エディトリアル   September 2005

加藤弘一 Aug 2005までのエディトリアル
Oct 2005からのエディトリアル
Sep01

 先月11日、Googleは出版界の反発を考慮し、図書館の所蔵本をスキャンするGooglePrintプロジェクトを11月まで凍結すると声明したが(ITmedia)、今度は「Google、14カ国で書籍検索サービスを開始」だそうである。

 14ヶ国とは英国、オーストラリア、カナダ、インド、ニュージーランド、アイルランド、南アフリカ、パキスタン、米領サモア、トリニダード・トバゴ、ケニア、ジャマイカ、モーリシャス、ウガンダだが、各国の著作権法に応じて、インデックスの作り方を変えるという。言語は英語に限られている。

 Googleは英語文献しかやる気がないのだろうか、それとも技術的な問題で他言語対応が遅れているだけなのだろうか。

 いずれにせよ、Googleによって、英語文献に今以上に簡単にアクセスできるようになるわけで、他言語の存在感はますます薄れることになる。英語支配に危機感をつのらせているフランスは、国立図書館が主体となって、19世紀にさかのぼる22の定期刊行物と新聞をネット公開すると2月に発表している(ITmedia)。

 日本語文献の場合、OCRの精度が低いので、大規模な電子化はおこなわれていないが(国会図書館の「近代デジタルライブラリ」は画像による公開)、中国では四庫全書、韓国では高麗大蔵経を電子化するにあたり、企業が技術協力して、手書きの楷書や木版本を高精度に読みとる特別なOCRを開発しているという。日本企業がその気になれば、「近代デジタルライブラリ」で公開されている書影画像を一気に電子テキスト化するOCRが作れるはずなのだが。

 将来、GooglePrintが日本に進出してきたとしても、Googleは基本的に広告収入で運営されているから、需要のある現代の文献が中心になり、過去の文献の電子化にはなかなか手をつけないのではないかという気がする。

 現代の文献となると、文藝家協会が反対するのは必定である。紙の図書館でさえ、「敵」と公言している作家が多いのだから、Google反対運動は激しいものになるだろう。そんなことで、日本語電子文献の整備が遅れるのは好ましいことではない。

「奥様は魔女」

 昨年、TBSが米倉涼子主演でリメイクしたが、今度はニコール・キッドマン主演の映画によるリメイクである。「ハリー・ポッター」ブームの余波なのだろう。

 単純なリメイクではなくて、人間界で暮らしはじめたばかりの魔女のイザベル(キッドマン)が、鼻をぴくぴくできる特技を見こまれて、主役のサマンサに抜擢されるというメタドラマになっている。ずぶの素人が主役になるのは不自然なので、ダーリン役のジャック(ウィル・フェレル)が落ちぶれた映画スターで、自分が食われないように、サマンサ役を無名の女優をするように要求したと説明している。

 アメリカでは今でもオリジナルが再放送されているそうで、ニコール・キッドマンをサマンサを演じる魔女にせざるをえなかったのかもしれない。しかし、設定の説明にもたつき、リズムが生まれない。ニコール・キッドマンの魅力で面白くなりかけるが、そのたびにウィル・フェレルがぶちこわしてしまう。

 フェレルをキャスティングしたのは致命的なミスだった。あれでは本当に嫌みだ。

 イザベルの父親(マイケル・ケイン)しか出てこないので、変だと思ったら、エンドラ役のベテラン女優役がシャーリー・マクレーンで、イザベルの父親といい仲になる。計算が見え見え。

Sep03

 NHKの「土曜スタジオパーク」に、『義経』でナレーションを担当している白石加代子が登場した。明日、いよいよ最大の見せ場の檀ノ浦なので、前景気をあおろうということなのだろうが、ちらと紹介された朗読劇『源氏物語』の一部が、すごい迫力だった。『百物語』は岩波ホールでやった最初の四本を見たが、『源氏物語』はまだ見たことがない。『百物語』は一人語りという趣向から、一本調子になってきたので行かなくなったが、いつの間にか、パワーアップしていたらしい。これは見なくては。

 白石加代子は思い出の深い女優である。中学・高校の学校の行事として見せられた芝居を別にすると、はじめて見た芝居は早稲田小劇場の『劇的なものをめぐって3』だった。

 当時、早稲田小劇場の下の喫茶店をたまり場にするサークルに入っていたので、ご本人はよく見かけていた。稽古の途中、柔道着のまま抜けだしてきて、コーヒーを飲んでおられたのだが、柔道着という目立つ格好にもかかわらず、「今、来てるよ」と教えられなければ気がつかないほど、物静かな人だった。

