読書ファイル   1999年 5- 8月

加藤弘一
1999年 4月までの読書ファイル
1999年 9月からの読書ファイル
書名索引 / 著者索引
May
川端康成 『浅草紅団』
村上春樹 『約束された場所で』
井上ひさし 『東京セブンローズ』
西鋭夫 『國破れてマッカーサー』
June
石川九楊 『二重言語国家・日本』
阿辻哲次 『漢字の社会史』
日高敏隆&竹内久美子 『もっとウソを!』
竹内久美子 『小さな悪魔の背中の窪み』
竹内久美子 『賭博と国家と男と女』
July
竹内久美子 『浮気人類進化論』
竹内久美子 『男と女の進化論』
竹内久美子 『そんなバカな!』
竹内久美子 『パラサイト日本人論』
竹内久美子 『BC!な話』
ベイカー 『精子戦争』
August
モーガン 『人は海辺で進化した』
モーガン 『進化の傷あと』
モーガン 『女の由来』
幸田露絆 『太郎坊』
幸田露絆 『運命・幽情記』
幸田露絆 『蒲生氏郷』
幸田文 『流れる』

May 1999

川端康成 『浅草紅団』 講談社文芸文庫

 川端康成というと『雪国』、『伊豆の踊り子』の印象が強いが、若い頃は新感覚派の旗手でならしていて、実験的な作品を盛んに書いていた。実験は実験であるから、おもしろいはずはないのだが、一番とんがっていた時期に『浅草紅団』という長編を書いていて、一部で評判がいいのである。今回、はじめて読んでみたが、なるほど、これならおもしろい。エロ・グロ・ナンセンスの時代の熱気を、意識の流れ風の短文の連続で活写している。川端がこういうものを書いていたのかと新鮮な驚きをおぼえた。

 紅団(くれないだん)とは浅草に出没する不良少年・少女のグループで、チーマーのようなものか。当時の浅草は現在の渋谷と新宿を合わせたような盛場で、花屋敷(!)や昆虫館、カジノ・フォウリイのレビューに日本中から人がつめかける一方、乞食や浮浪人の群が跋扈していた。手術で片輪になった人間が見世物小屋に出たり、気のふれた娘がうろうろしていたりと、都市の光と影が目まぐるしく交錯する。
 ヒロインのざんぎり髪の弓子はなかなか魅力的なのだが、後半の「浅草祭」で彼女が行方をくらましてしまうと小説はトーンダウンする。前半の調子で突っ走れば、文句なしの傑作になっていたのだが。

 映画になる話だな思い、検索したところ、1952年に京マチ子主演で映画化されていた。京マチ子の弓子はぜひ見てみたい。

村上春樹 『約束された場所で』 文藝春秋

 本書は地下鉄サリン事件の被害者を取材した『アンダーグラウンド』の姉妹編にあたる本で、オウム真理教信者のインタビュー集である。版元は講談社から文藝春秋に変わっている。信頼していた講談社の担当者が異動したためらしい。

 『アンダーグラウンド』では61名が証言していたが、こちらは8名だけである。証言者は文藝春秋のルートで集められたという。

 プロフィールの紹介につづいてインタビューを掲載するフォーマットは同じだが、異なるのは、村上氏が聞く一方ではなく、反論したり聞きかえしている点だ。一人あたりのインタビュー部分も、前著の倍以上の長さになっている。

 本書に登場するのは一連の犯罪に係わらなかった下級信者(平サマナ)で、幹部はいない。脱会した人、中途半端に距離をおいている人、信者をつづけている人、教団に破門された人とさまざまだ。麻原と直接話したことがあるのは『オウムからの帰還』の高橋英利氏と、一時お気に入りだったが、電気ショックで記憶を消されたと語る女性だけで、他の証言者にとっては麻原は雲の上の存在だったようだ。警察のスパイだったことを認めている証言者が一人いたが、たいした情報は流せなかっただろう。

 これまでにもオウム信者のインタビューは数多く発表されているが、対象となったのは主に幹部で、下級信者の発言をこれだけ集めた記事や本はなかったと思う。

 麻原に心酔していた人もいたが、意外にも多くの証言者はそこまでのめりこんでいなかった。麻原にも教義にもそれほど興味はなく、チベット密教の修行をする場として、あるいは自分なりの修行をする場として、オウムの出家生活を利用していた人が多い。

 出家すると全財産をオウム教団に寄進し、「ワーク」として労働力を提供しなければならないが、20代や30代では財産というほどのものはなく、下級信者の中には「ワーク」を大学のサークル活動の延長のように感じた人もいたようだ。普通、素人には手が出せないアニメ製作や溶接作業が「ワーク」としてまわってくることもあった。

