしさが強烈で、出番が少ないのに、主役二人を食っている。
風吹ジュン演ずる直子は東京で結婚に失敗して、水商売をはじめ、一人娘を連れて故郷にもどってきたワケありの女性だが、中学時代、あこがれていた主人公の達也(小林薫)に再会し、少女のようによろこんでいる。転勤前の達也にねだって、山にハイキングに行き、結ばれるが、どうも嘘臭い。直子は次郎とも関係があったわけで、きれいごとすぎるのだ。隠微になりかねない中年の恋愛をさわやかに描こうという狙いは悪くないがさじ加減を間違えたのではないか。
リオデジャネイロの中央駅で代書屋をやる元教師のドーラが、母を失い孤児になった少年を一度は臓器密売のブローカーに売渡すが、良心がとがめて助けだし、父親の家に連れていくロードムービー。
すさんだ生活を送っていた老女が、子供に癒されるという先の読める話だったが、ブラジルの乾いた大地の上でくりひろげられる人情話は悪くない。
軍事政権時代のブラジルでアメリカ大使を誘拐し、政治犯を亡命させることに成功したMR8というテロリスト・グループの話で、グループの一員だったガベラの原作にもとづく。「クアトロ・ディアス」とは、誘拐事件の9月4日〜7日の四日間を意味する。
舞台は1969年7月のリオデジャネイロ。アポロ月着陸を祝うパーティの真っ最中のアメリカ大使館と、冷やかにTVの月面を見つめる学生たちを交互に映す。
TVを見ていた学生の一人が原作者のガベラで、数日後、MR8という小さな非合法グループにはいる。新入りが四名、高校生と女子大生をふくむ。古参メンバーはリーダーのマリア(トーレス)をはじめ三名。軍事訓練といっても、みんな学生あがりなので、兵隊ごっこだ。
最初の作戦は銀行強盗で、警備員を撃てなかったために、一人が逮捕されてしまうが、大金を強奪する。この資金でアジトを確保し、アメリカ大使誘拐を計画する。たたき上げの左翼活動家二名をまねき、指揮をゆだねる。ガベラは発案者だったが、柔なインテリということで、留守番にまわされる。
準備と実行はツボを押えた展開で、警備側、テロリスト側、双方に失敗があるが、ぎりぎりのところで成功する。現場の向いの主婦で、警察に不審者を通報する上流夫人役で「セントラル・ステーション」のモンテネグロが顔を出す。
三日間の期限を切るが、警察は翌日にはアジトを突きとめる(高校生のメンバーが店で大金を見せたので通報される)。いつ踏みこむかという期限までの息詰るばかりの時間はみごと。
期限ぎりぎりにブラジル政府は要求をのむ。翌日、テロリストは一台のステーションワゴンに乗りこみ、包囲されながらも、サッカー場の混雑にまぎれて姿を消す。サッカー場を使うのは実話なのだろうが、エキストラの数がすくないのは寂しい。
メンバーは分散して潜伏するが、マリアは新聞の不動産広告から新アジトを決めた際、切抜いた後の新聞を残していたために、すぐに足がつき、逮捕される。
八ヶ月後、別のテロリスト・グループが誘拐事件をおこし、政治犯の釈放をもとめて、メンバーは釈放されるが、飛行場に集った一同は拷問で見る影もなくやつれている。マリアにいたっては半身不随にされ、車椅子であらわれる。
子供だましのような犯行で、はらはらしたが、この時代は警備側も未経験だったので、あれでも成功したのだろう。
評判がいいので、期待しすぎてしまった。いい作品だが、傑作というほどではない。
下町人情あふれる町に旅行書専門の書店を開く主人公が、世界的大スターと恋に落ちるというラブストーリーで、主人公の友人がみんないい奴で、お節介で、心あたたまるのだが、若干だるい。
ジュリア・ロバーツは芸術コンプレックスがあるのか、マイナー系の映画によく出ているが(この映画の中でも、「古典をやった方がいいかな」という台詞の後に、ヘンリー・ジェイムズ作品の撮影場面がある)、今回は場面場面でちゃんと表情を使いわけていて、この種の作品の中では一番出来がいいと思う。