 ところが、舞台の上では、この世のものとも思われぬ狂女に変わった。演劇初体験で、いきなり、世界最高レベルの舞台を見てしまったのだから、演劇ファンになるのは当然だった。

 それにしても、あの白石加代子が大河ドラマのナレーションとは。当時の早稲田小劇場の観客の中で、そんなことを予見した者は一人もいなかっただろう。

 白石とアングラ演劇界の人気を二分していた李礼仙は、今、フジテレビの『契約結婚』というメロドラマで、因業な姑役を演じている。

 白石は最初から化け物路線だったが、李礼仙は活劇大ロマンの美しきヒロインだったから、年をとると、こういう役しかまわってこないのだろうか。昔のファンとしては残念である。

 『契約結婚』は、主演が元グラビアアイドルの雛形あきこ、敵役が元AVアイドルの高樹マリアで、そここに元アングラ演劇のアイドルの李礼仙をからませるのだから、プロデゥーサーはアイドル・フリークか。

 しかし、目を引くのはキャスティングだけで、ドラマとしては見るに耐えない。何回か録画したが、すぐに消してしまった。

「チーム★アメリカ/ワールド・ポリス」

 金正日が独裁者の寂しい心の内を切々と歌いあげる場面で有名になった人形映画だが、期待ほど面白くはなかった。

 『サンダーバード』のパロディとして作られていて、国際救助隊ならぬワールド・ポリスがテロリストを捕まえに世界中に出動し、エッフェル塔を倒したり、ルーブル美術館を潰したりして、大活躍する。アラブ系テロリストの背後には、なぜか金正日将軍様がいて、ハリウッドスターまで手下にしている。

 人形もジェット機類も『サンダーバード』に似ているが、オリジナルには絶対に出てこない、反吐をはいたり、首がもげり、死体がぐしゃぐしゃに潰れる場面が出てくる。それはいいのだが、人形の操作が雑で、『サンダーバード』の最大の魅力だったメカの精緻な動きもない。

 金正日が歌う場面だけはよくできている。しかし、見どころはここだけである。予告編を越えられなかったという、ありがちなパターンで終わっている。

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Sep04

 TBSの「世界ふしぎ発見!」が『オペラ座の怪人』にからめて、パリのオペラ座をとりあげた。この番組は、映画の公開に合わせた企画が多いが、今回はDVDの発売とタイアップしている。どんな事情があったのかはわからないが、カメラはオペラ座の内部深く潜入し、興味津々の映像をとらえている。

 オペラ座が迷宮構造をしていることは山口昌男の本や、『オペラ座の怪人』の原作からもうかがえるが、映像で見せられると格別である。

 舞台裏の仕掛けは似たようなものだが、天井は9階建相当の高さにあるという。1856年の創建当時に使われた仕掛けが一部残っていて、今でも使われているそうだ。客席の現在の天井画はシャガールが描いているが、その上は巨大なリハーサル室になっていた。

 地下は4階まであるが、その下は『オペラ座の怪人』そのままに、巨大な池が広がっていた。オペラ座の基礎工事で地面を掘り下げたところ、地下水脈にぶつかってしまい、地下の池の上に建設することになったのだそうである。地下の池はパリの下水道網につながっているというから、怪人が舟を漕いであらわれても、おかしくはない。

 オペラ座は歴史が長いだけに、迷信めいたしきたりがいろいろあるらしい。オペラ座の衣装はすべて衣装部が手作りするが、緑色の衣装はタブーなのだそうである。昔、緑色を染めるのに有害な緑青を使っていたからだろうとか、緑色の衣装を着た役者が事故で死んだからではないかとか、諸説があるようだ。

 舞台裏ではロープがたくさん使われているが、「ロープ」という言葉は禁句で、「紐」と言わなければならないという。

 このタブーは船の習慣からきたらしい。オペラ座のスタッフには、ロープのあつかいに慣れた元船乗りが多かった。船では火災が起きた場合に備えて消火用の水槽を用意していたが、その水槽をひっくり返すためのロープを特に「ロープ」と呼び、他のロープは「紐」と呼ばれていた。昔の船では「ロープ」という言葉は不吉な言葉だったのである。

