エディトリアル   October 2004

加藤弘一 Sep 2004までのエディトリアル
Nov 2004からのエディトリアル
Oct01

「草の乱」

 「郡上一揆」につづく神山征二郎監督、緒形直人主演の百姓一揆映画で、明治17年におきた秩父事件を描く。

 「郡上一揆」ががらがらだったので、どうせすいているだろうとぎりぎりにいった、立ち見の出る盛況だった。最終日と映画ファン感謝デーが重なったせいだろうが、労働組合関係者という雰囲気の人が多かった。

 幹部でただ一人逃げのびた井上伝藏(緒形)が死の床で家族に秩父事件の真相を語るという導入部からはじまる。井上は生糸問屋、丸井の主人だが、米が作れず、養蚕で食べていくしかない秩父の農民が生糸相場の暴落で困窮していく窮状を座視していられず、自由党に参加する。

 自由党の拠点である上州からオルグがはいり、農民を組織して役所や高利貸しにかけあうが、まったく埒があかない。自由党に対する弾圧は激しさを増し、上州自由党は壊滅させられ、中央は解党を考えるところまで追いこまれてしまう。こうなると農民に安請けあいした一線の活動家たちは板挟み状態になり、一揆を起こさなければならないところまで追いつめられてしまう。

 一揆の総理にかつぎあげられたのは人望の厚い名主の田代栄助で、副総理が博徒の加藤織平、会計係が井上で、きちんとした会計処理がおこなわれていた。こうした堅実な組織運営は「郡上一揆」でも同じだった。別に半村良の『妖星伝』に登場するような一揆侍が暗躍したわけではなく、日本の近世の農村がそこまで進んでいたということだろう。

 いくら指導部ができていても、準備期間が短かったために、いったん事が動きはじめると指導部のコントロールが効かなくなる。延べ8千人のエキストラを動員したというモブ・シーンもふくめて、山津波のように動きだした一揆のエネルギーは圧倒的だ。

 秩父盆地は制圧したものの、その後の戦略がなかったために、政府軍がはいってくると一揆はあっけなく瓦解する。人数ではまさっても、訓練を受けたプロの軍隊の前では所詮、烏合の衆だったのだ。

 総理の田代は犠牲を増やさないために早々に解散を決めたが、残党狩りの場面は痛ましい。

 井上は知りあいの土蔵に2年間潜伏した後、北海道にわたり、変名で古道具屋を開く。井上の本当の生涯を知った妻と子供たちは、死の床につく井上を囲んで写真を撮る。欠席裁判で死刑を宣告されていた井上は北海道にわたって以来、身許を隠すために写真を一度も撮ったことがなかったからだ。

 死の床の写真もふくめて、すべて史実だそうである。井上の丸井商店があった吉田町では秩父事件の特集ページを公開しているので、興味のある方は御覧になるとよい。

公式サイト
Oct03

 『あるある大事典』秋のスペシャルで血液型と相性をとりあげていた。

 8千人アンケートと合コン実験は眉唾だが、光トポグラフィーによる脳と光刺激の関係の実験は興味深かった。

 被験者に目をつぶらせ、目蓋の上から光をあてて、脳の興奮度を計測したが、A型は興奮のレベルが高く、光を消した後に興奮のピークが来たのに対し、B型は興奮のレベルが低く、光を消すとすぐに興奮が納まるという歴然たる違いが出ていた。O型はA型に近く、AB型はB型に近かった。

 この結果から、番組ではA型は神経質で後に引きずり、B型は鈍感で気分の切り替えが早いという結論を引きだしていたが、これだけでそこまでは言えないだろう。ただ、実験前は気乗り薄だった研究者が、実験後はおもしろい結果が出たと興奮気味だったのは注目したい。