16世紀のヴェネツィアに実在した、詩人にして高級娼婦のベロニカ・フランコの物語。ベロニカは七百年の歴史を誇る旧家に生まれ、上流階級の教育を受けるが、父が家財を蕩尽したために、親友のベアトリーチェ(ケリー)の兄で、恋人のマルコ・ベニエと結婚することができない。ベニエ家は代々評議員を出す名門で、同格の家から持参金のついた花嫁をむかえることになっていた。
落胆するベロニカに、母のパオラ(ビセット)は高級娼婦になることを勧める。パオラ自身も高級娼婦だった過去があり、女人禁制の図書館にもはいれると、本好きのベロニカの好奇心を引きつけ、娼婦の特訓をはじめる。葡萄の食べ方とか、ほとんどビセットの自己パロディである。
とんでもない母親がいたものだが、当時のヴェネツィアは江戸時代の日本と同じで、妻は子供を産むための道具にすぎず、男に伍して才能を開化させ、恋をするには娼婦になるしかなかったわけで、決して無茶な選択ではなかったろう。
娼婦デビューしたベロニカは、初日にマルコの従弟で詩人のマフィオ(プラット)と詩の応酬をして名をあげ、いちやく売れっ子になる。マルコの伯父で評議員のドメニコ・ベニエ(フレッド・ウォード)が、足の傷を洗ってれたベロニカを保護し、詩集出版のパトロンになったことで、マフィオはいよいよ嫉妬をつのらせ、ベロニカと決闘沙汰になり、よけい恥をかく。
法王の姪と政略結婚したマルコは、どんどん美しくなっていくベロニカに気が気ではなく、ついに結ばれ、彼女と本土の別荘で暮らすようになるが、1570年、トルコのキプロス島侵寇の報を受けて、ヴェネツィアにもどる。
ヴェネツィアはフランス艦隊の出動をもとめて、アンリ三世をむかえる。アンリはなみいる高級娼婦の中からベロニカを選ぶ。彼女の接待のおかげで、フランスが参戦することになるが、マルコは傷つき、自ら戦地におもむく。オセロが活躍した戦いなのだが、この映画にはオセロは出てこない。
戦争で疲弊したヴェネツィアをペストが襲い、母のパオラも死ぬが、うちつづく不幸に、犠牲の山羊をもとめる民衆につけこんで、マフィオはベロニカを宗教裁判所に告発する。
結局はハッピーエンドで終るが、史実が気になる。
保険会社の北陸支社のダルな日常の中に、常軌を逸した夫婦がはいりこんでくる前半部分はなかなか怖かった。自宅に主人公の若槻(内田)を呼びつけ、「自殺」した子供の遺体を発見させる場面の西村のギラギラした眼は迫力。
しかし、その後がいけない。恋人の心理学の院生(田中美里)に心理分析を頼んで、小学校の時の作文をネタに、ユングがどうのと理屈をこねる部分で、かろうじてあったリアリティが吹き飛ぶ。助教授を偏執狂にしたのは悪くないが、理屈で説明しようとしたのは愚策。
原作は、前半では、夫は妻の連れ子を保険金目的で殺す冷酷無比な男、妻はやむなく我子の死を見逃した薄幸の女のように見せ、後半で妻の方が主犯ということがわかるという作りになっているのだろうと思うが、この映画では大竹演ずる妻は最初から怪しげな女として登場するので、夫の両腕を切断したり、過去にも子殺しをやっていたサイコキラーだったとわかっても、意外性がまったくない。大竹なら薄幸の女を完璧に演じられるはずなのに、なにを考えているのか。
後半は『羊たちの沈黙』ばりのサイコスリラーになるが、白けるだけ。
石橋の上司は手堅いが、田中美里の婚約者は最悪。問題夫婦を勧誘した保険のおばちゃんは、原形をとどめないくらい太った友里千賀子だった。
泣く子も黙るマフィアの大親分がノイローゼになり、分析医にかかるという設定。思いつきで終りそうな話を、手堅いコメディに仕上げているのは立派で、監督と主演の二人の力業はみごとというしかない。