 怪人のために席を空けておくという習慣は、今でも健在だそうである。劇場というのは、そういうトポスなのだ。

Sep06

「皇帝ペンギン」

 ずっと夜のつづく冬の南極で卵を孵し、子育てをする皇帝ペンギンを記録したドキュメンタリー映画である。ペンギンたちは海岸地帯から内陸の営巣地にぞくぞくと集結し、相手を見つけ、交尾して卵を産む。卵は孵化するまで、雄が飲まず食わずで守るが、その間、雌は生まれてくる子供ペンギンに餌をあたえるために、海岸まで往復する。雌の帰還が遅れると、子供ペンギンは死ぬ。

 真冬の南極大陸内陸部は、天敵がいない代わりに、零下40度の極寒である。雄は卵を足の甲の上に載せ、下腹の羽毛をかぶせて寒さから守る。雄ペンギンたちは身を寄せあってブリザードをやりすごすが、一番外側は負担が大きいので、頻繁に位置をいれかわっている。その際、卵が地面に転がり落ちることがある。卵は10秒間、地面に置かれると、凍って破裂する。卵を失ったら、命懸けの越冬が無意味になる。

 映像は素晴らしかったが、わざとらしい夫婦のかけあいが気になり、楽しめなかった。日本語版だったので、よけい耳ざわりに感じたのかもしれない。

 若い夫婦という設定らしく、石田ひかりと大沢たかおが吹きかえているが、石田ひかりは甲高いアニメ声で、不快ですらあった(こんなにひどかったか)。

 オリジナル版がどうなのかわからないが、素材がすごいのだから、ああいう嘘くさい台詞はつけなかった方がよかったと思う。

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Sep08

「ドレッサー」

 パルコ劇場は昨年から「新スタンダードシリーズ」と銘打って、名作の再演を進めているが、今回の「ドレッサー」はその第二弾である。

 「ドレッサー」はどさ回りの一座の老座長と付き人を描いた芝居で、1987年に三津田健・平幹二朗のコンビで初演され、1988年には三國連太郎・加藤健コンビでパルコで上演されている。1988年版は見ているが、記憶に残る一本だった。

 今回は座長が平幹二朗、付き人のノーマンが西村雅彦というコンビで、座長夫人は松田美由紀、舞台監督は久世星佳が演じている。

 座長が舞台に出たくないと駄々をこねるのはいつものことだが、その日は事情が違った。座長はロンドンの繁華街で錯乱して昏倒し、病院に運びこまれていたのだ。座長夫人と舞台監督は公演中止に傾くが、ノーマンは頑なに公演決行を主張し、座長をその気にさせてしまう。

 三國・加藤の1983年版ではあまり表に出てこなかったが、今回の平・西村コンビでは、座長とノーマンのホモセクシャル的なというしかない愛憎関係が前面に出てきている。座長の方は女好きで、媚を売ってくる新人女優にちょっかいをだそうとするくらいだが、ノーマンの方は明らかに嫉妬むき出して、新人女優にいじわるをする。女好きのはずの座長も、ノーマンの思いに無意識にこたえている節があり、淫靡な共犯関係が成立している。ホモセクシュアルという要素がくわわった分、三國・加藤コンビより味が複雑になっているが、ノーマンの片恋のままにしておいた方がよかったのではないかという気がしないではない。その意味でも、三津田・平コンビの初演を見ておけばよかったと思う。

 座長夫人は演劇の名門に生まれながら、しがない旅回り役者とくっついたために、正式の妻にもなれず、どさ回りをつづけているという役で、松田によく合っている。この人はプライドを傷つけられた、ギスギスした女の役が、すっかりはまり役になってしまった。

 久世星佳の舞台監督もはまり役だ。座長にあこがれているが、距離を置いて自分を守る生き方をして、中年になってしまった独身女の悲哀がにじみ出ている。

 意外によかったのは新人女優役の勝野雅奈恵で、媚の売り方が可愛らしく、若い娘のフェロモンがむさくるしくなりがちな舞台に一服の涼を提供している。

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Sep09
復元された万年時計
復元品

 国立科学博物館で東芝の創立130周年記念イベント「驚き!130年モノづくり物語」を見てきた。

 東芝は幕末の発明家、からくり儀右衛門こと田中久重が1875年、東京に設立した田中製造所が発展した会社で、創立130年目にあたる今年、儀右衛門の最高傑作といわれる万年時計(万年自鳴鐘)を国立科学博物館と共同で復元した。今回のイベントはそのお披露目をかねたもので、9日から3日間、地下一階で特別展示をおこなっている。常設展の3階も東芝を中心とした展示になっていて、最初期の電気洗濯機や電気冷蔵庫、日本語ワープロ第一号のJW-1を見ることができる。


