川端康成というと『雪国』、『伊豆の踊り子』のイメージが強いけれども、若い頃は新感覚派の旗手でならしていて、実験的な作品を盛んに書いていた。実験は実験であるから、おもしろいはずはないのだが、一番とんがっていた時期に『浅草紅団』という長編を書いていて、一部で評判がいいのである。今回、はじめて読んでみたが、なるほど、これならおもしろい。エロ・グロ・ナンセンスの時代の熱気を、意識の流れ風の短文の連続で活写している。川端がこういうものを書いていたのかと新鮮な驚きをおぼえた。
ヒロインのざんぎり髪の弓子はなかなか魅力的なのだが、後半の「浅草祭」で彼女が行方をくらましてしまうと小説はトーンダウンする。前半の調子で突っ走れば、文句なしの傑作になっていたのだが。
映画になる話だな思い、検索したところ、1952年に京マチ子主演で映画化されていた。京マチ子の弓子はぜひ見てみたい。
このところ、またオウムが話題になっている。だからというわけではないが、ずっと気になっていたこの本を手にとってみた。本書は『アンダーグラウンド』の姉妹編にあたる本で、オウム信者のインタビュー集である。
教団をやめて批判側にまわった人もいれば、あいかわらず「尊師」を慕いつづけている人もいる。予想したとおりのことが書いてあって、まあこんなものだろうと思った。
本書に登場するのは一連の犯罪にかかわらなかった下っ端の信者で、可哀想になるくらい一途で、純粋である。変わってはいるが、ありきたりの変わり方で、こういうタイプは一クラスに一人はいるだろう。たまたまオウムと縁ができたばかりに、世間からつまはじきされることになったが、ほんのちょっと世故をそなえていれば、優秀な企業人や役人で通っていたかもしれない。
だから、彼らに責任がないというわけではない。あえて言うと、一途で純粋であることは、現代においては迷惑なことなのだ。今日の社会に理想などはありえないのだから、一途で純粋に理想を信じる人間は、必ずといっていいほど迷惑をふりまき、時には災厄を引きおこす。企業や役所に都合がいいイエスマンを大量生産するために、一途で純粋であることが価値であるかのような欺瞞がつづけられてきたが、いい加減、やめたほうがいい。
巻末に河合隼雄との対談があるが、『村上春樹が、河合隼雄に会いにいく』を読んでいないと、ニュアンスが読みとりにくいかもしれない。
帯に「日本語を救った女たちの物語」とあり、戦後の国語改革の話かと、あわてて読んだ。国語改革の方向を決定したアメリカ教育使節団の話は最後に出てくるが、長い小説だけに、作者は息切れしたらしく、食いたりない思いが残った。悪名だかいホール少佐は実名で登場する(井上氏にうかがったところ、ホール元少佐はイスラエルに健在で、取材を申しこんだが断られたよし。脛に傷もつ御仁は取材を嫌がるものだが、ホール元少佐もその伝か)。
だが、戦中の下町の生活をみっちり書きこんだ前半は読みごたえがある。主人公は高等教育を受けたインテリ団扇職人で、内心ためらいながらも、結構うまくたちまわっていて、従来の被害者・加害者図式では掬いあげきれない銃後の生活の実相をあざやかに浮かびあがらせている。主人公の行動範囲の一部は知っているけれども、おおよそああだったらしい。
欲をいえば、後半も前半と同じ密度で書いてほしかったが、そうなると、倍の分量では済まなかったかもしれない。この小説なら、倍の長さでも読みたいと思う。
近年、占領史の実証的研究が進んで、マッカーサー司令部がなにをやったのかがあきらかになりつつあるが、本書はその嚆矢となった本である。アメリカでは、公文書は30年後に公開されるが、著者は占領時代の公文書をはじめて閲覧した研究者で、1982年にフーバー研究所からUnconditional Democracy(『無条件民主主義』)を上梓している。本書はこの本をもとに、最新の研究成果をもりこんで日本語で書き下ろしたものだという。
18年前に書かれた本がもとだけに、今となってはどこかで読んだ話ばかりだが、未踏の領域にはじめて統一的なヴィジョンを打ち立てた仕事だけがもつ迫力があり、一気に読めた。
後半ではアメリカ教育使節団とその影響に焦点を絞っている。ホール少佐が45年6月に書いた占領後の言語政策に関する機密文書は大きな発見だと思う。細かい部分では異論もあるだろうが、まず本書を読んで、全体のイメージをもつことは、あの時代を理解する上での近道になると思う。