 ABO型は血液だけの型ではなく、細胞表面の糖タンパクの型なのだから、ニューロンの働きに差がある可能性は皆無というわけではないだろう。

 問題はサンプル数が各血液型10人づつ、計40人とすくないこと。これだけはっきりした結果が出たのだから、サンプルを増やして本格的に研究してもらいたい。

 2日のNTV「FBI超能力捜査官の史上最強千里眼マクモニーグル奇跡の挑戦」でも、マクモニーグル氏の透視中の脳の状態を光トポグラフィーで計測していた。

 この番組はFBIの捜査に協力してきたアメリカの超能力者たちに、失踪者の行方を透視させるというもの。ダウジングで探す人もいるが、最強の千里眼といわれるマクモニーグル氏は、失踪者の個人情報のはいった封筒を外から眺めるだけで、見てきたような地図をさらさらと描いてしまう。番組スタッフが現地に飛ぶと、地図そっくりの場所が見つかり、大半のケースで行方不明者が見つかっている。見つかったケースだけを放映しているのかもしれないが、もし百件に一件だとしても、見つかるというのはすごいことである。

 ブルーバックスの『新・脳の探検』や茂木健一郎の『心を生みだす脳のシステム』あたりに解説してあるが、網膜からはいった刺激はまず、網膜と一対一対応している後頭葉の第一次視覚野(V1領域)に送られ、V2領域、V3領域、V4領域と順次処理がくわえられて視覚に形成されていく。透視中のマクモニーグル氏の場合、V1領域が働かないのに、その後の部分が働いている。実際には見ていないのだから、V1領域が働かないのは当たり前だが、想起する際に働く場所も働かず、夢を見る際に働く場所が時々活性化しているという。彼の透視は白昼夢のようなものらしい。

 脳の話はともかく、生いたちの話が興味深かった。

 現在のマクモニーグル氏は温厚な紳士だが、南部のプアホワイトの家庭に生まれ、父親はアル中で、母親からドメスティック・バイオレンスをくわえられていたという。幼かったマクモニーグル氏は母親の暴力を避けるために、母の行動を事前に察知するようになっていった。

 成人してから軍に入隊し、ベトナムに送られるが、戦場で死線をくぐるうちに、勘はいよいよ鋭くなり、マクモニーグルについていけば安全だと部隊の中で評判になった。

 その頃、アメリカ軍はCIAと共同でスターゲート・プロジェクトを立ちあげていた。スターゲート・プロジェクトはソ連の超能力者育成プロジェクトに対抗するプロジェクトで、勘が鋭いと評判の兵士を選抜して、透視能力を磨かせるというものだった(結構有名な実話)。

 マクモニーグルは抜群の成績をあげ、1978年に起こったイタリアの「赤い旅団」によるNATO軍司令官誘拐事件では、パドヴァのビルの二階の部屋の中に監禁させていることを的中させるなど、多くの成果をあげたという。退役後はFBIの捜査に協力して、今日にいたっている。

 マクモニーグルは自伝を出版していて、その翻訳が最近出たというから、これは読んでみよう。

Oct07

「華氏911」

 9.11同時多発テロからアフガン戦争をへてイラク戦争にいたるブッシュ政権の怪しげな動きを、マイケル・ムーア流に料理したカンヌのパルムドール賞受賞のセミ・ドキュメンタリーで、『おい、ブッシュ、世界を返せ!』がもとになっている。

 ブッシュ家の石油ビジネスとビン・ラディン家の根深い関係、テロ直後のビン・ラディン家に対する破格の待遇、ブッシュ政権中枢部の石油人脈を機関銃のような饒舌で明らかにしていくが、テレビ朝日「ビートたけしのこんなはずでは!」の特番「9.11 4年目の真実〜7つの疑惑〜」の強烈な陰謀史観と較べると中途半端というか、インパクトに欠ける。

 陰謀史観はともかくとして、イスラエルがらみの疑惑にまったく触れないのは片手落ちだし、いかにも党派的という印象を受ける。

 前作の「ボウリング・フォー・コロンバイン」には、なぎら健壱風の気のいいオヤジが、素朴な実感から疑問をさぐっていくというアマチュアリズムがあったが、今回の作品は大統領選をあてこんだせいもあって、悪い意味での「プロ」の臭いがする。