 精神世界に興味をもつ人は一般社会では生きにくいが、オウムで出家すれば、劣悪とはいえ衣食住が保証され、スピリチュアルな話題を語りあう仲間ができ、年に何度か修行三昧の期間をもつことができた。「楽園」という言葉を使う証言者までいた。

 被害者にとっては腹立たしいだろうが、下級信者は一連の犯罪について知らされておらず、オウムがやったことは認識しても、実感がともなわないという。タントラ・ヴァジュラヤーナの教義についても、あることは知っていたが、それを実践するのは「ステージ」の高い人たちだけで、自分には無関係と思っていたというわけだ。

 しかし、本人にとってはいくら無邪気で純粋な修行であっても、知らないうちに犯罪に加担していたという事実は消すことができない。

オウム教団の位階

 オウム教団が学歴偏重で、細かく位階が決められたピラミッド型の競争社会だったことは多くのルポルタージュが伝えているが、本書の証言者はそうした出世競争から降りた人たちである。『アンダーグラウンド』の証言者について、村上氏は「自分のペースで生きている人」と形容していたが、本書の証言者もまた「自分のペースで生きている人」ばかりだ。前著は村上氏の小説と地続きと感じたが、本書ではその感をいよいよ強くする。

 もちろん、本書に登場した下級信者にたまたまそういう人が多かっただけで、生涯かけて築いた財産を根こそぎ奪われたり、犯罪の片棒を担がされて一生を棒にふったり、殺害されて骨が残らないほど高温で焼却された人など、悲惨な例は枚挙にいとまがない。しかし、一部の下級信者にとっては、オウムが居心地のいい場所だったことも否定できないだろう。マスコミによっておどろおどろしく描かれたオウム真理教に、こういう一面があったことを記録した点で、本書は貴重だと思う。  巻末に河合隼雄氏との二つの対談、『アンダーグラウンドをめぐって』と『「悪」をかかえて生きる』が収録されている。村上氏は二年前に『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』で河合氏と対談しているが、今回は初めて聞き手にまわった小説家が、聞きとりという行為について、カウンセリングの専門家と語りあっており、これはこれで興味深い。

2026-10-14のノート

 村上氏は本作発表の五年後、『村上春樹全作品1990〜2000』第七巻に収録するにあたり、「解題」を寄せている。

 読者からの反響について述べているが、オウムとは別のカルト教団から脱会したというメールを受けて、村上氏はカルト宗教は独自の閉鎖的な物語の中に信者を引きずりこむが、信者は物語の完結性に惹かれているので、その完結性が危険なことに気づかないと指摘し、次のように書いている。

 そのような物語のインスタント完結性に対抗できるものは、論理ではなく、知識でも道徳でもなく、「べつの物語性」でしかないと考えている。べつの「開放された」物語性だ。簡単に言い換えてしまえば、それは物語の「開放系」と「閉鎖系」とのあいだの闘いなのだ。

 この認識は、現実社会への直接的なコミットメントを説く議論より、はるかに説得力がある。作家にできることは、人々に行動を起こさせることではなく、閉鎖された物語に対抗する開かれた物語を紡ぐことではないか。

西鋭夫 『國破れてマッカーサー』 中央公論社

 近年、占領史の実証的研究が進んで、マッカーサー司令部がなにをやったのかがあきらかになりつつあるが、本書はその嚆矢となった本である。アメリカでは、公文書は30年後に公開されるが、著者は占領時代の公文書をはじめて閲覧した研究者で、1982年にフーバー研究所からUnconditional Democracy(『無条件民主主義』)を上梓している。本書はこの本をもとに、最新の研究成果をもりこんで日本語で書き下ろしたものだという。

 18年前に書かれた本がもとだけに、今となってはどこかで読んだ話ばかりだが、未踏の領域にはじめて統一的なヴィジョンを打ち立てた仕事だけがもつ迫力があり、一気に読めた。

 後半ではアメリカ教育使節団とその影響に焦点を絞っている。ホール少佐が45年6月に書いた占領後の言語政策に関する機密文書は大きな発見だと思う。細かい部分では異論もあるだろうが、まず本書を読んで、全体のイメージをもつことは、あの時代を理解する上での近道になると思う。