オリジナルの万年時計
オリジナル

 万年時計復元の過程は、以前、NHKスペシャルがとりあげていた。万年時計は久重が京都に店を構えていた1851年に3台だけ製作したもので、そのうちの1台は3階に展示されている。久重は製作にかかる前に、土御門家に弟子入りし、2年かけて西洋天文学を勉強している。万年時計は上面が太陽と月の位置を示す天球儀になっており、六角形の各面に西洋時計の時刻、和時計の時刻(季節によって一刻の長さが変わる)、月齢、二十四節気等が表示されるようになっているが、そこまで機能を盛りこむには西洋天文学の知識が必要だったのだ。


万年時計の復元部品
復元部品

 久重は歯車の歯を一つ一つやすりで削りだしていたが、現代の機器で測定すると、その精度は驚異的で、和時計の時刻もきわめて正確だった。復元は現代の技術でも困難を極め、一回巻けば一年動きつづけた真鍮製のゼンマイはついに復元できず、鋼製のゼンマイにしたという。


弓引き童子

 NHKスペシャルでは久重の科学者としての面を強調していたが、展示を見てみると、みごとに作りこまれた工芸品としての美しさが印象的だった。久重はあくまでからくり師であって、今日でいう科学者や発明家とは方向性が違っていたらしい。仏教の宇宙観をあらわした須弥山儀という模型まであった。


須弥山儀
須弥山儀
上から見た須弥山儀
須弥山儀

 別室では、Canonと東芝が共同開発している新方式の平面ディスプレイSEDと、東芝が旗振り役をつとめているHD DVDのデモがあった。ソースはHD DVDで、「黒の階調表現と透明感をお味わいください」とナレーションとともに、黒人のギャング団が銀行の貸し金庫を襲い、ダイヤを強奪する場面が映しだされる。確かに、黒の階調表現には違いないが……。

 斜め45度の席から見たが、絵はしっかりしていた。ベストの位置ではないので、確定的なことはいえないが、油絵のようにこってりと色が乗り、黒のニュアンスが出ていたように感じた。いかにも東芝流の絵作りだが、他のメーカーが作れば、もうちょっとあっさりした絵になるかもしれない。第一印象ではプラズマに似ていると思ったが、照明が明るくなっても色が負けないのは、この方式の長所だろう。値ごろ感が出てくるのは、再来年以降だろうが、今の時点で、これだけ映るなら、プラズマよりもいいかもしれない。

 HD DVDは、インターフェースが Macのアクアそっくりに見えた。アップルはブルーレイ陣営のはずだが、いいのか?


日本語ワープロ第一号
JW-10
JW-10
JW-10のキーボード
JW-10

 ジャストシステムは「一太郎 文藝」につづいて、お役所向けのワープロソフト、「一太郎ガバメント2006」を、来年2月に発売するそうである。

 お役所向けの製品としては、公文書用のATOK辞書を同梱した「一太郎2005 for Windows 行政編」がすでにあるが、「一太郎ガバメント2006」は、インプレスの記事によると、個人情報や特定固有名詞を自動的に黒塗りにする「個人情報マスキング機能」や、「すかし保存機能」、「改ざん禁止保存機能」、行政機関での利用を想定した専用のヘルプ機能「ガバメントヘルプ」がついているという。

 「一太郎 文藝」は売れるとは思えないが、こちらは需要があるのではないだろうか。

Sep11

 今年4月、「当代商報」の師濤記者が国家機密漏洩罪で懲役10年の刑をいいわたされたが、国境なき記者団は逮捕の決め手となったのは、香港のプロバイダ、Yahoo! Holdingsによる個人情報の提供だったことをあきらかにし、Yahoo!を「密告者」と批判した(大紀元ITmedia)。

 10年の懲役の国家機密漏洩というと、どんな大変な秘密を暴露したのかと思うかもしれないが、師記者は昨年、11月、各メディアに通達された天安門事件15周年報道の自粛をもとめる文書を海外にメールで転送したにすぎない。中国ではたったこれだけのことで10年間、監獄にいれられるのだ。