縁のはじまりが秀逸。ソボル医師が息子と話していて、ヴィッティの子分であるジェリーの車に追突してしまう。後部トランクが開き、中で縛られている男がもがいているが、動転したソボルは平身低頭、後部トランクにまったく気がつかない。危ない橋をわたっているジェリーはいいからというが、ソボルは無理矢理名刺をわたす。
大親分のヴィッティは心臓発作で倒れるが、救急病院の医師から心因性のものと言われて、ジェリーに相談、ソボルの診察を受けることになる。
ヴィッティはマフィアの感覚で豪勢なプレゼントを贈るが、ソボルはびびるばかり。折あしく、ソボルはTVリポーターと再婚するために、フロリダへいくが、急に不安におそわれたヴィッティは一家を引きつれて、ソボルが結婚式をあげるホテルへ。新婦の父親からはマフィアの一味だと誤解され、FBIからは新しい相談役と疑われ、ソボルは四面楚歌状態。
結末では大親分の会議の直前に、ヴィッティが泣きだしてしまったために、ソボルが代理で出席する。予想どおり、窮地におちいったソボルをヴィッティが救って、デ・ニーロが貫禄を示すのだが、すべて読める展開なのに、はらはらさせられた。名優と名演出の力だ。
ジェリーのジョー・ヴィッテレリのとぼけた味わいが味を深くしている。
「ダルタニアン物語」の女性版といわれる「アンジェリク」シリーズは前から気になっていたが、1964年から68年にかけて五本の映画になっていて、今年、ようやく日本でビデオ発売されたのを期に、三月に第一作が劇場公開された。名画座に落ちてきたので見たのだが、なかなか面白かった。
田舎の貧乏領主のお転婆娘が、コンデ大公のルイ十四世暗殺事件を知ったばかりにたどる数奇な運命を描いた、波乱万丈の西洋チャンバラで、修道院に幽閉された彼女はペイラック伯爵に結婚を申しこまれ、領地に連れていかれるが、式直前に対面した夫は跛足で、頬に大きな傷あとがあり、ショックを受ける。黒人の召使にかしずかれ、邸の中には怪しげな炉があり、鉱山では鉛から金を作りだしている。魔法を使っているという噂は本当かと疑うが、中国人やアラブ人の技術者に活躍の場をあたえている奔放な伯爵に引かれていく。自分を侮辱した司教の甥と、跛足にもかかわらず決闘して倒した夫に、彼女は心を開く。
子供が生まれ、幸福に酔いしれるが、その幸福に華をそえるように、ルイ十四世が行幸するが、これを期に、アンジェリクの運命は暗転する。ペイラック伯爵の王家をもしのぐ富を快く思わない王は、司教の讒言を受けいれ、魔法を使ったとして逮捕し、全財産を没収する。
アンジェリクはパリに出て、宮廷の友人と高等法院の判事と結婚した姉に助けをもとめるが、コンデ大公の魔の手が迫り、彼女の生命が脅かされる。
悪徳弁護士(ロシュフォールだが、三十年前なのに同じ顔!)が弁護するが、火刑に処せられることになる。
アンジェリクはパリ暗黒街の首領になっていた幼なじみのニコラの力を借りて、囚人護送馬車を襲うが、それは囮で、夫は火あぶりにされてしまう。
おたずね者になった彼女はパリのごろつきの首領になって、王に復讐することを誓う。
アンジェリク役のミシェル・メルシェがすばらしい。ブリジッド・バルドー(原作の大ファンで、この役をとれなかったことを悔しがったという)と似た、六〇年代の顔だちで、向う気の強そうな目がかわいい。
ベストセラーの映画化ということで、当時としては破格の予算をつぎこんだそうだが、すべてに豪華。最近のコスチュームものはすぐに重厚になるが、野趣にとむというか、ゆったりしているところがいい。
ビデオ紹介原題の Polish Weddingとはできちゃった結婚のことだそうだ。デトロイト、ハムトラムックのポーランド人街の一家の話で、両親と長男夫婦がPolish Weddingで結婚している。「欲望という名の電車」や「マリアの恋人」もそうだが、ポーランド系=精力絶倫というイメージがあるらしく、一家の四人の息子たちは、なにかといっては、上半身裸になる。