June 1999

石川九楊 『二重言語国家・日本』 日本放送協会

 この本はよくも悪くも預言者的本なである。無知と事実誤認の合間に、天啓と思わせる洞察がきらめいている。

 言語の分類として、屈折語、孤立語、膠着語があるのはご承知の通りだが、膠着語はなぜか中国を囲むように分布している。東アジアはもともとは膠着語圏だったが、そこに孤立語を話す集団が勢力を拡げ、中国人になったという説が有力のようだが、石川氏は膠着語とは漢字の圧力によって変形された言語だと断言する。さらに、中国語とその周辺の言語が孤立語的形態をとったのは、漢字の特性ゆえだという。

 トンデモ本すれすれのひらめきが堰を切ったように奔出し、その多くは見当違いなのだが、書家という身体性の現場でものを考えている人間の迫力があり、思考を刺激してくれる箇所がすくなくない。

 にわかには判断できないが、注目すべき本であることは確かだと思う。

阿辻哲次 『漢字の社会史』 PHP新書

 阿辻氏の一般向け啓蒙書はほとんど読んでいるのだが、いよいよネタに詰まったのか、楔形文字やヒエログリフ、文房具、紙にまで話を広げている。紙はともかく、楔形文字は漢字の先生には荷が重いんじゃないかと思った。読んでおもしろいのは漢字について蘊蓄を傾けた部分で、字体の変遷、活字と手書文字の相克あたり。

 最後の章で漢字改革と文字コード問題にすこしだけふれているが、楔形文字の受け売りをするくらいなら、こっちに紙幅をさいてほしかったと思う。

日高敏隆&竹内久美子 『もっとウソを!』 文藝春秋

  科学エッセイで知られる竹内久美子氏と、彼女の恩師にあたる日高敏隆氏の対談である。竹内氏の名前は知っていたが、唯遺伝子論だとか、ローレンツ説の通俗版だとかいう話を聞いていたので、これまで本を手にとったことはなかった。日高氏との対談なら、半分はおもしろいだろうと読んだが、認識をあらためた。竹内氏は芸達者だ。

 いきなり精子競争の話でパンチをあびせてくる。竹内氏は塾の講師をやっていたことがあって、男女の話を枕にすると小学三年生でも目の輝きが違ってくるそうである。断片的に聞く竹内理論から、困ったオバサンがいるものだと思っていたが、どうも動物行動学の話をするための確信犯的下ネタだったようである。

 最初の本を出すまでの裏話だとか、英国の学会のゴシップだとか、いろいろおもしろい話題が出てくるが、「科学とはウソをつくことだ」という日高説を弟子として実践しているというくだりは興味深い。

 日高氏のいう「ウソ」とは捏造のことではない。科学理論とは自然を理解するために人間が作った仮説であり、単純化したモデルにすぎないという意味だ。われわれは理論というウソによって、自然の一面をようやく理解することが出来るのである。

竹内久美子 『小さな悪魔の背中の窪み』 新潮文庫

 血液型占いを枕に、免疫学を噛みくだいて解説した本だが、かなり本気の書き方である。読んでいるうちに、血液型と性格には本当に関係があるのでは……という気になってきた。

 血液型は赤血球だけの型ではない。さまざまな細胞や組織表面を覆う糖鎖抗原の型であり、免疫の問題に直結するのだ。

 病原体の中には免疫機構の攻撃をかわすためにA型やB型の糖鎖をまとっているものがあるので、血液型によって免疫力に差がでてくる。A型はA型の糖鎖をまとった病原菌に弱く、B型はB型の糖鎖をまとった病原菌に弱い。本書によれば、癌細胞はなぜかA型の糖鎖をまとっているので、A型が弱い。糖鎖にまどわされないO型は一番感染症に強く、癌に対しても抵抗力があるというのだ(もちろん、例外はあるが)。

 感染は人間同士の密接な接触によって広がるから、A型では社交性の高い遺伝子をもった人は死ぬ確率が高くなり、代をかさねるうちにA型は非社交的な性格の人間が増えてくる……

 読んでいる間は説得されてしまったが、よくよく考えてみると、こういう淘汰が起こるには、血液型そのものが社交性に影響するか、社交性の遺伝子(そんなものがあるとしての話だが)と血液型の遺伝子が染色体の近い場所にある必要があるだろう。血液型占いの免疫学的説明は、『もっとウソを!』で述べられていた日高敏隆氏の「科学とはウソをつくことだ」という説の大胆な実践だったようである。

 「ウソ」は「ウソ」として、HLA型と自己免疫疾患の高い相関やP式血液型と鬱病の関係など、おもしろい話がたくさん出てきて、雑学が広がった。

竹内久美子 『賭博と国家と男と女』 文春文庫

 共和制は古代ギリシア時代に萌芽が見られたが、すぐに君主制にもどってしまったと著者は言う。本格的に共和制が広まったのは、たかだかこの二百年のことにすぎないが、本書はなぜ君主制が長くつづいたかの考察を柱にして、動物行動学の見方を紹介した本である。

