安部公房を最初に認めた文学者は埴谷雄高だった。1947年、安部は書き上げたばかりの処女長編『終わりし道の標べに』(最初は『粘土塀』)の閲読を成城高校時代の恩師、阿部六郎に請うた。阿部はこの作品が非凡であることを見ぬき、「近代文学」を創刊してまもない埴谷に送った。埴谷は旧知の阿部に「新しい質をもった作家」がいたら紹介してくれと声をかけていたのである。埴谷は「安部公房のこと」(「近代文学」Aug 1951、『鞭と独楽』所収)にこう書いている。
『粘土塀』は好い作品であった。存在感覚とでもいうべきものが正面から扱われていて、私としては、求めていた作家の一人が現われた感じであった。……私はまだ見知らぬ作者の経済状態を勝手に想像して、この作品を『個性』へもちこんだ。(「安部公房のこと」)
『終わりし道の標べに』(『粘土塀』)のうち「第一のノート」は、翌1948年 2月、「個性」に掲載されたが、これと前後して、安部は埴谷らの結成した「夜の会」に参加する。
1951年に『壁』が刊行されるが、埴谷は最大限といっていいほどの賛辞をあたえる。「安部公房『壁』」という書評である(「人間」April 1951、『鞭と独楽』所収)。
安部公房は、ハイデッガーから出発した。そして、かなり変わった言い方を敢えてしてみれば、文学的には椎名麟三と埴谷雄高から出発した。この両者が観念的で、物体の内的法則を追求する方法論を小説のなかに索めたからである。安部公房と日本文学が接触したのは、これが最初であり、しかも最後であった。彼は十九世紀的な尾をひいた両者の脈を通りすぎて、二十世紀のアヴァンガルド芸術に突入した。(「安部公房『壁』」)
埴谷は安部をみずからの後継者としただけではなく、自分を超えたとまで書いている。どこで超えたかといえば、「空間の造形的表現が、彼の小説の方法論となった」点だという。埴谷は「デンドロカカリヤ」の主人公の顔が裏返しになるという部分に注目し、この発想はキュビスム時代のピカソの絵を思わせるとする。ヨーロッパにもアポリネールやカフカのように新しい絵画の方法論をとりいれた文学者はいたが、「古い寓意文学の伝統」が残っているせいで、どんなにノン・モラルを標べ榜しても、どこかにモラリストの蔭をひきずっている。結局、アポリネールやカフカ(埴谷自身や椎名、石川淳もふくまれるだろう)の線が限界というわけだ。
安部公房のその後の仕事はこの最前線をうんと踏み出てみようとする冒険的な試みとなった。そして同時的、多面的、動的な観察を許す空間の中で物体のリアリティを追求しようとする前衛絵画の方法論を、あくまで人間に適用しつづけることによって、彼はついに、一つの見事な作品を得たのである。『壁』である。(同上)
今風の言い方をすれば、自分をふくめた既成の前衛文学者はまだヒューマニズムにとらわれているが、安部はアンチ・ヒューマニズムにつきぬけていて、人間を単なるフォルムとしてあつかっている、となるだろうか。もちろん、当時の埴谷は「アンチ・ヒューマニズム」にあたるものを、花田清輝の「無機物」、「鉱物主義」という言葉で理解していたはずだが。
埴谷は人脈的には戦後文壇の主流に位置していたものの、作品的には異端だった。自分と似た道を歩みだした新人の登場をよろこんだのはわかるが、それにしても無名の一新人を自らの後継者と嘱望するにとどまらず、自分を超えているとまで書いたのはただごとではない。埴谷は、安部を追悼した文章は四篇あるが(いずれも『虹と睡蓮』所収)、そのうち、「存在感覚の変換」(1993)では、安部の無名時代の困窮を回顧し、なまじ処女作に紹介の労をとったために、医家の道から貧乏作家の道にひっぱりこんでしまった「自責の念」についてふれているから、ある程度は罪滅ぼしの気持があったのかもしれない。しかし、ここまでほめるとは、批評眼もさることながら、人物の大きさもなみはずれている。
