1875年3月15日、東京府麹町区隼町(現在の最高裁判所付近)に、蒲原忠蔵の長男として生まれる。本名、隼雄(町名の隼町にちなんで父の友人が命名したという)。生来虚弱だったために、無事に育つとは期待されず、出生届は一年遅れで出された(戸籍上の出生日は翌年の同月同日)。父、忠蔵は肥後藩で江藤新平と並び称された大木民平(大木喬任)の従者として江戸に出、新政府が成立すると、大木の引きで官界にはいった。郷里に正妻と二人の娘がおり、有明の生母、ツネは内縁の関係だったが、正妻の死後、正式に入籍するも、1883年に離縁される。有明は郷里から呼びよせられた異母姉、ケサに育てられる。
1886年、皮膚病治療のために、鐘ヶ谷ろくが経営する塩湯に預けられる。彼女はカトリック信徒で、後に雙葉女学校の校長となり、終生、有明を庇護した。
1893年、第一高等学校受験に失敗し、神田錦町の国民英学会に入学する。『大乗起信論義記』を読みはじめ、仏教思想に親しむようになる。翌年、国民英学会を卒業。同人誌「落穂雙子」を創刊。はじめての詩作「秋の山ざと」を発表。
1895年、虚弱だったので、徴兵検査までに身体を鍛えるために、父の郷里の佐賀県須古村におもむき、義兄の経営する郵便局を手伝う。翌年の徴兵検査では丙種。
1898年、「大慈悲」が読売新聞の懸賞小説の一等当選作に選ばれるが(選者は尾崎紅葉)、父の郷里にちなむ有明の筆名をはじめて使う。小説第二作「南蛮鐡」を「文藝倶楽部」に発表するが、小説に限界を感じ、以後は詩作に向かう。長詩「夏のうしほ」を「帝国文学」に、連作「野飼笛」を読売新聞に発表する。この年、島崎藤村の知遇をえ、田山花袋、柳田國男を紹介される。
1901年、創刊間もない「明星」に「幻影」、「牡蠣の殻なる」を発表。8月からは四・七・六調のソネットを「独絃哀歌」として連載。独絃調と称される。巌谷小波の木曜会に出席するようになり、翌年、第一詩集『草若葉』を刊行。
1903年、『独絃哀歌』を上梓。翌年、白馬会展覧会で青木繁の「海の幸」に感動し、青木と親交を結ぶ。1905年、『春鳥集』を刊行。自序で象徴主義を称揚したことから、象徴主義が詩壇の話題となる。
1908年、近代詩の最高の達成といえる『有明集』を刊行するが、おりから台頭した自然主義派の若い詩人たちから集中砲火をあびる。日本にいたら擁護したはずの上田敏は外遊中、「明星」は北原白秋らの脱退騒動の最中で、有明は詩壇で孤立し、前年腎臓病を患った直後だったこともあって、ノイローゼに陥る。以後、詩壇に距離を置くようになり、後に日夏耿之介から「弱腰」を批判される。ボードレール、マラルメ、ランボーの散文詩の訳を試み、自身でも散文詩に向かうようになる。
1914年、「表象派の文学運動に就いて」を「新潮」に発表。
1922年、アルス版『有明詩集』を刊行。ほとんどすべての作品を改作するが、改悪という評価が多い。以後、最晩年まで、旧作を延々と推敲しつづける。翌年の関東大震災で鎌倉の家が破損。修理後、貸家にし、自身は読者の山本秀雄の世話で、静岡県鷹匠町に移転する。
1935年、新潮文庫版『蒲原有明詩集』を刊行。
1945年、戦災で自宅が全焼する。山本秀雄宅に避難し、敗戦後、当時、川端康成に貸していた旧宅の一室に移る。野田宇太郎の求めに応じ、自伝を「藝林閒歩」に連載。1947年、『夢は呼び交わす』として刊行されるが、長らく沈黙していた有明が存命していたというニュースは文壇を驚かし、日本芸術院会員に推挙される。
1951年、新潮社版『藤村全詩集』に解説を寄せる。
1952年2月3日、急性肺炎で死去。77歳だった。