 著者によれば、君主制と階級制は動物の社会進化の歴史の中で自然発生し、長い淘汰の試練を受けながら今も残っている。それに対し、共和制や社会主義は「人間の頭の中から出てきた思想の産物」にすぎず、遺伝子に太刀打ちできるわけがないというわけだ。すでに社会主義は倒れ、共和制も世界中できしみをあげており、数百年後には君主制が復活しているだろうとまで著者は書いている。

 しかし、人間の階級制を動物の順位制の延長と考えるのは無理がありすぎるだろう。岸田秀は、人間は「本能が壊れた動物」であり、壊れた本能の代りに社会制度を作りあげてきたと指摘した。動物の順位制と人間の階級制は似ているようでも、別ものなのだ。

 大がかりな仮説をつくりあげたのは楽しいが、今回の「ウソ」は不発に終わったようである。

July 1999

竹内久美子 『浮気人類進化論』 晶文社

 竹内久美子の処女作だが、ひょっとしたら本当の処女作ではないかという印象をもった。雰囲気が微妙にカタイのである。最近のオバサンくさい文体とは明らかに違う。

 ゴリラ、チンパンジー、ヒトは、遺伝子レベルではひじょうに近い関係にあるが、ゴリラは体格を、チンパンジーは睾丸を、ヒトは脳を巨大化させた。

 ゴリラは一夫多妻のハーレムを作ろうと他のオスと張りあった結果、より大きな体になり、チンパンジーはメスが多数のオスと交わる乱婚状態の中で、なんとか自分の子孫を残そうと、睾丸を大きくして精子を増やした。

 とすると、人間が脳を発達させた理由も生殖産略から説明できるのではないか、というのが前半のテーマである。理科系男、文科系男の二分法はすでに登場している。

 後半は子殺しの話で、ピグミーチンパンジー(ボノボ)を補助線に、ヒトが一年中発情するようになったのは、子殺しを防ぐためだという仮説を紹介する。

 文科系・理科系の二分法はともかく、子殺し防止説はかなりそそられる。もし日本人がハヌマンラングールだったら、年間、数百万件の子殺しが起こるが、実際の子殺しは、著者によると、1700件しか起きていないそうである。こういう過激な試算は楽しい。

竹内久美子 『男と女の進化論』 新潮社

 竹内の第二作だが、この段階で、文章が完全にオバサン化している。

 ダーウィンの母方の祖父が高級陶器ウェジウッド社の創業者だというのははじめて知ったが、それ以外はどこかで読んだ話ばかりで、退屈だった。話術がうまくなってからの本を先に読んでいるので、余計あらが目立つ。

 男が狩りに出かけ、女が留守を守るという性的分業説を現在の男女関係に結びつけるのいかがなものか。ポルノとお笑いは、動物の劣位者が優位者に発する「なだめ信号」が起原なので、どちらの担い手も社会的地位が低いとしているが、最近はそんなことはないだろう。本能で決まる決定論で文化を説明するのは無茶である。

竹内久美子 『そんなバカな! 遺伝子と神について』 文春文庫

 利己的遺伝子がテーマである。最初の章はホールデン、ハミルトン、ドーキンスと、英国の大物学生物者のゴシップ列伝だが、ゴシップで興味を引きながら、利己的遺伝子説の沿革をたどっている。

 一段落したところで、いよいよ血縁淘汰説に踏みこむ。自分の子供を残さなくとも、兄弟姉妹、従兄弟の繁殖を助ければ、結果的に自分の遺伝子を広めることが出来るという仮説だ。

 子供を残さない個体の献身は、かつては「種の繁栄のための自己犠牲」と説明されてきたが、そうした見方を全否定したわけで、痛快である。道徳訓話を復活させようという動きがあるようだが、中学生に読ませるべきはこういう本だと思う。

竹内久美子 『パラサイト日本人論 ウイルスがつくった日本のこころ』 文春文庫

 日本人の起源論を竹内久美子流に料理した本である。尾曲がり猫から説き起こす出だしはうまいが、後はどこかで読んだ話の連続で退屈だった。

 独自の味つけもあるが、論理展開でねじ伏せるようなパワーが見られない。ヘーゲルの弁証法にせよ、岸田唯幻論にせよ、すべてを説明する理論は偉大なるマンネリにならざるをえないが、竹内理論は中途半端なマンネリで終わっている。