この本はよくも悪くも預言者的本なである。無知と事実誤認の合間に、天啓と思わせる洞察がきらめいている。
言語の分類として、屈折語、孤立語、膠着語があるのはご承知の通りだが、膠着語はなぜか中国を囲むように分布している。東アジアはもともとは膠着語圏だったが、そこに孤立語を話す集団が勢力を拡げ、中国人になったという説が有力のようだが、石川氏は膠着語とは漢字の圧力によって変形された言語だと断言する。さらに、中国語とその周辺の言語が孤立語的形態をとったのは、漢字の特性ゆえだという。
トンデモ本すれすれのひらめきが堰を切ったように奔出し、その多くは見当違いなのだが、書家という身体性の現場でものを考えている人間の迫力があり、思考を刺激してくれる箇所がすくなくない。
にわかには判断できないが、注目すべき本であることは確かだと思う。
阿辻氏の一般向け啓蒙書はほとんど読んでいるのだが、いよいよネタに詰まったのか、楔形文字やヒエログリフ、文房具、紙にまで話を広げている。紙はともかく、楔形文字は漢字の先生には荷が重いんじゃないかと思った。読んでおもしろいのは漢字について蘊蓄を傾けた部分で、字体の変遷、活字と手書文字の相克あたり。
最後の章で漢字改革と文字コード問題にすこしだけふれているが、楔形文字の受け売りをするくらいなら、こっちに紙幅をさいてほしかったと思う。
最近評判の竹内久美子氏と、彼女の恩師にあたる日高敏隆氏の対談である。竹内氏の名前は知っていたが、唯遺伝子論だとか、ローレンツ説の通俗版だとかいう話を聞いていたので、これまで本を手にとったことはなかった。日高氏との対談なら、半分はおもしろいだろうと読んだのだが、認識をあらためた。竹内氏はなかなかのものだ。
いきなり精子競争の話でパンチをあびせてくるが、竹内氏は塾の講師をやっていたことがあって、小学三年生でも男女の話を枕にすると目の輝きが違ってくるのだそうである。断片的に聞く竹内理論から、困ったオバサンがいるものだと思っていたが、どうも動物行動学の話をするための確信犯的話題選びだったようである。
最初の本を書くまでの裏話だとか、英国の学会のゴシップだとか、いろいろおもしろいのだが、「科学とはウソをつくことだ」という日高説を弟子として実践しているというくだりは、科学論として読ませる。
最初は血液型占いを枕に、免疫学を噛みくだいて説明した本かと思ったが、かなりマジな書き方で、読んでいるうちに血液型と性格には関係があるのかなという気分になってきた。血液型は赤血球だけの型ではなく、細胞の表面を覆う糖鎖の型だそうで、そうなると免疫に直結する。
病原体の中には免疫機構の攻撃をかわすためにA型やB型の糖鎖をまとっているものがあり、血液型によって抵抗力に差がでてくる。O型は一番感染症に抵抗力があり、癌(なぜかA型の糖鎖をまとっていて、当然、A型は弱い)に対しても強いのだそうだ。社交性の高い遺伝子をもったA型人間は淘汰される確率が高く、代をかさねるうちにA型は非社交的な性格の人間の比率が高くなる……という。
読んでいる最中は説得されてしまったが、よくよく考えてみると、こういう淘汰が起こるためには、社交性の遺伝子(そんなものがあるとしての話だが)と血液型の遺伝子が染色体の近い場所にある必要があるだろう。血液型占いの免疫学的証明は竹内氏の確信犯的な「ウソ」だったようである。
「ウソ」は「ウソ」として、HLA型と自己免疫疾患の高い相関やP式血液型と鬱病の関係など、おもしろい話を教わった。
共和制はギリシア時代や中国の春秋戦国時代に萌芽が生まれたのに、すぐに君主制にもどってしまった。共和制が広まったのは、たかだかこの二百年のことにすぎないが、なぜ君主制が長くつづいたかを動物行動学的に証明しようとした本のようである。
竹内氏によれば、君主制と階級制は動物の社会進化の歴史の中で自然発生し、長い淘汰の試練を受けながら今も残っているのに対し、社会主義や共和制は「人間の頭の中から出てきた思想の産物」にすぎず、遺伝子に太刀打ちできるわけがないというのだ。すでに社会主義は倒れ、共和制も時間の問題で、数百年後には君主制が復活しているだろうと書いている(そういえば、「スターウォーズ」をはじめとして、SFには未来の君主制社会を舞台にしたものが多い)。
