ITmediaに「「Wikiで小説」プロジェクト始動」という記事が出ている。WikiToolで小説を共同製作しようというプロジェクトだが、勧進元はなんとペンギン・ブックスで、その名も A Million Penguins である。
「このプロジェクトについて」を見ると、オープンソースのソフトの成功を紹介した後、ボルバインティツィアーノのような画家は工房で多くの弟子を使って絵を製作していたこと、TVドラマや映画の脚本は複数の脚本家が執筆していることをあげ、小説の共同製作もありなのではないかと言っているが、かなりおかしい。
助手や弟子を使って絵画を製作する画家は今でもいるが、工房では画家が絶対権をもっていて、助手は助手、弟子は弟子にすぎない。共同製作とはいっても、すべての参加者が同等の権利をもつWikiとは別物である。Linuxがうまくいったのだって、リーナス・トーバルズ氏が「優しい独裁者」として君臨しているからだ。
TVドラマや映画の脚本もメインの脚本家を中心に、プロデューサーや演出家をまじえて、何度も会議を開き、意志統一してから執筆にかかる。どこに転がっていくかわからないWikiとはまったく違う。Wikiは事典のような断片の集積には向いているが、小説のような一貫した著作物には向かない。
4章まで書かれている現物を読んだが、案の定、小説の体をなしていなかった。
わからないのは、ペンギン・ブックスのような老舗出版社がこんなバカなことをはじめた理由だ。ネット音痴の重役が、Wikiのなんたるかもわからずに、新米社員の思いつきに乗ったということだろうか。なれないことはやめた方がいい。
新文芸座の「名匠・吉村公三郎の世界」で見る。激辛のコメディで、半世紀近く前に作られたとは信じられないくらい新鮮である。
キャストがすごい。嫁の静が京マチ子。静の夫、卓夫が船越英二。卓夫の姉妹が高峰三枝子(冴子)、若尾文子(波子)、野添ひとみ(鳩子)。婆やが北林谷栄。卓夫の愛人が藤間紫。
卓夫はホテルを成功させたやり手の社長で、OLをしていた静と結婚したが、静が処女でなかった(と思いこんだ)ために最初からすきま風が吹き、愛人が二人いる。長女の冴子は結婚して家を出たが、さっさと離婚し、デザイナーとして成功している。次女の波子は花嫁修業万般をおさめたが、姉の失敗を見て結婚に踏み切れず、自宅で書道教室をつづけている。三女の鳩子は駆け出しの新劇女優で、一番気楽な身分。
小姑の立場になってしまった波子と鳩子は嫁の静のすべてが気にいらず、ただでさえうまくいっていない静と卓夫の仲を裂きにかかる。今の感覚でもドキリとするような台詞がポンポン飛びだす。波子と鳩子は憎まれ役になるところだが、若尾と野添があまりにも可愛らしいので、いじめられている静の方がしたたかな腹黒い女に見えてくる。
若尾はとうのたった箱入り娘という役柄がぴったりはまっている。時々眼鏡をかけるが、眼鏡をかけた顔がまた「萌え」である。いがみあう家族の間で、北林演ずる婆やのとぼけた味が救いになっている。長女の冴子は外に一戸をかまえているので、両方の相談に乗って貫禄を示す。ここに高峰三枝子をもってきたのは正解だ。
悲劇すれすれのところまで行ってはらはらさせるが、最後はみごと着地する。演出の腕力は脱帽もの。
これも新文芸座の「名匠・吉村公三郎の世界」で見る。ロビーに貼りだされたポスターは毒々しい色だったが、映画そのものは宮川一夫の撮影で、モノクロの映像美を堪能させてくれる。
水上勉の代表作の映画化で、雪に閉ざされた越前武生の在の竹神郷からはじまる。竹細工の名人といわれた父吾左衛門をなくしたばかりの喜助(山下洵一郎)の家に、芦原の玉江(若尾文子)と名乗る女が訪ねてくる。玉江は吾左衛門に世話になった、墓参りをさせてくれという。墓に案内すると、玉江は手を合わせて帰っていった。
春になり武生の問屋に竹細工を納めた喜助は芦原に足を伸ばし、玉江を探す。玉江は遊郭で働く女郎だったが、雪の中を墓参りに出たのがたたったのか、肺を悪くして仕事を休んでいた。喜助は玉江の部屋に通され、父が彼女に贈った竹人形に目を見張る。
喜助は玉江が忘れられず、また芦原を訪れる。玉江は接客中で、妹分のお光(中村玉緒)から玉江に落籍の話が出ていると知らされる。玉江を落籍すには150円かかるといわれた喜助はその金額を用意し、もう一度玉江を訪ねる。150円の大金を前に、喜助はこの金で借金を清算し、自分の家に来てくれと訴える。喜助の真情に打たれた玉江は秋には喜助の家に行くと約束する。
秋になり、玉江は嫁入り道具を馬車に乗せて、喜助の家にやってくる。二人は祝言をあげるが、喜助は玉江には指一本ふれず、夜なべして竹人形造りに没頭する。玉江は本当の夫婦にしてくれと迫るが、喜助は待ってくれと言うばかりだ。
やがて竹人形が完成する。それは雪の日に喜助の家にやってきた玉江の姿を写したもので、郷土民芸展に出展したところ、県知事賞を受賞し、京都の老舗で販売することになる。
喜助は弟子をいれて仕事を拡げ、すべてがうまくいっているように見えたが、彼は玉江を母親のように崇めつづけ、いまだに指一本ふれていなかった。そして、挨拶に訪れた京都の老舗の番頭の忠平(西村晃)が玉江の島原時代のなじみだったことから悲劇がはじまる。結末は哀切である。全盛期の若尾文子の匂いたつ官能美。息を呑むほど美しい。
16mmでの上映だが、状態はあまりよくない。画面は全体にぼやけていて、音的にも終始パチパチノイズがはいる。
川端康成の名作の最初の映画化だが、原作の背徳の世界からは遠い、さわやかな映画になってしまった。
1969年版の栗本ちか子(京マチ子)は乳房に大きなホクロがあり、そこから生えた毛を切るというグロテスクにしてエロチックな場面があった。1953年版(杉村春子)は原作通りアザで、菊治が気持ちが悪かったと婆やに語るにとどめている。杉村春子のちか子はせっかちにせかせか歩く。いかにもおせっかいなオバサンという感じで、菊治に下心をもっているようには見えない。
太田夫人も色気が薄れてしまった。1969年版の若尾文子は陰性のしたたかな女で、自分の病気まで武器にして年下の菊治を翻弄するが、1953年版の木暮実千代はお嬢様気分の抜けない天真爛漫な女性で、無神経なくらい陽である。森雅之の菊治は平幹二朗のようにウブではなく、子供のような夫人に対して保護者のようにふるまっている。
太田夫人の娘の文子は乙羽信子。若く、凛として、清潔感がある。梓英子の欲求不満で悶々とした文子とは大変な違いだ。しかし、これでは菊治と絡みようがない。
細部は1969年版よりも原作に忠実だが、肝腎な部分で原作とは異質の作品である。
DVD化のために作られたニュープリントでの上映。一部傷が残るが、画面はきれいだ。
原爆を題材にした社会派メロドラマ。被爆17年目の広島に週刊誌記者の神谷(田宮二郎)が取材にくるが、原爆は風化していて、空振りに終わる。六本指の子供が生まれたという噂を追跡するが、その子供は死んでいて、母親にも会えずじまい。