 「こんなはずでは!」は9.11やらせ説で有名な911 In Plane Siteと、トンデモ本業界の大御所コンノ・ケンイチ氏の『世界はここまで騙された』あたりを種本にしたらしい。よくよく考えると、つっこみどころは多々あるが、現地ロケとインタビューでたたみかけられると、つい見いってしまう。

Oct08

 ロブ・ライナーの「あなたにも書ける恋愛小説」を見た。借金を返すために30日以内に作品を完成させなければならなくなった小説家が締切に間にあわせるために、口述筆記者に料金後払いで働いてもらうというストーリーだが、見ているうちに47氏が提唱する作品証券化構想を思いだした。

 47氏とは、もちろん、Winny作者の47氏。47氏は現行著作権制度は時代遅れだと批判し、あらたな課金方式として「デジタル証券によるコンテンツ流通システム」を提唱している。

 47氏の提案は技術的蘊蓄をこねまわして、見通しが悪くなっているので、要点だけをひろいだすと、おおよそ以下のようになる。

 デジタル証券を保有するメリットは「他人に作品を配布できる」点と「作者に優先的に意見をいえる」点の二つだが、「他人に作品を配布する」方は実質的には意味がない。47氏の作ったWinnyネットワークに流してしまったら、たとえ証券IDを埋めこむにしても、誰が配布したかはどうでもよくなるからだ。

 Winnyによる配布を禁止したとしても、配布したい人は配布権のあるサイトにリンクを張ればすむことである。非常に人気のある作品なら、配布ページに広告を表示して広告料を稼ぐという方法もないわけではないが、そんなことなら現在でもおこなわれている。

 となると、デジタル証券をもつメリットは、作者に優先的に意見をいう権利だけということになる。

 わたしは小説家と文芸編集者を何人か知っているし、小説家と編集者のかけひきを見たこともあるが、小説家という動物はわがままで獰猛でひねくれていて、読者の意見を本気で聞くとは思えない。意見に耳を貸す小説家もいるかもしれないが、それは意見の内容によるのであって、証券をもっているかどうかとは無関係である。もし、証券をもっているとうだけで読者の意見を優先的に聞き、作品を書き直す小説家がいたとしたら、ゴミというしかない。

 「あなたにも書ける恋愛小説」の小説家が、ヒロインの口述筆記者の意見を作品にとりいれたのは、彼女がただ働きになるリスクを負って、創作の現場に参加したからである。しかも、小説家は締切に間にあわなければ、借金取り立てのヤクザに殺されることになっており、その意味で彼女は小説家の生殺与奪の権を握っていた。彼女は編集者と同じ権限で進行中の作品に関与したことになる。

 もし作品に関与したいのなら、出来上がってからではなく、書きはじめる前の段階で、「あなたにも書ける恋愛小説」のヒロインのように自分自身もリスクを負って、創作の現場に係わらなければならない。作者に優先的に意見をいう権利などというものは、文芸の世界では意味をなさない。

 47氏は次のように書いている。

 もし初期にそのコンテンツの価値を見抜いて安値で確保しておいて、後でそのデジタル証券を適当な時期に高値で他に売ることができれば、初期に資金投入した者は自らが投資した額以上の見返りを受けることができる。そのため、現在のシェアウェアシステムなどと違い、より積極的な資金投入が期待できる。……中略……

 つまり、コンテンツ自体がコピー可能で無限に増殖・配信されることはそれがデジタルコンテンツである以上本質的に防ぎようが無いどうしようもないことなのであるが、その保有と保守サービス権利数を初めから制限することで、各々のコンテンツの価値が下がって見えること(デジタルコンテンツ価値のデフレスパイラル化)を防ぐことができるわけである。

 作品がすでに完成している以上、「保守サービス権利数」は意味がない。後で利益をえようにも、「コピー可能で無限に増殖・配信」される以上、どこから収益があがるというのか。

 最近、映画やアイドルが証券化されて話題になっているが、映画もアイドルも収益システムがしっかりしている。文芸作品の場合、印税という収益システムを崩壊させたら、映画化などの二次使用権くらいしか資金の回収方法がない。証券化はあくまで資金調達手段にすぎず、収益システムに転用するのは無理である。