この説はおもしろいが、遺伝子に根拠を求めるのは無理があると思う。国家論は動物行動学には荷が重すぎたようだ。
竹内久美子の処女作なのだが、ひょっとしたら本当の処女作ではないかという印象をもった。雰囲気が微妙にカタイのである。最近のオバサンくさい文体とはちょっと違う。
ゴリラ、チンパンジー、ヒトは、遺伝子レベルではひじょうに近い関係にあるがが、ゴリラは体格を、チンパンジーは睾丸を、ヒトは脳を発達させた。ゴリラの体格はハーレムを作る一夫多妻から、チンパンジーの睾丸は乱婚から説明できる。とすると、人間が脳を発達させたのも、婚姻形態から説明できないだろうか、というのが前半の主題である。理科系男、文科系男の二分法はすでに登場している。
後半は子殺しの話で、ピグミーチンパンジーを補助線に、ヒトが一年中発情するようになったのは、子殺しを防ぐためだという結論にゆきつく。文科系・理科系の二分法はともかく、子殺し防止説はかなり説得力があって、人間がいかに平和的な動物であるかを言うために、日本人がハヌマンラングールだったら、五百万から一千万のハーレムができ、年間、数百万件の子殺しが起こる計算になるが、実際は三桁も少ない1700件しか起きていないと試算している。こういう人を喰った計算は楽しい。
竹内の第二作だが、この時点で、文章が完全にオバサン化している。
どこかで読んだ話ばかりだ。執筆はこの本のが早いが、話術がうまくなっている後の本を先に読んでいるので、余計あらが目立つ。
男が狩に出かけ、女が留守を守るという説はあいかわらず根拠を示していない。動物行動学といっても、所詮は擬人法ではないのか。
利己的遺伝子の話である。最初の章は英国の大物学者のゴシップ列伝だが、利己的遺伝子の沿革を追っている。一段落したところで、いよいよ血縁淘汰である。自分の子供を残さなくとも、兄弟姉妹、従兄弟の繁殖を助けることで、結果的に自分の遺伝子を広めることが出来るという学説である。
種の繁栄のために個体が自己犠牲するという神話を全否定したわけで、痛快である。二宮尊徳などの道徳訓話を復活させようという動きがあるようだが、中学生に読ませるべきはこういう本だと思う。
日本人の起源を竹内流に料理した本である。尾曲がり猫から説き起こす出だしはうまいが、後はどこかで読んだ話の連続で退屈だった。独自の味つけもあるが、論理展開にねじ伏せるようなパワーが見られない。ヘーゲルの弁証法にせよ、岸田唯幻論にせよ、すべてを説明する理論は偉大なるマンネリにならざるをえないが、竹内理論は中途半端なマンネリで終わっているのである。
最後の章で ATLウィルスがべたべたした人間関係を好む縄文人気質を誘導したという、例によって眉唾な説を出してくるが、あまりにも無理がありすぎて、冗談にもなっていない。男女の枠を越えた話になると、文科系の基本的知識の欠如が効いてくるようだ。
表題の「BCな」とはBiologically Correctで、Politically Correctに対抗して作った造語だそうだ。Politically Correctと称して、ずいぶん無茶なことが言われてきたから、竹内流の Biologically Correctで解毒しようということらしい。
それをいうなら、竹内の本はすべて「BCな話」なのだが、この本でことさら表題にしたのは、いよいよというべきか、精子競争をテーマにしたからだろう。ロビン・ベイカーとマーク・ベリスの研究をおもしろおかしく紹介していて、竹内本の中でもとりわけおもしろい本に仕上がっている。例によって身も蓋もない話がつづくが、精子の役割分担の話などは抜けている。別の本で書くつもりだろうか。
最後の章では同性愛の遺伝子が母方で遺伝することがわかっていて、遺伝子のありかも特定されているという話が出てくる。いかにも「BC」な話である。
しかし、レイプについては、女の側の無意識の繁殖戦略であるという材料をならべながら、「もう何が何だかさっぱりわからない。誰か助けて!」と逃げている。男についてあれだけ書きながら、白々しい。自分もまだ女だと言いたいのだろうか。