取材の帰りに、気になっていたバーのマダムの秋子(若尾文子)と出くわし、彼女の幼なじみの田鶴子(角梨枝子)がやっている芸者置屋で休んでいくように誘われる。神谷は秋子に夢中になる(実事があったのかと思ったが、そうではなかったことが後でわかる)。
神谷は広島滞在を一日伸ばし、秋子の店に行くが、秋子にヒモのようにつきまとう金子(長谷川哲夫)と喧嘩になり、神谷は店を飛びだす。秋子は神谷を追う。旅館で秋子と二人きりになった神谷は彼女にプロポーズするが、彼女はケロイドで覆われた胸と腹を見せ、思い出だけでいいと言う。神谷はそれでも結婚を迫るが、秋子は広島に残る。
神谷は東京から何度も手紙を送るが、返事が来ず、やがて宛先不明でもどってくるようになる。神谷は再度広島に行くが、田鶴子から秋子の死を知らされる。
理屈先行でリアリティなし。観念過剰で力んでいるために、メロドラマとしても面白くない。大体、顔や手が無傷で、胸と腹だけケロイドになるなんて、どんな被爆の仕方をしたのだ。推測だが、最初は若尾を六本指の子供の母親にするつもりだったが、途中で視覚的効果を考えてケロイドがあるという設定に変えたのではないか。
中国がおこなった衛星破壊実験の深刻な影響がしだいに明らかになってきている。松浦晋也氏の「宇宙開発を読む」の第九回によると、気象衛星を高度850kmのままで破壊したことが問題を大きくしたという。記事を引く。
発生したデブリは、元の軌道に留まるわけではない。与えられた初速によって軌道傾斜角も、軌道高度も変化する。さらに、地球が完全な球ではないことから発生する摂動によって地球全体を覆うように拡散していく。実際、風雲1号Cの破片の一部は、国際宇宙ステーションが利用している高度400km程度まで地球に近づく軌道に入ったことが確認されている。
中国は地球観測衛星が多用する、しかもデブリが滞留しやすい高度・軌道で衛星破壊実験を実施し、多数のデブリを軌道上に振りまいた。これは、誰もが利用する宇宙の表通りで爆弾テロを実行したことに等しい。
事実、昨年、日本が打ち上げた地球観測衛星「だいち」の軌道に南極上空で約1.4kmまで接近したことが確認されている(asahi.com)。
ところが、MSNにトンデモ科学の説明で中国の行為を弁護した記事が載っていて目を疑った。「早い話が:星くずのブーメラン」が問題の記事で、書いた金子秀敏記者は科学記者ではなく、毎日新聞元中国総局長とのこと。金子記者は日本が中国批判にくわわったことが気にいらないらしく、こんなことを書いている。
日本政府はこのデブリで中国を非難した。確かにデブリの発生は問題なのだが、よく考えるとデブリはブーメランのように日本自身に戻ってくる問題でもある。
なぜなら、宇宙空間を飛んでくる敵のミサイルを迎撃ミサイルで爆破するという米国のミサイル防衛(MD)システムに、日本は資金面、技術面で協力しているのである。
ミサイル防衛に反対する米国の科学者たちは「ミサイルの迎撃は大量の宇宙ゴミを出すので、低軌道を使う人工衛星が永久に使えなくなる」と警告している。中国製のデブリが悪いなら、ミサイル防衛で出る米国製デブリも非難されなければならない。
ミサイル迎撃は加速時、慣性飛行時、再突入時の三つのタイミングでおこなわれるが、加速時・再突入時はもちろん、慣性飛行時に撃墜しても、破片はデブリにならない。標的ミサイルも迎撃ミサイルも人工衛星になる速度(第一宇宙速度)に達していないからだ。大陸間弾道弾の一部には人工衛星の高度まで上がるものがあるが、第一宇宙速度に達していないので地上に落ちてくる(落ちてこなかったら目標に当たらない)。破壊されたミサイルの破片も同じである。
次の部分もおかしい。
ではデブリの出ない衛星攻撃兵器ならいいのか。中国の実験後、米国政府が公表した資料によると、中国が研究しているのはミサイルによる衛星撃墜だけではない。「米国の衛星は最近、中国から地上レーザーの照射を受けたが、損害はなかった」という。宇宙軍拡で米国を追う中国はデブリの出ないレーザー兵器も研究しているのだ。完成しているかもしれない。
仮にそんなことが可能だったとしても、衛星を地上から制御できなくしたら、衛星そのものがデブリになってしまうではないか。
今回の中国の行為は高速道路上に故意に鋼材をばらまくようなもので、弁護のしようがない。しかし、金子記者は「中国製のデブリが悪いなら、ミサイル防衛で出る米国製デブリも非難されなければならない
」とか、「日本が中国の宇宙軍拡に反対しようとするなら、ミサイル防衛にも反対しなくては筋が通らないのである
」とトンデモ説をならべて、中国の犯罪行為を糊塗しようとしている。
「報道ステーション」も似たようなものだ。YouTubeで見ることができるが、デブリが中国の実験以前からあったと相対化をはかった上で、古舘氏は「アメリカをはじめとして各国が怒っているっていうのは、やっぱり自分のところの衛星が被害を受けたり、ぶつかってはたまらんていう、やっぱりエゴイズムがあると思うんですよね
」とまくしたてた。
なぜ「エゴイズム」などという言葉をまぎれこませるのか。衛星破壊批判がエゴイズムだというなら、放火やテロ、暴走族、詐欺、殺人等々、すべての犯罪の取締はエゴイズムになってしまう。中国を批判する人間はエゴイストだと印象に刷りこもうとしているとしか思えない。
集団就職を描いた社会派映画で、ニュープリントでの上映。期待していなかったが、思いのほかよかった。
集団就職特別列車が出発する場面からはじまる。幟を立てて大々的に見送り、まるで出征兵士のようだが、列車に乗りこむのは中学を出たばかりの16歳の少年少女である。新米教師の井上(菅原謙二)が引率するが、東京について職安の係員に引きつぎした後、さらに浜松まで足を伸ばす。東京だけでは就職先が見つからなかったのだ。
映画は東京で奮闘する子供たちと、故郷の井上を交互に描く。就職先は蕎麦屋、自動車修理工場、ガラス器工場、鉄工所等々、零細なところばかりである。夜学にいかせてやるという約束はまず守られない。開業医の家に住みこんで看護婦になりたいと思っていても、実際の仕事は子守や家事で、看護婦学校に通えるわけではない。
井上の仕事は子供たちを東京に連れていっただけでは終わらない。子供たちと文通して相談に乗ったり、送りだした家庭を訪問したり、トラブルが起きたら東京に出かけなければならない。集団就職の受け入れ先はかつかつのところが多いので、倒産は珍らしいことではない。井上は同僚の沼田イチ子(若尾文子)と結婚するが、披露宴のさなか、ガラス工場に就職した二人の生徒が補導されたと連絡を受け、イチ子と慌ただしく東京に駆けつける。
映画が作られたのは1958年で、この数、団塊の世代の集団就職がはじまる。就職先を確保するのは容易なことではなく、井上は校長の相沢(東野英治郎)と職安に挨拶回りにいくが、学校によっては職安の所長を接待しているところもある。学校の中でも、就職組と進学組の対立がある。生々しいが、子供たちのエピソードも含めて、脚本は取材にもとづいて書かれたのだろう。ドキュメンタリーではないが、一つの時代を記録した価値がある。