 47氏はデジタル証券システムはシェアウェアよりすぐれているとしているが、依然としてシェアウェア・モデルの枠内の発想だと思う。47氏に限らず、コンピュータ関係者が著作権について発言すると、どうしてもシェアウェア・モデルというか、ソフトウェア・モデルにとらわれる傾向がある。

 ソフトウェアと文芸作品の享受形態は根本的に異なる。ソフトウェアは道具であって、試用後も継続して使いつづけるのが普通だが、文芸作品を何度も読み直すということは特別な場合に限られる。ソフトウェア・モデルが有効な出版物は辞書くらいだろう。

「あなたにも書ける恋愛小説」

 ドストエフスキーの『賭博者』と、その執筆の経緯を現代風にアレンジしたロマコメ。ドストエフスキーをロマコメにするのは無茶だと思ったが、脚色は奇跡的にうまくいっていて、第一級の作品に仕上がっている。

 スランプに陥った新進小説家のアレックス(ウィルソン)はカジノで新作の前渡金を失い、10万ドルの借金まで作ってしまう。小説が完成すれば払えるが、まったく書けず、取り立てに来たキューバ人ヤクザにパソコンを壊されてしまう。

 しかし、30日以内に書きあげなければ生命がなくなる。万事休したアレックスは口述筆記者のエマ(ハドソン)を弁護士事務所と偽って傭い、事情を話して料金後払いで小説を筆記してもらう。

 はじめはいがみあっていた二人が、トラブルのたびに親しくなっていき、最後に危機が訪れてハラハラさせるという段取はロマコメの王道だが、ウィルソンとハドソンが執筆中の小説(劇中劇として挿入)の登場人物として登場する趣向はおもしろい。

 劇中劇は『賭博者』と重なる部分が大きいが、ヒロインのポーリーナはソフィー・マルソー演じる年上の未亡人に変わっている。

 ケイト・ハドソンは愛くるしい笑顔の遺伝子をゴルディ・ホーンから受け継いでおらず、あまりロマコメ向きではないが、この映画は彼女の硬い表情をうまくいかしている。ただ、この手は二度は使えないだろう。

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「ル・ディヴォース」

 ジェイムズ・アイヴォリーの作ったちょっとひねったパリの観光映画。

 イザベル(ハドソン)はフランス人と結婚して妊娠中の姉(ワッツ)の手伝いをかねて、パリにやってくるが、まさにその日、姉の夫は愛人と同棲するために家を出てしまう。

 姉の離婚騒動と、それに付随したラトゥールの絵の真贋騒動を軸に、イザベルのパリ生活を描くという趣向。姉の義母に「巴里のアメリカ人」のレスリー・キャロン、現代版パリのアメリカ人の女流作家にグレン・クローズ、その助手にロマン・デュリス、離婚専門弁護士にジャン・マルク・バール、イザベルの不倫相手にティエリー・レルミット、ストーカー男にマシュー・モディーンと、アイヴォリーだからそろえることのできた豪華キャスト。

 離婚をからませたのはある程度成功していて、通りいっぺんの滞在者では見ることのできないフランス人の厭らしさをのぞきこむことができる。

 そうはいっても、所詮は観光映画で、アイヴォリーはやはりヨーロッパに憧れるお上りさんなのであった。

Oct09

「誰も知らない」

 1988年に起きた巣鴨子供置き去り事件をもとにした作品で、出生届すら出されておらず、母親に置き去りにされた兄弟四人が近所から隠れて、ひっそりと生活する日々を抑制したタッチで描く。

 無名の柳楽優弥がカンヌの主演男優賞を史上最年少で受賞して話題になった。柳楽の存在感はもちろんすばらしいが、他の子役もいいし、特に母親役のYOUは余人をもって代えがたい。本当にいいキャストをそろえた。

 モデルとなった事件では母親のけい子は虚栄心のかたまりだし、長男の明と親しくなり、家に出入りするようになる二人の少年は、それぞれ家庭に問題をかかえていて、末の妹は少年の一人が死なせてしまう。