『終わりし道の標べに』の雑誌掲載が埴谷雄高の推輓によることは述べたが、この長編が真善美社の「アプレゲール新人創作選シリーズ」から刊行されるにあたり、力となったのが花田清輝だった。花田は埴谷と同じ1909年生まれで、安部より15歳年長だった。当時、彼は真善美社の編集顧問で、同シリーズは彼の企画で進められていた。
花田はカフカをいち早く翻訳・紹介する一方、前述の「夜の会」にあっては理論的指導者格で、若い安部は花田の圧倒的影響下にいた。あるいは、すくなくとも、周囲はそう見ていた(埴谷は上掲書評の最初に「彼(安部)の位置づけは、本来ならば花田清輝がやるべきだが」とわざわざ断っている)。
安部が花田の影響をうけたという面ももちろんある。よく指摘されることだが、『他人の顔』(1964)が、花田の「仮面の表情」(1949)に触発されて書かれたという見方は説得力がある。『他人の顔』で展開される仮面の形而上学のかなりの部分は、花田の思弁に起源があると見て、まず、間違いあるまい。
しかし、花田の「有機物から無機物へ」という価値転換の理論、さらには「鉱物主義」の理論が安部におよぼした影響については、慎重に考える必要がある。花田は安部に出会ったと推定される1948年に「沙漠について」というエッセイを書いているが(『二つの世界』所収)、変幻してやまない無数の砂粒の運動を熱っぽく記述したこの文章の感触は、二年後に書かれることになる「壁──S・カルマ氏の犯罪」で胸の内部に砂漠がひろがる美しい場面と不思議に暗合している。当時の読者が「壁」は「沙漠について」の忠実な小説化だとうけとったとしても無理はないのだが、満州での幼時にさかのぼる安部と砂のかかわりを考える時、花田の鉱物主義の影響で「壁」が書かれたと考えるには無理がある。花田の方が『終わりし道の標べに』に触発されて鉱物主義を肉づけしていったという局面は十分考えられるし、安部の方も、花田の批評によって砂の主題を顕在化していった可能性がなくはない。資料がなにもないので、確定的なことはいえないのだが、この時期の安部と花田の関係はきわめて大きな問題をふくんでいると思われる。
花田と安部は、その後も「記録文学の会」をいっしょに旗あげしたり、共産党をいっしょに除名されたりもしているのだが、意外なことに、花田は安部について残している文章は、わずか三篇しかない。しかも、比較的遅い時期になって書いた短文二篇に文学全集の解説だけである。石川淳については十篇も書き残しているのだが。
花田が最初に安部について書いたのは、安部の評価がある程度さだまった1959年で、「安部公房」という短いエッセイである(「日本読書新聞」November10 1959、『冒険と日和見』所収)。花田は佐々木基一から「天才があらわれた」と安部の存在を教えられたこと。「デンドロカカリヤ」を読んで才能に驚き、1950年度の戦後文学賞に推薦したが、全員の反対で落選したこと。翌年、「赤い繭」を再度推薦しところ、今度は全員の支持で受賞にいたったことを述べるが、『終わりし道の標べに』の刊行に力のあったことについてはふれていない(彼は自分の力で世に出してやったといえる立場にあったし、普通の批評家だったら、まず間違いなくそう自慢していただろう)。
戦後文学賞の三カ月後に決まった芥川賞については、「わたしはクサった。……わたしは、わたしの批評眼が、保守派のそれと、まったく同じであったことに失望した」(「安部公房」)と述べている。この書き方も花田流のダンディズムかもしれない。
花田が唯一、本格的に安部を論じたのは、筑摩書房「新鋭文学叢書」第二巻「安部公房集」に付した解説においてである(1960、「ブラームスはおすき」として『恥部の思想』所収)。
彼はまず、当時、論争の相手として応酬をくりかえしていた吉本隆明を「過去の暗いロマン主義の伝統」につらなるデカダンスの作家と難じ、「ぼんやりと突っ立って、孤高みたいな顔つきさえしていれば、みんな彼を芸術家あつかいしてチヤホヤしてくれる」と揶揄する。彼は島村抱月を引いて、デカダンスとは芸術家であることに安住したなまけごころと規定した上で、初期の安部がくりかえしとりあげた植物への変身物語をデカダンスへの抵抗だと解釈する。