 最後の章で ATLウイルスがべたべたした人間関係を好む縄文人気質を誘導したという、例によって眉唾な説を出してくるが、あまりにも無理がありすぎて、ウソになりきれていない。男女の枠を越えた話になると、文系の基本的知識の欠如が効いてくるようだ。

竹内久美子 『BC!な話』 新潮社

 表題の「BCな」とはBiological Correctnessで、Political Correctness(PC)に対抗して作った造語だそうだ。PCと称してずいぶん無茶なことが主張されてきたから、竹内流の BCで解毒しようというわけだ。

 それをいうなら、竹内の本はすべて「BCな話」になるが、この本でことさら表題にしたのは、精子競争をテーマにしたからだろう。ロビン・ベイカーとマーク・ベリスの研究をおもしろおかしく紹介していて、竹内本の中でもとりわけおもしろい本に仕上がっている。例によって身も蓋もない話がつづくが、カミカゼ精子の話などは抜けている。別の本で書くつもりだろうか。

 最後の章では同性愛の遺伝子が母方で遺伝することがわかり、遺伝子の場所も特定されているという研究が紹介されている。いかにも「BC」な話である。

 男の性行動については身も蓋もない進化論的説明を嬉々として展開してきたのに、レイプとなると「もう何が何だかさっぱりわからない。誰か助けて!」と逃げてしまう。男についてあれだけ書きながら、これはないだろう。自分もまだ女だとでも言いたいのだろうか。

ベイカー 『精子戦争』 河出書房

 竹内久美子の『BC!な話』の種本が翻訳されていた。正確にいうと、種本といえるのはロビン・ベイカーとマーク・ベリスが1995年に出した"Human Sperm Competition"で、本書は翌年、ベイカー単独で一般向けに書き下ろした解説本である。「訳者あとがき」に「日本でも、自分の説というよりはほとんど全編(!)ベイカーの精子競争の紹介に終始する本まで出版されている」とあるが、これは明らかに『BC!な話』を指している。

 各章の前半では小説風に場面を提示し、後半で精子競争の観点から、人間行動の自分自身にも隠された意図を解説するという構成になっている。結論だけが書いてあるので、にわかに信じられないかもしれないが、ベリスとの共著では根拠となった実験について詳述してあるはずだ。『存在と無』を思わせるような有無をいわさぬ迫力がある、といっては言いすぎだろうか。

 精子競争とは、他のオスの精子との競争という意味である。ベイカーによれば、ヒトはチンパンジーほどではないが、メスが多数のオスと交わる乱交状態を長期間つづけてきた。自分の子孫を残すには、他のオスの精子をおさえて受精を勝ちとらなければならない。

 たとえば、ヒトの精子は奇形が多いことで知られている。正常な精子は15〜20%しかなく、80〜85%は頭がなかったり、頭が二つあったり、尾が短かったりする奇形精子だが、出来そこないと言うにはあまりにも多すぎる。なぜヒトは、直接受精に結びつかないように見える精子をこれほど大量に作るのか?

 ベイカーは奇形精子は出来そこないなのではなく、他のオスの精子と戦い、精子競争を勝ちぬくために攻撃や防御に特化した精子だという説を提唱する。カミカゼ精子説である。

 ベイカーはさらにペニスの形状も精子競争の結果だと主張し、根拠となる実験もおこなっている。具体的には書きにくいので、興味のある人は本書を読んでほしい。

 専門書を一般向けに書きなおした本なので、論旨は明解だが、あまりにも明解すぎて、気軽には読めないかもしれない。意識にはうかがいしれない複雑な計算を脳の裏側でやっていて、精子量を勝手にコントロールしているというのは恐ろしすぎる。これが事実だとしたら、人間の意識とはなんなのか。

 この本は感情的に逃げ場がなく、考えこまされてしまう内容を含んでいる。精子競争を艶笑小咄のレベルで消費したい向きには、口当たりよく薄めてある竹内の本の方をお勧めする。

August 1999

モーガン 『人は海辺で進化した』 どうぶつ社

 ヒトはチンパンジーとの共通祖先からわかれて進化する初期段階に、半水生生活を送っていたという説がある。アクア説(Aquatic Ape Theory = AAT)で、モリスの『裸のサル』で短い紹介を読んで以来、ずっと気になっていたが、アクア説入門というべき本書が邦訳された。

 ヒトとチンパンジーの遺伝的距離はゴリラとチンパンジーの距離よりも小さいが、外観や行動はチンパンジーとゴリラがよく似ていて、ヒトは似ても似つかない。というより、ヒトはチンパンジーやゴリラのみならず、霊長類一般からかけ離れているのである。