 10日、杭州で開かれたインターネット関連の会議で、Yahoo!の創業者の一人であるジェリー・ヤン氏は中国公安に師記者の個人情報を提供した事実を認め、中国の国内法に従わざるをえなかったと釈明した(HotWired日経)。

 マイクロソフトは中国公安によるblog検閲に加担していたが(Jun23)、今度はYahoo!である。プロバイダの利用記録が公安に筒抜けでは、何もできない。インターネットはビッグブラザーの監視装置も同然である。

 中国市場という巨大な餌をちらつかされると、資本の論理はかくも弱いものか。

「パッチギ」

 フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」や「イムジン河」の作詞をした松山猛氏の自伝的な小説『少年Mのイムジン河』をもとにした映画である。ただし、原作が日本語版「イムジン河」誕生秘話をからめた、1950年代末の日本人と在日朝鮮人の男子中学生どうしの友情物語なのに対し、映画は1970年前後の京都を舞台にした、日本人高校生と、朝鮮高校に通う在日朝鮮人の娘のラブストーリーになっている。

 寺の息子の康介(塩谷瞬)は不良生徒と朝鮮高校の生徒の喧嘩に巻きこまれるが、その最中、キョンジャという美しい娘(沢尻エリカ)を見かける。康介は妄想的平和主義者の教師の命令で、朝鮮高校に和解のためのサッカー試合の申しこみにいかされ、音楽室の前でフルートを手にしたキョンジャと再会する。その時、ブラスバンド部が練習していたのが「イムジン河」である。

 康介はキョンジャに引かれる一方、「イムジン河」のメロディーにも引かれる。近所のヒッピー志望の青年(オダギリジョー)から、「イムジン河」はフォーク・クルセダーズによって大手レコード会社から発売されることになっていたが、直前になって発売中止になったことを教えられ、彼が秘蔵していたアマチュア時代のフォーク・クルセダーズの自主製作レコードの「イムジン河」を聞かせてもらう(今は普通にCDで聞くことができるが、長らく幻の曲だった)。のほほんと育ってきた康介は異文化である在日朝鮮人の世界にはいっていく。

 女性に引かれて異文化と出会うというパターンはよくあるが、「イムジン河」という一時代を象徴する歌を重ねたことで、広がりと親しみやすさが生まれている。「69」と違って、この映画の中には確かにあの時代が生きている。

 いい映画だと思うが、クライマックスで、畑で働いている朝鮮人をトラックに乗せ、無理矢理日本に連れてきたという、おなじみの在日強制連行物語をくりかえしているのには鼻白んだ。もっとも、『在日・強制連行の神話』で、従来の物語が維持できなくなっているのは承知しているらしく、銃で脅されたではなく、「紙切れ一枚見せられて」に変わり、釜山から密入国してきたニューカマーの在日韓国人も登場させていた。「強制連行」の定義を変えて、徴用自体が「強制連行」だったと主張する学者が出てきているが、この種のすりかえには注意しよう。

DVD

「69」

 村上龍の同題の原作の映画化で、脚色は宮藤官九郎、監督は金相日。原作は村上の自伝色が強く、主人公(妻夫木聡)は村上自身、他の人物もモデルがいて、ロケ現場にはモデルの人たちが入れ替わり立ち替わり見学に来ていたそうである。

 メリハリの効いた演出で、カメラがよく動き、新人監督とは思えない職人芸にうなったが、見終わってみると、1969年の長崎の片田舎を再現したテーマパークを見物してきたような印象しか残らない。

 「パッチギ」の後に見たので、余計そう感じるのかもしれないが、登場人物たちはどう見ても現代の若者で、1969年の高校生には見えないのだ。冒頭にアメリカ軍基地に忍びこもうとする場面があるが、いくら何も考えたいない田舎の高校生でも、あそこまであっけらかんとしているはずはないのだ。

 よくできた映画ではあるが、テーマパーク的薄っぺらさは否めない。

DVD
Sep20

 「月刊言語」が「インド系文字の世界」を特集している。『華麗なるインド系文字』の著者の町田和彦氏を中心に、東京外語大AA研の先生方が執筆しているが、実におもしろい。『華麗なるインド系文字』は9割がインド系文字のカタログで、読むところは1割もなかった。多種多様な文字をながめているのは楽しいけれども、どうしてこんなにたくさんの表記体系ができてしまったのか、歴史的背景が知りたいとフラストレーションがつのったものだった。今回の特集はその渇きをかなりの程度満たしてくれた。