ところが、安部公房は、『デンドロカカリヤ』を書くことによって、植物への変形を無造作に拒否してしまったのです。かれにしても、なまけたり、のらくらしたりすることの居心地のよさを知らないわけではないでしょうが──しかし、かれのなかに巣くっているデーモンが、植物となってうつらうつらと眠りほうけてるよりも、人間のすがたのままで、まっしぐらに駈けだすことを、かれにむかって命令したのでした。(「ブラームスはおすき」)
「ですます調」は「壁」の文体のパロディかもしれない。
埴谷といい、花田といい、安部は先輩に恵まれていたと思う。
安部公房は1948年の末、『終わりし道の標べに』を上木して間もない頃、下北沢に寓居していた石川淳をはじめてたずねたらしい。当時の安部は「夜の会」で急速に交友を広げていたとはいえ、長編小説を一冊だしただけの新人で、「デンドロカカリヤ」をはじめとする初期の幻想的な傑作群もまだ発表していなかった。石川からの影響を顕著にあらわす以前の時点で、安部は25歳年長で、父親の世代の小説家に会いにいったのである。
石川が安部の名前を一躍たかめた短編集『壁』にあたえた序文はあまりにも有名である。
敵はあくまでも人間の運動を妨害するために、圧倒的に逆襲して来る。部屋の中にいてさえも、壁は風雨をふせぐという着実な役目をわすれて、積乱雲よりもうっとうしく、時計の針も狂うほどに、人間を圧しつぶしにかかって来る。壁の復讐、地上至るところ地下室です。これでは、いかなる智慧者でも当惑するでしょう。このとき、安部公房君が椅子から立ちあがって、チョークをとって、壁に画をかいたのです。
安部君の手にしたがって、壁に世界がひらかれる。壁は運動の限界ではなかった。ここから人間の生活がはじまるのだということを、諸君は承認させられる。諸君が連れだされて行くさきは、諸君みずからの生活の可能です。どうしてもこうなって行く。この世界は諸君の精神をつかんではなさない。というのは、そこに諸君の運命が具象化されているからです。(『壁』序文)
石川は推薦文や序文、跋文をたくさん残しているが、原稿用紙で十枚をこえる文章をあたえたのは安部公房に対してだけだった。
安部公房の「壁」は、1951年 7月、第25回芥川賞(昭和26年上半期)を、石川利光の「春の草」とともに受賞した。
この時の候補作は、受賞した二作をのぞくと、次のとおりである。
このうち、堀田善衛は「広場の孤独」ほかで第26回芥川賞を、安岡章太郎は「悪い仲間」ほかで第29回芥川賞を、柴田錬三郎は「イエスの裔」で第26回直木賞を受賞している。眠狂四郎シリーズの柴錬が安部公房のライバルだったというのはおもしろい。
「選後評」によると、もっとも評価の高かったのは安岡章太郎の「ガラスの靴」だったが、安岡のデビュー作であり、一作だけでは力量がわからないということで受賞は見おくられた。現在の芥川賞は作品本位に選ばれるが、当時は直木賞同様、職業作家としてやっていけるかどうかを基準に選考がおこなわれていたのである。
この時の選考委員は宇野浩二、川端康成、岸田國士、坂口安吾、佐藤春夫、瀧井孝作、丹羽文雄、舟橋聖一の八氏である。
宇野浩二が「壁」を酷評したことは有名である。選評の題名は「銓衡難」となっていて、「『壁』は不可解な小説である。しかし、退屈をしのび、辛抱して、しまひまで、読めば、作者が書かうとしたことは、少し(少しであるが)わかる」と書きだされている。宇野は「壁」をシャミッソーの『二重人格』やゴーゴリの「鼻」の模倣と決めつけ、『二重人格』や「鼻」はリアリズムの手法で精緻に幻想を描いているので、絵空事でもリアリティがあるのに対し、「壁」は「おなじやうな事が書かれてあつても、写実的なところなど、ほとんど、まつたく、ない。一と口にいふと、『壁』は物ありげに見えて、何もない、バカげたところさへある小説である」としている。ほとんど罵倒に近いが、この作家なりに筋は通している。