菅原謙二は就職係から逃げたいが、子供たちや親が困っているのを見ると放ってはおけない教師を好演している。いわゆる熱血教師にしなかったのは好感がもてる。
若尾文子は生気にあふれた女教師で、「青空娘」の時の輝くばかりの笑顔をまた見ることができる。こういう傾向の作品にもっとたくさん出てほしかった。
日本最初のベストセラーといわれる島田清次郎の『地上』の映画化である。DVD化のためのニュープリントによる上映だが、フィルムの状態がとてもよく、中間色が美しい。
島田清次郎の波瀾万丈の生涯は本木雅弘主演のNHKドラマや、地人会の「島清、世に敗れたり」という評伝劇を見て興味はあったが、『地上』を読むところまではいかなかった。第一部しか入手できないということもあるが、昔のベストセラーは今読むとつまらないことが多いからでもある(横書でよければ「青空文庫」で第一部が公開されている)。
映画は面白く、ベストセラーになったのもわかる。
主人公の大河平一郎(川口浩)は没落した名家の生まれ。母親のお光(田中絹代)は平一郎だけが生きがいで、廓の斡旋屋の二階で針仕事をしながら、無理に無理を重ねて中学に通わせている。斡旋屋に買われた冬子(香川京子)という娘が夜、主人(上田吉二郎)に手籠めにされそうになり、二階の平一郎たちの部屋に逃げこんでくるようなありさまだ。彼は廓での生活が嫌でたまらないが、母はより実入りのいい住みこみのお針子になり、娼家に引っ越すことになる。
平一郎は小学校の同級生だった吉倉和歌子(野添ひとみ)が美しい娘に成長したのを知り恋文を出すが、和歌子の方でも神童といわれた平一郎に好意をもっていた。和歌子の父は金沢一の陶器工場の社長であり、身分違いなので、二人は密かに交際をはじめる。
和歌子の父の工場は赤字がつづき、東京の財閥の天野(佐分利信)の支援をあおぐことになる。天野の指示で職工を大量解雇するが、その中には平一郎の親友で、学費が払えなくなって学校を辞めた吉田も含まれていた。職工たちはストライキをし、工場は警察に封鎖される。平一郎は吉田の妹に頼まれて工場に潜入し、吉田を激励するが、出ようとしたところを警察に捕縛されてしまう。
警察から連絡を受けた校長(小澤栄太郎)は平一郎の私物を検査し、和歌子の恋文を発見する。平一郎と和歌子は停学処分になった上、平一郎と母は住みこんでいた娼家から追いだされる。
ストライキを解決するために、東京から天野がやってくる。天野の指示で警官隊が工場に突入し、ストライキはつぶされる。吉倉や金沢市長は天野をもてなすために、まだ処女の冬子をさしだす。天野は冬子が気にいり、東京に連れて帰ると言いだす。
ラスト、学校を追われた平一郎が母とともに東京に向かう。和歌子は兄(川崎敬三)の手引きでやっと家を抜けだし、線路際から平一郎の乗った汽車に手を振る。
平一郎は和歌子、冬子、吉田の妹という三人の娘に慕われるが、三人とも陶器工場=天野財閥につながっている点がこの作品の肝である。貴種流離譚的な主人公である平一郎は女性を通じて資本主義と対峙するのだ。この布置が大正期にベストセラーになった理由だろう。
脚本・演出ともつぼをおさえていて、物語をぐいぐい進めていく。意外だったのは川口浩。すごくいいのだ。彼の育ちの良さのおかげで、平一郎に貴種流離譚的な深みがくわわった。探検隊長にこんな輝かしい過去があったとは知らなかった。
冬子の香川京子もいい。斡旋屋に買われてきたばかりの頃は田舎くさかったが、どんどん洗練されていき、天野の座敷に出る頃には色っぽい芸者に仕上がっていた。
大阪市市立科学館が
わたしが學天則を知ったのは映画『帝都物語』でだった。確か東京に地下に蠢く魑魅魍魎に地下鉄工事が妨害されたので、學天則が出動するという設定で、妖怪どもにまつわりつかれながら、土を掘りつづける學天則の勇姿をおぼえている。西村真琴は実の息子で俳優の西村晃氏が演じていた。金ぴかの外観もさることながら、インパクトのある名前が気になった。學天則の詳しい紹介は原作者の荒俣宏氏の『大東亜科学綺譚』に載っている。『帝都物語』はしょうもない映画だったが、學天則はチャーミングだった
もともとは酒見賢一の小説だったが、この映画は森秀樹のコミックを原作にしているようだ。コミック版は読んでいないが、かなり評価が高い。簡潔すぎて骨組だけという印象がなくはない原作に精密な肉づけをほどこしているらしい。なんと映画とコミックをもとにしたノベライゼーションまで出版されている。酒見氏はよく許したものだ。
さて、映画であるが、はっきりいって下手である。アンディ・ラウはすばらしいし、敵役のアン・ソンギもいい味を出している。原作小説にはなかった女剣士の范冰冰も悪くない。問題は演出と脚本だ。流れがブツブツ切れていて、部分的な盛り上がりはあっても、大きなうねりにならないのだ。これだけの役者をそろえたのだから、力のある監督が演出していればもっと面白くなっていたはずだ。
結末で革離は孤児を連れて梁を離れることになっているが、続篇を作るつもりなのだろうか。作るなら、監督は変えるべきだ。
12日までといわれていた六者協議が13日、マラソン会議の末に妥結した(SankeiWeb、朝鮮日報)。共同文書の仮訳は外務省のサイトで読める。
妥結にいたったのはブッシュ政権がイラクの泥沼化と中間選挙の敗北で、アジアに力が割けなくなったからだ。金融制裁当初からいわれていたBDAの凍結口座のうち、合法的な一部の口座の凍結が解除されると見られている。
当初、核廃棄の見返りは重油50万トンといわれていたが、直前になって北朝鮮が200万トンとふっかけてきたので、議長国の中国は100万トンとした(100万トンは北朝鮮が消費する重油2年分にあたる)。200万トンという要求は100万トンをせしめるためのブラフだったかもしれない。あの国は無軌道なように見えてもしたたかに計算している。
共同文書草案では1994年のような食い逃げをされないように、初期段階に5万トン、次の段階に95万トンと明記されていたが、北朝鮮側が頑強に抵抗したために「初期段階の措置の段階及び次の段階の期間中
」に「100万トン(5万トンの重油に相当する最初の輸送を含む。)
」という回りくどい表現になったという。
13日午後10時、北朝鮮の朝鮮中央通信は「北京での6カ国協議で、朝鮮の核施設の稼動を臨時中止とすることと関連し、各国は重油100万トンに相当する経済やエネルギーの支援を提供することにした
」と報じた(朝鮮日報)。共同文書と食い違う内容に読売新聞は「北朝鮮が勝手な解釈」と論評したが、国内向けの宣伝だろう。共同文書には第二段階の95万トンの「支援の具体的な態様は、経済及びエネルギー協力のための作業部会における協議及び適切な評価を通じて決定される