 映画では母親にYOUを選び、幼稚で無責任だが愛すべき女性に描いているが、YOUの軽さが救いになっている。演技力のある大竹しのぶや原田美枝子がやったら、いたたまれなくなっていただろう。

 子供だけの部屋にはいりこむ人物を、同い年の少女(韓英恵)に変えたのは成功だった。彼女は学校でいじめを受けていて、子供たちの部屋が唯一の居場所になり、末の妹の埋葬にもつきあう。実際は殺伐とした事件だったが、YOUと韓英恵のおかげで、救いが生まれている。

 説明を極度に切りつめた暗示的なスタイルはみごとだが、外国人にわかるのかなと心配になった。カンヌ以降も複数の外国の映画祭で受賞しているが、ディティールまで伝わっているのだろうか。

Oct14

「LOVERS」

 前作の「HERO」がひどかったので、ぐずぐずしているうちに最後の週になってしまった。あわてて見にいったが、「HERO」よりははるかにおもしろかった。

 前作のようなワンパターンにならないように工夫している点は評価したいが、あいかわらずストーリーをこねくり回している。どんでん返しのためのどんでん返しにはうんざりする。これ見よがしの映像技術ばかりが目につく。張藝謀は武侠ものを本心では馬鹿にしているのだ。

 ただ、ヒロインの章子怡はすばらしい。「グリーン・デスティニー」にはおよばないが、技の切れはさすがだし、少年に扮した姿のなんと可憐なこと。

 張藝謀は好きでもない武侠ものはもう作らない方がいいが、これだけのキャストとスタッフと予算は彼にしか集められないだろう。武侠ものは総監督かプロデューサーに徹した方がいい。

公式サイト
Oct15

「トンネル」

 以前別の名画座で見ているが、久しぶりに見て、やはり傑作だと思った。

 家族を東ベルリンに残したまま西側に亡命した元水泳選手のハリーと技師のマチスが、仲間を募り、ベルリンの壁の下にトンネルを掘って家族を西側に逃がす話で、こちらのページを御覧になればわかるように、ほぼ実話にもとづいている。

 壁を越えようとして狙撃された恋人のいまわの際の声を壁越しに聞く場面や、逮捕されようとした老婦人が秘密を守るために自殺する場面など、痛切なエピソードが出てくるが、トンネル29に係わった人が体験したかどうかはともかく、そういうことは確かにあったのだろう。

 一番残酷なのは、妻が当局に内通しているのではないかと疑わなければならなくなったマチスのエピソードだ。ラストで救ってはいるが、シュタージ(秘密警察)が解体された後、密告者のリストや密告の記録が出てきて、旧東ドイツの人々の人間関係を破壊したという(桑原草子『シュタージの犯罪)。東ドイツは決して過去の問題ではないのだ。

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「グッバイ、レーニン!」

 東ドイツの学校教師で、ガチガチの共産党員だった母親がベルリンの壁崩壊前夜、心臓発作で昏睡状態におちいる。8ヶ月後、意識をとりもどすが、東ドイツはもはやなく、街には西側の商品が雪崩れこみ、母親の同僚たちは失業して愚痴をこぼす毎日。もう一度発作を起こしたら生命がないといわれた息子のアレックスは、母親にショックをあたえないように、病室に東ドイツを再現しようと奮闘する。

 おもしろい設定だと思ったが、映画の出来はいまいちと聞き、見逃していた。ようやく名画座で見ることができたが、確かにゆるい作りで、中だるみのまま終わってしまった。

 併映の「トンネル」を見た後だったので余計そう感じたのかもしれないが、東ドイツ時代に対する甘ったるいノスタルジーと、傷口をなめあうような自閉的な気分に終始していて、気色悪かった。

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Oct18

 上野国立博物館の前庭でク・ナウカの「アンティゴネ」を見た。

国立博物館正門前

 今年は猛暑の後遺症か、秋の長雨が10月にずれこんでいる。9日は台風22号の接近で休演になったが、他の日は雨でも上演を決行している。気を揉んだが、幸い一日を通じて晴れてくれた。気温も昨日よりは高めだが、日が落ちると急に冷えこんでくる。