15歳になる一人娘のハーラ(デーンズ)は高校を中退してぶらぶらしているが、フェロモン盛りの年頃で、地下室の窓から抜けだしては逢引を楽しんでいる(地下室の窓から家にはいる場面はフェロモン全開)。彼女は聖母マリアの祭の処女に選ばれるが、妊娠してしまう。警官の恋人とPolish Weddingになだれこめるかどうかが一つの山場になる。
もう一つの山場は母親のヤドヴィガの不倫の行方。相手は彼女が嫁のソフィー(アヴィタル)といっしょに掃除婦をしている会社のオーナーのユダヤ人で、夜勤のパン職人の夫が在宅する夜は、ポーランド婦人協会の集会に行くといって、軍の軍服で逢引に出かける。全編、ポーランドの音楽が使われているが、逢引の場面だけはユダヤ風の暗鬱な音楽が流れる。
ヤドヴィガのレナ・オリンは、娘に負けずにフェロモンにはちきれんばかりで、「自由な女神たち」という邦題はうまいと思う。ユダヤ人の恋人の種とおぼしい末っ子以外は「屑」と言いながらも、強烈な母性愛を発散させている。
夫は妻の不倫に気がついていて、ある朝、問いつめようとするが、彼女があっさり告白しそうになると、あわてて押しとどめ、「君の夫はもうぼくじゃない」と引き下がる。卑屈になるのでもなく、苛立つのでもなく、事態を受けとめて、一家の長でありつづけようとする夫の存在感が悲しい。
なんとも「濃い」映画であるが、母と娘の生命感は圧倒的で、時間がたてばたつほど、印象が深まっていく。傑作かもしれない。
妊娠しているのに聖母に葉飾りを捧げようとするハーラに、「本当は腹ぼてじゃないか」とヤジが飛び、彼女は自分の頭に葉飾りをのせ、その場を去ろうとすると、祭に集まったポーランド人たちは十字を切り、跪いて彼女を見送る。なぜ、こういうことになるのかわからないが、クレア・デーンズの存在感には、こういう反応を納得させるだけのものがある。
寝袋を背負ったイザベル(ブシェーズ)がリールの街にあらわれる。泊めてもらうつもりだった風来坊仲間が旅に出ていたので、商店に忍びこんで一夜を明かす。翌朝、カフェで隣あった男に縫製工場を紹介され、マリア(レニエ)という娘と知りあう。
マリアは交通事故で意識不明になった母娘の家に留守番で住みこんでいる。広いアパルトマンなので、イザベルも転がりこむ。イザベルが工場を馘になると、マリアも勤めをやめ、二人でその日暮しをはじめる。
ナイトクラブの玄関番をやっている二人組と知りあったり、街で男をからかったり、危なっかしい毎日だが、マリアはナイトクラブのオーナーの息子のクリス(コラン)と出会い、夢中になるが、クリスは放蕩者で、単にもてあそんだだけだった。イザベルは遊ばれているだけだと何度も忠告するが、マリアは聞かず、ついに衝突する。
二人の心の動きをみごとに描きわけていて、脚本と演出のうまさは特筆すべきだが、この映画を忘れがたいものにしているのは、マリア役のナターシャ・レニエの貧乏くさい顔だ。
何代にもわたって貧しさが染みこんだような顔をもった彼女だからこそ、見え見えのプレイボーイにころりと騙され、嫉妬に狂うというありがちな展開にリアリティが生まれている。
彼女と並ぶと、イザベルは短髪で汚い格好をしていても、裕福な家で可愛がられて育ったことが一目でわかるし、クリスの育ちも見えてしまう。
イザベルは本当の家の主の意識不明の娘の日記を読んだことから、見舞いにいくようになるが、ここでも、もう一人の娘の育ちが見えてしまう。フランスは階級社会だったのだと再認識。
高級写真誌「フェーム」のシックな編集室。いかにもインテリという男女が出入りしている。シド(ミッチェル)は編集アシスタントに昇格したばかりの女性で、受付嬢にバルトやフーコーを読みなさいとのたまわっている。家にはモデル顔の同棲相手のジェームズ(マン)が待っていて、レストランを話題にしたヤッピーな会話。
疲れそう、と観念したが、杞憂だった。