 ヒトを特異な霊長類にしている体毛の喪失、汗腺の発達、皮下脂肪の蓄積、流線型の体型、咽喉の後退、涙腺の発達といった特質は、主流のサバンナ説では十分説明できないが、進化の一段階で水生生活を送り、水中に適応する進化をしていたと仮定すると、簡単に説明できるとするのがアクア説である。体毛の喪失などの特徴はイルカ、アシカ、ラッコなどの水生哺乳類や、ゾウ、カバなど、半水生の祖先をもつと考えられる哺乳類には、普通に見られるからである。

 二足歩行についても、貝やナマコ、ウニなどを採集するために海に入っているうちに、自然に身につけていったとする(現にニホンザルやテングザルは海にはいって二足歩行する)。

 アクア説はモーガンのオリジナルではなく、動物学者のアリスター・ハーディが1960年に英国潜水協会でおこなった講演を嚆矢とする。本書は巻末にハーディの論文と談話を収録している。

 圧巻は「ダナキル島」と題された最後の章である。この章はモーガンの手になるものではなく、ラ・リュミエールの論文を抜粋したものだが、人類早期の水生生活の場所を特定しているのだ。

 ラ・リュミエールによれば、人類揺籃の地となったのはエチオピア北部の紅海に面するダナキル山地である。ダナキル山地はアファール猿人の化石の出たアファール三角地帯東縁の紅海沿岸に連なる地域にあたるが、670万年前に一帯が海没し、ダナキル山地はアフリカ大陸から切り離され、群島になったという(南北540キロ、東西75キロというから、琉球列島くらいだろうか)。

 ダナキル山地に、ヒトとチンパンジーの共通の祖先と考えられるラマピテクスが棲んでいたとしたら、狭い島に隔離されて独自の進化の道をたどりはじめることになる。生活の場を樹上から海辺に移し、魚介類の採集に適した方向に淘汰が進んだとしても不思議はない。

 ダナキル島は540万年前に、火山活動によってふたたびアフリカ大陸とつながるが、この一帯はプレートの分離がおこり、地殻が引き裂かれている不安定な地質なので、大陸とつながったり切れたりを繰りかえし、3万年前に最終的に干上がって陸地となるまで、進化の実験室でありつづけたというわけだ。

 こういう本を読むと、今すぐダナキル山地にスコップをもって飛んでいきたくなる。ぶ厚い玄武岩におおわれているため、今のところアクア説を実証する化石は見つかっていないが、近くからは450万年前のラミダス原人の化石が出ているという。アクア説が正しければ、ダナキル島から地峡を通ってやってきた連中ということになるが、近辺からは森林に生息する動物の化石が出たそうだから、アクア説には不利である。

 状況証拠だけで、物証がないのが、アクア説の弱点なのである。

2026-07-29のノート

 原著は1997年に刊行され、翌年邦訳されたが、その後の30年間でゲノム解析や古環境学は飛躍的に進み、ヒトの進化史においてアクア説を支持することはきわめて困難になっている。

 サバンナ説自体も、一様で乾燥した草原が広がるという単純なサバンナ説から、森林、疎林、草原、河畔などが混在するモザイク環境が初期進化の舞台だったとする見方に代っている。

 本稿の範囲では、ラマピテクス(ヒトとチンパンジーの共通祖先ではなく、オランウータンに近い系統)の記述が完全な間違いである。「ラミダス原人」という呼称も不適切であり、現在は学名に従ってアルディピテクス・ラミダスと呼ぶ。

 モーガンがアクア説の根拠としたヒトの特徴についても異論が出ている。島泰三の『はだかの起原』は体毛の減少などを水生適応とみなすモーガンの説明を批判し、霊長類の社会・生態から別の説明を試みている。

モーガン 『進化の傷あと』 どうぶつ社

 『人は海辺で進化した』につづく本で、初期人類が半水生生活を送っていたとするアクア説を主流のサバンナ説・ネオテニー説と対決させた論争的な本である。

 ハーディが1960年にアクア説を提唱した頃は、生まれた直後の赤ん坊が水に浮きつづけることができるとか、ゴリラが水浴びをするとかは知られていなかった。水を嫌う霊長類がよりによって水中生活をしていたなどと言いだしたら、トンデモ説あつかいされるのは当然だろう。しかし、近年の知見の増大は著しく、モーガンは最新の材料を総動員してアクア説を補強している。