」と書かれている。95万トンを見せ金にして北朝鮮を第二段階に引きこもうという作戦だ。
今回の合意にはウラン濃縮計画とすでに完成した核兵器がはいっていないから北朝鮮の一方的な勝利だと伝える報道が多いが、共同文書は第一項で「2005年9月19日の共同声明を実施するために各者が初期の段階においてとる措置
」について協議し、「共同声明を段階的に実施していくために、調整された措置をとることで一致した
」と記している。前回の共同声明には「朝鮮民主主義人民共和国は、すべての核兵器及び既存の核計画を放棄すること
」と明確に書かれている。今回の共同文書は前回の共同声明と一体の文書であり、今回の文書だけ見て云々するのは間違っている。95万トンと引換の「次の段階においてとる措置」には当然ウラン濃縮計画や既存の核兵器も含まれているのであり、ライス国務長官が「ウラン濃縮も申告対象」と言明したのはそのことを指摘したのである。
前回の共同声明はいよいよ重みを増している。表面的には五ヶ国が北朝鮮に振りまわされているようでも、北朝鮮は身動きできなくなってきている。
金正日総書記にはどこまで核放棄に応ずる意志があるのだろうか。三つのケースが考えられる。
3はありえない。1か2だが、テロ支援国家指定の解除(アジア開発銀行の融資という実利につながる)にこだわっているところをみると、2の可能性が高い。
しかし、金正日総書記に寧辺解体の意志があったとしても、実行できるほどの権力基盤があるだろうか。金正日総書記は国内に対して核兵器を宣伝しすぎた。今回の合意を国内に対しては原子炉の一時停止だけで100万トンの重油をせしめたと報じたのも、体制を支える軍部や工作機関になめられるのが怖いからではないのか。
北朝鮮は第二次小泉訪朝の際、小泉前首相をコケにするような場面を演出し、その映像を国内に繰りかえし流したという。重村智計氏の『外交敗北』によれば、第一次小泉訪朝で拉致被害者をただ取りされ、金正日総書記を軽んじる風潮が出てきたので、小泉前首相をまた呼びつけ、衆目の前でコケにしてみせなければ威信が保てなかったのだ。カリスマに欠ける二代目の哀しさである。
金正日総書記に2の意志があっても、1で終わりそうな気がする。仮に2に向かったとしても、すんなりとは進まないだろう。その場合は95万トンは見せ金で終わる。
さて、日本は拉致問題の解決まではエネルギー支援をしないという方針をつらぬき、北朝鮮以外の参加国の了解を取りつけることができた。これは日本外交の得点といっていい。
ところが日本のマスコミ、特にTVは日本の「孤立」を大合唱し、このままでは拉致問題の進展は望めないと言いだしている。自民党内からも山﨑拓、加藤紘一両氏が路線転換を主張している。
日本人はなにより仲間外れを恐れるので、「孤立」という言葉は脅しになる。しかし、日本の「孤立」が具体的に何を指すのかは、どのマスコミも語っていない。ただ抽象的に「孤立」という言葉を連呼するだけである。
いろいろ考えたが、「孤立」とは以下の二つしか思いつかない。
初期段階の5万トンは韓国単独の支援である。第二段階の支援について、朝鮮日報は日本だけではなく、ロシアとアメリカも応分の負担をしない可能性があると報じている。大体、第二段階の95万トン援助がおこなわれるようになるかどうかも怪しい。
北朝鮮利権については、これまで北朝鮮に対して植民地支配の償いをするべきだと主張してきた人やメディアが、北朝鮮の利権のうまみを喧伝しているのが興味深い。
重村氏は北朝鮮利権を徳川埋蔵金にたとえている。鉱物資源はあるようだが、それらはすでに中国資本が押さえている。バスにあわてて乗っても、目的地にはぺんぺん草すらはえていまい。
北朝鮮に援助すれば拉致問題が解決するわけではない。拉致問題は金正日政権を支える工作機関の存亡に係わっており、金正日政権がつづく限り、解決は望めないからだ。援助して金正日政権が延命すれば、それだけ解決が遠のくと考えた方がいい。
日本にできることは在日組織からの資金の流れを絶ち、金正日体制の崩壊を待つことだけだと思う。国民に対する配給停止以来、鉄壁の独裁体制が土台から揺らぎはじめている。
先日、脱北者を見逃していた中朝国境警備隊員20名が追求を恐れて集団脱北するという事件が起きた(SankeiWeb)。国境警備隊のような重要な部署で集団脱走とは末期的である。また、日本の贅沢品禁輸のために16日の将軍様の誕生日幹部に配るプレゼントが調達できず、外交官のみならず、貿易会社スタッフや貨物船の船員までが香港、マカオ、珠海のショッピング街で贅沢品をを買い集めるために走りまわっているという(西日本新聞)。
原子炉の一時停止で100万トンの重油を手にいれたと国内に宣伝したことも痛手になる可能性がある。第二段階の核廃棄がすんなり進むはずはなく、残り95万トンは絵に描いた餅で終わりかねないからだ。そうなると将軍様はアメリカに一杯食わされたことになり、威信に傷がつく。
体制崩壊はいつ起きてもおかしくない。日本は幸い海に隔てられているので、金正日体制が崩壊しても大量の難民が押し寄せる心配はない。船を用意できる支配層の一部が民衆のリンチを恐れて逃げてくるくらいだろう。後始末は体制崩壊で一番影響を受ける中国がやるはずである。
手塚治虫の漫画の実写(!)映画である。原作はリアルタイムで読み、TVアニメも見ている。懐かしい作品だし、手塚漫画の傑作だと思う。ただ、主人公が五体不満足なうえに残虐場面の連続なので、TVアニメは再放送されず、単行本化や全集化の際には相当手がはいったらしい。こういう問題作をよりによって実写で映画化するというのだから、どんな作品になるか心配だった。
しかし、予想はいい方に裏切られた。「髑髏城の七人」に近いアングラ演劇的なバロック時代劇に仕上がっていたのである。
舞台は中世ではなく、中世風の遠未来に変わっているが、ファンタジーだから同じようなものだ。百鬼丸(妻夫木聡)に手足を作ってやる寿海(原田芳雄)の手術はバイオ風である。どろろ役は柴咲コウなので最初から女っぽい。志田未来あたりがやったら面白いかとも思ったが、女っぽいのは女優がやる以上しょうがない。醍醐景光の城はハウルの城に似すぎている。
遍歴する間もなく醍醐景光(中井貴一 )の城下にはいり、ラストでは景光と対決して殺してしまう。続篇を作るようだが、どうやって引っぱるのだろう。
映画のDVDはまだだが、TVアニメのCompleteBOXは一昨年出ている。国産アニメのDVDは法外な値段がつくものだが、5枚組652分で定価9975円とは安い。Amazonのカスタマーズ・レビューによると差別語のカットはないようだし、カラーのパイロット版と別バージョンの主題歌もついてくるそうだ。
雲南省の富民県林業局が禿山の山肌に緑色のペンキを塗って「緑化」したニュースがネットで話題になっている(中国情報局)。新華社は「漫才のネタにもあった『ペンキで緑化作業』。失笑してしまうような話が、現実に行われていた