浴室の天井から水漏れがして、上の階に苦情を言いにいくと、コカイン・パーティーの真最中。女二人で暮らしているらしく、集まっている連中も怪しげ。しかし、壁には気迫のこもったプライベート・フォトがところ狭しとかかっている(撮影はジョジョ・ウィルデン?)。
写真が気になり、何度も足を運ぶようになる。昔、出したという写真集を借りて、編集部にもっていくと、10年前に業界から去った伝説の女流写真家、ルーシー(シーディー)とわかり、編集長のドミニク(ドゥオン)はアポイントをとれと厳命する。出版社が出てくると、たいてい嘘臭いのだが、この映画の編集部はリアルだ。
ルーシーはユダヤ系で、親の財産で暮らしているが、ドイツ人女優のグレタ(クラークソン)とレスビアンの関係で、グレタはファスビンダー監督とのキャリアを棒に振って、ニューヨークに来たという。
ルーシーをふたたび世に出して、実績を作ろうとするシドと、麻薬でラリっているグレタと、商業主義に傷つきながら、シドへの恋慕から仕事を引き受けたルーシーの三角関係を抑制したタッチで描いていて、ベッドのぬくもりを思わせるようなアンチームな映像とあいまって、やけに生々しいのである。
ルーシーは普段はだらけているが、時々、鋭い目を見せ、カメラを手にとると肉食獣にかわってしまう。ルーシー役のアリー・シーディーは元アイドルだそうだが、シガニー・ウィーバーを知的にした感じで、かっこいい。
ルーシーはシドを別荘に誘い、レスビアンの仲になって、彼女を撮影する。シドは 自分が被写体にされたことから、グレタを撮った昔の写真を編集長に見せるがボツになる。窮地に追いこまれたシドは、自分を撮った写真を見せる。
映画はルーシーの唐突な死で終る。低予算なので、安直に結末をつけたのかもしれないが、唐突さにまでリアリティを感じた。
売れない役者の人間模様を描く。有名な役者をそろえている割りにはB級の雰囲気。
ジョー(モディーン)はメイクアップアーティストのメアリーと同棲しているが、六年もいっしょなので倦怠期にはいっている。メアリーのキーナーは変に落ちついていて、麻木久仁子に似ているが、男性拒否症のところがあって、精神分析医にかかっている。
音楽関係の友人夫妻と会食して、「ピアノレッスン」の是非の話になり、レストラン中がその話にもちきりになるのは笑わせるが、ああいうことはあるのか。
ジョーとウェイターのバイト仲間だったボブ(コールフィールド)は、ブロンドマニアで、ナンパしたモデルのサハラ(ブリジット・ウィルソン)と一夜をすごすが、贋のブロンドなのでわかれてしまう。
ボブは昼メロに主演するようになり、人気者になる。共演している女優(ハンナ)と関係が出来るが、不能におちいったことからプロデューサーに彼女を降ろさせる。
ごたごたした映画。
若い未婚の母が、身勝手な男との生活に疲れ、魂の覚醒をもとめ、二人の幼い娘を連れてモロッコにわたる。1972年という設定は、ヒッピー文化の末期か。原作は成人した姉娘が書いているが、フロイトの曾孫だそうである。
ヒロインはロンドンでヨガに凝り、モロッコにわたってからはイスラム神秘主義にかぶれる。スーフィーの聖者に憧れるのは結構だが、かなり皮相的な興味と見受けられ、ろくにかまってくれない男に対する当てつけの雰囲気が濃厚である。姉娘の方を他人に預けて聖者を探す旅に出て、帰ってきて娘が行方不明になっているのを知り、あわてふためく。姉娘はシャーロット(アビゲイル・クルッテンデン)の経営する孤児院に世話になっている。出鱈目な母親に愛想をつかしている風である。
馬鹿母に振りまわされる娘たちが不憫だが、お金もないのに、火の玉のようなエネルギーで驀進するヒロインの姿は、距離をおきながらも共感をこめて描かれている。嫌な女がしだいにいとおしく見えてくるのは、ケイト・ウィンスレットの力か。