坂口安吾は「壁」の受賞に反対するとだけ書き、それ以上はふれていない。
岸田國士、佐藤春夫、丹羽文雄、舟橋聖一の四氏は消極的支持派で、「壁」の受賞に反対はしないものの、舟橋によれば「安部のは、石川(利光)一人では物足りないところを補ふやうな塩梅で、賛成票をかち得たといへる」そうで、佐藤春夫も同意見とある。いわゆる「だきあわせ受賞」だったと、委員自身が認めているかっこうだ。ちなみに、芥川賞の複数受賞は、安部の師の石川淳の時を嚆矢とする。
「壁」は石川利光の「春の草」と同時受賞とはいっても、あきらかに下位におかれていて、ありていに言えば、おまけのあつかいである。五十音順でいけば、著者名からいっても、作品名からいっても、安部公房の「壁」が前にくるはずなのに、石川利光の「春の草」の方が優先されているし、受賞作がのるはずの文藝春秋には、信じがたいことであるが、対象となった「壁──S・カルマ氏の犯罪」は掲載されず、短編集『壁』から「洪水の後」と「魔法のチョーク」という掌編二篇を転載してお茶をにごしている。いくら物資不足の時代で増ページが困難だったとはいえ、このあつかいはひどい。
さて、「壁」を積極的に推したのは、瀧井孝作と川端康成の二氏である。瀧井は「このやうな寓話的風刺的作品にふさはしい文体がちやんと出来てゐるからです」と評価し、川端は選評の表題を「「壁」を推す」とした上で、「堀田善衛氏の「歯車」か安部氏の「壁」を私は推薦したかった。理由は簡単である。堀田氏や安部氏のやうな作家が出て「歯車」や「壁」のやうな作品が現はれることに、私は今日の必然を感じ、その意味での興味を持つからである」と書いている(堀田は次回、受賞している)。
もっとも、支持したといっても、川端は瀧井のような踏みこんだ評価はおこなっていない。「「壁」は冗漫と思えた。また部分によっては鋭敏でない」と留保した上で、こういう毛色のかわった作品が出た方が日本文学が活性化するだろうといういわば大所高所に立っての支持だったが、「壁」の受賞の決め手となったのは、この川端の賛成票だったはずだ。川端はまとまった批評こそ残していないが、新人作家の力量を見きわめる眼力の定評は高く、戦前・戦後を通じ、時評家として圧倒的な影響力をふるっていた(小林秀雄は批評に関心のある文学青年の間で読まれていただけで、小説家には相手にされていなかった)。自他ともに認める文壇の大ボスとしての川端の支持があってなお、だきあわせ受賞のおまけの方だったというところに、当時の安部の位置があったといえる。
同時受賞した石川利光は1914年生まれ、安部より10歳年長で、出版社に勤務しながら、戦前から同人誌で活躍していた。この時点では安部よりもはるかに評価が高かったのだが、その後はたいした作品もなく、今日ではまったく忘れられてしまったかたちである。
受賞作となった「春の草」を読んでみたが、戦争から復員した青年が郷里にもどってみると、実家にあずけておいた妻が義父と関係していて、母親の厭味にいたたまれずに一人で上京し、鬱屈した日々をおくるという陰々滅々なリアリズム小説だった。暗いから駄目だということではないが、別れたはずの妻が義父との間にできた子供を堕胎するために主人公をたよって出てきて、狭いアパートで一夜をすごすというエピソードがアクセントになっているものの、全体に平板で、人物描写や風俗描写も粗雑で、正直いって、読み通すのが苦痛な作品である。この程度の作品が「壁」と同列どころか、上位に置かれていたというのは、今となってはまったく理解の外だが、これが歴史というものだろう。
ともあれ、安部は芥川賞を受賞したが、この受賞で得をしたのは、もちろん芥川賞=文藝春秋社の方である。安部は賞をとろうととるまいと、『砂の女』を書き、国際的評価を確立したのは明白で、『砂の女』の作家に賞をあたえていないということになったら、芥川賞=文藝春秋社の面目はまるつぶれだったからだ。
Copyright 1996 Kato Koiti