 まず、「文字の宝庫としてのアジア」では、全アジア的な視点で、インド系結合音節文字の原型となったブラフミー文字の起源が語られ、つづく「インド系文字の活力」と「デーヴァナーガリー文字の過去・現在・未来」では、文字の分化と発展が概観されている。なぜ、インド系結合音節文字の子音字はaという母音を含んでいるのか、ずっと不思議だったが、ブラフミー文字が誕生した頃の古典サンスクリット語やアショカ王碑文のプラークリット語は、全母音の48%がaなので、aを組みこんでおくのが、一番効率的だったということである。

 「文字を持たずんば言語にあらず」は、今も新しい表記体系が作られているという話で、『華麗なるインド系文字』を読んだことのある人なら、いい加減にしてくれよと言いたくなるだろう。しかし、文字をもたないインドの少数民族にとっては、独自の文字は文化的アイデンティティを維持するために必要なことらしい。

 現代の出来事なので、文字考案者が誰かはつきとめることができるが、文字を作った人たちは、決して自分が創作したとはいわず、神の啓示によって、忘れられていた古代の文字を「発見」したと主張しているのだそうである。埋蔵経の「発見」とよく似ているが、インドやその周辺の人たちの歴史感覚は独特である。

 「インドの文字と日本」は悉曇学の話で、わたし的には一番おもしろかった。50音図の成立事情など、もっと詳しく知りたくなった。

 「ハングルもインド系文字か?」には、ハングルがパスパ文字や梵字の影響で生まれたとする通説に対する異論が紹介されている。しかし、ハングル制定時につくられた『訓民正音解例本』がインド系文字に言及しておらず、パスパ文字と共通する字形もほとんどないことをもって、オリジナルの根拠とするのはどうだろう。

「漢人」をあらわす西夏文字
 =
漢人 小さい

 10世紀以降、中国の周辺ではさまざまな独自文字が作られたが、どの文字も民族的アイデンティティの主張という政治的意図が誕生の原動力となった。漢字の字形をそのまま残した文字もあったが、西夏文字などは漢字とは字形的共通点がまったくなかった。しかし、文字の構成原理を見れば、西夏文字が漢字の模倣であることは明白である。ハングルも、構成原理に注目すれば、インド系文字との関係を否定することはできない。

 「インド系文字がコンピュータ化されるまで」は印刷の話が主で、多くを教えられたが、文字コード関係の記述はすくない。不可解なのは三上喜貴氏の記念碑的名著『文字符号の歴史』が参考文献にすらあがっていないことだ。三上氏の本を無視して、インド系文字のコンピュータ化は語れないと思うのだが。

「マザー・テレサ」

 話が飛ぶ部分があったり、ドラマとして物足りないと思ったら、イタリアでTVムービーとして作られた180分の作品を110分に縮めたものだった。1/3以上カットされているのだから、話が繋がらなくて当然だ。

 ドラマはいよいよというところで寸止めにしてしまう印象があるが、マザー・テレサはインドの恥部にまっすぐ切りこんでいったのだから、事実に忠実に映画化したら、TVで流せないような作品になるだろう。良くも悪くも、バランス感覚のとれた作品である。

 インド当局の妨害と較べると、ローマ教会はおやおやと思うくらい、ものわかりがいいが、裏ではイエズス会が支援していたようである。

 マザー・テレサの活動には巨額の資金が必要で、財政を支えるために企業化されていたらしいが、重役会議の場面が唐突に出てくるだけでフラストレーションが残る。DVD化する時はぜひ完全版を出してほしい

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Sep22

 中国公安がマイクロソフトなど、ネット企業の協力でblogの検閲をおこなっていることは既報のとおりだが(Jun23)、大紀元によると、アクセス不能となっている語句は987にのぼる。そうした語句で検索したり、投稿したりしようとすると、ネット公安の監視対象になるという。

 検閲される語句の内訳は、法輪功関係が20%と一番多く、つづいて中国政府指導層と家族の名前と民主主義関係(多党制、自由、民主、専制……)、腐敗関係(走私(密貿易)、公款(公金)……)が15%づつでならぶ。胡錦濤だけでなく、胡錦滔、胡緊掏といった誤記まで検閲されているというのはあきれる。パラノイアではないか。もちろん「東トルキスタン」、「ウイグル」「チベット」も検閲対象だ。