」と批判していて、新华网の元記事には毒々しい緑色に塗りたくられた写真が載っている。
なぜこんな奇怪な「緑化」をやったのだろうか? 中国情報局は単なるバカで片づけているが、元記事には「改変風水」という小見出しがある。
はたして今日の中国情報局に「ペンキで緑化の動機は「風水」、林業局は責任放棄」という続報が載った。ペンキ塗布をやったのは林業局ではなく、風水師に業績不振は「赤味を帯びた岩肌が家の門の向かいにあることが原因」といわれた民間企業のオーナーだった。
個人の都合で風景を変えてしまうとは滅茶苦茶だが、オーナーは事前に林業局にお伺いをたてたところ、林業局は「ペンキ塗布はあなたの問題で、我々には関係ない
」と回答したそうだ。あの国のことだから、賄賂がらみの可能性もなくはないだろう。
同題の小説をラッセ・ハルストレム監督が映画化。舞台は現代フランスの架空の村、ランスクネだが、英語作品で、ヒロインのヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)以外の主な出演者は英米の俳優である。
カーニバルの日、代々の領主のレノー伯爵(アルフレッド・モリーナ)が村長をつとめるランスクネ村に北風が吹き荒れ、ヴィアンヌが娘のアヌーク(ヴィクトワール・ティヴィソル)をつれてあらわれる。彼女は依怙地なアルマン婆さん(ジュディ・デンチ)から店を借りてチョコレートショップを開くが、宗教がちがちのレノー伯爵は、節制しなければならない四旬節にチョコレート・ショップなんてとおかんむりだ。伯爵はヴィアンヌが未婚の母で、各地を転々として教会にもいかないと知ると、いよいよ敵意をつのらせ、村人に陰口をふれてまわる。
ヴィアンヌは陰口にめげずに村人に話しかけ、特製のチョコレートとココアでしだいにファンを増やしていく。万引癖のあるジョセフィーヌ(レナ・オリン)がチョコレートをくすねても、原因が夫のセルジュ(ストーメア)の暴力にあるとつきとめ、彼女を家に引きとっていっしょに店をやる。
伯爵はジョセフィーヌを取り返しにくるが、DVの事実を知らされると、いったん引き下がり、セルジュを模範的なキリスト教徒にしようとする。伯爵はセルジュの教育にかかりきりになるが、DVをやめさせられるかどうかはヴィアンヌのチョコレートの癒しに対する宗教戦争なのだ。
伯爵から立派なキリスト教徒というお墨付きをもらったセルジュは花束をもってジョセフィーヌをむかえにいくが、彼女は帰らない。その夜、セルジュは暴れ、伯爵の教育が鍍金に過ぎなかったことがはっきりする。
ヴィアンヌはアルマン婆さんと孫のリュックとのとりもちもする。アルマン婆さんは娘で禁欲的なカロリーヌ(キャサリン・アン・モス)と折合が悪く、リュックと話をさせてもらえなかったのだ。
すべてがうまくいき、ヴィアンヌは村に定住を考えはじめるが、そこに一大事が起こる。河ネズミと呼ばれる船に分乗したジプシーの一団が村はずれの河原にやってきたのだ。ヴィアンヌのチョコレートで心を開きかけた村人たちは再び偏狭になり、レノー伯爵の命令でジプシーには物を売らないなど、排撃運動をはじめる。ジプシーのリーダーのルー(ジョニー・デップ)と親しくなったヴィアンヌの店にも村人は寄りつかなくなる。
困り果てたヴィアンヌに、アルマン婆さんは自分の誕生会を開いてくれと提案する。誕生会にはルーも招かれ、ジプシーと村人の険悪な関係がほぐれかかる。伯爵は危機感をつのらせ、セルジュにルーたちの船に放火させる。
この騒動はなんとか落着するが、最大の危機がその後にやってくる。北風が吹いて、ヴィアンヌを新たな旅に急きたてたのだ。
ヴィアンヌの母は放浪を運命づけられたインディオの一族の娘で、ヴィアンヌもその血を受け継いでいた(ジュリエット・ビノシュの物狂おしい目は凄みがある)。彼女は嫌がる娘の手をとって旅立とうとするが、その時、母から受け継いだ陶器の壺を落とし、中の灰が風に飛ばされてしまう。説明はないが、おそらく「エメラルド・フォレスト」の壺と同じで、先祖代々の遺灰がはいっていたのだろう。ヴィアンヌはどうするのか。
x料理で頑なな心をほぐすという趣向は「バベットの晩餐会」に通じるものがある。「バベットの晩餐会」の場合、北欧の禁欲的なプロテスタント文化とフランスのカトリック文化の対立だったが、こちらは偏狭なキリスト教文化と、インディオやジプシーに託された異人の文化だ。ハリウッド映画なので予定調和的に終わるが、北風が吹いてきた時のジュリエット・ビノシュの物狂いは予定調和の先にあるものを垣間見させてくれた。
原作がダールで監督がティム・バートン、主演がジョニー・デップとくれば見ないわけにはいかないが、封切時には工場にはいったあたりで寝てしまった。今回、早稲田松竹のジョニー・デップ特集でもう一度見てみたが、寝ないように努力したものの、工場に入って以降はところどころ寝てしまった。こましゃくれた子供が懲らしめられているだけで、おもしろくもなんともない。また、ティム・バートンの映画は作りこみのおもしろさが命だと思うが、チャーリーの傾いた家は作りこんでいるものの、肝腎の工場の方はのっぺりしたCGで面白みがない。
原作は最近、柳瀬尚紀氏による新訳が出たが、Amazonのカスタマーズ・レビューを見ると、言葉遊びを日本語で再現する方針に賛否両論が出ている。
固有名詞の日本語化に異和感を持つ人が多いようだが、児童文学ではよくあることだ。『指環物語』のアラゴルンを「馳男」にしたのが悪名高いが、成功例もないわけではない。たとえば、山室静訳の『ムーミン』シリーズ。「おさびし山」、「ニョロニョロ」などはみごとに日本語になっていると思う。
2月8日、日本のコンピュータ産業をリードしてこられた和田弘氏が亡くなった(情報処理学会、アスキー・ビジネス・オンライン)。和田氏がどんなに重要な仕事をしたかは『計算機屋かく戦えり』のインタビューを読めばわかるが、文字コードの重要性に早くから気づき、啓蒙と同時に国際活動にとりくんできたことも見逃せない。和田氏の重要な業績の一つに、日本最大のコンピュータ関係の学会である情報処理学会の創設があるが、ある意味で情報処理学会は文字コードの啓蒙活動の中から生まれたといえるのである。情報処理学会がまとめた『日本のコンピュ−タの歴史』が文字コードに一章をさいているのには深い意味があるのだ。
和田氏には『電脳社会の日本語』のために取材させていただき、その後も不明点の確認のために何度も電話させていただいた。エネルギッシュで豪放磊落な方だった。
JIS C 6226(後のJIS X 0208、拙著中では「JIS基本漢字」)には「副委員長」として和田氏の名前が載っているが、実際は一度も委員会には出たことがなく、それどころか委員就任の委嘱すらなかったのだという。拙著中にははっきりとは書かなかったが、和田氏は勝手に名前を載せられたと言っておられた。