 モーガンによれば、体毛喪失や、皮下脂肪蓄積、水分とミネラル分を過剰に流出させる発汗、咽喉の後退、直立姿勢にしても、地上生活、なかんずくサバンナ生活には不利で、現代人もマイナス面を抱えこまされているという(だから、「進化の傷あと」なのだ)。

 これだけならべられると、素人目にはアクア説も説得力ありげに見えるが、モーガンは最後の章で決定的といえる材料をもちだしている。

 それはヒヒ抗体(Baboon Marker)で、ヒヒ起源のレトロウィルスに対抗する抗体の遺伝子をアフリカ原産の霊長類(チンパンジーやゴリラを含む)はすべてDNA中に有しているのに、ヒトはもっていないというのである。

 ヒヒ抗体をもたなかった個体は、レトロウィルスに感染し、すべて死に絶えたということだろう。とすれば、ヒヒのレトロウィルスが猛威をふるった時期、人類の祖先はアフリカにはいなかったというのがモーガンの推論だ。

 ヒヒ抗体を研究したベンヴェニストとトデイロー(トダロ)は、人類アジア起源説を唱えているという。アジアに移住したラマピテクスの一派が、ヒヒ・ウィルスが弱毒化した後にアフリカにもどり、人類に進化したというわけだ。

 これに対して、モーガンはアジアから里帰りしなくても、ダナキル島に隔離されていれば十分だとする。

 sci.anthropology.paleoというニュースグループではアクア説は旗色が悪く、ほとんどトンデモ本のあつかいだったが(論争というよりは罵倒に近い。ニュースグループはどこも同じである)、ヒヒ抗体に言及したレスがついたとたん、正統サバンナ派はだんまりモードに入ってしまった。ヒヒはサバンナを生活の場にしており、樹上生活のチンパンジーまでヒヒ抗体をもっているなら、サバンナに住んでいたことになっているヒトは当然もっていなければならない。サバンナ説にとっては致命的である。

 なお、アクア説を紹介したページには以下がある。

追記: エディトリアルのMar30 2004の項でアクア説を再びとりあげた。(Mar30 2004)

モーガン 『女の由来』 どうぶつ社

 埋もれかけていたハーディのアクア説をふたたび世に出した本である。モーガンは本書につづいてアクア説の本を5冊出している(邦訳は3冊)。

 初版は1972年に出ているが、1985年にローレンツをあつかった章を削り、長めの「あとがき」を追加した第二版が出ている。本書は第二版の邦訳だが、初版の訳は二見書房から出ていて、かなり読まれていたそうだ。

 表題の『女の由来』は、ダーウィンが性選択説を提唱した『人間の由来』(The Descent of Man)を反転させたもので、フェミニズムの見地から人類の進化を見直そうという意図がこめられている。

 サバンナ説では、森がなくなってサバンナに放りだされた類人猿はオスが集団で狩りをするようになり、ヒトに進化したとされているが、それではメスは人類誕生以前からオスに依存していたことになる。フェミニストとしてはなんとしても一矢報いなければならないところだろう。そこで、男性中心的な進化物語を批判する手がかりとして。アクア説に着目したわけである。著者自身の「あとがき」にもあるが、本書のこうした政治的意図がアクア説に対する反感をまねいたという面もあったらしい。

 先に「あとがき」を読み、こういう事情を知ってしまってから本文を読むのは億劫だったが、いざ読んでみると、才気煥発な文章で一気に読むことができた。「ニューヨーカー」の書評では「ぺちゃくちゃしたお喋り」とたたかれたそうだが、サバンナ説をターザン主義と揶揄したり、海にはいったメスの生活をコミカルに描いたり、『人は海辺で進化した』のような地味な本とは違った魅力がある。

 サバンナで成功した霊長類としてはヒヒがいるが、ヒヒの軍国主義的生態をやっつけている部分はフェミニストの面目躍如たるものがある。竹内久美子がヒヒの生活を思いいれたっぷりに、憧れをこめて描いていたのとは対照的だ。そもそも竹内のデビュー作である『浮気人類進化論』は、人類は浮気行動を通して進化したというストーリーで、オスは狩りに出て、メスは子供と留守を守るというターザン主義の最たるものだった。

 本書で一番興味深いのは「あとがき」である。初版発行後の反響やアクア説の毀誉褒貶が回顧されている。アクア説を公然と認める人類学者はいないようだが、サバンナで体温を調節するために体毛がなくなったという説明が人類学の教科書からこっそり姿を消したり、ターザン主義の「狩猟経済」がメスの働きを加味した「狩猟採集経済」に変わるという変化を引きおこしたとモーガンは書いている。