 入口でわたされた袋には公演のリーフレットとアンケートの他に、ビニルの雨合羽と座布団がはいっている。雨にあわなかったのは幸運だったとあらためて思った。

 客席は本館正面玄関前の池の上にパイプを組んで作られていた。正面玄関の車寄せの前には黒いビニールで覆った舞台がしつらえられ、中央に象の牙のよに曲がった木材を十本円形に立てている。脹らんだ蓮の蕾のように見えるが、実はアンティゴネが幽閉される牢獄なのである。

客席を裏側から見る

 牢の上手側に正面を向いたクレオン、下手側に後ろを向いたアンティゴネが立っている。床にうつ伏せになって開演を待っているのはコロスの役者たちだ。満員の客席でも寒いのに、吹きっさらしの舞台で、じっとしているのはつらいだろうし、雨の日は衣装のままうつ伏せになっているのだろうか。

 ライトアップされた城のような破風と、本館の帝冠様式の屋根をいただく壁森の闇の中に森閑と浮かびあがっている。国家が目に見える形でここにはある。国家と対決するアンティゴネの悲劇の上演場所にこの場所を選んだのは慧眼といわなければならない。

 池の正面の噴きだし口から流れでる水音がぴたりとやむ。車寄席の屋根の下に控えたバンドがガムラン風の音楽を演奏しはじめると、うずくまっていた役者らが立ちあがり、クレオンを先頭に上手側の斜路を降り、東洋館前に向かって整然と進んでいく。開幕である。

 車寄せの左右の柱には ANTIGONE とスライドで文字が映しだされていたが、芝居がはじまると、英字幕が投映される。そういえば、客席には西洋人が多かった。

 芝居の中味については「演劇ファイル」に書く予定だ。ク・ナウカの野外公演は湯島聖堂の「天守物語」、旧細川侯爵邸の「桜姫東文章」、都立庭園美術館の「オイディプス王」と四回見ているが、野外ページェントとしては今回が段違いにスケールが大きく、スペクタクルとして成功している。しかし、ドラマとしては今ひとつだった。国家と戦う個人の尊厳という壮大なテーマはク・ナウカの芝居の質とはあわないのではないかと思う。

夜の上野公園

追記:10月22日は台風23号の首都圏直撃で休演になったようだ。台風を避けて10月にしたのだろうが、かえって二つの台風にぶつかってしまった。そうだとしたら、この公演自体がギリシャ悲劇だ。(Oct23 2004)

Oct21

「アイ・アム・サム」

 知的障害者のサム(ペン)はホームレスの女と同棲し、女の子が生まれるが、女は子供を残して家を出てしまう。サムはルーシー・ダイアモンド(ファニング)と名づけた娘を友人に助けられながら育てるが、娘が7才になった時、買春未遂で逮捕され、娘を育てていることを福祉局に知られてしまう。

 ソシアルワーカー(ディヴァイン)はサムには養育能力がないと判断し、ルーシーを施設に収容し、里親に出すが、ルーシーを手放したくないサムは敏腕弁護士のリタ(ファイファー)の力を借りて訴訟を起こす。

 こういう偽善的な映画は見るつもりがなかったが、二本立てだったのでついでに見てみた。

 前半はよくできている。ルーシー役のダコタ・ファニングは無敵の可愛らしさで、デビュー当時の安達佑美を思わせる。ショーン・ペンの演技もみごと。向かいの部屋に住む引きこもりの元ピアニストのアニー(ウィースト)が世話を焼いてくれ、彼女の影響でサムはなんでもビートルズ神話になぞらえて理解するようになるという設定もうまい。

 サムはスターバックスで働いているが、こういうことは実際にあるそうで、日本でもクロネコヤマト元会長の小倉昌男氏がヤマト福祉財団を作り、スワンベーカリーという障碍者を雇用するパン屋のチェーンを展開している(『福祉を変える経営』)。