竹内久美子の『BC!な話』の種本が翻訳されていた。正確にいうと、種本といえるのはロビン・ベイカーとマーク・ベリスが1995年に出した"Human Sperm Competition"で、本書は翌年、ベイカー単独で一般向けに書き下ろした解説本である。「訳者あとがき」に「日本でも、自分の説というよりはほとんど全編(!)ベイカーの精子競争の紹介に終始する本まで出版されている
」とあるが、これは明らかに『BC!な話』を指している。
各章の前半では小説風に場面を提示し、後半で精子競争の観点から、人間行動の自分自身にも隠された意図を解説するという構成になっている。結論だけが書いてあるので、にわかに信じられないかもしれないが、ベリスとの共著では根拠となった実験について詳述してあるはずだ。『存在と無』を思わせるような有無をいわさぬ迫力がある、といっては言いすぎだろうか。竹内の本は、所詮、亞流にすぎなかった。
ただし、毒がきつすぎて、気軽には読めないかもしれない。意識にはうかがいしれない複雑な計算(文字通りの計算!)を脳の裏側でやっていたというのは恐ろしすぎる。これが事実だとしたら、人間の意識とはなんなのか。
この本は感情的に逃げ場がなく、考えこまされてしまう内容を含んでいる。精子競争を艶笑小咄のレベルで消費したい向きには、口当たりよく薄めてある竹内の本の方をお勧めする。
ヒトは類人猿から進化する初期段階に水棲生活を送っていたという説がある。アクア説(Aquatic Ape Theory = AAT)で、モリスの『裸のサル』で短い紹介を読んで以来、ずっと気になっていたが、アクア説入門というべき本書が訳されていたのは不明にも知らなかった。
DNA的には、ヒトとチンパンジーの距離はゴリラとチンパンジーの距離より近いそうだが、外観や行動はチンパンジーとゴリラが近く、人間だけがかけ離れている。というより、ヒトはチンパンジーやゴリラのみならず、霊長類一般からかけ離れているのである。
ヒトを特異な霊長類にしている流線型の体型、体毛の喪失、皮下脂肪の蓄積、汗腺の発達、咽喉の後退、涙腺の発達といった特質は、正統のサバンナ説では十分説明できないが、水棲生活を送っていたと仮定すると、単純明解に説明できるとするのがアクア説である。こうした特徴は、イルカ、アシカ、ラッコなどの水棲哺乳類や、ゾウ、カバ、豚などのかつて水棲生活を送っていた哺乳類には、ごく普通に見られるからである。
二足歩行についても、貝やナマコ、ウニなどを採集するために海にはいっているうちに、自然に身につけていったとする(現にニホンザルやテングザルは海にはいって二足歩行する)。
この説はモーガンのオリジナルではなく、動物学者のアリスター・ハーディが1960年に英国潜水協会でおこなった講演を嚆矢とする。本書は巻末にハーディの論文と談話を収録している。
圧巻は「ダナキル島」と題された最後の章である。この章はモーガンの手になるものではなく、ラ・リュミエールの論文を抜粋したものだが、人類早期の水棲生活の場所を特定している。
ラ・リュミエールによれば、人類揺籃の地となったのは、エチオピア北部の紅海に面するダナキル山地だという。アファール猿人の化石の出たアファール三角地帯の南縁にあたるが、670万年前に一帯が海没し、ダナキル山地はアフリカ大陸から切り離され、群島になったという(南北540キロ、東西75キロというから、琉球列島くらいだろうか)。ダナキル山地にラマピテクス(ヒトとチンパンジーの共通の祖先)が棲んでいたとしたら、狭い島に隔離され、独自の進化の道をたどりはじめることになる。生活の場を樹上から海辺に移し、魚介類の採集に適した方向に淘汰が進んだとしても不思議はない。
ダナキル島は540万年前に、火山活動によってふたたびアフリカ大陸とつながるが、この一帯はプレートがぶつかりあう不安定な地質なので、大陸とつながったり切れたりを繰りかえし、3万年前に最終的に干上がって陸地となるまで、進化の実験室でありつづけたというのだ。
こういう本を読むと、今すぐダナキル山地にスコップをもって飛んでいきたくなるが、玄武岩におおわれているため、今のところ、アクア説を実証する化石は見つかっていないが、近くからは450万年前のラミダス原人の化石が出ている。アクア説が正しければ、ダナキル島から地峡を通ってやってきた連中ということになるが、近辺からは森林に生息する動物の化石が出たそうだから、アクア説には不利である。状況証拠だけで、物証がないのが、アクア説の弱点なのである。