JIS C 6226(後のJIS X 0208、拙著中では「JIS基本漢字」)には「副委員長」として和田氏の名前が載っているが、実際は一度も委員会には出たことがなく、それどころか委員就任の委嘱すらなかったのだという。拙著中にははっきりとは書かなかったが、和田氏は勝手に名前を載せられたと言っておられた。
その事実は一部の人しか知らなかったらしい。和田氏の前に故林大氏に取材させていただいたが、インタビューが一通り終わったところで、林氏は今年(1998年)の正月、20年ぶりに和田氏と会って食事をした話を披露された。その席でJIS C 6226の委員会には自分は関係していないと和田氏が語ったので、驚いたということだった。「僕はてっきり和田さんの息のかかった委員会だったと思っていたんだけど、違うというんだよ」というようなことをおっしゃったが、公文書にはちゃんと名前が載っている。どうなっているのかと思った。
和田氏にインタビューした際、この件をうかがったが、非常に微妙かつシビアな話が出てきてしまい当惑した。和田氏のインタビューをサイトで公開しかったのはそういう事情があったのである。
この件は他の関係者にも確認したが、微妙な話なのでやめておこう。文字コード関係では書きにくい話がいろいろある。文字コードの取材では、文字になった記録が絶対ではないと知ったのが最大の収穫である。
和田氏が日本の文字コード、ひいては世界の文字コードにおこなった重要な貢献については「インターネットと漢字」に一端を紹介したが、詳しくは『電脳社会の日本語』を読んでいただきたい。
今、われわれ漢字文化圏の人間がインターネットで漢字を普通に使えるのは、和田氏の尽力のおかげなのである。和田氏の業績はもっと広く知られるべきだ。和田氏のご冥福をお祈りする。
これは二重底の映画である。一見、精神分析を小道具に使った中年のよろめきドラマのようだが、実はよろめきを小道具に使った精神分析ドラマでもあるのだ。すべての物語は精神分析医の寝椅子の上のような濃密な空間で展開する。こういうエロチックで手のこんだ映画はフランスでしか作れない。
父親から引き継いだ税理士事務所をいとなむウィリアム(ルキーニ)のところへ、ある日、アンナ(ボネール)という美貌の人妻が駆けこんで来る。彼女は予約に遅れた詫びをいい、夫婦生活の悩みをまくし立てるとさっさと帰っていった。ウィリアムは途中で同じ階の精神分析医のモニエ(デュショーソワ)と間違えたなと気づくが、アンナが一方的に喋りまくるので言いだせずにしまった。
翌週の同じ時間、またアンナがやってくる。ウィリアムは自分は医師ではないと告げるが、アンナは医師資格をもたないカウンセラーと思いこみ、夫婦の危機をあけすけに告白する。ウィリアムは他人の秘密をのぞき見る誘惑に負けて聞いてしまう。
三週目、アンナは来ない。ウィリアムは彼女が気になり、予約の記録が残っているはずのモニエ医師を訪ねるが、教えてくれるはずはなく、逆に経緯を洗いざらい喋らされ、診察料まで払う羽目に。
四週目、アンナがやってくる。彼女は精神分析医でもないのに精神分析医のふりをして夫婦の秘密を告白させたとウィリアムを責めるが、一通り怒りを吐きだしてしまうと、また告白をはじめる。その後は頻繁にウィリアムのところにやってきて告白をつづける。アンナはどういうつもりなのか、ウィリアムはまたモニエ医師に相談する。モニエ医師はアンナは最良の「耳」を見つけたのだと言い、診察費代わりに食事をおごらせる。
偶然の所産とはいえ、ウィリアムはアンナと転移関係にはいってしまっている。モニエ医師が診察料をとるのは伊達ではなく、ウィリアムはモニエ医師のスーパーバイズのもとにアンナの分析を進め、同時に自分自身の分析もはじめているのである。
それを端的に示すのは別れた妻ジャンヌ(ブロシェ)との関係だ。ジャンヌは大学図書館の司書だが、再婚が決まったというのに、事務所兼住居に頻繁に遊びに来ては一夜を共にすることもある。再婚相手のマルク(メルキ)はウィリアムとは対照的なマッチョな男で、ジャンヌはウィリアムに紹介するが、ウィリアムは嫉妬もあらわにマルクにつっかかる。完全なエディプス関係である。
ウィリアムとアンナの恋ははじまりそうではじまらないまま、分析は節目をむかえる。アンナは夫と離婚して行方をくらまし、ウィリアムも父親の事務所をたたんで新しい生活をはじめる。ラストは精神分析からいえばルール違反だが、映画の終わりとしてはこの方が好ましい。
ポアロとミス・マープルと並ぶクリスティーの第三のシリーズ、「おしどり探偵トミー&タペンス」の『親指のうずき』の映画化。フランス製作なので舞台はスイスに近いサヴォワ地方に移し、主人公の名前もベリゼールとプリュダンスに変わっている。
フランスで、200万人を動員する大ヒットになったそうだが、甘ったるい二時間ドラマにしか見えない。優雅な老後を送る夫婦を主人公にしたあたり、高齢化社会向けなのかもしれないが、映像が弛みきっていて、サスペンスも何も感じなかった。
BrotherのFAXプリンタ複合機のインクが切れたので、エレコムのインク詰替キットで補充してみた。
印刷はあまりしないので、インクの詰替なんていう面倒くさいことはやったことがなかった。しかし、Brotherの場合、日に数回ヘッドクリーニングをしてインクを浪費する上に、一色でもインクがなくなると、モノクロ印刷までできなくなる。ハードを安くする代わりにインクで儲けようというビジネスモデルなのだろうが、あこぎな仕様である。
詰替インクだけなら100円ショップでも売っているが、ネットで調べたところ、ドリルでカートリッジに穴を開けるような荒技を使わなければならない。また、インクの色合が純正と異なるので、カラー画像などはバランスが崩れるようだ。エレコムのインク詰替キットは100円ショップの6倍の値段だが、専用ノズルがついている上に、色合が純正に近いらしい。
詰替キットには4色のインクと詰替用ノズル、ビニール手袋、厚手のティッシュまではいっていた。4回詰替ができるので、使いきれば純正の1/6のコストだ。
はじめてのことなので、床に新聞紙を何枚も敷いてからやってみたが、作業は簡単で拍子抜けした。試しにカラー写真を印刷してみたが、あっさりした色調ながら中間色の階調がよく出ている。純正インクでカラー写真を印刷したことがないので比較はできないが、これだけ刷れれば十分である。
エレコムのインク詰替キットはキヤノンやエプソン向けも出ていて、評判がいい。
ブルーリボン賞監督賞を受賞したり、邦画ベスト1に選ばれたりした注目の映画だけに混んでいた。
カメラマンの猛(オダギリジョー)が母の一周忌のために久しぶりに山梨に帰るが、葬儀に出なかったことを父(伊武雅刀)に咎められる。家業のガソリンスタンドを切盛りする兄の稔(香川照之)との間にもわだかまりがある。
猛の幼なじみで、東京に出る前につきあっていた智恵子(真木よう子)は実家のガソリンスタンドで働いていて、独身の稔は好意をよせていた。猛は二人がいい感じなのに嫉妬し、彼女の家に上がりこんで関係を復活させる。