 ネット公安は30万人規模で編成されているという情報も紹介されているが、若い人材を検閲のような非生産的な仕事に従事させるようでは中国の未来は知れている。

「NANA」

 矢沢あいのベストセラーマンガの映画化である。好奇心半分で見てみたが、意外にも青春映画の傑作だった。現在の日本で、青春映画がまだ可能だったというのは快い驚きで、「トニー滝谷」とともに、今年のベスト3にいれたい。

 話は単純だ。ナナという名前の20才の女の子が二人、上京する列車で隣の席に乗りあわせたのが縁で、東京で一緒に暮らしはじめ、それぞれの夢を追うというもの。ロック歌手を目指す大崎ナナはは中島美嘉が演じ、主題曲の「GLAMOROUS SKY」はもちろん本人が歌っている。

 もう一人のナナである小松奈々は、グラビアアイドルとして活動する一方で、『EUREKA』や『害虫』のような玄人受けのする映画に出ている宮﨑あおいである。

 二人のナナは野良猫型、忠犬ハチ公型と対照的だが、中島と宮﨑というキャスティングがみごとに決まっている。この二人以外の組み合わせは考えられない。

 大崎ナナは自分を捨てて一足早く上京し、トラネスというバンドで成功した蓮(松田龍平)にライバル意識をもっているが、周囲の段取で再会すると、あっさり焼けぼっくいに火がついてしまう。ここで撥ねつけたら、昔ながらのスポ根マンガになるところだが、無理をしないところが、今の青春である。

 主演の二人も、脇を固める若い役者たちも、小松奈々の母親役でちょっと顔を出すだけの宮崎美子も、すべてすばらしいが、なかでも、中島美嘉の歌はすごい。携帯に向かって、即興の歌詞をつけて歌いだす場面では、鳥肌が立った。

 映画はヒットし、続編の製作が早くも決まっているという。これは楽しみだ。

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Sep26

 Authors GuildがAmazonの書籍全文検索サービスに抗議したことはNov01 2003でとりあげたが、今度はGoogleがすすめている図書館蔵書の全文検索サービス、Google Printを著作権侵害で提訴した(ITmediaHotWired)。Authors Guildは8千人の会員を擁するアメリカ最大の著述家団体で、日本でいえば文藝家協会にあたるだろう。

 アメリカの著作権法では営利目的で作品のデジタルコピーを作成するには、著作権者の許諾をえなければならないが、Google Printは無許可でコピーを作成しようとしており、著作権者に回復不能な損害をあたえようとしているというのが、訴えの理由だ。

 Google側は、著作権者や出版社がデジタルコピー不可を宣言するなら、Google Printの対象から等外作品を除外すると声明している。

 これはGoogleの「キャッシュ」機能の場合と同じ論法だ。Googleの検索の「キャッシュ」という項目をクリックすると、オリジナルのページではなく、Googleのサーバー内にデジタルコピーされたページが表示される。すでに削除されたページを閲覧することができるので、便利といえば便利だが、この機能を「キャッシュ」と呼ぶのはおかしいし、著作権侵害の疑いが濃厚だ。Google側はメタタグで、キャッシュ表示不可の設定ができるので、問題ないとしている。キャッシュ不許可をメタタグで意思表示しない場合は、デフォルトで許可とみなすというわけだ。

 最初から無償で不特定多数に公開しているWebページなら、デフォルトで許可というGoogle側の主張にも一理あるが、商品として販売されている書籍にまで拡大するのは無茶である。

 しかも、デフォルトが許可という状況は、拒否しようと考える著者に無形の圧力して働く。「Google八分」という言葉があるが、デジタルコピー許可がデフォルトになってしまうと、拒否した著者は自らを「Google八分」にする結果をまねくからだ。

 Googleで検索して出てこなければ、そのコンテンツはネット上に存在しないのも同じである。おそらく、99%のコンテンツには代わりがある。Googleでは出てこないコンテンツがすぐれていたとしても、Googleで見つかる似たようなコンテンツが読まれて終わりだ。ネットの読者はそういうものだ。

Sep29

「ママと娼婦」

 「遅れてきたヌーヴェル・ヴァーグ」とか「最後のヌーヴェル・ヴァーグ」と呼ばれているジャン・ユスターシュの代表作で、カンヌのグランプリと国際批評家連盟賞を受賞している。ユスターシュは1981年に自殺したこともあって、日本での紹介が遅れていたが、数年前から注目されるようになり、連続上映がおこなわれたり、よくまとまった入門書が出版されたりしている。