『人は海辺で進化した』につづく本で、アクア説を正統のサバンナ説とネオテニー説と対比して述べた論争的な本である。
ハーディが1960年にアクア説を提唱した頃は、生まれた直後の赤ん坊は泳げないと信じられていたし、ゴリラが水浴びすることも知られていなかった。珍奇な説で片づけられるのは仕方なかったのであるが、近年の知見の増大は著しく、モーガンは最新の材料を総動員してアクア説を説いている。
彼女によれば、体毛喪失にしても、皮下脂肪蓄積にしても、水分とミネラル分を過剰に流出させる発汗にしても、咽喉の後退にしても、直立姿勢にしても、地上生活、なかんずくサバンナ生活には不利で、現代人もマイナス面を抱えこまされているという(だから、「進化の傷あと」なのだ)。これだけならべられると、素人目にはアクア説が圧倒的に説得力ありげに見えるが、モーガンは最後の章で決定的といえる材料をもちだしている。
それはヒヒ抗体(Baboon Marker)で、ヒヒ起源のレトロウィルスに対する抗体をアフリカ原産の霊長類(チンパンジーやゴリラを含む)はすべて染色体中に有しているのに、ヒトはもっていないというのである。ヒヒ抗体をもたなかった個体は、レトロウィルスに感染し、すべて死に絶えたということだろう。とすれば、ヒヒのレトロウィルスが猛威をふるった時期、人類の祖先はアフリカにはいなかったということになる。
ヒヒ抗体を研究したベンヴェニストとトデイローは、人類アジア起源説を唱えているという。アジアに移住したラマピテクスの一派が、ヒヒ・ウィルスが弱毒化した後にアフリカに里帰りし、人類に進化したというわけだ。
これに対して、モーガンはアジアから里帰りしなくても、ダナキル島に隔離されていれば十分だとする。
sci.anthropology.paleoというニュースグループではアクア説は旗色が悪く、ほとんどトンデモ本のあつかいだったが(論争というよりは罵倒に近い。ニュースグループはどこも同じである)、ヒヒ抗体に言及したレスがついたとたん、正統サバンナ派はだんまりモードに入ってしまった。ヒヒはサバンナを生活の場にしており、樹上生活のチンパンジーまでヒヒ抗体をもっているなら、サバンナに住んでいたことになっているヒトは当然もっていなければならない。サバンナ説にとっては致命的である。
なお、アクア説を紹介したページには以下がある。
追記: エディトリアルのMar30 2004の項でアクア説を再びとりあげた。(Mar30 2004)
埋もれかけていたハーディのアクア説をふたたび世に出した本である。初版は1972年に出ているが、1985年にローレンツ説をあつかった章を削り、長めの「あとがき」を追加した第二版が出ている。本書は第二版の邦訳で、初版の訳は二見書房から出ていて、かなり読まれていたそうだ。
表題の『女の由来』はダーウィンの『人間の由来』にひっかけたもので、フェミニズムの見地から人類の進化を見直そうという意図がこめられている。森がなくなってサバンナに放りだされた類人猿が、集団で狩りをするようになって、人類に進化したというサバンナ説は、女は人類誕生以前から男に依存していたといっているに等しく、女権論者としてはなんとしても一矢むくいなければならず、そこでアクア説に関心をもったというわけである。著者自身の「あとがき」にもあるが、本書のこうした政治的意図がアクア説に対する反感をまねいたという面もあったらしい。
最初に「あとがき」を読んでこういう事情を知ったで、本文を読むのは億劫だったが、いざ読んでみると、才気煥発な文章でおもしろい。ニューヨーカーからは「ぺちゃくちゃしたお喋り」とたたかれたそうだが、サバンナ説をターザン主義と揶揄したり、海にはいったメスの生活をコミカルに描いたり、『人は海辺で進化した』のような地味な本とは違った魅力がある。
サバンナで成功した霊長類としてはヒヒがいるが、ヒヒの軍国主義的生態をやっつけている部分は女権主義者の面目躍如たるものがある。竹内久美子はヒヒの生活を思いいれたっぷりに、憧れをこめて描いていたのとは対照的だ。そもそも竹内の人類は浮気行動を通して進化したという「浮気人類進化論」は、オスは狩に出て、メスは子供と留守を守るというターザン主義の最たるものだった。