 モーガンのアクア説はとどめを刺された観があるが、主流の説に多少とも影響をあたえていたのかもしれない。

幸田露絆 『太郎坊』 岩波文庫

 明治30年代に書かれた短編四編を集めている。不勉強がばれてしまうが、幸田露絆はこんなに間口の広い作家だったのかと認識をあらたにした。

 表題作の「太郎坊」は猪口を割ったことから昔のいいなずけを思いだす話、次の「夜の雪」は養子先で冷遇される少年の話で、いかにも露絆なのだが、三番目の「不安」は芥川を先取りした心理小説である。最後の「付焼刃」は独身時代の浪費癖がぬけない新婚の夫が妻にやりこめられる話で、岸田國士の喜劇を思わせるユーモラスな一編である(これが一番おもしろかった)。諧謔ではなく、ユーモアになっているあたり、露絆學人はモダンである。解説が斎藤茂吉というのも、歴史を感じさせる。

幸田露絆 『運命・幽情記』 講談社文芸文庫

 「運命」は露絆の最高傑作である。以前は方孝孺の経歴を述べるあたりは中だるみと感じたが、今回、読んでみると、族滅を準備する緩急の「緩」であることに気がついた。あらためて一点の弛みもない金剛石のような文章だと感嘆した。

 『幽情記』は『運命』の直前に書かれた短編を集めたもの。中国には珍しい夫婦の交情を歌った詩を核に、真珠のような文章を結晶させている。

 宋末元初、明末清初の動乱期に材をとった話が多く、前半は烈女伝の趣があるが、後半には後宮から流れてきた梧桐の葉に書かれた詩に宮女を思う「碧梧紅葉」のような甘美な話も見える。再婚相手とうまくいかなかったので、この集を起こしたという説もあるが、この清冽な叙情はけちくさい詮議立てをはるかに越えている。

 最後におかれた「幽夢」は、陸游が心ならずも妻を離縁する話だが、珍園で再会するくだりは胸の高鳴りがそのまま伝わってくるような絶唱である。反復玩味すべし。

幸田露絆 『蒲生氏郷』 筑摩書房

 露絆の史伝の代表作であるが、単行本は払底しているので、ちくま日本文学全集で読んだ。史伝といっても生涯を述べたものではなく、小田原落城の後、伊達政宗のおさえに会津にはいった蒲生氏郷が葛西大崎の木村一右衛門救援に向かい、正宗と虚虚実実の駆け引きをくりひろげ、危機を脱する挿話に焦点をしぼっている。講談を思わせる野趣がある。人間観察の妙といい、張扇の音が聞こえてきそうな野太い文体といい、俗味というか、これが露絆のふところの深さであって、同じ漢文脈の使い手ではあっても、雅でしかありえない石川淳とは対蹠的である。

 よくできた選集で、19才の時に余市の勤務先から出奔し、帰京するまでを書いた「突貫紀行」や、「観画談」、「幻談」のような幻想的な短編まで、代表作を集めているけれども、露伴の代表作がこういう形でしか読めないのは困ったものだ。

幸田文 『流れる』 新潮文庫

 幸田文の小説ははじめて読んだが、こんなにおもしろいとは! レイプされかかった経験まであけすけに書いたエッセイの印象が強かったので、私小説の類かと思いこんでいたが、曲もあれば趣向もあり、小説の醍醐味をたっぷり味あわせてくれる傑作である。事件をあれもこれも詰めこみすぎた印象がなくはないが、最初の長編小説なので、頑張りすぎたのかもしれない。

 戦後没落して家と夫を失った女が芸者置屋で住込の女中奉公をする話で、主人公はまめまめしい働きと凜とした気性からしだいに周囲から頼りにされるようになり、花柳界の深い部分までを目のあたりにする。のぞき見的な興味もないことはないが、落ち目の女主人に芸者として身につけた品格が健在であることを描きだすあたり、思わず背筋が伸びる。雅俗つつみこんだ懐の深さは父親譲りか。

 芸者置屋でまめまめしく働くというと、祇園を舞台にした深作欣二原作の「おもちゃ」を思いだすが、ここに描かれる柳橋と「おもちゃ」の祇園はよく似ている。同じ花街だからといってしまえばそれまでだが、置屋の主人を富司純子、その実の姉の鬼子母神を野川由美子、OLあがりのドライな芸者を南果歩と「おもちゃ」の配役に重ねあわせて読むと案外はまっている。まったく違うストーリーだが、本書が影響しているかもしれない。

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Copyright 1999 Kato Koiti
This page was created on May31 1999: Updated on Aug31 1999.
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