翌日、稔は子供の頃よく行った渓谷に猛と智恵子誘う。猛は一人で吊橋をわたって写真をとりにいく。稔は智恵子のそぶりから猛に好意をもっていることを勘づき、猛を追って吊り橋をわたろうとする彼女に追いすがるが、拒絶されたために揉みあいになる。智恵子は吊橋から転落する。茫然とうずくまる稔。
事件は事故として処理されたが、稔は罪悪感から荒れるようになり、喧嘩で警察の事情聴取を受けた際に、智恵子の転落は自分に責任があると自白してしまう。
東京で稔の逮捕を知った猛は伯父で弁護士の修(蟹江敬三)に強引に弁護を頼みこむ。裁判がはじまり、稔から逃げようとした智恵子が誤って落ちたという方向で落着するかに見えたが、面会にいった猛に稔はことさら軽薄にふるまい、彼を怒らせる。翌日、最後の証人として法廷に立った猛は稔が智恵子を突き落とすところを見たと証言する。稔は下獄し、刑期を勤めあげて出てくる。猛はむかえにいくつもりはなかったが、最後の最後にどんでん返しがある。
東京で奔放に暮らす弟と故郷で家を守る兄の葛藤が二重三重にいりくんでいるが、事態をさらに複雑にしているのは稔の自罰願望である。猛の記憶の取り違えは稔によって仕向けられた部分がある。ワルだが単純な猛のオダギリ、屈折した猛の香川、どちらもみごとだ。一番気の毒なのは、こういうややこしい兄弟関係に巻きこまれ、死んでしまった智恵子だろう。
西川美和監督自身がノベライズした小説版でていて、かなりディティールが追加されているらしい。
乙一の同題の小説の映画化。全盲の女性が一人暮らしする家に殺人容疑の青年が密かに住みつくというサスペンス・ドラマ。
交通事故の後遺症で失明したミチル(田中麗奈)は、駅を見下ろす一戸建てで父(岸部一徳)と二人暮らししていたが、父が急死し、幼なじみのカズエ(宮地真緒)に助けられながら一人で暮らしはじめる。
近くに住むアキヒロ(陳柏霖)は日本と中国のハーフで、一人で来日し、印刷工場で働いているが、生真面目に勤務するものの同僚とうちとけられず、先輩の松永(佐藤浩市)にいじめられている。
ある日、松永は駅で転落し、急行電車に轢かれて即死する。現場からアキヒロが逃げたことから、殺人容疑がかかる。アキヒロはミチルの家に逃げこみ、ミチルに気づかれないように同居生活をはじめる。
いい映画だが、129分は長すぎる。アキヒロは最初から同情的に描かれているので、ミチルが危険にさらされるという意味でのサスペンスは生まれず、中だるみがひどい。90分くらいに縮めた方がよかったと思う。
全盲を演じる田中麗奈の場面はすばらしい。一人だけの淡々とした日常の情景でも、眼を引きつける力がある。親友役の宮地真緒は好演。
アキヒロの陳柏霖の場面は図式的でだれる。お決まりのパターンなんだから、長々と説明する必要はなかった。先輩に佐藤浩市、上司に佐野史郎をもってきたのはバランスを崩した。
大昔、藤野節子主演の四季の舞台を見たことがあるが、蜷川版はまったく違う芝居になっている。オリジナルを変えているわけではない。かつての蜷川なら日本の状況に引きよせるために趣向を凝らしただろうが、今の蜷川は禁欲的にオリジナル通りにやる。それでも、四季版とは別物になる。四季版は魂の自由を求めるジャンヌが主人公だったが、蜷川版はジャンヌは受けに回っていて、傷ついたインテリたちの群像劇になっているのだ。
舞台には幕はなく、正面に巨大な十字架が下がり、左右にジャンヌを極彩色で描いた幕が垂れる。舞台にはボクシングのリングが置かれ、四方をベンチが囲む。役者が一人、二人とあらわれ、甲冑をつけたり、柔軟体操をしたり、雑談したり。出演者がそろったところで芝居がはじまるが、客電はついたまま。観客も裁判の傍聴人という見立てだろう。
コーション司教(益岡徹)率いる弁護側が上手に、ウォーリック伯爵(橋本さとし)率いる検事側が下手に陣取り、裁判の開始だ。ウォーリック伯爵は結論は最初から決まっているのだから、さっさと処刑しようと先制パンチをくりだすが、コーション司教は被告には物語を最初から演じる権利があるとカウンター攻撃。弁護側といっても、コーション司教は英国に協力したブルゴーニュ公国領の人間なので、ジャンヌ(松たか子)を無罪にするつもりはない。
ジャンヌの物語を子供時代からはじめることになる。最初は両親の無理解。天使のお告げを受け、帰りの遅れたジャンヌを父親(二瓶鮫一)は頭から男ができたと決めつけ、怒鳴りつける。母親(稲葉良子)は庇うものの、男ができたという思いこみは同じだ。王太子に会いにいき、英国軍を追いださなくてはと言うと、余計誤解がひどくなる。
守備隊長のボードリクール(塾一久)に会う場面から、ジャンヌの本領が発揮される。王太子のいるシノンへ連れていってくれるように頼みこむのだが、屈強だが単細胞な騎士をジャンヌは手もなく乗せてしまうのだ。言葉の力で無理矢理ねじふせるのではなく、相手の劣等感を癒す一種のカウンセリングである。
ジャンヌはボードリクールの部下についてシノンに赴くが、フランス側の敗色が濃いだけに宮廷はすさみきっている。シャルル王太子(山崎一)は王妃(月影瞳)と妾のアニェス(小島聖)の御機嫌とりにあけくれ、政治は投げている。兵士の給料さえはらえないのに、高価な衣装をねだるアニェスを叱ることもできない。シャルルは頭のいい男だけに、自信を失い、自虐的になっている。ジャンヌが面会を求めてきても、からかって笑い物にするしようとする。山崎はひねくれたインテリ役がはまっている。
だが、ジャンヌは従者に化けたシャルルを見抜く。シャルルは人払いをしてジャンヌと二人だけになる。ジャンヌはまたしてもカウンセリングの才能を発揮し、シャルルに自信をとりもどさせ、パスカルの賭の論理で全権の委任をとりつけてしまう。
二幕はジャンヌの逮捕からだ。コーション司教らの追求の後、真打ち登場とばかりに異端審問官(壌晴彦)が登場するが、迫力はあるものの、あまりおもしろくない。むしろ、英国に協力せざるをえなくなったコーション司教の弁明がいい。ヴィシー政権の自己弁護につながるのだろうが、インテリの屈折した心情がこの芝居の見せどころだ。
ジャンヌは味方から見捨てられ火刑に処せられるが、煙に巻かれ、十字架を、十字架をと叫んでいるところに、ボードリクールが止め男よろしく駆けつけ、こんな哀しい結末は駄目だと一喝する。
場面は一転してランスの荘厳な戴冠式に。ジャンヌは旗を掲げてシャルルにしたがい、シャルルは大司教から王冠を授けられる。ジャンヌの少年のような凛々しい姿がかっこいい。
この芝居のジャンヌは戦う聖女ではなく、心を癒すトリックスターである。ジャンヌと出会うと、皆、心の傷をさらけだしてしまう。初演当時のフランスは対独協力という政治的な傷で病んでいた。今の日本の状況とは直接つながらないし、かつての蜷川演出のようなことさらつなげようという脚色もされていないが、オリジナルの通りにやっても伝わってくるものがある。