ヒロインが現地で恋に落ちるビラルという大道芸人が魅力的である。愛敬があるだけの男という印象だったが、最後は体を張って旅費を作り、一家を英国に帰してやる。マラケシュの雑居アパート、恋人の故郷の村、孔雀を遊ばせた豪邸に住む気どった外国人の生活と、植民地の雰囲気がおもしろい。
評判はいいが、ブルース・ウィリスのホラー映画というので、半信半疑で見た。予断はいい方に裏切られた。これは傑作である。
冒頭、児童精神科医の家に、彼がかつて担当した患者が侵入する。元患者は治してくれなかったじゃないかといって、主人公を撃ち、瀕死の彼の目の前で自殺する。
一年後、主人公は自分を撃った患者と似た訴えをする少年を担当する。少年はなにかにおびえていて、面接をくりかえした末に、幽霊が見えるのだという。これでようやくホラーっぽくなるのかと思ったが、古都フィラデルフィアを背景に、緻密な描写を重ねるトーンは一貫していて、およそアメリカ映画らしくない。
最後のどんでん返しはみごと。これなら、「ほかの人に喋らないでください」という最初のメッセージも納得できる。
「葉隠」ヲタクのヒットマンの話だというので、「枕草子」の二の舞かと危惧したが、いい作品だった。
マフィアのボスが手下に娘の恋人を殺せと命ずる。手下は伝書鳩でしか連絡をとれないヒットマン(ウィテカー)に殺人を依頼するが、手下の段取りが悪くて、殺人の現場に娘がいあわせる。ボスはショックを受けた娘の手前、ヒットマンを始末しろと命ずる。
かくて主人公は追われる破目になるが、マフィアは老齢化していて、ドジの連続。二人の老殺し屋がよたよた屋上に上っていき、伝書鳩を飼っている男を片端から殺していくのだが、斜陽のマフィアは物悲しい。
主人公は伝書鳩を殺した二人組を返り討ちにし、復讐のためにマフィアの全滅をはかるが、かつて命を助けてもらった手下には忠誠を尽くし、ラストでは彼にあえて殺される。
主人公は武士道に憧れ、ストイックな自己鍛錬の生活を送っていて、「レオン」を思わせる部分があるが、情の部分の希薄な、パサパサした感覚はジャームッシュ調。
伝書鳩とジャマイカ移民でフランス語しか喋れないアイスクリーム屋と、読書好きでこましゃくれた女の子だけを友としている。アイスクリーム屋とはまったく言葉が通じず、勝手なことを喋りあっているが、ちゃんと同じことをいっているのが笑える。以心伝心ということか。
傑作である。今年のベスト3にいれたい。
ジャックは北欧製の洒落た家具が自慢のヤッピーだが、不眠症に悩み、難病をかかえた患者の会に出かけては、偽りの告白をし、泣きながら抱擁しあうことで平安をえていた。
この出だしの病んだ雰囲気がたまらなく心地よい。エドワード・ノートンのナレーションはサリンジャーを思わせるところがあって、イノセントな暗さが麻薬的だ。
ところが、マーラという女が会に出没するようになってから、おかしくなる。あちこちの会で顔をあわせることから、彼女も健康体であることは間違いない。あろうことか、女性なのに、睾丸癌の患者の会にまで顔を出すようになる。彼女が気になり、不眠症がぶり返したジャックは、縄張を決めて、顔をあわせないようにするが、今度は彼女から電話がかかってくるようになり、不眠症がつづく。
弱り目にたたり目で、ジャックは自分のコンドミニアムを爆破され、飛行機で知りあったタイラーという男の家に世話になる。タイラーは廃屋に勝手に住んでいて、自分を殴れと言いだす。殴り、殴られる快感にしびれ、タイラーに引きずられるままに、ファイトクラブの設立を手助けする。
ここから神経症的なマッチョな世界が展開するのだが、ささくれ立った感触が妙に快い。公衆便所や浮浪者を被写体にした安部公房の写真を思わせる部分もある。
精神分析的な理屈をくっつけようと思えば、いくらでもつくのだが、皮膚感覚的なリアリティはまぎれもなく本物で、理屈でつくった映画ではない。
「シックス・センス」に通ずるような、どんでん返しが最後にあるが、このあたり、好景気に沸く今のアメリカの裏面を象徴しているのだろうか。