本書で一番興味深いのは「あとがき」である。初版発行後の反響やアクア説の毀誉褒貶が回顧されている。アクア説を公然と認める人類学者はまだいないようだが、サバンナで体温を調節するために体毛がなくなったという説明が人類学の教科書からこっそり姿を消し、ターザン主義の「狩猟経済」がメスの働きを加味した「狩猟採集経済」に変わるという変化を引きおこしたそうだ。日本ではアクア説はまだトンデモ本のあつかいだが、ひょっとしたらひょっとするかもしれない。
明治30年代に書かれた短編四編を集めている。不勉強がばれてしまうが、幸田露絆はこんなに間口の広い作家だったのかと認識をあらたにした。
表題作の「太郎坊」は猪口を割ったことから昔のいいなずけを思いだす話、次の「夜の雪」は養子先で冷遇される少年の話で、いかにも露絆なのだが、三番目の「不安」は芥川を先取りした心理小説である。最後の「付焼刃」は独身時代の浪費癖がぬけない新婚の夫が妻にやりこめられる話で、岸田國士の喜劇を思わせるユーモラスな一編である(これが一番おもしろかった)。諧謔ではなく、ユーモアになっているあたり、露絆學人はモダンである。解説が斎藤茂吉というのも、歴史を感じさせる。
「運命」は露絆の最高傑作である。以前は方孝孺の経歴を述べるあたりは中だるみと感じたが、今回、読んでみると、族滅を準備する緩急の「緩」であることに気がついた。あらためて一点の弛みもない金剛石のような文章だと感嘆した。
『幽情記』は『運命』の直前に書かれた短編を集めたもの。中国には珍しい夫婦の交情を歌った詩を核に、真珠のような文章を結晶させている。
宋末元初、明末清初の動乱期に材をとった話が多く、前半は烈女伝の趣があるが、後半には後宮から流れてきた梧桐の葉に書かれた詩に宮女を思う「碧梧紅葉」のような甘美な話も見える。再婚相手とうまくいかなかったので、この集を起こしたという説もあるが、この清冽な叙情はけちくさい詮議立てをはるかに越えている。
最後におかれた「幽夢」は、陸游が心ならずも妻を離縁する話だが、珍園で再会するくだりは胸の高鳴りがそのまま伝わってくるような絶唱である。反復玩味すべし。
露絆の史伝の代表作であるが、単行本は払底しているので、ちくま日本文学全集で読んだ。史伝といっても生涯を述べたものではなく、小田原落城の後、伊達政宗のおさえに会津にはいった蒲生氏郷が葛西大崎の木村一右衛門救援に向かい、正宗と虚虚実実の駆け引きをくりひろげ、危機を脱する挿話に焦点をしぼっている。講談を思わせる野趣がある。人間観察の妙といい、張扇の音が聞こえてきそうな野太い文体といい、俗味というか、これが露絆のふところの深さであって、同じ漢文脈の使い手ではあっても、雅でしかありえない石川淳とは対蹠的である。
よくできた選集で、19才の時に余市の勤務先から出奔し、帰京するまでを書いた「突貫紀行」や、「観画談」、「幻談」のような幻想的な短編まで、代表作を集めているけれども、露伴の代表作がこういう形でしか読めないのは困ったものだ。
幸田文の小説ははじめて読んだが、こんなにおもしろいとは! レイプされかかった経験まであけすけに書いたエッセイの印象が強かったので、私小説の類かと思いこんでいたが、曲もあれば趣向もあり、小説の醍醐味をたっぷり味あわせてくれる傑作である。事件をあれもこれも詰めこみすぎた印象がなくはないが、最初の長編小説なので、頑張りすぎたのかもしれない。
戦後没落して家と夫を失った女が芸者置屋で住込の女中奉公をする話で、主人公はまめまめしい働きと凜とした気性からしだいに周囲から頼りにされるようになり、花柳界の深い部分までを目のあたりにする。のぞき見的な興味もないことはないが、落ち目の女主人に芸者として身につけた品格が健在であることを描きだすあたり、思わず背筋が伸びる。雅俗つつみこんだ懐の深さは父親譲りか。
芸者置屋でまめまめしく働くというと、祇園を舞台にした深作欣二原作の「おもちゃ」を思いだすが、ここに描かれる柳橋と「おもちゃ」の祇園はよく似ている。同じ花街だからといってしまえばそれまでだが、置屋の主人を富司純子、その実の姉の鬼子母神を野川由美子、OLあがりのドライな芸者を南果歩と「おもちゃ」の配役に重ねあわせて読むと案外はまっている。まったく違うストーリーだが、本書が影響しているかもしれない。