 はじめてユスターシュを見たが、おもしろかった。1973年制作なのに、16mmのモノクロで撮っているのは、初期ヌーヴェル・ヴァーグを意識してのことだろう。ヌーヴェル・ヴァーグ作品には「勝手にしやがれ」や「獅子座」、アントワーヌ・ドワネルもののように、どうしようもない駄目男を描いたものが多いが、この映画もママのような愛人、マリーと、娼婦のような愛人、ヴェロニカの間でうろうろする、極めつけの駄目男、アレクサンドルが主人公である。彼はブティックを経営するマリーに養ってもらい、遊惰に日々を送るだけである。ミニバンを乗り回しているが、それも階下の女に借りたものだ。アレクサンドルを演じるのは、ヌーヴェル・ヴァーグの申し子というべきジャン=ピエール・レオで、これぞ「最後のヌーヴェル・ヴァーグ」である。

 ヌーヴェル・ヴァーグの駄目男は口だけは達者だが、アレクサンドルもよく喋る。たとえば、68年危機の朝、いつもいくカフェで、客がみな涙を流していた。その光景は美しかったと語る。そして、すぐに、涙を流していたのは催涙ガスのためだったとつけくわえる。こういうお喋りにつきあっていられるかどうかが、この映画の3時間40分を退屈と感じるか、面白いと感じるかの別れ道になる。

 しかし、なにもかもがヌーヴェル・ヴァーグ的というわけではない。先達たちと一番違うのは、だらしないことである。ゴダールモも、トリュフォーも、ロメールも、画面は古典的というべき緊張感がみなぎっていた。ユスターシュの場合は撮り方も、映しだされる場面もしどけなく、だるい。スカーフをネクタイのように垂らしたファッションは、当時の流行だったのかもしれないが、アレクサンドルの日常そのもののように見える。マリーのアパルトマンの寝室が主な舞台の一つだが、Wサイズのマットレスを床にじか置きし、枕元にはLPレコードが立てかけて、寝具が根乱れたまま放置してある。ベルナデット・ラフォンが乳房をさらす前から、この部屋は隠微な空気に満ちていて、物語が進むにつれ、三角関係の三人が同じベッドにはいるのがしごく自然に思えてくる。

 だが、二人の愛人と川の字になって眠るという状態は、至福でもなんでもないことが明らかになる。ママと娼婦という役割分担をしていた二人は、近づきすぎたことで、役割を捨てて女そのものになり、自己主張をはじめる。アレクサンドルの遊惰な夢は打ち砕かれ、行き場を失った彼は、ヴェロニカの部屋にいき、結婚してくれと絶叫する。なんと駄目な男だろう。そして、なんと胸苦しい映画だろう。

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Sep30

「バタフライ・エフェクト」

 児童虐待をからめたパラレル・ワールドもの。よく出来ている。主人公は早くに父親を脳の病気で亡くし、トラウマの塊のような育ち方をするが、トラウマを受けた日の日記を読み直すと、その時点に意識が転移することに気づく。

 主人公は本当に過去を体験したのかどうかを確かめるために、幼なじみを訪ねるが、みんな悲惨な暮らしをしていて、初恋のケイティは再会した翌日、自殺してしまう。彼はケイティを救うために、過去に意識を飛ばし、別の未来を選択するが、その未来では、別の人間が犠牲者になっていた。彼は犠牲者を作らないように、別の選択肢を試すが、どうしても誰かが犠牲になってしまう。とうとう自分自身に犠牲者の番が回ってくるが、なんとかして、皆が幸せになるように、最後の意識転移をおこなう。

 どうしても犠牲者が出る原因はケイティの父親に原因があった。ケイティの父親は実の娘に性的ないたずらをしかけるサイコパスで、息子の方は徹底的に虐待し、サイコパスにしていた。後半はこの父親をどうやって排除するかというパズル映画で、迷路のようなパラレルワールドを延々と転移していくくだりは「CUBE」に近い閉塞感がある。最後にはほろ苦いハッピーエンドが待っている。

 サイコパスの親からは子供を離さなければならないという隠しテーマに気づいたら、人権屋が騒ぐかもしれないが、虐待の連鎖は現実にある以上、それ以外の解決法は難しいだろう。

 DVDには別エンディングのディレクターズ・カット版がはいっているらしい。こういう話はいろいろな終わり方が可能なので、ちょっと気になる。

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