イエス一家の墓が発見されたというニュースがアメリカで話題になっている(ITmedia、zakzak)。墓そのものは1980年に発見されていたが、DNA鑑定で埋葬者間の親子関係が証明され、ディスカバリー・チャンネルでジェームズ・キャメロン監督製作の「The Lost Tomb of Jesus」というドキュメンタリー番組が放映されることになったので、ニュースになったもの。番組サイトも公開されている。
エルサレム近郊で発見された問題の墓からは10個の骨壺がでているが、そのうちの6個に名前が記されていた。名前はイエス、マリア、マタイ、ヨゼフ、マグダラのマリアだった。イエスとマグダラのマリアの二人と「イエスの息子、ユダ」の親子関係がDNA鑑定で確認された。『ダヴィンチ・コード』で広く知られるようになったイエスとマグダらのマリアの結婚説を裏づける格好である。
裏づけるといっても、名前の一致だけである。イエスもマリアもヨセフもユダもありふれた名前だったし、紀元前後の墓は何万も残っているので、聖家族と同じ名前の家族があったとしても不思議はない。
イエスの刑死後も、イエスの信者の共同体はイエスの弟のヤコブが指導のもとにエルサレムに存続していた。エルサレム陥落時に共同体は消滅するが、一部の信者はローマ軍に包囲される前に脱出していたと考えられる。もしイエス一家の墓が存在したなら、聖墳墓教会のように聖地として語りつがれただろう。
ZAKZAKの続報には「イエスの墓であると「信じている」と強調した
」そうだから、キャメロン監督自身も眉唾な説であることは重々承知しているのだろう。
キャメロン監督は同じディスカバリー・チャンネルで「出エジプト記の“真実”〜奇跡は本当に起こったのか?〜」という番組を製作し、日本でも昨年10月にNHKの「地球ドラマチック」枠で放映された。
内容的には金子史朗氏の『聖書の奇跡』とかなり重なっていたが、モーセの海の横断は紅海ではなく湖だったとか、シナイ山は本当はここだとか、自信たっぷりに断定していて、なんだかなと思った。
アルファベットのルーツである原シナイ文字の発見された洞窟を実際に現地に行き、紹介してくれたのはうれしかったが、原シナイ文字を書いたのはエジプトで奴隷にされていたユダヤ人だと決めつけていた。
確かにそういう説はあるが(たとえばジョン・マンの『人類最大の発明アルファベット』)、原シナイ文字の書き手がユダヤ人だと断定する証拠はない。あくまで仮説の一つなのである。
今回の番組は『ダヴィンチ・コード』の余波で日本でも注目を集めるだろうから、NHKではなく民放が買って二時間番組に仕立て直すかもしれない。その時にまたとりあげよう。
江戸東京博物館の「特別展 江戸城」を見た。終わりが近いので、すこぶる混んでいたが、展示は古文書や陶磁器の破片ばかりで、がっかりするくらい地味だった。
松本城天守閣と江戸城天守閣の同縮尺の模型をならべ、大きさを比較する展示があったが、松本城の天守閣は見たことがないので、大きさが実感できなかった。有楽町マリオンあたりと較べた方がわかりやすかったろう。
最初の天守閣は50年で消失した。二度再建されたが、どちらも十数年しかもたなかった。江戸時代の2/3の期間、江戸城は天守閣のない城だったのだ。
本丸御殿大広間のCG映像が売りだったが、あっけなかった。下段、中段、上段と三つに分かれているとか、将軍専用の出入口とか、京都御所の構造によく似ていたが、京都御所との比較はなかった。
一番おもしろかったのは会場を出たところに展示してあった幕末の江戸城の写真だった。外国人が城内にはいって撮影しているわけだから、多分、明けわたし後だろうと思うが、うらぶれていて落日の悲哀を感じさせた。
堀にわたされた橋はすべて木製で、ごつい石垣に較べて、いかにもはかなげである。敵軍が攻めてきたら橋を落として立てこもるように作られていたわけだが、そうなる前に無血開城してしまった。天守閣が残っていたとしても、同じ結果になっていただろうか。
「雪国」の最初の映画化である。島村は池部良、駒子は岸恵子、葉子は八千草薫。フィルムはやや暗めだが、状態は悪くない。
新文芸座の池部良特集で見たが、往年の池部ファンとおぼしいお婆さんがたくさん来ていた。新文芸座がはじめてなのか、二本立てのシステムについてスタッフに質問している人もいた。あの婆さんたち、どこで情報を仕入れたのだろう。
トンネルを抜けて夜の雪景色が広がるという原作通りの展開だが、岸恵子の駒子を見て、おやと思った。山口もえそっくりなのである。顔が似ているだけでなく、声も、話し方も、天然ぶりも似ている。なんだかなと思ったが、この駒子、どんどん輝いてくる。島村と引かれあう条は初々しくて、可愛らしくて、絶品。もちろん、濡れ場はないけれども。
幸福感に酔う二人だが、葉子や按摩を通じて、駒子が背負う重荷がしだいに明らかになっていく。老いた旦那と寝たきりの許婚だけでも重いのに、養母の置屋の女将と葉子までがのしかかっているのだ。葉子の八千草は美人すぎるが、青臭い一途さが駒子と好対照だ。
後半、駒子を次々と不幸が襲うが、演出が急に一本調子になる。多くの監督は不幸な場面を舌なめずりしながら描くものだが、豊田四郎監督は幸福な場面の方が好きらしい。
特筆したいのは湯沢の町と世相がくっきり描かれ、物語に厚みをくわえていること。温泉町の中で駒子がどの様な境遇に置かれているかがよくわかる。豊田監督の社会を見る目がしっかりしているのだと思う。
これだけの作品なのにDVDになっていないのは難とも残念。早くDVD化してほしい。
志賀直哉の代表作の映画化である。上映前にフィルムの状態が悪いとアナウンスがあったが、傷はそれほど目立たないものの、コマ飛びが多く、2時間24分のはずが2時間15分ほどに縮んでいた。
時任健作は池部、直子は山本富士子、お栄は淡島千景だが、脇は文学座と俳優座の俳優が固めている。高井役の北村和夫は北村有起哉にそっくり。豊年だの娼婦は岸田今日子(笑)。要は仲代達也。みな若い。
母の不貞で生まれた謙作が妻の不貞にあうという因縁話にしぼってまとめいて、ずいぶんわかりやくなっている。わかりやすいといっても、謙作が大した理由もなく不機嫌になることに戸惑う人がいるかもしれない。しかし、これは原作がそうなのである。志賀直哉における不機嫌の問題は根が深く、山崎正和などは『不機嫌の時代』でわざわざ一章をさいて論じているくらいだ。
豊田四郎はこの映画でも幸せな場面がうまい。謎の令嬢としてあらわれる山本富士子のなんという初々しさ。見合の場面も、新婚の場面も、ころころよく笑う。あでやかで、瑞々しく、幸福感に満ちている。
しかし赤ん坊が死に物語が陰に点ずると、またもや一本調子。豊田監督は不幸な場面になると、どうしてこう下手なのだろう。不幸が十分描かれていないので、最後の和解が平板で終わった。
「雪国」と較べると落ちるが、前半の山本富士子は本当にすばらしい。この映画も早くDVD化してほしい。