 裁判がはじまってからは苦しい。ミシェル・ファイファーはよくやっているが、設定に無理がありすぎる。里親役のローラ・ダーンは嫌な顔になった。

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「21グラム」

 21グラムとは人間が死んだ瞬間に、遺体から失われるとされる重量で、モーリアックに「魂の重さ」という短編があった。

 この映画は三人の男女を中心に、ばらばらになったジグソーパズルのピースを組み立てるように進んでいく。

 一人目はフランス文学者のポール(ペン)。心臓病で余命いくばくもないが、別居中の妻(ゲンズブール)がもどってきて、子供が欲しいから精液を保存したいと言いだす。彼は建築家の心臓の移植を受け、生きのびることができたが、子供に固執する妻がかつて彼の子供を中絶し、その後遺症で卵管に障害ができていたことを知って彼女を拒絶するようになる。彼は心臓提供者の遺族が気になり、探偵の調査で未亡人のクリスティーナ(ワッツ)が夫と二人の娘を一度に失い、自暴自棄に陥っていることを知ると、移植を受けたことを隠して接近する。

 クリスティーナは警戒しながらもポールに引かれていくが、彼が夫の心臓を移植された患者だと知ると深く傷つき、夫と娘を轢き逃げした男を自分に代わって殺せと迫る。

 轢き逃げをしたジャック(トロ)は前科者だったが、刑務所で改心して牧師になっていた。彼は懸賞で当たった車をイエス様の贈物と誇りにしていたが、その贈物で人をはねてしまったのだ。彼は動揺して現場から逃げるが、三人とも死んだと知ると自首し、刑に服す。

 ポールとクリスティーナは出獄して鉱山で働いているジャックを拉致するが、拒絶反応で余命いくばくもないポールはジャックを殺すことができず、逆に自分自身に向かって銃の引き金を引く。ジャックは瀕死のポールを車で病院に運び、自分が撃ったと警察に出頭する。

 ジャックのベニチオ・デル・トロ、ポールのショーン・ペンともに重厚な演技を見せ、みごとであるが、本当の主人公はナオミ・ワッツの演じるクリスティーナだと思う。ジグソーパズルがすべて組みあがってみると、クリスティーナの絶望と再生の物語であったことがわかる。ワッツは緊張した表情の美しい女優だが、この映画の彼女からは一瞬も目を離すことができない。

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Oct29

「エレファント」

 カンヌでパルムドール賞と監督賞を同時受賞した作品。井筒正幸監督がテレビで酷評していたので、公開時に見逃してしまったが、これは傑作である。見終わって茫然として、しばらく立ちあがれなかった。

 美しい。この映画は美しいとしか言いようがない。

 題材はマイケル・ムーアの「ボーリング・フォー・コロンバイン」でもとりあげられた、コロラド州コロンバイン高校の銃乱射事件だが、思春期の猥雑でもあれば、儚くもある時間を繊細に掬いとっていて、テイスト的には岩井俊二の「リリイ・シュシュのすべて」や「花とアリス」に近い。

 ドキュメンタリーや社会告発的なメッセージを求める人は、井筒監督のように裏切られたと感じるだろうが、そういう種類の映画ではなく、それだけに衝撃が深いところまでとどき、じわじわと効いてくる。

 アメリカの頽廃は回復不可能なところまで進んでしまったようだ。

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「きょうのできごと」

 京都に引っ越してきた男が開いた引っ越し祝の会に集まった男女の24時間をまったりと描いた作品。

 あまりにもまったりとしているので眠くなるが、居眠りしかけると、浜に乗りあげた鯨と、ビルの隙間にはさまった男のニュースがはさまり、目を醒ましてくれる。

 田中麗奈が一応主演ということになるが、自己愛の強い、ガミガミ口うるさい女の子の役で、途中でうんざりしてくる。同じ自己愛の強い、口うるさい女の子でも、いい加減だれてきたところで登場する池脇千鶴がいいところをもっていってしまう。池脇のキャラクターは「ジョゼと虎と魚たち」の久美子に重なる。

 はっきり言って、退屈な映画だが、最後の疲労感は悪くない。メイキングDVDを「きょうのできごとというできごと」という別商品として売りだしているが、それほどの作品ではない。

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